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ソーシャル・ジャスティス基金(SJF)アドボカシーカフェ第73回開催報告

気候危機の今、川とともに生きる

~球磨川水害から考える住民参加型の流域づくり~

 

 2022年7月16日、柴田祐さん(熊本県立大学環境共生学部教授)、寺嶋悠さん(「気候危機と水害:ダムで暮らしは守れるか?連続セミナー実行委員会」メンバー)をゲストに、土肥潤也さん(NPO法人わかもののまち事務局長)をコーディネーターに迎え、SJFはアドボカシーカフェを開催しました。

 誰を守るための治水対策なのか、と寺嶋さんは問題提起しました。豪雨災害に見舞われた球磨川流域で、復興を進めていた集落で全域を遊水地とするため立ち退きを指定された事例が紹介され、住民意見の聴取をなおざりにした性急な公共政策の実態が指摘されました。流域住民の反対で川辺川ダム建設計画が中止した2008年から10年以上、代替治水案の協議が進まないまま2020年に豪雨災害に襲われ、住民の合意を見ないままダム建設計画が復活しました。本当にダムで命は守られるのか、環境や地域の持続性という観点も含めて検証がもっと必要ではないかと寺嶋さんは投げかけました。

 賛成・反対を超えて共通項を見つけ、合意を形成していくことの重要性を寺嶋さんは強調しました。それは時間がかかることかもしれませんが、長い目線で復興を考えるという論点を土肥さんが提起し、住民参加をつないでいくことを重視する考えを柴田さんも示しました。

 復興とは、目に見えるハードの損失と目に見えないソフトの喪失から回復することだと柴田さんは提示しました。人口減少や高齢化が進む地域、災害復興による避難等によりそれらがさらに進む地域を持続させるためには、復興の初期段階におけるハード面の課題を解決するだけでなく、ソフト面の課題に時間をかけて取り組むことが重要であると説明されました。

 復興まちづくりは「わたしのために」と「まちのために」をいかに両輪として進めていくかが要です。まちづくりに住民の権利として参加できるまでに至る段階を柴田さんは示し、行政と住民が協働した好事例である、東日本大震災における宮城県気仙沼市の大谷海岸の取り組みから学びました。まず地域のアイデンティティの確認と共有が重要であり、世代を超えた住民同士・住民と行政の信頼関係の構築をしながら、「みんな」が共感できる領域を増やすツールを共有することがポイントです。

 詳しくは以下をご覧ください。

 Kaida SJF
(写真=左上から時計回りで、柴田祐さん、土肥潤也さん、寺嶋悠さん)

 

――寺嶋悠さんのお話――

 私は福岡でNGOやNPOに関わる中で川辺川ダム問題を知りました。ちょうど2001年頃、川辺川ダム問題が佳境に入っていてダム建設が止まるかもしれないという瀬戸際の攻防が続いていた時で、私は福岡に住みながら裁判傍聴や、水没予定地の五木村の調査や、視察に来た若い人の対応などをしていました。だんだん五木村が好きになり、2011年から5年間、五木に移住をして観光や地域振興に携わりました。今は子育てをしながらフリーライターや五木村を含めた地域づくりのコーディネートの仕事をしています。また、ライフワークとして、五木村の焼畑調査を続けています。

 私たちの団体、「気候危機と水害:ダムで暮らしは守れるか?連続セミナー実行委員会」について簡単に紹介します。もともとつながりのあった熊本の2名(寺嶋悠、つる詳子)と、東京のメコン・ウォッチ、アーユス仏教国際協力ネットワーク、国際環境NGO FoE Japanのスタッフの女性5名で、気候危機で何がいつどこで起きるか分からないことも踏まえて、既存の運動にない視点で川辺川やダムのことを考えてみようと、水害後に活動を始めました。今年度は、「川と森とともに生きる球磨川流域の未来」という連続講座を6月から開催しています。

 

 本日は、熊本県の球磨川・川辺川で現在起きている事例から、公共事業への住民参加や、災害後の復興まちづくり・川づくりの課題について、また川とともに生きる暮らしについて、みなさんと考えるきっかけとなるような話をお伝えできればと思います。

 

 球磨川は熊本県南部を流れ、八代海に注いでいる日本三大急流の一つです。河口は八代市で、川辺川との合流地点付近に人吉市があります。川辺川は球磨川流域面積の3分の1を占めている最大の支流で、五木五家荘地域が源流です。球磨川本流には元々、荒瀬ダム(2018年撤去)、1958年に造られた発電用の瀬戸石ダム、1960年代に農業用水・治水ダムとして造られた市房ダムがあり、支流の川辺川には、今度造られようとしている川辺川ダム予定地があります。

 上流にダムがあることで水質がどれほど違うか。ダムがなく保水力がある健全な山が残っている川辺川と、上流に大きな市房ダムがある球磨川本流の合流点では、雨の後、両川の色の違いからも一目瞭然です(写真下)。

 Kaida SJF

 

 川辺川、球磨川は長さが1尺(約30㎝)もある尺鮎が有名で、中流の人吉市には全国から釣り人が集まります。

 下流の八代市の河口そばでは、汽水域で青のりや多様な生き物など干潟の恵みが今でも残っています。この球磨川と不知火海の生態系には、1950年代から建設されてきた荒瀬ダム・瀬戸石ダム・市房ダムが大きな影響を与えてきましたが、1966年にさらに川辺川ダムを造ろうという計画が持ち上がりました。

 しかし、2009年に川辺川ダム計画は中止となり、本流の荒瀬ダムも住民の強い要望で撤去が決まり、2018年に完全に撤去されています。大型ダムの撤去は荒瀬ダムが全国初した。川辺川ダムについて非常に関心が高まる中で、荒瀬ダムが築50年となり水利権を更新するタイミングで「更新しないでほしい」という強い要望が地元から県に出されて実現したものです。撤去後、清流が戻ってきて、河口部の干潟では絶滅しかけていた生き物が増え始めました。

 Kaida SJF

 

流域住民の反対で川辺川ダム建設計画が中止した2008年 代替治水案の協議が進まないまま豪雨災害に襲われた2020年

 球磨川水害を機に、建設計画が復活した川辺川ダムについてお話します。旧・川辺川ダムは国交省が計画したもので、治水・灌漑(利水)・発電を目的としていました。1966年の計画でいまだに完成していないのは、それだけ強い地元の反対があったからですが、逆に国側からすると、是が非でもダムを作りたいここで造らないと今後新規の大型ダムが造れなくなると、強く推進する動きもありました。

 川辺川ダムの建設予定地、五木村や相良村では、住民500人以上の移転が完了し、付け替え道路工事もほとんどが終了しつつありましたが、流域の漁業権や土地所有権の交渉などが残っていて、ダム本体だけ造れない状況が続いていました。

 ダム水没予定地の五木村などが「ダム絶対反対」から「やむなく容認」に変わった後の1990年代半ば、ダムによって洪水から守られたりダムからの水で水田を作ったりという受益者であるはずの下流域の住民からダム反対運動が起きました。受益農家からは、計画の同意取得手続きをめぐり、「ダムからの水はいらない」「大きな負担金と引き換えの古い灌漑計画には参加したくない」と利水裁判が起きました。同時に環境や生態系への影響を懸念する声が高まり、例えば、九折瀬(つづらせ)洞窟という、世界でここにしかいない生物たちがいる場所があるのですが、そこが水没してその生態系が失われるなども問題になりました。

 その中で、当時の潮谷義子知事が、初めて住民討論集会を開き、県は中立の立場に立って住民の反対意見や代替案と国側の主張のその両方を県民に提示して議論したり、市民グループの間でもシンポジウムやパレードなどを開催したりして、2000年代にかけて世論が高まっていきました。

 球磨川漁協では、賛成派と反対派の漁民とで攻防はあったのですが、最終的には全体の3分の2以上が反対して国の漁業補償案受け入れを拒否しました。海も川も漁民が減っていて漁業自体が不振になる中で、補償金がもらえるなら欲しいという漁協が多い中で、全国的にも画期的なことでした。それで、国が強制的に漁業権を取り上げる、強制収用手続きが始まるのですが、その手続きの途中で、2003年、ダムからの利水計画に反対する農家が国を訴えた裁判が控訴審で勝ちました。利水(灌漑)という、ダムの3大目的の1つが完全に無くなり、前提となるダム基本計画を変更しなければならないため、強制収用手続きも一旦白紙に戻りました。

 このころには流域で川辺川ダム反対の世論がかなり高まっており、潮谷知事の後に就任した蒲島知事は、2008年9月県議会で、県として初めて川辺川ダム反対と表明しました。それまで県は、国と共にダムを推進する立場でした。知事表明を受けて翌年、民主党政権下で、国は川辺川ダム中止を正式に発表し、ダム計画は止まりました。

 その後、「ダムによらない治水を考える場」が作られ、ダム代替案が検討されてきました。しかし、国は実質的にダムをあきらめず、国から提示される代替治水案工期が200年かかるとか、予算が1兆2000億円かかるなど非現実的なものもあり協議はなかなか進まず、成果を見ないまま10年以上が過ぎ、そして2020年7月の球磨川豪雨災害が起きました。

 

 球磨川豪雨災害は、2020年7月4日未明に線状降水帯が長時間球磨川流域に停滞し、流域の複数個所で同時に記録的豪雨が降りました。通常7月1ヶ月分の雨が24時間で降った地域もあり、支流から土砂と立木が流れてきてさらに被害が拡大しました。

 多くの方が避難している最中に、当初球磨川最上流の市房ダムが緊急放流することになったため、「ダムで命を奪われる!」と多くの避難者を震撼させました。奇跡的に、上流の雨が小降りになったため緊急放流は見送られましたが、後に大きな問題となりました。

 中流域で特に犠牲者が多く、50名(人吉市20名、球磨村25名)が亡くなり、内49名が溺死でした。高齢の方に犠牲が集中しました。

 

住民意見の聴取をなおざりにした性急な河川整備計画 復興を進めるなか全域を遊水地にするため立ち退きを指定された集落 誰を守るための治水対策か 

 次に災害後の川づくり、復旧復興の課題についてお話します。

 まず豪雨の後に何が起きているのか。豪雨の検証委員会が、国と県と流域12市町村の首長で行われましたが、あまり長く会議をしていると復旧復興が遅れるということで、わずか2回で終了し、すぐに流域治水協議会が始まりました。

 ダム計画を復活するかどうかは水害直後から問題になっていたのですが、蒲島知事は2020年11月に川辺川ダム中止を撤回して容認に転じ、事態は大きく変わりました。

 新たな川辺川ダムとして計画されているのは、流水型ダムです。ダムの堤体下部に穴が開いているダムで、国は「普段は常に水が流れているので生態系への影響はない」と説明していますが、全国の流水型ダムで上下流の生態系は破壊され、以前のものとは大きく変わっています。蒲島知事は、「命も清流も守るためには流水型ダムしかない」とし、いち早い復旧復興のためには早く治水計画をつくらなければならないということで、現在拙速な手続きの中で進められています。

 国は今、新たに「流域治水」という概念を使っています。あらゆる対策を講じて流域全体で洪水を受け止めるということなのですが、その実態は、基本的に、新規のダム建設、既存ダムの再開発、コンクリート堤防で固めるとか、旧来の国交省の治水と何ら変わっていません。遊水地や田んぼダムも少しは含まれますが、基本的にはダムと堤防で治水するという内容です。

 今回の洪水について、住民の間では山の検証がなされていないことが非常に大きな問題になっています。林業関連の法律が変わり、現在球磨川流域では大面積の皆伐が進んでいます。支流からの土砂や立木の大量の流出について、国は一切検証していません。

 また、流水型ダムで環境も守ると国は言っているものの、本当に命も清流も守れるのか。既に造られた流水型ダムでの科学的検証も一切行われておらず、その根拠も不明です。

 

 被災者の現在については、22年6月27日現在で、仮設住宅の入居者は1195戸で2618人となっており、ピーク時の6割がまだ仮設住宅で暮らしています。生活再建の目途が立っているという方もいれば、いつ戻れるか分からないという方もいます。災害公営住宅が建設中ですが、最も早い球磨村でも、23年7月に60戸が完成予定となっています。他の自治体では、まだ住民の希望をとって調整中のところもあります。

 自宅再建のめどが立たない典型的な例として、球磨村神瀬集落の状況を紹介したいと思います。国道沿いで高さ3m80cmまで浸水したのですが、ダムができれば氾濫水位は下がるからということで、実際には80cmしか嵩上げが計画されていません。住民は自分たちで地域再生のためのグループを作り、国や県により高い嵩上げや支流の対策を要望してきましたが、押し問答で何も対策や説明がなされないまま時間が過ぎています。

 また人吉市大柿集落は、約50世帯すべてが被災しながらも、地区住民の互助で犠牲者が出なかった集落です。自宅再建・農地復旧を進める中で、国・県・市から突然、集落全域を遊水地にするため立ち退くよう説明されました。そもそも誰を守るための治水対策なのか、被災した人たちの集落を消滅させてまで守らなければならない治水対策とは何なのかが問われています。先が見通せない状態の中、多くの被災者が困惑し、これから先の見通しを立てられずにいます。

 川辺川ダム計画の復活により再び水没予定地となる五木村では、かつてダム建設計画のために約500世帯が移転し、その7割が離村しました。その後、ダム中止となり、ダムを前提としない地域づくりが軌道にのっていた矢先に、今回のダム計画復活になりました。村では、再びダム問題に翻弄されたくないと、ダム復活に対し強い反発が生じています。

 

 川づくりへの住民参加については、1997年に河川法が改正され、河川整備基本方針・計画づくりが義務化されました。河川整備計画を作成する際に、住民意見の聴取が行われる手続きが求められていて、法律的には住民参加できることになっていますが実際にどうなのか。大いに疑問です。

 球磨川水害直後には、コロナ感染拡大防止を理由に長い間説明会が行われませんでした。また、ダムを含む河川整備計画原案に寄せられた意見についても、75%がダム反対だったのですが、計画に何ら反映しない形で進められています。

 

衰える合意形成力 住民参加とは何か 公共政策はだれのためか

 最後に、市民としての視座について考えたいと思います。

 近年、全国各地で豪雨による災害が頻発し、また豪雨だけでなく、台風・地震・津波など被災・復興まちづくりは他人事ではありません。

 最近特に心配していることが、国がはっきりと「みんなの意見を聴いていると結論がまとまらなくなる」と言い始めていることです。全員の意見は聴きませんと開き直り、多数意見であっても取り上げすらしない状況が増えていることです(「豪雨後、機会を設けて意見を聴いてきた。言われたことを全て反映させると結論がまとまらなくなる」国交省八代河川国道事務所、等)。

 いち早い復興のために住民の意見を聴かなくて良いことは本当に正義なのか、疑問です。

 住民も政策決定に参加したいと言っているのですが、国や事業者側は「丁寧に粘り強く説明を重ねる」と。壊れたテープレコーダーのようにひたすら同じ説明を繰り返すことと、「住民が参加、合意する」ことは違うのではないかと思っています。

 なぜ、被災した当事者自身がなかなか参加できない、意見や疑問に応えてもらえない、置き去りにされてしまうことが起きるのか。

「住民参加」と「住民決定」とはどう違うのか。

 巨大な公共事業はなぜ止まらないのか。

 これから、気候危機で記録的豪雨はあちこちで起きると思いますが、本当にダムがあれば命は守れるのか。

 民意とは何か、公共政策は誰のためなのか、が非常に問われていると思います。

 これは球磨川の事例ですが、全国どこでも共通していますと思います。何か災害が発生した後に、一気に自治体の政策が変わる、動き出すけれども、そこへの住民参加は閉ざされるということは大いにあり得ます。安全と豊かさが共存する未来を作るにはどうするべきなのか。球磨川でも突破口を開きながら、全国のみなさんとともに考えていけたらと思います。

 

 

――柴田祐さんのお話:災害からの復興と住民参加のまちづくり――  

 私は建築学の分野で地域計画を研究しています。普段は、農山漁村地域の資源を活かした地域づくりといった分野を研究したり学生や住民のみなさんと取り組んだりしてきました。熊本地震そして熊本豪雨災害の主な被災地は、私がそういったフィールドとしていた農山村地域でしたので、防災・災害の素人だったのですが、それに深く関わるようになったという経緯がございます。

 Kaida SJF

 

復興とは目に見えるものの損失と目に見えないものの喪失から回復すること

 災害からの復興について考えてみたいと思います。

 何が壊れたかというのを見ますと、住宅・農地・山林などの私的なもの、道路・鉄道・橋・堤防・公共施設など公的なもの、中間的な商店・銀行・病院など私企業でもそれらがないと地域全体が成り立たないものもあり、それらが被災しました。こういった形のあるもの(ハード)だけでなく、形のないもの(ソフト)として、人とのつながり・コミュニティなど公的なものや、暮らしの豊かさ・愛着・誇り・自信など私的なものも被災による避難で失われてしまったわけです。

 ここからの復興とは、目に見えるのもの損失、そして目に見えないものの喪失から回復することだと考えております。

 このプロセスが様々にありますが、現在の球磨川流域の各市町村ですと、被災して1年目位で復興計画がつくられ、主に公的なハードな部分をどう復旧・復興させていくかが様々に計画されて、その工事が粛々と進められています。一方、私的なハード面についての復興に関するコメントはあまり無いのですが、一応それらも含めて考えていきましょうということになっています。

 昨年度2年目には、復興まちづくり計画を各市町村がつくりました。私の認識では、本来はソフト面を含めてどう回復させていくのか、がまちづくり計画だと思っていますが、なかなか時間のかかるものですし、計画を作っただけで進むものでもありません。(下図参照)

 Kaida SJF

 

「わたしのために」と「まちのために」をいかに両輪として進めていくか

 一方、地域に目を向けますと、日本全国どこでもそうなのですが、人口が減少するトレンドにあります。

 そのなかで、災害が発生し避難せざるを得なくなり転出された方が相当数いらっしゃるわけです。それが、同じトレンドで人口が減少していくと、将来人口に大きな差が出てきます。実際、球磨川の主な被災地である人吉市・球磨村・芦北町・八代市坂本町の人口減少率を住民基本台帳ベースで見てみますと、80%台から90%台で減少しています。

 これからの復興を考える際に、人口が増えるというトレンドは無くても、せめて元の減少トレンド推計の人口まで戻るといいな、つまり、災害をきっかけに出ていってしまった人たちがどうやったら地域に帰ってこられるのかを考えるのが、重要だと思います。やはり人口が減少することを前提としたまちづくり、もしくは人口など数を指標としない、豊かさ・持続性を指標とするようなまちづくりをどのように進めていくのか、が重要だと思っています。

 ここで、個々の被災者の方のことを考えてみます。もちろん被災した方は住宅をどう再建するかはまだまだ重要な課題となっています。仮設住宅で暮らしていらっしゃる方は先ほど寺嶋さんが話したようにたくさんいらっしゃいますが、実はこの住宅再建は極めて個人的な問題であり、各世帯の経済状況や家族構成等によって再建できる・できないが決まってきます。ここに対しては、阪神・淡路大震災以降、さまざまな支援施策が国でも用意されてかなり充実しました。

 一方、まちづくりという分野で考えてみますと、住宅再建等の個々の問題があるなかで、まちのためにとか、地域のためにとか言われても、先ほどの復興まちづくり計画を策定する際に住民の方の意見をくださいというような懇談会を開催はしたのですが、コロナもありますが、多くの住民が実際、自分の住宅再建とどう直接関係あるのと感じることもありますし、関係ないからもういいと関心を持たない方もいらっしゃいます。

 実は両方問題がありまして、住宅再建を個人の問題に留めておいてもあまり進みません。お隣さんが再建しないなかで自分だけ再建を進めてみたけど、地域には誰もいなくなってしまって結局、再建してもなあということを不安に感じるかたもいらっしゃるでしょう。また、まちづくりの方は、全体のお話をされても自分の問題とどう関わるのか、よりクリアに見えてこないと関心が高まらない。まちづくりの支援策は実はほとんどないと言っても過言ではありません。一部の大学関係者や専門家といわれる建築士会など士業と言われる方々が支援をされているというのが実態です。

 ですから、「わたしのために」と「まちのために」をいかに両輪として進めていくかが重要だと思っています。(下図参照)

 このことは復興に限ったことではありません。たとえば被災していなくても、衰退していく地域をどう活性化していくのか、農村地域で観光をどう進めていくのか、といった問題でも構造はほぼ同じになっていると思います。

 

 Kaida SJF

 

地域を持続させるために重要性が増していくソフト面の課題

 もう一つ重要なのは時間です。今回の球磨川被災地では1年目は復興計画が、2年目は復興まちづくり計画がつくられていて、これから復旧工事が進んでいき、道路などは5年を目途位でほぼ完成すると思います。先ほどのダムの問題は引き続きあるとは思います。

 各被災地で「復興感」が研究されているのですが、実は、道路が従前のようにスムーズに通るようになると「復興したな」と認識する住民の方が圧倒的に多いのです。

 さらにだんだんハードの問題からソフトのほうへ課題が増えていきます。熊本地震の被災地も同様でして、道路などハード事業はほぼ終わったのですが、地震前から問題となっていた人口減少・少子化のなかで地域をどう持続させていくのか、身近な問題でいくと来年お祭りはできる?といった問題への対応がそのまま残っているのです。

 

「まちづくり」とは何かを改めて考えてみます。

 Wikipediaに意外とうまく書かれていて、「『さらに良い生活が送れるように、ハードとソフトの両面から改善を図ろうとするプロセス』と捉えられることが多い。また多くの場合、まちづくりは住民が主体となって、あるいは行政と住民の協働によるもの、といわれる。ただし、民間事業者が行う宅地開発なども『まちづくり』と称している場合もある」。熊本ですと、熊本駅前が再開発されましたが、そういった個別の開発事業も「まちづくり」と言われたりしまして、非常に幅広く「まちづくり」という言葉が使われています。

 小林郁雄さん(人と防災未来センター上級研究員)という阪神・淡路大震災の時からさまざまなまちづくりの支援活動をしている方がおられまして、「地域における、市民による、自律的・継続的な、環境改善運動」という言い方をされています。この「自律的・継続的」というところがキーだと思います。

 

まちづくりへの住民の権利としての参加に至るまでの段階

 今日のテーマである住民参加とまちづくりに関連して、非常に有名な「アーンスタインの住民参加の梯子」というのがあり、「参加」には段階があることを示しています。アメリカ保健教育福祉省の事務次官特別補佐官であった女性が1960年代に提唱したもので、世界的に非常に大きな影響を与えた考え方です。

 一番ベースとなるのが、行政主導の説得型のまちづくり。次にセラピー、一方的なまちづくりに対するガス抜きのレベル。その上が、情報をきちんと提供している段階。さらに、コンサルテーションであり、耳を傾ける、協議の場、パブリックコメント等が実施されている段階。もう一つ上がると、懐柔――意見は聴くが、行政はやりやすいことだけ取り入れる――という段階。そして、協働ということになり、住民と行政が共に悩み、知恵を出し合い解決する、立場は対等という段階に至り、権限委任――行政がもつ権限を市民に委譲する――という形になりまして、市民が管理する(citizen control)までに至るという段階がありますという概念です。(下図参照)

 

 Kaida SJF

 

 これらのうち、下の2つは実質的に民意の無視のような状態であり、次の3段階位が形式だけの参加、上の3つ位になると住民の権利としての参加が実現されている段階であると言われています。

 熊本地震も含めて私の経験的に言うと、多くは形式だけの参加にとどまっている場合が多く、日本では最上段階の権限移譲や市民管理まで行っているのはなかなか例が無く、非常に限られた例で協働まで行っているものがあります。協働と懐柔の間あたりでうろうろしている場所が非常に多いように思います。

 

地域のアイデンティティの確認と共有をした復興計画――中立的な立場の勉強会から始まり、長老中心のすべての自治会がオーソライズし、若者たちに検討を任せ、イメージマップで行政や住民の共感できる領域を増やし、行政への提案が実現――信頼関係の構築と共に

 今後の災害の際に参考になる事例として、東日本大震災における宮城県気仙沼市の大谷海岸での取り組みを紹介します。

 大谷海岸には美しい砂浜があったのですが、それを潰す形で防潮堤をつくる計画があり、それを粘り強い、といいますか非常に戦略的な住民の方々の活動によって、砂浜を保存しつつ堤防を整備することが実現した例です。

 被災により、海岸付近の松林や家屋は全て流されてしまいました。当初計画では、防潮堤を砂浜や保安林だったところに建設する形だったのですが、防潮堤を当初計画より内陸にセットバックさせ、元の国道や民地を嵩上げしたのと同じ高さにして圧迫感の無い形とし、砂浜は復旧させることが実現しました。これはウルトラCに近いことかと思います。一つキーとなったのが、大谷海岸のイメージマップです。これを地区のみなさんが共有していて、みなさんの意見、夢が反映されていました。

 経緯としては、震災後の早い段階から防潮堤(高さ9.8m、底辺幅40m)の建設計画が示されました。当然、地区の被災地全体で賛成・反対を二分するような状態になったのですが、まずは中立的な立場で防潮堤計画を勉強する会が立ち上がっていきました。この中立的立場というのが非常に重要だと思いますし、賛成側のお話を聴く勉強会も、反対側のお話を聴く勉強会もあり、わずか数カ月間で十数回も開催され2千人以上が参加したそうです。

 それと並行して、大谷地区振興会連絡協議会というものが立ち上がります。これはそこの15地域振興会(自治会)の連絡協議会全体で復興計画を自分たちで作ろうと検討を始めました。地域の住民の間で賛成・反対は当然あるのですが、対立構造を地域につくらずに住民の意向をまとめるということを従来の自治会をベースとして行い、その後の起点となったと評価されています。

 さらに、大谷まちづくり勉強会が結成されていきます。上述の連絡協議会は長老たちを中心とした会ですが、こちらは若い人たちを中心とした会です。連絡協議会と連携しながら、あまり顔が知られていなかった若い世代が地域で信頼関係をつくっていき、大谷里海づくり(まちづくり)検討委員会を設立するベースとなりました。そして、連絡協議会からまちづくりの整備計画の具体案を考えてほしいという依頼が若者たちにあって、それをこの大谷里海検討委員会で検討していきました。

 そうやって議論していく過程で、上述の大谷海岸イラストマップがつくられました。それを地域でオーソライズし、市側に提案していくという形に展開していくわけです。市側もそれを踏まえて新たな整備計画をつくっていき、改めて開催された整備計画に関する住民説明会において、防潮堤のセットバック・国道との兼用堤化が説明され、決定していくプロセスがありました。実は、住民の活動だけでなく、JR気仙沼線のBRT化(バス化)されることになったことも、結果的には要因として大きいそうです。

 私は大谷海岸に3回程お話をうかがいに行ったことがありますが、年を追うごとに話が進み、人々が楽しめる砂浜を取り戻していて、本当にすごい取り組みだなと感じています。ハード面の復旧が終わったので、これからソフト面をまさしくコロナの中でどう砂浜や道の駅を運営していくのか、波及効果も含めてどのように地域をつくっていくのかという議論になっていると思います。

 この事例の特徴は、地域で守りたいものがはっきりしていることです。地域のアイデンティティの確認と共有が非常にクリアですし、そのクリアにした場が、15の地区振興会の集まりでオーソライズしていることであり、「みんな」でやったことが非常に重要なポイントだと思います。その中でさらに若者たちが検討する場を長老たちが任せたわけです。そして若者たちが、信頼関係を構築しながら案を作っていきました。

 住民同士、たとえば賛成・反対、世代間など対立構造はあり得ますが、それを若者による検討委員会やそれをオーソライズする連絡協議会が上手く仕組みとしてかみ合っていました。また行政としても、15自治区の連絡協議会が総意としてこういった提案を出してこられると、無視することができません。このように行政にあわせて住民側も行政的な手続きをとることによって公共事業を動かした部分が非常に大きいのではないかと思っています。

 それとともに、住民同士、そして行政等も含めて共感度を上げ、共通言語を増やすことも行っています。先ほどイメージマップが非常に大きなポイントだと申しましたが、共感できる領域を増やす。この海岸線はだいたい1km位なのですが、先ほどの15地域はもっと広いエリアで、その一つのエリアに海岸線があるのですが、すべてのエリアにとってこの砂浜が重要ですよという議論になっている部分が非常に重要だと思います。

 先ほどの「アーンスタインの住民参加の梯子」でいうと、「協働」が実現している地域だと言えると思います。それが実現する際には、さまざまな工夫や苦労があることが、この大谷海岸の事例からご理解いただけると思います。

 

 一方で、球磨川流域の話を振り返ってみますと、人口減少の中でどう復興していくのかという問題があります。私は災害前から球磨川最下流部の八代市の旧坂本町エリアでまちづくりの活動の支援をさせていただいていました。このエリアは最新の国勢調査で、災害後に一気に人口が減り約2,300人、高齢化率は60%まで上昇しています。若者が非常に少ないわけで、復興、20年後を考えましょうと言っても、私たちはみんな死んでいるよという話になってしまう。こういったなかで、どのように参加型のまちづくりを進めていくかは私も暗中模索を続けている状態です。

 住民の意向調査をこれまで定期的に実施してきており、この結果がダイバーシティ研究所のHPで公開されているのでぜひ見ていただきたいです。災害直後の9月時点で住民の意向を聞いてみますと、罹災証明ごとに見て、全壊の方でも40%位、その他の方でも50%位の方が「災害前と同じ地区に戻りたい」と仰っていました。一方で4分の1位の方が「わからない」と仰っており、これは「川が安全かどうかわからない」というご意見が多かったのです。

 昨年の9月にこの意向調査を再度行い、仮設住宅(仮設団地・みなし仮設)に住んでいらっしゃる方に同様に聞いたのですが、元の場所に戻りたい方は、災害直後より減り、38%位でした。坂本以外の八代市内に移ろうという方は、災害直後は10%位でしたが、3分の1位まで増えてきました。

 

 このように人口減少しつつ、被災した方は戻りたくても戻れないという状況があるなかで、先述の大谷海岸地区のまちづくり話を踏まえると、球磨川流域の坂本地区に限らないことですが、地域で守りたいものをはっきりさせること、地域のアイデンティティの確認と共有が非常に重要だと思います。

 一方でそれを「球磨川」と言ってしまうと大きすぎるのではないかと感覚的に思っていまして、もちろん目の前に流れている球磨川は大切であり地域のアイデンティティであることは間違いのないことですが、この「みんな」というものをどうとらえるのか。自分の生活とどう関係しているのか、と引き寄せて考えようとすると、球磨川全体だと大きすぎるのではないかと考えており、球磨川のこの瀬とか、この淵とか位特定できるアイデンティティの確認と共有ができないと前になかなか進めないのではないかと思っています。

 河川整備計画の流域全体のなかで坂本町は一部であり、坂本町全体の復興計画でもまだ大きく、その中に地域別構想がそれぞれの地区にあり、例えば藤本地区には集落が10個位含まれています。その集落一個レベル位で何か具体的に考えるようなまちづくり、先述の大谷海岸のイメージマップに近いようなものまで考えていかないと、復興全体の問題と自分の問題がつながって考えられないのではないかと思います。

 

 もう一つ重要なのが、住民同士、住民と行政の間での信頼関係の構築です。また、行政にあわせた住民側の手続きが今回の被災地でも重要だと思います。これは、行政が用意した枠組みにのって上手くいく場合もあるでしょうし、それでは上手くいかないので住民側で行政が納得できる仕組みをつくって合意形成をして提案していく場合もあるでしょう。大谷海岸の事例は後者だと思います。

 やはり行政が予算を執行するので、行政が納得できるような形での手続きを住民側がつくっていくことも必要なのではないでしょうか。行政が用意してくれないと口を開けて待っているだけではダメなのではないでしょうか。一方で、坂本町の高齢者の多い現状を考えると、そういうものを住民側でつくれというのも酷だと思いますし、悩みつつ日々やっているところです。

 

 そしてもう一つ重要なのが、共感の部分です。部分的な合意形成が、大谷海岸の事例ではキーワードだと思います。球磨川水害からもう2年だけどまだ2年です。大谷海岸では10年かかっています。

 他の東日本大震災の被災地の方から「妥協することのマネージメントも重要なのではないか」という言葉を以前いただきました。「納得のマネージメント」という言われ方もしますし、もしくは「いい妥協」のようなことを考えていかないと、1か0かでは災害からの復興はなかなか難しいのではないかと感じています。そのためにも信頼関係、アイデンティティの確認と共有が重要だと思います。

 

 

――パネル対談――

長い目線で考える復興 住民参加をつないでいく

土肥潤也さん) 僕はふだん子ども・若者のまちづくり参加・市民参加にたずさわっていて、柴田先生が出してくださった「アーンスタインの住民参加の梯子」は「ロジャーハートの子どもの参加の梯子」と通じます。

 こうした災害などで大規模な都市計画に参加していくことを考えた時、最初に市民学習が非常に重要なのだと、寺嶋さんと柴田先生のお話を伺って理解しました。というのは、それぞれの市民は良くも悪くもそこに住んでいる地元民ではあるのですが、アマチュアな部分もあり、何が将来の都市にとって良いのか、災害復興にとって良いのか、エビデンスを基に客観的に判断していくためには、市民が学習していくプロセスをふまないと、議論が迷走したり、主観で話してしまったりすると思います。

 また、子ども・若者の参加をやっている視点から見ると、時間がかかりすぎるという問題を感じます。何か構造的な問題について、若い人たちも10年たつと若い人ではなくなっていくので次の若い人たちの意見も取り入れていかなければいけないことを考えると、これぐらいの規模で考えていく住民参加は本当に長い目線で考えていかなければいけない、と思いました。

 とはいえ、そこに住んでいる人たちからすると、すぐに解決してほしいという思いもあると思います。とくに高齢の方たちからすると、今話していることが10年後・20年後に実現しますと言われても、それは私たちには関係ない、まちの未来は考えられない、私たちの今この意見を大切にしたいという思いも出てくるのではないかなと思います。そういう世代間の軋轢のようなものが出てしまうのではないかとも思いました。

 時間がかかりすぎる中で市民参加をどう進めるかに関して、先ほどの大谷海岸について10年かかったという柴田先生の話を聴いて、寺嶋さん、実際に球磨川でやっている立場から所感をお聞かせいただけますか。

 

共通項を見つけて合意形成へ

寺嶋悠さん) 大谷海岸のお話は、私たちが企画している次の第3回で報告していただく事例でもあり興味深く聞きました。

 現在川辺川ダムは2035年完成予定となっていますが、今までのパターンを考えれば遅れていくのでおそらく2035年には完成しないでしょう。どう取り組むかはまだ始まったばかりと思います。

 私は20代前半ぐらいからこの問題に関わる比較的若い世代なのですが、一方で、この1990年代半ばから住民活動を行って道を切り開いて、住民の意見を反映させる形でダム中止を勝ち取った世代の方々は現在70代・80代になられています。若い人と市民運動とがどうつながっていくか。例えば、気候変動問題には関心があってもダム問題では全く関心がないような若い世代とのギャップ、社会に対する立ち位置や捉え方の違いが今後も拡大すると予想される中で、どうやっていくべきだろうかと考えています。

 時間をかけて合意形成をしていかなければいけないという点については、強くそう思います。

 柴田先生のお話にあった、みんなの思いを「見える化」する、共通項を見つけていくことも大事だと思います。ダム賛成か反対かは、言わば1か0かで、あまりにも違い過ぎるのですが、それでも「ダムができてもできなくても、こういう川であってほしい」という共通項を見つけて、図などで「見える化」してみんなで共有し、自分たちのことを考えていこうという取り組みは現在あまりできていません。賛成反対をひとまず置いておいても、関心喚起も兼ねたそういうブレーンストーミングやワークショップなどを広めていく必要もあるのではと思いました。

 

柴田祐さん) 土肥さんもいろいろ悩みながらやっておられるということが伝わってきました。時間がかかりすぎるというのはおっしゃる通りで、まちづくりは終わりがない。ずっと続く問題は次へ次へとつないでいくしかないと思っています。亡くなったり、成長して東京に出ていったりということは当然ありつつも、全体としては時間的につながっているという状況をどうつくっていくかが非常に重要だと思います。

土肥さん) 大谷海岸での若い世代というのはどれぐらいの年齢の方ですか。

柴田さん) おそらく30代から40代が中心ですね。

土肥さん) 地域によってどういうふうに住民参加を進めていくとよいかは、その地域の世代構造や、どういうアイデンティティを持っているかによって変わってきますね。

 今回のダムの話もそうですし、津波のこともそうかもしれませんが、僕らは実際に被害を受けるまでなかなか自分事にならないと思います。寺嶋さんから、住民運動に関心が無い世代が出てきてしまっているという話がありましたが、本気で市民運動をして、自分のプライベートな時間を使って議論していくのは地域のやる気が相当ないとやりきれないだろうと思いました。そういう気力がない地域だと、あきらめて出ていってしまうこともあるのかなと、いろいろ思いを馳せていました。

 

 

――グループ対話とグループ発表を経て、ゲストからのコメント――

※グループにゲストも加わり、グループの方々に感想や意見、ご質問を話し合っていただいた後、会場全体で共有するために印象に残ったことを各グループから発表いただき、ゲストからコメントをいただきました。

土肥潤也さん) どうして熊本県知事の川辺川ダム建設に対する意見が180度変わったのかという質問について、寺嶋さん、いかがですか。

寺嶋悠さん) 一つは、知事が以前ダムに反対したのは、知事の英断だったというのもありますが、その前段階で5~6年かけて地元でダム反対派の村長が出たり、反対までいかなくてもダム推進の団体からいくつかの首長が抜けたりという動きがあり、知事が2008年9月の県議会で反対を表明することになったので、その直前に地元の自治体があらためて正式に反対を表明したという出来事などもありました。また世論調査でダム反対の声が多いことも分かっていました。

 それが今回、知事がダム復活へと転換しました。災害が起きた直後に経団連の副会長が「これは、ダムを造らなかったことによる人災である」と言いましたが、この副会長はスーパーゼネコンの会長でした。利権も関係すると思います。御用学者的な人も「まさに人災である」と発表したり、県にも「知事がダムを中止したから人が死んだ」といった批判が来たりしたそうです。

 そういったこともあり、地元の意向がはっきりする前に知事が表明しました。流域自治体の首長ではっきりと反対表明している人もいない状態で、とにかく復興を急げというプレッシャーもあり、急いで治水をどうするか決めなければいけない、それならもうダムを流水型ダムとして復活させる、となったのではないかと思います。また、知事の任期はあと2年ですが、自分の任期中をどうにか守ればよいのではないかという声もあります。実際にいろいろな場で、「自分の任期中にこれを終わらせたい」とか「全ての責任は私が取る」とか――実際には取ることができない責任もあると思いますが――言われています。そういう政治的な部分がいろいろあるのではと思います。

 球磨川水害後の2020年12月末の世論調査では、流水型ダムに賛成・反対・わからないは流域で約3分の1ずつでした。知事がダム復活を言った約1ヶ月後です。それが今どれぐらいの割合に変わっているのか。報告の中でダムを含む河川整備計画原案に寄せられた意見のうち75%位が反対と言いましたが、これは意見を出した人の中で75%位が反対ということなので、それがそのまま今の世論かはわかりません。ただ、反対もかなりいて、賛成も確かにいて、わからないという人もいる状況は同じだと思います。

 しかし、知事は「民意がダムを望んでいる」と言っています。ではその「民意」は誰がどういつ判断するのか、何が根拠なのかについて地元でも強い批判があります。

 

土肥さん) 最後に、今後に向けて一言ずついただけますか。

柴田祐さん) そこに住んでいる住民の方の意見対立なりをどうまとめていくかという観点で先ほどはお話し申し上げました。行政にしか対応できない仕組みに今どうしてもなっているので。

 ですが、今の時代は、ウェブで参加できたり、クラウドファンディングでいろんな人の思いを集めたりできる世の中になってきて、「住民」もしくは「民意」って何かが改めて問われていると思います。どの方々から聞いた意見をまとめた話を「民意」としてまとめるのかは難しいと思います。一義的には、被災地なり、その問題のあるところに住んでいる方になるとは思いますが、思いを寄せている方、いわゆる「関係人口」もそうですし、本来はそこの出身の方も含めて議論をするべきです。

 行政側の仕組みとしても、そして意見をまとめる私の立場としても、住んでいない方も一緒にどう議論をまとめていくのかは非常に難しいと、今日みなさんの話を聴いていて思いました。その点が、これから実践しながら考えていかなければいけない点かなと思いました。そして、それは土肥さんがおっしゃった「時間軸を設定していく」ことと関連して重要な点だと思いました。

 

寺嶋さん) 私は地元住民ではなく、NPO、外部の人間です。しかし、公共政策やコモンズ、社会共通資本という意味での球磨川、その流域の暮らしが他人事ではないという思いで関わっています。共に考えて、モデルケースを作って、ほかの地域に伝え、ほかの地域からも学ばせてもらいながら、あるべき熊本の姿を作っていければと思います。

 今日は遠方の方もたくさんご参加いただいています。ぜひ機会がありましたら熊本、九州にお越し下さい。喜んでご案内させていただきます。現場を見てもらって、現地の人と話していただくことが、共に考える機会になると思います。長崎県の石木ダムの話にも触れましたが、石木ダムの地元の方々も来訪者の対応をされています。川辺川と併せて訪問いただければと思います。ありがとうございました。

 

土肥さん) 市民参加や住民参加は、僕がやっている現場だと、楽しくまちのことを考えようということで、ワークショップを使ってということが多く、そういうことも大切ですが、より自分たちの生活、もっと言えば、命に関わるような住民参加・市民参加にどういうふうに引き上げていくか、自分事感をどう引き上げていくかを、普段接している子どもたちのことも思い浮かべながら考える時間になりました。ありがとうございました。  ■

 

 

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※今回22年7月16日のアドボカシーカフェのご案内チラシはこちらから(ご参考)

 

 

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