ソーシャル・ジャスティス基金(SJF)アドボカシーカフェ第54回開催報告
境界に生きるロヒンギャ
差別されるいのち
2018年7月21日、根本悦子さん(国際協力NGOブリッジ エーシア ジャパン代表)と下澤嶽さん(ジュマ・ネット共同代表/静岡文化芸術大学教授)をお迎えしたアドボカシーカフェを、SJFは東京都文京区にて開催しました。
経済開放に向かうミャンマーの人々が何に依って生きればいいのか模索している今、分かりやすいもの、高揚感が維持できるもの、仲間意識がつくられるものとして、脆弱な少数民族にヘイトを集中させる感覚が表出しているのではないかとの見方を下澤さんは示しました。このヘイト感覚は、植民地時代から眠っていたものが言論の自由化などで表出し、SNSで急激に広がっています。
しかし、対立はもともとあるわけではありません。対立を加速させるマスコミに惑わされないメディア・リテラシーの重要性を根本さんは指摘しました。ミャンマーのラカイン州で村人と一緒に100校の学校建設を進めたり、カレン州では教育の機会がなかった青年たちを対象に技術訓練学校を開いたり、一緒に汗を流して、考え、つくる経験のなかで、民族や宗派を超えた協力が生まれてきた経験を根本さんは報告しました。
難民となった人々にとって、元の国に帰還することが本当にベストかどうかとの質問が参加者から提示されました。国連グローバル・コンパクトの議論でも「自主的帰還が一番いい解決策なのか」と疑問が呈されていると発表した参加者もおられました。難民の多くは、市民権が与えられなければ元の国に帰還したくないと思っていると下澤さんは報告しました。ミャンマー政府が認めたラカイン州助言委員会は、市民権に関する議論の加速を提言しました。国軍の圧倒的な力のなかで、この助言委員会が何をできるかは未知数ですが、この助言委員会をどうやってエンパワーメントできるかということを真剣に考える必要があると下澤さんは提言しました。
日本にも、どこにでも、排他的な意識はあるのではないかと参加者から指摘されました。宗教、民族、政治や経済上の立場を超えて、人としての思いを汲み取っていくことが社会の変革につながっていくのではないか。共同の場での活動なりが非常に重要なのではないか、日常の場から考えていくのが必要だとの意見が共感を呼びました。
※コーディネータは、大河内秀人(SJF企画委員)
――根本悦子さんのお話――
ブリッジエーシアジャパン(BAJ)というNGOの創立当時からのメンバーで、現在は代表をしております。ミャンマーとベトナムで活動しておりますが、今日は、ミャンマー、特にラカイン州に焦点を当てます。今日お話するのは、ラカイン州学校建設事業、さらに関連してラカイン州北部警察襲撃事件、またカレン州で実施中のパアン技術訓練学校運営事業、これはカレンの戦争被害者の方たちも取り込んだ取り組みの報告をさせていただきます。
民族の融和を目指して、平和的共存事業
ラカイン州では1992年に25万人以上のムスリムがバングラデシュに流出し、UNHCR(国連難民高等弁務官事務所)が入って難民の帰還事業を開始し、BAJは1995年からHCRのIP(事業実施団体)としてラカイン州のマウンド―に入り、帰還民を対象にさまざまな取り組みをしてきました。ラカイン州はラカイン族をはじめビルマ族、ムスリム、ヒンズー、そのほかさまざまな少数民族を抱えた複雑な背景を持つ地域です。BAJは事業実施に際し、公平な採用試験を実施して帰還民とその他民族の区別なく雇用し、インフラ整備や技術研修、裁縫訓練などの事業を開始しました。
マウンド―はムスリムが9割と多く、言語や生活習慣が異なるためか居住地域も明確に区別されており、両民族の接触の機会も無かったようで、事業開始の1~2年はワークショップ内での民族同士の諍いが絶えませんでした。しかし一緒に仕事を進めることでワークショップ内では協力態勢が生まれてきたのです。それは主に3つの要素があると思います。一つは雇用されることで生活が安定するということ。二つめは、人海戦術で建設作業を進めますのでお互いに危険を避けるためには協力する必要があるということ。三つめは、学校や橋などのインフラ整備を進めることで地域からお礼の言葉をかけられ、仕事への誇りを得られること、です。
ムスリムとその他民族の女性たちを集めた裁縫訓練を、村やBAJワークショップで実施してきました。最初は言葉や生活習慣の違いで口論などあったようですが、お互いに教えたり教えられたりする過程で、一体感や達成感が生まれ、6か月のコース修了時の卒業式では、違う民族の女性たちが抱き合い、泣きながら別れを惜しんだと聞いています。民族の融和をどのように進めるのか、という問いに対し、一緒に学ぶ、あるいは一緒に仕事をするということが一つの答えになると考えるようになりました。
UNHCRのIPとしてBAJのマウンドー事業を紹介しますと、マウンドーには92年の難民流出以降UNHCRによる難民帰還事業として、WFP、FAO、UNDPなどの国際機関や国際NGOが入ってさまざまな活動を進めてきていますが、劣悪な道路状況のため車両の劣化が激しく、BAJはこの地域で活動する団体の車両や機械類の修理・整備をおこなってきました。また車両の燃料となるガスをヤンゴンやシトウェからマウンドーまで運んでくる途中で、抜き取られて代わりに泥や水が入れられることがあるので、必ずろ過(フィルトレーション)をおこなうことも大きな仕事の一つでした。
HCRをはじめ帰還事業のためこの地域に入った団体は、ムスリムの支援が目的だったため、雇用や実施事業でムスリムを優先していましたが、この地域の民族は誰も等しく貧しい状態にあり、ムスリム以外の民族は国際機関やNGOに反感を持つようになったと思います。その点BAJ は公平に事業を進めていたため、紛争が起きて国際機関や国際NGOが次々と打ち壊しにあっているときも、BAJだけは安全だったのです。
この理由を理解したUNHCRは、2017年1月からのUNHCR事業では、民族の融和を意識し「平和的共存事業」として、村でムスリムとラカインを混合したさまざまな事業を展開することになりました。両民族を中心に少数民族も加えた地域住民を対象に、農業機械研修、車両整備研修、高校生を対象にしたコンピューター研修、女性を対象に裁縫訓練などを進めてきました。しかし残念がら8月の大規模な襲撃事件で、すべて中止となってしまいました。
ラカイン州北部はとくにムスリムの人口が8割以上と多い地域で、またバングラデシュとの国境は川一本を隔てただけで、日常的に船などによる往来があり、食料などの売り買いもあったようでした。しかし、これも現在は途絶えたようです。
これまで両民族による紛争事件は何度も起きています。最近では2012年5月に、ラカインの仏教徒女性がムスリムの男性3人にレイプされて殺害されるという事件をきっかけて対立が激化し、結果として7万5千人のムスリムがバングラに流出しています。民政移管後のテインセイン政権で言論の自由が回復され、これまで抑圧されていたムスリムが発言力を持つようになったことも大きな要因になったと考えますが、この数年は誘拐や殺人事件が増えて治安状況が悪化するなかで、2016年3月のスーチー氏率いるNLD政権発足のあと、同年10月、ムスリムの武装勢力による国境警備隊2か所への襲撃事件が起きています。
さらに2017年8月25日にはラカイン州全域でアラカンロヒンギャ救世軍(ARSA)と名乗る武装集団による軍施設への襲撃や村の焼き討ちが同時多発に起き、双方に多数の死者を出す大きな事件が起きました。その結果、70~80万人ともいわれるムスリムがミャンマーから流出し、なかでもマウンドーのダメージが大きく、BAJの活動は一時停止となり日本人職員もヤンゴンへ退避せざるを得ませんでした。
ラカイン州でどんなことが起きたのか。UNHCR(国連難民高等弁務官事務所)のデータでは、軍施設襲撃や焼き討ち、殺害など137か所でさまざまな事件が同時多発的に起きています。残っているムスリムもまだ20万人位いると言われているので、合計すると100万人ぐらいのムスリムがラカイン州にいたということになり、この事件で5分の1に減少したことになります。
いま現地へのアクセスはありません。昨年の8月25日以降、外国人は全員退避させられました。19の援助機関が入っていたのですが、現在でも12の団体がアクセスできない状態です。BAJのワークショップでは、これまで10名以上在籍していたムスリムスタッフは全員いなくなりました。数世帯がバングラ側の難民キャンプにいることが分かっていますが、現在ムスリムをのぞいた25名の現地スタッフが、マウンドー事務所のワークショップ内でできる事業を何とか進めています。
BAJでは学校建設事業を、ラカイン州北部の3郡、マウンドー郡・ブティダウン郡・ラティドン郡で実施してきており、現在マウンドー郡は難しいのですが、ブティダウン郡・ラティドン郡では建設を実施しています。
マウンドー事務所に8月26日まで勤務していた日本人スタッフが、今年4月2日から5日までマウンドーに入る許可が下り、半年ぶりに現地に入ることができたのでその報告から紹介します。
UNDP(国連開発計画)とUNHCRがミャンマー政府と、流出した人たちの帰還に向けた覚書に署名しました。帰還民が一次的に滞在するトランジットセンター、シェルターがラカイン州にいくつか開設されました。1992年に25万人の難民が流出した時は、22万人位が帰還しましたが、平常に戻るまで10年位かかりました。今回はその3倍位の難民が出ていて、どれだけの時間がかかるか予測がつかない状況です。今回の事件で多くの命が失われ、さらに多くのムスリムが流出して世界中の注目が集まっています。ラカイン州はこれまでミャンマー政府が放置していた陸の孤島だったのですが、世界中の注目が集まっていることもあり、ミャンマー政府自身が開発していこう、この問題に取り組もうとしている様子がうかがえます。
2017年の9月や2018年の3月には、堀井巌・外務大臣政務官がミャンマーのラカイン州情勢等に関してミャンマー政府要人と意見交換をおこない、避難民キャンプ等を視察し、またバングラデュ人民共和国およびミャンマー連邦共和国を訪問しています。その後、河野外務大臣もラカイン州を視察し、日本政府によるODAとして40億円の拠出を決めており、今年度から女性対象に裁縫訓練の事業が開始され、BAJ も一部を受けています。
報告にもあるように、ミャンマー政府によるラカイン州の開発計画では、BAJがこれまで建設した橋梁や道路が改修され、本格的なインフラ整備工事を大規模に開始しており、そこにいろいろな人が参加して働くようになったということです。
今年度UNHCRからは、これまで通り自動車整備ワークショップ運営や倉庫改修の事業内容でBAJとパートナーシップを締結しています。BAJメカニックチームのなかでレベルの非常に高かったムスリムのメカニックがバングラデシュに出てしまい、技術的なレベルが落ちていたのですが、カレン州のパアン技術訓練学校でインストラクターを務めていたマウンドー出身のチン族のメカニックがマウンドーへの転勤を希望したので、今はなんとか車両整備事業を継続できています。
ラカイン州の今回の襲撃事件については、現地で実際に何が起きているのか、だれも正確な実態を把握できない状況にあるということが一番大きな問題ではないでしょうか。
学校建設をミャンマー・ラカイン州で村人と一緒に100校
BAJの行っている学校建設については、引き続き活動許可が出ています。2012年から5年間で100校の学校校舎を建設する事業で、昨年8月末にはさまざまな困難を克服して達成することができました。そして9月から引き続き5年間で80校の校舎建設とPTAの強化支援、学校教材林植林、防災研修などの事業を進めています。
今年、ブティダウン郡の村で、ムスリムが90%、ラカインが10%という小学校校舎の再建を実施することになり、親や教師を集めてキックオフミーティングを行いました。ラカイン州のなかでもアクセスが悪い村ではまだムスリムがかなり残っているという情報があります。
学校建設では、住民参加として希望する村人10人前後を募ってOJT(On the Job Training)で建設に参加してもらいます。実地と座学で技術移転しながら、賃金を払って建設を進めます。大工・左官、鉄筋加工など習得してもらい、次の現場で働いてもらうこともあるし、身に付けた技術で雇用につなげる村人も出てきています。
建設事業では、日本人の土木技師を年4回、合計3ヶ月間事業実施現場に派遣して、技術指導とモニタリングを実施しています。
防災研修では、小学校の子どもたちを対象に日本式の防災研修を取り入れて、研修前後でテストを行い理解度を測っています。また環境問題を防災研修のなかに取りいれたり、学校の敷地内に植林をして教材林として学校の教育に役立ててもらう事業も進めています。
PTA強化ワークショップでは、毎月1回会合を開催し、よりよいPTA活動を考える機会を提供することで、PTAの役割を考えるだけでなく、衛生講習、ゴミ拾いや、簡単な机と椅子の修繕方法なども研修しています。
校舎の再建をおこなう学校の選定に際しては、9つの指標のもと各郡の教育局から学校の情報を入手して9郡70校を調査し、必要性の高い学校を選んで建設を進めます。調査したデータはエクセル上に情報を入力して処理することで、サマリーシートと簡易地図と写真がすぐに得られるようになりました。
カレン州で技術訓練学校 教育の機会がなかった青年たちが対象 多様な民族が一緒に
カレン州のパアン技術訓練学校運営事業についてお話します。ミャンマーが1948年にイギリスから独立して以来、カレン族指導者はミャンマーからの独立を目指し、翌年から武力による反政府運動を継続してきました。民政移管後の2012年1月、ミャンマー政府との停戦協定に合意し、現在に至っています。ミャンマー政府はカレン州の開発を国際NGOに託し、さまざまなNGOがカレン州での活動を開始していますが、BAJはこれまで紛争などで学ぶ機会に恵まれなかった若者を対象に、カレン州の州都であるパアンで、技術訓練学校運営事業を2013年から開始しました。
BAJは2001年からラカイン州の州都であるシトウェで技術訓練学校運営事業を7年間実施し約500名の卒業生を輩出した経験をもとに、新事業としてカレン州パアンに技術訓練学校を設立して、建設科・電気科・溶接科・自動車整備科の4科について、技術習得の場として開設しました。
訓練生の選抜にあたっては、BAJ、カウンターパートの国境省教育局、カレン州政府で構成する選抜委員会で合意した選抜基準に沿って書類選考し、選考基準として、学歴、家庭環境、経済状況や志望動機などについて面接を経て選考します。家庭の事情で中学や高校を途中退学した青年などで、なによりも技術習得への意欲を重視して選考しています。
各科は6か月のコースを年2回の実施で、これまでに500名以上の卒業生を輩出しています。卒業生の内訳は、カレンが6割と最多で、ほかにモン、ヤンゴン、バゴー、チン、エヤワディー、マグウェー、シャン、ラカイン、カチン、その他さまざまな地域からの出身者が4割を占めています。カレン州出身者の中には戦争被害を受けた若者やビルマ語の理解が難しい者もいて、学生同士の助け合いも生まれています。
卒業生の雇用先についても、日系企業をふくめパアンやヤンゴンの企業、ワークショップやコントラクターなどに働きかけ、各科の平均で80%以上の雇用を確保しています。また訓練生に卒業後のイメージを持ってもらうために、卒業以降の訓練生のモニタリングも実施し、調査結果を構内に掲示し、科外授業として英語講座や土曜日には職場見学、外部講師による講演会の開催など社会的常識の醸成も図っています。
BAJはこの事業について当初6年間の運営を計画し、カウンターパートの国境省教育局に引き渡すための準備を進めてきましたが、教育省をはじめ大臣レベルの視察を受けるなかで、事業の継続を請われており、2019年以降の継続を検討しています。その場合、どのような形にするのか、どの地域で進めるのか、さまざまな可能性を探っているところです。
70年間続いた鎖国状態にあったミャンマーですが、日本との関係は先の戦争もふくめて深いものがあります。民族や国が異なる人々が出合い、お互いに理解しあい、信頼関係を築いていくことが共存共栄の基礎になると考えます。お互いの出会いの場をなるべく多く作り出し、相互理解と信頼の橋を架けていくことを大切にしたいと思います。
大河内) ありがとうございました。ミャンマーでのBAJの活動を中心にお話しいただきました。続きまして下澤さんには、ミャンマーの隣国、バングラデシュで関わってきたことからお話いただければと思います。
――下澤嶽さんのお話
~ロヒンギャ問題に出口はあるのか?~ ――
私はロヒンギャの難民キャンプに入りまして支援活動をずっと展開しております。私がかかわるジュマ・ネットは、そもそも緊急支援や開発を扱うのではなく、人権問題と紛争の事後処理、対立問題を見ていく団体ですので、今は緊急救援から少し抜け出て、根本的な原因究明とそれに対してできることは何かを提示していくことに時間を使い始めています。今日は、ロヒンギャ問題の根本原因と解決が本当にできるのかについてお話しできればと思います。
はじめにロヒンギャについて駆け足で説明し、後の本論に時間を使いたいと思います。
ロヒンギャというのはミャンマーのラカイン州――バングラと接する地域に住んでいる、ベンガル語の一方言を話すムスリムの人々です。人口は推定で――国籍法で国籍が無く国勢調査が無いのですが――80万人とも100万人とも言われています。ラカイン州の人口の約4割を占めていたのではないかと思われ、ラカイン州だけで見ればマイノリティとは言いにくく、ただミャンマー全国からみると少数派ということになります。
顔つきもインド人顔で、文化・習慣もインド大陸とほぼ共通します。何世紀もかけてインド大陸から移動してきた人々ということで間違いないと思います。
これまでロヒンギャという名称でバングラデシュ側に入ってきたケースは数回になりますが、大きな流入としては、1978年、1991年、そして今回の2017年になります。78年、91年はそれぞれバングラデュ側が難民と認めず、二国間の協定によって帰還させるという立場をとりました。今回も同じ立場で動いています。バングラデシュは難民協定を批准していませんので、国連にしたがう手順で難民保護を行うことはせず、ミャンマー側との交渉を通して「帰還させる」というのが一貫した方針です。
私は今回のロヒンギャ難民流入当時、現場にいましたので、様子を簡単に見ていただきます。
国境沿いにナフ川が流れています。ナフ側は川岸に立つと向こう側が霞んで見える位の規模です。このナフ川をずっと北上してきて、船で川の国境を渡る人たちがいました。一番多かったのは田んぼ等を水につかりながら渡ってきた人だと思われます。
今、バングラデシュのコックス・バザールに難民が集中していて、ここは県庁所在地で飛行機も停まります。ウキアという場所に来ると難民がたくさんうずくまっていて、このあたりは一番流入が多かった場所です。ここには1991年の難民キャンプが残っていて、空いた隙間に来たばかりの難民が勝手に国有地に簡易なシェルターを作っていて、ものすごい数になっておりました。国境付近に来ると、水につかりながら渡って来る人が見られました。老人は担がれ、子どもたちは胸まで水につかりながら逃れている状態でした。
着いたばかりの難民は、荷物を手に持てるだけ持っていました。これだけで家族全員を賄わなければならない。当時はまだ緊急援助はほとんど実施されておらず、バングラデシュの良識ある人たちがトラックや軽自動車で運んできた物資をばっと道にばらまくということがあちこちで行われていました。雨の中を5日間・6日間徒歩で歩いてきており、衰弱のひどい子どもたちが多く、亡くなる子どもたちもいました。
ジュマ・ネットは、政府やNGOの活動が昨年10月まではまだ動いていなかったと言っていい状態だったので、わずかですけれども食糧支援を6回行いました。
ようやくバングラデュ政府で国連のお金の目途がたち、ミャンマー側との交渉が順調に進み、定期的な食糧配給と支援の管理が始まりました。
キャンプ内で残っている大きな課題は、医療ケアがまだ十分でないということや、水・トイレは非常に問題になっていました。まず数が少ないのと、塩水が出るので深井戸を掘るという作業も始まっていまして、大量の水をどうやって確保するかが非常に問題になっていました。
教育の問題もあります。基本的にバングラデシュ政府は定住化につながると教育プログラムを良しとしていません。
周辺から薪を取るため、森林破壊が進む。また地域で安い労力として使われたり、軋轢も生まれていたり、中には人身売買の対象となっているという情報もうかがっています。密集してシェルターをつくったため、土砂崩れの問題もあります。いろいろな問題は残っているものの、一時期の危機的な状況は緩和に向かったと思われます。
ジュマ・ネットでは、食糧配給を一時期行いまして、いまトイレの配給を少しですが行っていて、できるだけキャンプ内の人権侵害や、レイプ被害に遭った方々のその後や、帰還が強制的に行われないようモニタリング行っていきたいと思っています。ラカイン州の調査も今年の夏にできればやってみたいと思っています。
ヘイト感覚 植民地時代から眠っていたもの 自由化で表出
ここからが私のお伝えしたいメインテーマです。
私は1991年のロヒンギャ難民の流入時、シャプラニールという団体の駐在員として、支援活動を行いました。その時点ではまだ勉強不足で、なぜロヒンギャが迫害の対象になるのか十分に分かっていませんでした。
今回はジュマ・ネットの救援活動をFacebookやSNS等でかなりアピールさせていただきました。そうしたらミャンマー側からの書き込みが始まって、機能不全に陥ってSNSが使えなくなるほどの数が書き込まれまして、それはほとんどがイトスピーチ的な書き込みでした。「ロヒンギャはいない」という書きこみが圧倒的に多く、「おまえは嘘つきだ」とか、「金儲けをしている」とか、「ロヒンギャはテロリストだ」とか、毒々しい書き込みが止まらなくなりまして、私はここに問題があると深く察知しました。それまでは、軍が何らかの政策や自らのベネフィットのためにロヒンギャをターゲットにしているから、国民不在のまま軍の加担によってこの問題が起きたという単純化した整理をしていました。
しかし実はそうではなくて、ミャンマー国民のなかにロヒンギャヘイトやイスラムヘイトが広がっていることを深く理解しました。それだけ問題が非常に深く複雑であると同時に感じました。この問題究明をどうしたらよいかと考え続けています。
まず、このヘイト感覚、ロヒンギャを含めイスラム教徒全体に対する仏教徒のヘイト感覚が、いつどういうふうに創られてきたかですが、いろんな問題の専門家に聞いたり資料を読んだりして、だいぶ分かってきました。
2011年にミャンマーは民主化が果たされます。まだ総選挙は形をとりませんでしたが。その時に、公衆の場での政治的な発言や、政治活動がほぼ自由化されました。好きにものを言える時代が来たわけです。その時に、一部の仏教徒がイスラム教徒は人口増加が急激で、この国はイスラム教徒の国になってしまう。そのために自分たちの仏教やもともとの文化を維持しなければならないから、イスラム教徒は何らかの制約下に置かなければならない、というスピーチが非常に力を持つようになります。
この理由として、イスラム教徒は植民地支配時にイギリス人が連れてきた、その支配の下で上手い汁を吸っていたと、ミャンマー人はそういう思いがまだ残っていて、そのなかでもイスラム教徒は最も注意すべき存在という意識の人が多くいます。つまり、歴史認識のなかに「後からやってきた移民」というものが強く打ち出されるようになりました。
確かに独立戦争時に、日本軍に押された仏教徒とイギリスに押されたイスラム教徒との大きな紛争がラカイン州で起きていて、多くの人が亡くなるという悲惨な戦争がありました。そういう意味で、イスラム教徒というと、英国植民地から我々を侵略しようとした人であるという印象が強く残っています。これがひとつ歴史認識のなかに、インド人もしくはイスラム教徒へのヘイト感覚は眠っていた。
1962年、ネ・ウィンが軍事クーデターで社会主義政権を立ち上げた時にロヒンギャは市民権を剥奪され、1982年の国籍法の改正で135の民族を認める傍ら、ロヒンギャはそこから外し無国籍化、Statelessの状態になります。
ロヒンギャはこういう非常に脆弱な状態に置かれ続ける中で、民主化が果たされたとたん、ヘイトスピーチが容認され、その中で一番力を持ったのが、アンチ・イスラム。例えばロヒンギャを排他的に扱うスピーチが非常に強く現れるようになります。
その中心的存在が仏教僧を中心とした運動です。その中心人物が、アシン・ウィラトゥです。『TIME』の表紙にもなったと言われている。彼の主張が969運動として、広く仏教僧から信者に伝わり、台頭していきます。969というのは仏教のいくつかの教えを数で表していて、イスラム教のコーランを数で表し、イスラム教のお店には768と印を入れる習慣がこの地域にあったことに対抗したものです。
彼らは、ロヒンギャの人々の人口増加への脅威、仏教徒女性をレイプする――レイプする事件は確かに起きた――、強盗する、商売の手口が汚い、婚姻した仏教徒女性を全部イスラム教徒にする、こういうことが進むと侵食するかのようにラカイン州を始めとしてミャンマー全体にイスラム教化が進むという主張を中心にしています。
この後、非常に象徴的な事件、ラカイン州のシトウェの近くで仏教徒女性が複数のイスラム教徒男性にレイプされ殺される事件が発生します。ラカイン民族とロヒンギャ民族の間で暴動が発生し、約200名が亡くなり、その大半がイスラム教徒でした。「それ見たことか、前々から懸念したことが現実になった。我々は正当防衛として守らなければならない、もしくは襲われたらこちらも報復しなければならない」という感覚が、この事件以降、ラカイン州の仏教徒だけでなくミャンマー全体に広がったと言われています。
これを後押ししたのが969運動であり、その過激さ故にミャンマー政府の仏教担当の長老会はこれを禁止します。この仏教愛国主義グループは「マバタ」という名前で生まれ変わり、今も活動を続けています。マバタは「野生の象(イスラム教徒)と我々は一緒に暮らせない。我々は象を隔離しなければならない。それは当然のことである」と、信者たちの間に主張を続けてきました。
経済開放にむかう新たな国家像をつくる時 ナショナリズムへ回帰するゆらぎ
2015年にこうした熱狂的な仏教愛国者によってイスラム教徒だけに特化した人権侵害とも受け取れる4つの法案が提出され、国会で承認されます。
まず仏教徒女性特別婚姻法です。仏教徒と異教徒の結婚には両親の同意が必要というもので、男性は仏教への強制改宗をさせるものです。2つ目は、一夫一妻法です。これはイスラム教徒の一夫多妻の習慣を禁じるものです。3つ目は、人口調整法で第1子出生後、3年間は次の子どもを産むことを禁じたものです。これは全住民が対象ですが、ロヒンギャを標的にしていると言われています。最後は、改宗法です。仏教徒の改宗を許可制にするもので、改宗は18歳以上のみに許され、改宗者は最低5人の委員よる面談の上、90日間の学習期間を通して検討させるというものです。
これはマバタが中心に主張してきたもので、国連機関やアムネスティなどが人権侵害にあたる内容だと訴えましたが、国会を通りました。ミャンマー国内でも意見が分かれたものの、それを良しとする人の方がそれだけ増えていることを象徴的に表すものでした。
アウンサン・スーチーは最初この法案に反対します。ですが、マバタの影響力の大きさもあって、アウンサン・スーチーの支持母体のNLDの中にもこれに共鳴する方が増え、結果的には無言になっていきました。
アウンサン・スーチーは、彼女の個人的判断ではどうしようもできない変化にさらされています。その変化とは、国民の仏教ナショナリズム、反イスラム主義の迅速な拡大です。現政権はマバタに対して、ゆるやかに認めながら牽制はしているのですが、政権に資するものとして泳がせているという見方もできます。マバタの支援者たちは与党に票を入れる可能性が高く、アウンサン・スーチーを追い込んでいく可能性もあり、マバタは泳がされながら存在していると言えるかもしれません。
そこに2017年8月、イスラム武装集団・ARSAがミャンマーのヒンドゥー教徒を多数殺害する事件が起きて、反イスラムを声だかに叫べる状態がミャンマー国内を席巻します。もともと火薬庫みたいなところに火を投げ入れた状態になったので、ミャンマー国軍は、強い国民の後押しによってロヒンギャ弾圧を行っているという自負が片方にあったのかなと思います。
こういった状況には、ビルマ族と周辺の少数民族との対立構造がやや緩和し、停戦協定を結ぶ民族も多くなっていること、大量の資金が流れ込む経済開放が始まり、新たなミャンマー像をつくっていく時代になりました。こうした不安的な時期に入り、そこに仏教ナショナリズムみたいなものがスルッと入りこみ、国民もそれを求めていたかのような印象を感じます。
少数民族の市民権に関する議論の加速を提言したラカイン州助言委員会をエンパワーメントするには
一方で、ラカイン州の問題を何とかしたいというアウンサン・スーチーを始めとした政治家を中心に「ラカイン州助言委員会」設置がされます。2016年8月ですから既に先述の4法案が通り、まだ襲撃事件が起こる前の時期にこの助言委員会が設置されました。中立を保つということで、アナン元国連事務総長を筆頭に9名の交際的な市民活動家によって構成され、提言書が出されます。つまり国が正式にアポイントした人たちが議論したもので、よその国や機関が勝手に出したものではないのです。国の監視下に行われた委員会なので、国はある程度これを利用しようとしていた、そういう意図があると考えられます。そして2017年8月24日にミャンマー政府に提言書を提出し、受け取られています。
この報告書提出の1日後にARSAというイスラムテロリストグループが襲撃を行っているのです。そして今回の60万人の流出につながったわけです。
この提言では88の提言が行われ、重要な領域に関して広範囲にカバーした内容になっています。ダウンロードして誰でも読めるようになっています。経済・市民権・移動の自由・人道的支援などかなり多岐にわたっており、私はミャンマー社会の文脈全部は分かりませんが、読む限り非常にリベラルな内容になっています。このなかに「ロヒンギャ」という言葉は一つも使われていませんが、とくに市民権の議論については積極的な姿勢で書かれており、いま出されている身分証――いま1万人位のロヒンギャに対しては出されてきたのですが、とりあえずの在留証明のようなもので、ここに居住するものとしての身分証――、NVCというものを出し始めていましたが、それをもっと大量に出しなさい、そしてNVC後の市民権に関する議論を加速化してほしいということも述べています。
2017年12月――ちょうど難民がたくさん出ていた頃ですが――、ラカイン州助言委員会、常設の助言委員会の設置を決めます。委員として10名の人が新たアポイントされて、タイ元副首相が委員長になっています。つまり、これら88の提言を具体化するための常設の委員会が常設されたのです。いちおう政府が公式のルートで諮問を出し、答申を受けて常設の委員会を置いたということは、この委員会が多少なりとも活発に動くのであれば、ここがロヒンギャ問題解決のプラットフォームになる可能性はあります。ただ、現地の政治状況や、国軍の圧倒的な力のなかで、この助言委員会が何をできるかは未知数ですが、注意して見ていく必要はあります。
我々がもしできるならば、「ミャンマーは悪い、ミャンマーは人権侵害だ」と言い続けるよりも、反イスラムを主張する人々にどう働きかけられるかということと、この助言委員会をどうやってエンパワーメントできるかということを考える必要があると思います。
市民権が与えられるまで帰りたくない難民
帰還合意は2017年11月23日にされまして、前の2回と同じで非常にスピーディーに2国間合意ができました。両国の合意のもと2018年1月23日に帰還を始めると言いました。
バングラデシュ側が帰還者のリストを作る都合があったのですが、かなり強引に作ったのでしょうか、リストを作ったラカインキャンプの難民が銃で撃たれて殺される事件が発生しました。同時に、キャンプ内で帰還を望まないロヒンギャのデモが起きました。ミャンマー側の受け入れ施設管理が十分にできていず、帰還作業はほとんど何も動いていません。
難民側の主張は一貫していて、「様々な問題のある今の状態で安心して帰れるとは思えない。帰ってもまた同じ目に遭うのであれば、自分たちに何等かの市民権が与えられる合法的な手続きの道筋を見せてほしい」というものが多く、今も帰ることを拒んでいます。
2018年6月6日にUNHCRとUNDPが共同して帰還事業を行うことを約束しました。これは1992年の時と同じで、帰還について二国間合意したものの、6ヶ月間ほとんど難民が帰りたがらなかったのでUNHCRが間に立って帰還意思の確認をし、トランジットキャンプの監視を行いました。92年の難民はそうして10年位かけて22万人が帰還しました。今回そうなるかどうかは未だ分からないのですが、92年の頃と今回とでは被害のマグニチュードが全く違うので、未だに予断を許さない。つまり難民キャンプの生活はおそらく長引くであろうということと、ミャンマーの政府がこれだけ国民的支持をもって反イスラムが浸透したのであれば長期化の予想が強くなっていると思います。
――パネル対話――
大河内)ありがとうございました。根本さんと下澤さん、お互い確認したいことはありますか。
下澤さん) ラカイン州の方々のロヒンギャに対する一般的感情は、私が言ったような感情に近いのか。経験からなにかご存知であれば教えていただければと思います。
民族や宗派を超えた協力 一緒に汗を流して、考え、つくる経験のなかで
根本さん) BAJはマウンドーで事務所を開設する際に、少数民族、ムスリム、ラカイン族、仏教徒、みんな公平に試験で集めたので、いろいろな人たちが集まっていました。そのため当初は生活習慣や言語の違いから、ちょっとしたことで諍いや流血騒ぎになることもありました。 BAJはラカイン州でインフラ整備を進めていたのですが、ムスリムもラカインも一緒になって工事を進めますが、建設現場は非常に危険なことが多いわけです。重機械は入りませんので、人海戦術で学校でも橋でもつくるのですが、民族がどうだからとか言っていられない、自分の身も危ない、自分の身を守るためには相手のことも考えなければならないということで、お互いに民族を超えた協力みたいなものが何年かやっているうちに出てきました。
BAJのワークショップの中では、民族を越えた協力関係があったのですが、民政移管後の2012年に起きたレイプ事件のあと、インターネット上に匿名でムスリムの一種の殺害リストが流れ、その中にBAJの現地スタッフ4名の名前も出たため、その4名を隠すとともに、BAJワークショップのミャンマー人職員の中には、そこに食料を持ち込んで支援する職員もいたと聞いています。
しかし今回2017年8月25日の襲撃事件に関しては、同時に100か所以上が被害に遭っています。ムスリムの村に例のARSAが入って、自分たちの組織に参加することを強要したり、しない場合は殺害や焼き討ちなどもするような状況です。ムスリム職員が「BAJのワークショップにかくまってくれ」とも言われたのですが、そうするとBAJのワークショップが襲撃目標になるので、何とか別のところに隠れてもらいました。
とにかく、そういう民族同士でいろいろ紛争があったという人たちに、海の中に1滴の水を垂らすような感じの無力感も感じるのですが、一緒に仕事をするとか、一緒に学ぶとかという経験や機会を通してお互いの理解と信頼を醸成すること大切だと考えますが、これには残念ながら時間がかかります。
大河内)根本さんに伺いたいのですが、ミャンマーのなかで活動されてきた中で、ここ何年かで問題が大きくなってきたのは、どのような要素やきっかけがあると思いますか。とくに民主化のなかで今まで入って来なかったお金が海外から流入し利権が発生するなかで起きる問題というのは、利権が発生した土地にいる邪魔な人たちを排除しようとする作為が常套的なことかと思うのですが、ミャンマーの人たちのヘイト感情の変化を感じられたことがあれば、何かがきっかけだったのか、具体的にどんなふうに変化したのか、お話いただけますでしょうか。
根本さん)一般感情として、ムスリム人口の増加に対する不安感は大きいと思います。ムスリムは全人口の4%というデータがありますが、実際は10%ぐらいいるといわれています。とくにバングラデシュから国境超えて流入するムスリムが増えることに対しては非常に危機感を持っていたと思います。
BAJの活動の主眼はアドボカシーではなくて、困難を抱える現場に入って、現地の人と一緒に考えて、一緒に汗を流して、一緒により良い環境をつくろうということがミッションです。BAJの現地職員は、BAJのいいところは政治色が無いところと言ってくれていて、悪いところは給料が安いところと言いました。
BAJの日本人は問題が起きて政府から睨まれた場合、出ていけば済みますが、残されたスタッフはミャンマーの中で生きていかなければなりません。そうした理解も日本人には必要だと考えています。
大河内)私自身は仏教の住職をしている立場で、とくにミャンマーの仏教徒のイスラム教徒への迫害は大きな問題としてとらえています。かつては、仏教徒が軍事政権と闘って僧侶が焼身自殺をするとか、そういうニュースとして伝わってきたものが多かった。それが今回は、イスラム教徒へのヘイトを煽っていくという方向に――みんながではないと思いますが――なっていくということに大きなショックと疑問を感じているところでございます。個人的な感想で申し訳ないですが。
――グループ発表とゲストのコメント――
~グループ対話を行い、感想や質問を会場全体で共有するために発表しあい、ゲストにコメントいただきました~
(参加者)「グループで一番、心の底から疑問に思ったところは、どのようにして70万人もの難民が実際に基本的な人間らしい生活を取り戻せるのかという点です。その際に、現在の援助はベストなのか。難民の方々に対して十分な支援ができているのか。受け入れ側のバングラデシュ政府の対応や、帰還が最終的なゴールだとUNHCR等が言っていることについて、帰還することがそれぞれの難民の人にとって本当にベストかどうか。多様な難民がいると思うので。一様に道筋を決めるのは難しいのではないか。民族間のヘイトが高まっているということからも、その点についてのお話をもう少し聞きたいと思いました。」
「グループでは、じっさいに日本に住んでいらっしゃるロヒンギャの方とのふれあいを通して、真面目な生活をしていらっしゃることも教えていただきました。日本として何ができるのか考えなければならない。
先の方もおっしゃっていましたが、地元に帰るという選択――これが一番いいのかもしれませんが――、あえて他の新天地を求めるということも無くは無いのか。イスラムの方はネットワークが世界に広がっていますから、そういう所に新天地を求めるという考え方があってもいいのかもしれない。
それから、アウンサン・スーチーさんの真意はどこにあるのか。国に帰って民主化がいよいよこれからという時に今のような状況というのは、日本や西洋の人から見ると失望感が漂っているのかなと。けれど実際の政治の世界はそんな生易しいものではない。いろいろな利害調整もあって、その中に叩き込まれると、そんな上手くいかないだろう。それは日本の今の状況を見ていても分かる。やはり官の論理で押し切る、その中で正しいことを言ってもなかなか実現できない。せめぎ合う中で、じゃあ今の活動を止めたらいいのか。徒労感しか残らないのではないか。そういった思いもアウンサン・スーチーさんの中にもあるのではないか。
同じ人間としてそれを汲み取っていくことも大事なのではないかと思います。どうも私なんか、政治的なあるいは経済的なパースペクティブの中でしか物事を考えない。人としての思いを汲み取っていくことが社会の変革につながっていくのではないか。最近亡くなった日高六郎さんがそういったことをおっしゃっていたかと思います。そういうことは意外とこれから大事ではないかと思います。難民の方の具体的な写真展を今年なさったという方がいらっしゃいましたが、そういったことから入っていくのかなという気がいたしました。」
「このグループは10代から70代までいて、知らないことが多かったですし、仏教ナショナリズムが本当に広がっているんだという感想が出ました。開発の現場や社会活動をされている方がいましたので、偏った開発の歪みとか、紛争の場がどういうふうに我々の日常を動かしてしまうのか、海外の現場の状況を壊していくのかということを、今日のお話と重ね合わせて考えていました。
高校生の方からは、対立では、あっち側が何を考えているのかが分からないので、噂などが大きくなって更に対立が悪くなってしまうのではないかと仰っていました。
ユダヤ人の差別に関心を持たれているもう一人の高校生の方は、きちんと考えないで雰囲気とか流されたりとか、そういったところでユダヤ人を嫌いになるということを勉強したのだけれど、今日のお話を聴く中で重ね合わせていました。
普段触れ合えなかったり分からなくて更に対立や差別が起きてしまうというところで、根本さんがおっしゃっていたワークショップや教育の場など、そういった共同の場での活動なりが非常に重要なのではないか。軍がやっているのではなく、民衆が仏教ナショナリズムで悪い形で後押ししているというのが衝撃的だったので、日常の場から考えていくのが必要だなというのがこのグループのまとめです。」
「ムスリムの方は文化的な服装を買いそろえる余裕もなく、仕事を辞めて動けないという問題があがりました。これは、女性ということで差別を受けるという状況があるという意見でした。
そして、単なる宗教の対立というよりも、国民と外国の対立というものがあると感じました。
また、国籍法にも絡んでいる問題としてあげられる排他的な意識が問題視されるべきだという話になりました。じっさいに戦争がなくても起こりうる排他的な意識は現地に限らず、どこでも、日本にもあるのではないかという意見になりました。」
対立を加速させないようメディア・リテラシーを
根本さん) 80万人の難民の人たちに対して私たちに何ができるのかという話ですが、国に戻すのが良いことかどうかという話もありました。実際ミャンマーではカレン州との長い紛争状態が続き、カレン州と接するタイ側に難民キャンプが4つ位あって20年位経っています。「もうミャンマーなんか帰れないよ、難民キャンプにいれば教育もちゃんと受けられるし」という声があり、また難民キャンプから出て仕事につくことができる状況になっています。そういう状況もあることを頭に置いていたほうがよいと思います。
アウンサン・スーチーさんの真意についての話もありました。NLDのなかにも反イスラムや仏教ファシズムみたいな人たちがいて、非常に困難な立場にいるのではないか。じっさいの軍部のことに関してはスーチーさんは口出しできない立場にあるということも知っておかなければなりません。彼女は非常に厳しい状況にあるのではないかと、私は見ていて思います。
対立がどうして起こるのかという話について。ラカイン州のいろいろな村に入っていって、橋を造ったり学校を創ったりしていて、ある村では、仏教徒とムスリムが仲良く、モスクの隣に仏教のお寺がある状況があって、日常的に対立があるわけではありません。
この対立の始まりは何か。私たちも考えれば分かると思いますが、マスコミというかメディアなのです。例えば「ムスリムのこういう男がレイプして殺害した」と言うニュースを知れば、仏教徒はこれまで何の問題もなく隣のムスリムと交流していたのに、なんとなく気まずい雰囲気から、問題が大きくなればなるほど批判しあうまでになっていきます。ですからメディアの役割というのはすごく私たちに影響しているんだということは、自覚しておかなければなりません。メディア・リテラシーということについて、私たちは気をつけなければいけないなと思います。
今度の事件で一番大きい問題は、現地で何が行われているのか、誰も正確な情報を持っていないことだと思います。
模索する時代 新しい国民像を求める人々に広がるヘイト SNSで急激化
下澤さん) なぜ今こういう状態がミャンマーで起きているのか、もう一度、整理してみたいと思っています。
ひとつは、軍によって強く抑制された時代を長く経て、いま民主化の自由な社会に向かった。このリアクションではないかと思ってしまいます。政治的な自由や発言の自由を手に入れたものの、次々に入ってくる経済投資や海外企業。片方で、二項対立だったビルマ族対周辺の少数民族という構造が緩くなり始めていくと。そんな中で、自分たちは何者なのか、何に依って生きればいいのか、模索する時代に入っているのかなと思います。
マバタのリーダー、アシン・ウィラトゥさんは、2003年にイスラム教徒10名殺害事件の先導者として逮捕されたのです。25年間の刑期を言い渡されたところ、2011年の恩赦で解放されています。そして彼は再びこの活動を始め、今のような大きなムーブメントを創り上げたわけです。
だから、もともと種はあったけれども、ちょうどこの時代、ヘイトが広がる背後には、新しい国民像を求める人々が、分かりやすいもの、高揚感が維持できるもの、仲間意識が創られるものとしての「反イスラム」が強化されていったという印象を持ちます。とくにSNSが自由に使えるようになったので、これが急速に意見形成、言説形成に力を与えたように思います。
片や、良識的なお坊さんの発言や書籍も出ていて、「人は人を助けるために宗教をつくったのであって、垣根をつくる必要はない。そのためにこそ宗教は必要だ」と発言されるお坊さんもいます。まだまだ力は無いけれども、どうこの声をすくい上げていき、国内の一つの重要な言説として復活させられるかというところも気になるところです。
70万人の難民がどうなるかについては予測が難しく、過去の事例から想定するしかないのですが、バングラデュは何を考えているか。
ひとつは、国際難民条約に準じる難民認定はしないと思います。つまり難民認定をすると第三国定住が許されるわけです(以下で、参加者が訂正)。そうすると、正式に難民ビザを持ってカナダやアメリカや、ひょっとすると日本に来るわけですが、それは発生しない。過去も同じでした。
とにかく一途に帰還を求めるだろうと思います。けれども過去2回の難民流出に関しては、だいたい6~7割は帰還が果たされた。残り3割はどうなったかというと放置、何もしないという状態に置くというのが今までのやり方です。
顔かたちが似ているので自然と周辺社会に潜り込んで行ったり、インドやパキスタンに逃れたりと、南アジア全体にロヒンギャが散らばっていきています。今回もその状態を結果的につくってしまうのではないかと思います。
一度だけバングラデシュが難民に国籍を許した例があります。独立直後、1971年に西パキスタン軍がインド軍に大敗し、バングラデシュから撤退した時に、西パキスタン人の使用人のような立場で入ってきたインド・ビハールの人々がいます。軍はそういう人たちを残したまま西パキスタンは帰ってしまったのです。ベンガル人からすれば憎き西パキスタン軍の手下連中ということで、彼らをビハール・キャンプというダッカ市内の一角に囲い込んでしまいました。ビハールの人々は1971年からずっとバングラデシュへの帰化を望んでいたのですが許されなかった。それが数年前に許された。50年近くたってから初めて成されたことです。ただ、ビハール難民は1万人~2万人位で与える影響は大きくなく、子どもたちはもうベンガル人化していて実態としては仕事にも就いていてベンガル語しか分からない難民だったわけです。
今回のミャンマー難民について予断は許されません。おそらく難民の人たちは自然と潜り込んで、ベンガル社会やインド社会、北社会に流れ込んでいく、浸透していくのではないか、私はどうしても悪いほうのイメージをしてしまいます。
参加者) 下澤さんの仰っていることは心からその通りだなと思います。いろいろ教えていただいて有り難かったのですが、ひとつだけ訂正させてください(「難民認定をすると第三国定住が許される」という点について)。
第三国定住難民の受け入れは、バングラデシュがもし難民として受け入れると決めたら、第三国には行けません。つまりバングラデュにいなさいということになります。むしろバングラデュ政府がほぼ難民として受け入れないという状況で、主に国連組織――これは必ずしも絶対ではないですが90%以上はUNHCR――が難民と認めているけれどもバングラデュが条約に基づこうが何しようが難民としてとにかく受け入れないという人を第三国に受け入れようという制度が第三国定住です。ですから、バングラデュが受け入れてしまったら逆に第三国定住は起きません。
大河内) それはバングラデュが難民条約に批准していないということが大きいですか。難民条約に批准していれば例えばUNHCRがキャンプ等に収容して第三国定住等につながるのではないですか。
参加者) 制度としては、一番望ましいとされてきた解決策は、自国への自主的帰還。じつは今年、国連で大きな議論されているグローバル・コンパクトが変わりそうで、「自主的帰還が一番いい解決策か」と疑問が呈されていて、まさしくグループ発表でも指摘されたようなことです。
2番目は、周辺国、お隣の国が受け入れる。タイやバングラデュ、場合によってはインドネシアやマレーシア等イスラムの国が受け入れたらという話もグループ対話でありましたが、第一次避難国で受け入れるのが2番目の解決策でした。
そこで保護が受け入れられない人に関して他の第三国。いま欧米が多いのですけれども、日本もほんのわずか年間30人ですけど受け入れをしている第三国定住ということになりますので、二カ国目の周辺国で何とか受け入れられていけば第三国定住になりません。
下澤さん) バングラデュはおそらくUNHCRに難民認定の作業をさせていないという理解でいます。教育は求めたりしていますけれども。その場合には難民認定も行われないので、ミャンマーとの二国間解決。そこでは難民認定が行われれば、その国に住む権利と、場合によっては第三国の両方を選べるという理解でいましたが、そうではないのですか。
参加者) 「難民保護」という扱いでは無理だと思います。ただ人道的な別枠で受け入れるというのはアメリカも含めて今やっているので、バングラデュに避難して行ってベーシック・ヒューマン・ニーズ(人間生活にとって最低限かつ基本的に必要とされるもの)を満たしている状況になれる人がどれだけいるのかによって国際社会は動くかもしれず、それを難民という名前、あるいは難民受け入れと同じような制度で受け入れる国はあるかもしれません。ですが「国際保護」という考えでいうと、二カ国目、いま現在難民がいるところで定着できるのであれば、第三国で難民としての受け入れは無いというのが原則です。むしろ二カ国目にいられないから第三国というのがいちおう国際的な枠組みです。
ただ今年12月にグローバル・コンパクトが採択された以降、今までの難民受け入れと違う形で受け入れることを考えようというのが主流になりつつあるので、仰っていることが生まれてくるかもしれません。
大河内) ありがとうございました。
世界の中では今ようやく知られるようになったけれども、ロヒンギャ問題じたいは昔からくすぶっていたし、ミャンマーの人たちの中ではずっとヘイトのガスが充満していたと。そのガスが、あるきっかけで――デマだったりするのかもしれませんが――爆発していく。
昔のルワンダの民族対立も同じような。実際に共存している村もあったけれども、けっきょくメディア、ラジオ等がデマをふくめた対立を流して、共存していた人たちもお互いの民族意識のなかで不信感をつのらせていく、そんな爆発装置があることも似ている。また、お話にあったように、ラカイン州にビルマ族の人たちを入植させているというやり口も。
世界の紛争パターンはけっこう決まっているなという感想を持ちました。にもかかわらず解決はとても難しいわけです。
今日は、報道では伝わってこなかったミャンマーやロヒンギャの実態を、ゲストのお二人それぞれが体験のなかから実際に関わった人達のことをお伝えいただきました。紛争というのは、ある意味、個人的な体験かもしれず、全体的な構造というのはもっと突き詰めていかないと、私たちは本当の状態というのは分からないし、私たちはこれから何を大切にしなくてはいけないのかを考えていく上で、今日はいろいろ知らせていただき考えさせられました。
最後にメッセージ等をお二人からいただければと思います。
根本さん) BAJは現場に入っていって、苦しんでいる人・問題を抱えている人と現場で一緒にやっています。ムスリムの人たちに私たちに何ができるのか。ムスリムの人たちはみんな出ていってしまって気抜けしてしまっているところです。バングラデシュの難民キャンプに逃れている人たちに関しては国際機関やNGOがいっぱい入ってケアしています。ムスリムが出ていった現在のラカインについて正確な情報はありません。BAJとしてはミャンマーのカレン州に戦争被害の人たちがいらっしゃるということで、人材育成の事業を進めていこうと計画しています。またミャンマーの中で一番貧しい地域といわれているチン州での事業なども考えています。
下澤さん) 問題の深刻さを知れば知るほど解決が見えなくなり、問題の入り口にいるような気持ちになります。
ただ私はバングラデュのチッタゴン丘陵にいる経験から、正確な情報が問題解決の糸口になることと、問題解決を考えて行動する人も必ずいるので、そういう人とどうやってつながっていくのかということをあきらめないことかなと。
もうひとつは、ロヒンギャはいじめやすかったということでしょうか。チンやカレン等、自治を求める人々への対応が多く残っているわけで、そこには融和的な協調的な政策や理解がなければ絶対上手くいかないと思うのです。そういう意味では、ロヒンギャが民主化以降、差別の対象となってしまったわけですが、これを乗り越えていくことがミャンマーの大事な道しるべになるでしょう。
●次回アドボカシーカフェのご案内
『開かれた政府へ――政府の活動記録としての公文書管理の改革』
【ゲスト】逢坂誠二さん(衆議院議員/元ニセコ町長)
三木由希子さん(情報公開クリアリングハウス理事長)
【日時】8月28日(火) 18時30分から21時
【場所】新宿区・若松地域センター 2階 第1集会室
【詳細・お申込み】 http://socialjustice.jp/p/20180828/
*** 今回の2018年7月21日の企画ご案内状はこちら(ご参考)***