ソーシャル・ジャスティス基金(SJF)アドボカシーカフェ第46回開催報告
●今後の企画ご案内
『ソーシャル・ジャスティス基金 助成発表フォーラム第5回』
【パネリスト】公益社団法人 子ども情報研究センター 奥村仁美さん
NPO法人 わかもののまち静岡 土肥潤也さん
NPO法人 メコン・ウォッチ 木口由香さん
【日時】17年1月13日(金) 18:30~21:00
【会場】新宿区・四谷地域センター
★詳細はこちらから
難民と生きる
―ヨルダンと日本の支援現場から―
2016年10月18日、ゲストに内海旬子さん(日本イラク医療支援ネットワーク海外事業担当)、鶴木由美子さん(難民支援協会 定住支援部・コミュニティ支援担当)をお迎えしたアドボカシーカフェを、SJFは文京シビックセンターにて開催しました。
私たちはどんな社会に住みたいですか? と内海さんは会場に問いかけました。シリアでは爆撃によって障害者となった人々が避難生活を送っています。隣国のヨルダンで障害者が社会参加する支援もしている内海さんは、日本で障害者から学んだことを活かし、シリア人とヨルダン人と一緒に活動をしています。シリア紛争の元凶である他国による武器供与と、国際社会の沈黙が解決への障害となっている今、難民に障害があって何かできないのではなく、社会に障害があるのだから、社会の一員である私たちがそれを乗り越え、難民とともに力を活かしていくことが大事だと話し合われました。鶴木さんは、日本社会の私たち自身がもともと持っている共生できる力に気づくことが重要なのではないかもっとできることがあるはず話しました。
母国に戻りたい、母国が無くなって私たちは忘れられてしまうのではないかという、人道支援だけは叶えられない難民の声に応えるために、国際和平への機運づくりが強調されました。それと同時に、いますぐに支援が必要な人たちに、日本社会の私たちは何ができるのかが問われました。鶴木さんはコミュニティ支援について、難民が支えられる側だけにとどまるのではなく、日本社会を難民と一緒に支えられるようなビジョンを持って取り組んでいると紹介しました。Win-Winの可能性を探しながら、地域の住民や行政・企業・病院・学校とともに日本社会の問題と包括的に取り組んでいる事例の紹介もありました。
何が恐怖を感じさせるのでしょうかと内海さんから問いかけられ、よく知らないということが多様性を受け入れる障害になっているという意見が会場からありました。外の何か誰かを批判するのではなく、問題を自分事としてとらえていくことが大切だと、会場からの感想でしめくくられました。
――内海旬子さんの講演――
日本イラク医療支援ネットワーク(JIM-NET)で、ヨルダンにおけるシリア難民支援を担当しております。
報道でも話題になっていますシリア難民のこと、シリア難民が逃げているヨルダンでどういうことになっているのかをご紹介したいと思います。
まず場所についてです。私いつも飛行機で行く時には、日本からカタールとかUAEアラブ首長国連邦のアブダビ、ドバイなど湾岸の国を経由していきます。どのルートを経ても、だいたい24時間くらいかかります。
その周辺の地図を持ってきました。この地図にはこだわりがあります。パレスチナが入っている地図がなかなかなくて、イスラエルだけのっているのが多いのですが、でもあの地域ではパレスチナが重要なのでパレスチナの入っている地図を懸命に探しました。ヨルダンは、パレスチナ・イスラエル・サウジアラビア・イラク・シリアと国境を接しています。
ヨルダンは死海があることが有名です。周りのイラクやシリア等は歴史が古いので、シリア人はよくヨルダンについて「アンマンは昔何もなかったんだ。ヨルダンは新しい国なんだ」と言いますが、それでも2000年以上の歴史があります。古代オリエントの地図に「シリア」という地名ができています。シリアは、エジプト文明とメソポタミア文明の両方から影響を受けた、とても歴史の古く、文明も発達した国であるという誇りがシリア人にあります。
今まさに紛争が激化しているシリア北部のアレッポには、紀元前10世紀ごろ建てられたというアレッポ城があり、ユネスコ世界遺産です。その南方には紀元前3世紀ごろのパルミラ遺跡があります。ここも少し前にIS(イスラム国)からシリア軍が取り返したというニュースがありましたが、この遺跡はガタガタと壊されてしまった。アレッポ城も壊されていますね。首都ダマスカスは、夜景の映える大都会です。世界でもっとも古くから人々が住んでいた都市と言われています。
シリアは、このように歴史も古く、そして文明も発達した国でした。それが、「シリア危機」と言われるものが起きて、バラバラと壊れていってしまった。
シリア危機を簡単にお話しします。
チュニジアやエジプトで「アラブの春」という動きが起きて独裁政権が壊されたというのを覚えていると思います。その流れが2011年にシリアまで届きました。
シリアは社会主義政権なのですが、今のアサド大統領のお父さんも大統領で、いちおう選挙で選ばれてはいるのですが、アサド家の支配が40年以上にわたって続いているという状況です。そのなかで自由が非常に制限されていた。その一方で教育レベルは高く、シリア危機前の高校の進学率は96%(2010年度)――日本の高校と同レベル――だったといいますから、教育熱心であり、また保健医療も整っていたと言います。
シリア危機は、アサド政権に対する「反体制派」と言われる人たちのデモ行進にアサド政権が武力で攻撃したことから始まり、あれよあれよという間に今のような状態になってしまっています。
2011年の3月から混乱が始まって状況がひどくなっていく間にISがイラクからシリアに入ってきました。ISは、古代の地図のなかの広大なイスラム国を再現しようという人たちなので、シリアの混乱に乗じてどんどん勢力を伸ばしていってしまいました。
さらに混乱が増し、ここ1・2年の間は国連などの介入があって停戦への取組みがされてはいます。停戦交渉にISは呼ばれず、IS以外のシリア軍と反体制派で停戦合意しましょうとなるのですが、停戦合意しても早いときは2日間、この春は2カ月半くらい停戦していたのですが、合意が崩れてまた紛争状態になり、それが繰り返されています。
その結果、国外に追われた難民は480万人。そして国内で家を追われている人は760万人以上で、総人口の約半分くらいが逃げている状況だと言われています。爆撃の激しかったホムスという場所では、2008年にはバスターミナルもあって車も走って人も歩いてにぎわっていたのが、2013年には建て物は崩れ人も歩いていない。今もっとも戦闘が激しくなっているアレッポは、ダマスカスに次ぐ第2に都市と言われたところですが、瓦礫の山となってしまっています。
シリア紛争の元凶は、外の国々がシリア内の勢力をそれぞれ支援し武器をあげていること
シリア紛争の構図です。
シリア国内では、アサド政権と対立する反体制派はもともと一枚岩であったわけではなく、反体制派という統一の軍隊はありません。いろいろな人たちがどんどん反体制のグループをつくっていきました。反体制派のなかでも、分裂したり、対立するグループがあります。
このシリア紛争を混乱させている大きな原因は、国外の国々がそれぞれを支援していることです。プーチン大統領のロシアはアサド側、そしてアメリカは反体制側のなかのとくに「穏健派」と呼ばれるグループを支援しています。そして、隣国トルコは、アメリカとは違う反体制派を支援しています。とにかくすごく混乱していて、国連が「おーい」といったところで何ともならない、と言ったら失礼ですが、まだ何も解決に至っていない。
この地図を作っている時は、アメリカとロシアは「ISを倒す」という同じ目的のために少し協力するような関係にあったのですが、今では、国連でシリア政策について「お前が悪い」と非難合戦をしています。
シリアの紛争が6年も続いている大きな原因は、こういった周りの国々がそれぞれ武器をあげているから、それに尽きるとも言われています。シリアの中だけであれば、とっくに武器が無くなって、武力紛争は終わっていた。
シリア難民は右肩上がりで増え続けています。
いま、周辺国にとても多くの難民が行っているのですが、周辺国は一杯いっぱいになってしまっていて、国境の審査をとても厳しくしています。トルコは一番多くの難民を受け入れているのですが、トルコ国境に今16万5千人のシリア人が待っています。
ヨルダン国境には7万人の人が待機しています。この7万人という数が、去年の12月には1万人位だったのです。ヨルダンの冬はとても寒く、雪も降ります。ここはキャンプではないのです。ただただ国境まで逃げてきて「ヨルダンに入れて」と待っているのです。テントはあっても、これはUNHCR(国連難民高等弁務官事務所)が建てたテントではなくて、自分たちで持ってきたテントです。ここはもともと砂漠で、誰も住んでいないところだったので、水も電気も何もないところです。そこで、ユニセフやアムネスティ・インターナショナルなどいろいろな団体が、ここに食糧や水を運んで、この人たちが何とかなるようにという活動を始めました。待機している人は、今年の6月には5万人となり、つい最近9月のニュースでは7万人になっていました。
ヨルダン政府は、「セキュリティ」を理由に厳しい入国審査を行っていて、1日100人ぐらいずつしかヨルダン国内のキャンプに入れないそうです。待機している7万人に対して1日の受け入れが100人? この人たちは、またもうひと冬、ふた冬をここで越えるのですか。そういう中でふつうなら絶対死なないような病気で、老人や子供たちが死んでいます。飢えもあります。
現地ではこのような報道がありますが、そんなに大きく注目は集めていない印象です。
信頼のあるコミュニティを知らない子どもたち、教育を受けられない子どもたち、これからの国づくりは
こういった状況で懸念されるのは、とにかく戦闘が長期化、複雑化していることです。かつてはシリア内戦と言われていましたが、いまは、もう内戦ではなく準国際紛争とも言われます。先に構図をお話ししたようにプレーヤーがたくさん出てきて、国連もあまり機能せず、政治的な解決ができない状況になっています。
もともとシリアはとてもコミュニティの強い社会だったそうです。どこのコミュニティにいたかということはシリア人同士でも話をしますし、シリア人たちがどんなに助けあっていたかという話をよく聞きます。
でもそれらの人たちがそれぞれ違う所に逃げましたから、コミュニティがばらばらになってしまった。逃げた先で新しいシリア人のコミュニティをつくってはいるのですが、本当に心から信頼し合っている関係はまだつくれていないのではないかなと感じています。信頼のあるコミュニティを知らない子供たちが育っていったとき、社会はどうなってしまうのかなと心配しています。こういった子供たちがこれからの社会をつくっていくとなると、失われたものがとても大きいなと思います。
シリアは高校進学率が96%と先ほど言いましたように教育熱心な国だったのですけれども、いま逃げている人たちの45%は教育から外れているという調査結果がユニセフから最近発表されました。それには理由がいろいろあって、国内で逃げ回っている人たちは、より安全な所を求めて逃げていくと人里離れていくので、学校がない。国外に逃げた人、たとえばヨルダンに逃げた場合、ヨルダンの学校教育は「シリア難民も受け入れます」となっているのですけれども、数がすごく増えてしまっているので、「受け入れます」という気持ちがあっても物理的に受け入れられなくなっています。ヨルダンの学校は朝から午後2時位までやっていて、その後シリア難民のために開校しますが、短い時間であったりして必要な授業がやりきれないし、受け入れられる人数も限られています。また、そんな長くいるとは思っていなかったので、自分の子供を転校させなかったという人もいます。ちょっと2・3カ月様子を見てすぐに帰国するつもりだったのが、1年たち2年たち3年たってしまった。そこで帰国をあきらめて子供を学校に入れようと思っても、ヨルダンの教育制度では3年間教育から離れた子供はそのままでは学校に入れないというルールがあって入れてもらえないのです。たとえば小学校3年生までシリアで学校に行っていた子が、ヨルダンで一日も学校に行っていないまま既に中学2年生の年になっているということが起きています。
シリアで紛争が終わって新しい国づくりをしていく時、それを担っていかなければいけない若い世代が教育を受けられていないことは大きな懸念です。こういった子供たちは「失われた世代」と呼ばれています。
国際社会の沈黙という障害
避難する人が直面する2つの壁があります。
ひとつは国境が封鎖されていることです。これまで本当にたくさんの難民を受け入れてきた周辺国が国境を閉じています。ヨルダンも今年の6月にシリアとの国境地帯でISによるとみられる爆破テロがあったため、国境を閉じました。先ほどお見せした待機している7万人から100人ずつヨルダンに受け入れていると言っても、砂漠に作られたキャンプに送られ、とりあえず雨露は凌げて、最低限の食べ物や生活用品はもらえる、程度の
支援しか受けていません。ヨルダンに言わせれば、「ヨルダンの予算を使ってこんなにシリアの支援をしているのに、国際社会はヨルダンを支援しない」となります。それも一理あります。
それがもうひとつの「国際社会の沈黙」という壁です。シリアの人たちがこんなにひどいことになっている、とにかく命が守られるようにと助けを求めているのだけれども、国際社会が目をつぶっている。「私たちは忘れられてしまうのではないか。このまま、だれからも目を向けられずに死んでいってしまうのではないか。そしてシリアは無くなってしまうのではないか」とあるシリア難民が悲観して話していました。
シリアへの爆撃が生む障害者の避難生活
とくに私たちJIM-NETは障害者支援の活動をしていますので、その点からお話しします。
爆撃の犠牲者がシリアにたくさんいます。これまで22万人以上の人が爆撃によって死亡し、100万人以上の人が大ケガを――手足を失ったり、脊椎損傷になって歩けなくなったり、全身大やけどを負ったり――しています。
いまだにシリア国内では510万人が、いつ爆撃に遭うか分からないという危険な状況にあります。というのは、爆撃されている土地の75%が住宅密集地だからです。たとえば今もっとも戦闘の激しいアレッポは、ダマスカスに次ぐ第二の都市です。そこに爆弾がボンボン落とされている。
ヨルダンのシリア難民のうち15人に一人が負傷者、そのうち3割以上の人が歩けない重度障害者になっています。いろんな国がいろんな武器を持ち込んでいますから、多種多様な兵器の犠牲になっていますが、特にシリア紛争で有名になったのが「たる爆弾」です。最近の兵器はピンポイント攻撃で一般市民には被害を出しませんというのが売りですが、たる爆弾は単にゴロンとヘリコプターから転がすだけの爆弾ですから、どこに命中するか誰にも分からない。落ちたら、爆発とともに中から金属片が飛び散って、そこらにいる人たちみんなが大ケガをするというものです。たる爆弾の被害にあった生後数カ月の赤ちゃんもヨルダンの病院に送られてきました。
今年6月より前は、シリアとヨルダンの間では、戦争の負傷者で命にかかわるようなケガをした人は、シリアからヨルダンに優先的に国境を越えられて、ヨルダンの中にある病院で治療をただで受けられるということになっていました。その病院というのは、「国境なき医師団」とかカリタスなどNGOや、カタールやサウジアラビア、ヨーロッパの国の支援を受けて、難民の治療をします。
命に関わるくらいの大ケガをしますと、治療を受けた後も、再手術や、術後のケア、リハビリ等が長期にわたって必要なので、そういった人たちはヨルダンのザアタリ難民キャンプというところに送られています。8万人の人がいる大きな難民キャンプです。
シリア人のコミュニティが強いと先にお話ししましたが、それを感じた一面があります。たいていはキャラバンと呼ばれるコンテナが一家に一台与えられるのですが、避難前に近所に住んでいた人を見つけてゴロゴロとコンテナを運んで行き、隣に置いてしまった人たちがいました。キャンプでも「ご近所さん」になったんです。でも、UNHCRの人たちからみれば、勝手に動かれては困るというので、その後はコンテナに杭を打って動かせなくしてしまいました。難民は好きなところにも住めないのです。
ヨルダンには、64万人くらいのシリア難民がいるのですが、そのうち8万人がこのザアタリ難民キャンプに住んでいます。それ以外のほとんどの人はキャンプの外にいます。「都市難民」と呼ばれます。エレベーターの無いアパートの高層階や地下に住んでいる人が多いです。階段しかないので、高層階ほど家賃が安く、難民の人たちは安い所に共同で暮らしたりしてお金を節約しながらすごしています。松葉づえをついているおじいさんのように足の悪い人でも階段を使わなければいけません。
障害者支援をヨルダンで、社会参加活動も
こういった人たちのための人道支援、生きるための支援として、食糧や住居、最低限の医療や、生きるための支援はUNHCRもしていますし、多くのNGOも入っています。
難民自体への支援以外に、ヨルダンのような受け入れ国への支援も必要です。ヨルダンはお金持ちの国ではなく、もともと厳しいなかで受け入れているので、支援していかないと共倒れになってしまう。トルコについてもそうです。しかし、その支援がもう足りない。必要なお金の半分しか国連にもない。今はUNHCR史上、最大の難民数なのです。生活が厳しくなると、児童労働、若年の結婚などが目立つようになります。これに対しては、ユニセフが大きな警鐘を発しています。
そのようななかで私たちNGOは、問題を発見して、力を奪われている彼らに代わって問題提起をして、とにかく問題解決をしていくよう活動する役割があります。
JIM-NETの活動を簡単に紹介します。
対象者は、大ケガをしてヨルダンに運ばれてきた人たちです。たとえば複雑骨折をして外側から器具をはめている人や車いすの人は、一般のバスに乗れません。その人たちを治療のために医療施設に送迎する車を走らせています。
それから、リハビリテーション支援。ザアタリ難民キャンプのなかにクリニックがあって、その付属リハビリテーションセンターに理学療法師を送っています。アパートに住んでいる人にもリハが必要な人がいますが、先ほど言ったように、高層に住んでいて車いすに乗っている重度の障害者たちは外に出られないので、こちらから訪ねて在宅リハビリを行っています。女性も文化的に外に出にくいというところがありますので、女性の在宅リハも行っています。
それから、障害者の社会参加活動。リハビリテーションして元気になっても行く場所がなければ、これまた豊かな生活にならないので、彼らが外に出るチャンスを作ります。どこか行きましょうと言ってもバリアフリーの行く場所が整っている状況ではないので、自分たちでその機会を作ります。障害者たちが集まって自分たちでやりたいことを自分たちで考えて、予算も含めて活動の計画をたて、他の人たちも巻き込んでいこうということで、男の人たちは夏の間バスケと卓球のスポーツクラブを毎週やっていました。女の人たちは計画中ですが、編み物を上手な人から習ってセータ等の洋服を編めるようになろうという活動がこれから始まります。
人道支援だけでは叶えられないシリア人の声、大本の戦争をやめる機運づくりが肝要
そういう支援活動のなかで聞こえてくるシリア人の声があります。いくら人道支援をしてもそれだけではだめですね、というのがよく分かります。
まずみんなが言うのは、とにかくシリアに帰りたい。障害者になったことよりも、難民になったことがつらい。
そして、将来の希望を持ちたい。学校に行きたい、仕事を持ちたいのだけれども、先が読めない。
それから「どうか、どうか私たちを忘れないで」という声もよく聞きます。
これらは私たちがとりあえずの支援している中だけでは叶えられない。
そこで私たちが一丸とならなければいけないことは、とにかく戦争をやめさせること。もう飢えさせない、戦争で殺させない、それがやらなければいけないことです。そこで、ほかのシリア難民のための活動をしているNGOの方とネットワークを組んで、日本政府や、今日もそうですけれども一般市民の方に呼び掛けて、なんとか和平の機運をつくり出したい。その活動が動き出しています。
何が恐怖を感じさせるのでしょうか
私たちはどんな社会に住みたいですか?
このシリアの人たちが難民となってわらわらしていることに目をつぶっている2つの壁をさらに高くしていくような社会をつくりたいのか、それとも、そうじゃない社会をつくっていきたいのかということに結局はなっていくと思います。
いまアメリカでは、もうすぐ大統領選です。一人の候補者のトランプさんは、オバマ大統領が難民20万人受け入れ計画を発表して――この9月までに1万人のシリア人を受け入れたところですけれども――シリア人を含む困難な状態にある人をいろいろな国から受け入れますと言っているのに対して、「私が大統領になったら20万人の難民は帰ってもらう」と言っています。こういう社会がいいか。
隣のカナダは、それまでの政権が受け入れに慎重だったのを変えて、多様性のある社会をつくろうとしています。難民だけではなく、LGBTの人たちとか、先住民とか、女性とかいろんなマイノリティの方々と幸せに暮らせる国をつくろうと明確に掲げています。シリア難民をたくさん受け入れていますが、これはトルドー大統領だけがやっているわけではなく、カナダの全州が受け入れに賛成しています。トルドー大統領は、「このことは、世界に心の開き方を示しているのだ」と話しています。そういう社会がいいのか。
じゃあ日本はどうですか。私たちはどういう社会をつくりたいですか。私たちは難民に冷たい社会ですけれども、それで本当にいいのですか、ということを考えていきたいと思います。こういう話をすると、「中東の人は、怖いですね」とか、「ISに狙われませんか」とまず反応されるのがふつうです。でも実際は、もちろん全然怖くない。私は、日本とヨルダンを行ったり来たりしていますが、そういう怖い思いはしていません。当然のことながら、現地でもテロがあればニュースになるくらい、テロリストでない人たちがマジョリティの国です。
彼らの何がそう恐怖を感じさせるのでしょうか、と考えていたら、いい言葉がありました。アメリカの思想家エマーソンが言っていた、「恐怖はつねに無知から生じる」ということです。
エマーソンによると、恐ろしいのはよく知らないからであり、恐怖を作り出しているのは自分の想像。また、「必要以上に恐れるのはよくない」ということも知らない、と指摘しています。こういうことを私たちは知らないから常に恐怖にさらされてしまうのだそうで、中東のことが当てはまるとすごく思いました。
私は中東に行き始めて2年ですが、知れば知るほどこの人たちの問題が身近になって、何とかしなければと思うようになっています。それによって恐怖からどんどん遠ざかるという体験を自分自身もしています。
――鶴木由美子さんの講演――
内海さんのお話しにありましたように今起こっている事を根本から解決するということも大事ですけれども、一方で、もう起きてしまっている問題を国として社会としてどうしていくのかということについて、日本の支援現場からお話ししたいと思います。
社会が障がいを取り除き、難民の力を活かす
私のプロフィール写真は、元難民の方で、その後プロのカメラマンになって成功された方がプロボノ――自分の職業の専門性を生かしてボランティアで非営利の活動を助ける――として、私たち難民支援協会の活動の写真を撮って助けてくれている一枚です。
何が言いたかったかというと、難民というと、何かできない人というマイナスイメージがあるかもしれませんが、一概にそうとは言えず、いろいろな障がいやバリアを取り払って、その人が活躍できるように少し補助することで活躍されていく方もいらっしゃいますので、そういう面のお話もしたいと思っています。
先ほど内海さんが障害者支援のお話をされていました。以前、日本の障がい者当事者団体のメッセージで、障がいは、人が持っているのではなく、社会側が持っているものであり、人が社会の障がいを乗り越えていくことに大変に困難があるという内容がありました。まさに難民問題もそうであり、すごく大変な問題ですが、社会側が障がいを減らし、乗り越えやすい環境を整えられれば、活躍できる方もいると思います。
大枠でいうと、難民とは紛争や人権侵害による迫害から国を逃れなければならなくなった人たちを言いますが、日本語の「難民」と言う言葉から連想して、○○ができない人、困難な人と言うイメージが持たれがちですが、そもそも英語のREFUGEは避難する、そしてREFUGEEは「避難民」という意味です。私は災害支援の活動にも携わっているため、国内の災害時に避難所などに行くと避難者があふれている状況があり「避難者」を身近なこととして捉えています。国内でも災害支援の現場を想像していただけたら、状況が理解できるのではと個人的に感じているところです。
いま支援が必要な人たちに、日本社会は何ができるのか
難民が生まれている状況については内海さんがお話しくださいましたが、画像や映像を少し見ていただきたいと思います。この写真は、こういった状況から難民としてボートで逃れてきたあるお父さんが上陸するために、片手に小さい子どもをかかえ、もう片方の肩にもう一人の子どもを乗せながら溺れさせないように何とか泳いでたどり着こうとしているところを切り取った写真です。また、この映像はシリアのホムスで今年、ドローンを使って撮影された状況です。
このような状況で逃げてきている人に対して、今は準備が整っていないから10年後に来てねと言っても、
10年後に手を差し伸べたとしても、それでは遅いですよね。支援が必要なのは今なのであり、私たちの社会として今どういったことができるか、地域の多様な立場の皆さんと考えています。
シリアだけではなく、いろいろな国から日本に難民が来ています。その背景は様々で、戦争以外も、民主化活動に参加したこと、改宗したこと、性的マイノリティ/LGBTであること――とくにアフリカの国では死刑になる国もまだまだありますので死刑から逃れて――等もあります。
世界に難民が6000万人以上いる時代ですが、昨年日本政府が難民として保護した方は27人しかいませんでした。ドイツなどの様子を見て、大変だ、こうならないよう何とかしなければという気持ちはよくわかるのですが、ドイツのように年間100万人を受け入れている国と、難民申請者が一年間で7000人台の日本とは状況が異なるので、日本は日本でできることを考えていく必要があると思います。
難民それぞれの背景
私たち難民支援協会(JAR)の活動について簡単にご紹介します。私たちは日本にいる難民が食べたり、寝たり、働いたりする、当たり前の生活を送れるよう支援しています。活動は三つの柱があります。ひとつは私がこれからお話する難民への直接の支援活動、もうひとつは先ほどお話した政策提言の動という部分、そしてもうひとつは認知啓発・広報の活動です。また、UNHCRとパートナーシップを組み、活動しています。
事務所のある1日をご紹介します。難民向けのフリーダイヤルを平日は毎日開設していまして、朝から事務所が閉じるまで相談の電話が鳴ります。専門の職員がひとつひとつの相談に対応しています。電話だけでは不十分な場合には、事務所に相談に来ていただくケースもあります。相談にいらっしゃる方は、単身で来ている方、母子、家族全員など様々です。
難民は皆、望んで日本に来ているかというと、必ずしもそういうわけではありません。カナダのようにスタートが切りやすい国に行きたくてもなかなかビザが発給されなかった、渡航できなかったであるとか、たまたまブローカーが手配したチケットが日本行きであったとか、いろいろな事情で、本人の意思と関係なく日本へたどり着くことになってしまった方もいらっしゃいます。
日本の地域社会で、難民が直面する困難
私が普段活動している地域社会の現状がどうなっているのかをご紹介していきたいと思います。地域社会にいる難民の方が直面する困難はたくさんあるのですが、いくつか紹介します。
まず一番大きいのは、日本のルールや文化、日本語が分からないという部分です。辿りついてしまってから、ゼロからどうやってその国のことを学んでいくか。とても難しい課題です。この部分と直接関係しますが、就労などの生活手段を見つけることも大変ハードルが高いです。
日本の教育機関などへのアクセスの問題もあります。さきほど内海さんのお話しからヨルダンの就学ルールを初めて知りましたけれども、日本の学校でも独特の仕組みがあり、4月始まりであるとか、いつまでに手続きをしないと入学できない、幼小中高の各年数も出身国や文化と違うといったことはよく起こります。
住居の問題もあります。快く住居を貸してくださる方もいる一方で、外国人住民に対する理解が進んでいない地域もあり、外国人お断りという不動産屋/大家もまだまだあり、住居探しは大変です。
医療へアクセスする際の問題もあります。病院は具合が悪ければどうしても行かなければいけないところですが、言語の問題や、来日初期は困窮している方が多いことから、医療費が払えないという問題もあります。
将来について日本での生活の見通しが立たないけれども故郷にも帰れる状況ではないという板挟みのなか、難民として保護されないかもしれない不安や、置かれたこの環境のなかでとにかくサバイバルしなければならないというプレッシャーのなかで日々難民は生活しています。
日本社会を難民も一緒に支えられるようなコミュニティ支援、行政・企業・住民・病院・学校とともに
私が取り組んでいるコミュニティ支援では、難民が地域社会の一員として生活できるよう、難民と地域の人と一緒に頭を悩ませ考えています。難民側と地域社会側の橋渡し役として相互理解を促進しながら、将来的には地域社会を難民ともに支えていくというビジョンを持って、地域の自助・共助の力をなるべくたくさん引き出せるよう取り組んでいます。
いくつか写真を見せしながら、実例も紹介したいと思います。これは在住外国人に関する制度が変わった時に、地域の公民館でおこなった難民向けの勉強会の様子です。制度などの変更があった場合には、地域社会で分かりやすく勉強会をすることもあります。
これは、地域で難民コミュニティーの母国のお祭りをやっている様子です。地域でのオープンな文化交流につながっています。顔が見える関係になるという意味もありますが、先ほど内海さんが話されたように、逃れる中でもともとあったコミュニティーがバラバラになった方々が、年に1回、母国カルチャーのお祭りをすることによって、お互い支え合ったり、もとのつながり、アイデンティティといいますか、コミュニティーのつながりを再確認したりする意味もあります。
これは、地域社会での日本語教室の様子です。日本語を勉強するという意味だけではなく、こういった地域の日本語教室には地域の外国人住民と交流したいという人が集まっているので、難民が地域に一歩踏み出すという意味ではとても良い環境です。また、重要な地域の生活情報の獲得の場にもなっており、文化的に豚肉を食べられない方が、ラム肉を買うにはどこで買えばよいか聞いて、日本語を教えている地域のお母さんが業務用のあの店で安く売っているよと教えてくれるなどしています。
これは、自治体の職員さんや、地域の難民の方・外国人住民の方、日本人住民と、一緒に地域の「まち歩き」をしている様子です。お互い顔の見える関係になるというのも目的の一つですが、歩きながら役所や学校、避難所など地域のいろいろな資源を知る場にもなっています。また自治体の職員さんにも一緒に参加していただくことによって、分かりにくい表示など外国人住民にとって暮らしにくい点を再発見していただけるようにしています。
これは地域の総合病院での取り組みの様子です。難民の方が医療機関に突然来られてもなかなか対応できないという課題があり、地域の医療機関と一緒にどうやったら対応できるかを考えて開発した医療支援キットです。これは、診察の時に難民と医療機関の方がお互い指で差しながらコミュニケーションを図れるよう、医療現場での会話を2つの言語で並べているもので、片方はその地域に住んでいる難民の方が多い言語で、もう片方は日本語で表示しています。この取り組みは完成したキット自体も大切なのですが、それよりもこの課題に対し地域で一緒に考え取り組んでもらっていること自体が大事です。課題に対して、このキットを作っている過程で、どうやったら対応できるかを一緒に色々考えていただいている間に、地域の対応力が育ち、ほとんど本質的な問題は解決しているともいえます。
東日本大震災が起きたときに、何人かの難民がJARに連絡をくださって、故郷を逃れなければならなかった方の気持ちが自分たちには良くわかるので被災地の支援がしたいというお話でした。難民は助けられる側の人という認識が私たち支援者側でさえも持ってしまっていて、その方が活躍できるということを思い描きにくいますが「彼らは難民となる前の生活があって、十分に活躍できる方だったんだ」と意識することが大切であると思いました。私たちとして難民を受け入れるという時に、大変な人を助けてあげるというだけではなくて、彼らに共に社会を支える上でどうやって活躍していただければいいのかということも一緒に考えていかなければいけないと実感しています。
参加者)日本で難民申請して待っている1万人以上の方は、どういう環境で生活されているのでしょうか。
鶴木さん)重要な所を指摘いただきありがとうございます。ケースバイケースでバラエティに富んでいます。残念ながら収容されてしまった方もいらっしゃいますし、ホームレス状態で暮らしている方や、友人の家などに泊まっている方、私たちのような支援団体を通じてシェルターなどに入っている方もいらっしゃいます。難民申請中でも就労が許可されている方は、就労して稼ぎながら自分で住居を借りて住んでいらっしゃる場合もあります。
大河内)私は30年以上前に、インドシナ難民の支援に関わって、NGOの世界に入りましたが、難民をめぐる問題はあまり変わっていないなと感じました。
東日本大震災の津波で、山の上など高いところにあるお寺に避難しようとされた方々がたくさんいた時に、もちろんたくさん受け入れて避難所になったお寺もあったのですが、受け入れを断ったお寺もありました。そうすると、後々、そのお寺は地域社会でとても悪い立場になったという報告を受けています。寺の住職でもある私が感じた卑近な例ですが、いまの日本も国際社会でそうなってしまうのではないかなと思う次第です。
――会場とゲストとの対話から――
~グループ対話にゲストも参加いただきました。
それから参加者から会場のみなさんに自由に発表いただき、
ゲストにコメントいただきました~
自分たちの共生能力に気づきましょう
参加者) 1970年代から80年代に日本も非常に多くのインドシナ難民が来て、それをどう受け入れるかというところでいろいろな議論があって、その後ミャンマー難民もあり、そしてシリア難民。歴史的に日本もいろんな難民問題に関わってきたはずなのですけれども、今あらためて難民支援協会として歴史性のなかでどういう見方をされているのか、結局、過去の経験は日本社会のなかで活かされていないのかなど、お聞きしたいです。
鶴木さん) 日本も難民受け入れの歴史は長くて実績もあるのですが、なかなか社会が認識していない部分があります。現在、日本で難民支援が受け入れの部分で問題が表面化してきているなと思う原因のひとつは、これまでのインドシナ難民やミャンマー難民の方は隣にいても日本人なのかどうか分からないくらい似ている方が多いですが、様々な世界情勢のなかで、アフリカや中東からの難民など見てすぐにわかる外国人や難民が来日している状況は、視覚的にも「居る」ことが分かり心理的に違う部分がたぶんあるでしょう。これまで受け入れて共生もしているので、実際には受け入れについて潜在的な力があるものの、自分たちが気づいていない部分も大きいと思います。本来持っている日本社会の能力に気づけると良いと思います。
内海さん) 若い世代には期待できるかなと思います。接する外国人の数で比べたら、私の世代が幼かった当時より今の若い子たちのほうがずっと多いですし、街なかで見かけている外国人の数も、クラスに外国にルーツのある人たちがいるという環境も昔にくらべたら多いと思いますので、外国人が一緒にいることに違和感がないかもしれません。
ただ、上の世代、そう外国人になじむ機会が少なかった人たちには、「知らない外国人は怖い。なんだかわからないけど嫌」という感覚があるのかなと思います。また、選挙で選ばれている人たちの政策が本当にこれでいいのかということへの関心が低いのではないかなと感じています。
助け合いのイスラム社会が生む優しさ
大河内) 私もずっとパレスチナ難民を通じてアラブ社会の人たちと関わってきて思うことは、イスラム社会は困っている人たちを助けるのが当たり前だったということです。
今から20年近く前のこと、死ぬ前にいちど相撲を見たいというパレスチナ難民の女性がいました。一緒に国技館に相撲を見に行って両国橋を渡る時に隅田川沿いにたくさんのビニルシートのハウスが並んでいるのを見て、彼女が「あれは何だ」と言うので「いわゆるホームレスの人たちだ」と答えたら、「日本にそんな人たちがいるのか」とびっくりしていました。
私は彼女のその次の言葉に驚いたのですが、「私たちに何かできることはないか」とおっしゃったのです。
いろいろ話してみると、彼女彼らにしてみれば、とても自然なことで、自分たちの周りに困っている人たちがそんな状態でいるのであれば、そのコミュニティーあるいは近くにいる自分たちの責任であり、自分たちを許せないというのが当たり前なのです。
日本のなかでは、ボランティアや人助けはどちらかというと奇特な人がやることで、基本的にはお上がやること、あるいは、そういうことになっている人の自己責任、自業自得だというような、一人ひとりの社会との関わり合い方が希薄な気がします。
そのへんで、内海さんが感じられることはないでしょうか。
内海さん) イスラム教で守らなければいけない事――ラマダンの断食などが有名ですが――のなかに、困っている人を助けるというのが入っています。「困っている人がいたら絶対助けるんです」という人がイスラム教の人にしっかり根付いています。アラブの人が言うには、「1400年以上守っていることだから、助けるのが普通。たとえ問題が自業自得だったとしても、困っていたら助ける。そうやって助ければ、自分に何かあっても助けてもらえる」と。ある意味リスクマネジメントになっていて、そういうふうには考えていないでしょうけれど、助け合いの社会なのです。
家族もとても助け合うということを感じます。子供の数が多くて家族自体が日本より人数が多いのですが、それに加えておじさんおばさんの家族や妹や弟の家族も含めて「大家族の絆」みたいなものを感じます。それなりに絆社会の厳しさもある一方、そのつながりがとても強くて、そこから生まれる余裕がやさしさになっているように思います。日本では「自分ひとりで何とかしなくちゃ」という感覚があると思うのですが、そんなことは思わなくても大丈夫という感じです。
私も向こうに行くととても助けられています。買い物したいけどお店がわからない、とかアラビア語が不安とか言うと、仕事の後で疲れていてもすぐに連れて行ってくれます。私が頼んでいるのにタクシー代を出してくれようとしたり。こういうのが普通の人たちです。
大河内) 私もそう感じています。とくにガザ地区で、昔から占領下で何にも無くて、仕事がある人が少ない位のなかでも、だれもホームレスになっていない。私にも一生懸命いろいろな物を出してくれようとする。そういう助け合いのメンタリティが根付いていると感じています。
しかし日本でも田舎に行くと似たような事があって、単に宗教や文化だけによるものではないだろうということを感じます。鶴木さん、今のお話で何かあればお願いします。
Win-Winの可能性を探る、日本社会の問題と包括的に取り組む
鶴木さん) もちろん人助けという感覚が自然に出てくるかという点はありますが、いっぽうで、人助けだけを打ち出すと、社会のみなさんからの共感を得にくい部分もあるのかなとも感じています。もしかすると私ぐらいの年代の方の考え方なのかもしれないので、少し寂しい気もしますが。
難民問題を人助けだけでなく、なるべくWin-Winの問題として考えられないかとよく考えています。残念ながら難民の方は短期で帰られる方々ではない。本当は短期で帰れるのがいいのですが、なかなかそういうわけにはいかず、平和になるまでに時間がかかり、なかには帰れる前に生涯を閉じられる方もいらっしゃる。そういう方の状況を日本国内で労働人口が減っている問題と結び付けて考えられないか、あるいは難民の子ども、2世の状況を少子化や将来の納税者が少なくなる問題とつなげられないか考えていけたらよいなと思います。
もちろん人助けは一番に来るはずだと思いますが、そういうWin-Winになる部分をどうやって探していくかというのも重要になるのかなと個人的には思っています。
大河内) ソーシャル・ジャスティス基金の事業は、基本的にはアドボカシー・政策提言活動を支援しています。それは、活動の起点は人助けや人への想いから始まるのが多いとは思うのですが、それを今の社会の到達点、世界における思想の到達点、「人権」や「平和」や「環境」などさまざまな分野において、持続できるよう制度化していく活動。社会全体の底を上げしていく、一つの理念を形にしていくような活動を、私たちはささやかながら広げていき支援しています。
先ほどコミュニティーというお話しが出ましたが、実際に、難民だけでなく在日外国人なども含めて、日本のコミュニティーがうまく回るような政策として取り組んで成果を上げている、外国の方も日本の方もポジティブにWin-Winになっていくような例があれば紹介してください。
鶴木さん) 地域でWin-Winを探しながら取り組んでいる事例としては、中小企業や町工場が集まっている地域が、少子化の問題もあり技術を継ぐ若手の職員さんがいない問題に直面しており、人材採用と育成について考えています。職人が少なくなっていくなかで、せっかくこれまで築き上げてきた技術をここで閉ざしたくないし、また平和になって母国に帰るとしても日本発の技術を海外に展開されればそれはそれで喜ばしいのではないかなどと、どのような取り組みができるか考えています。
私たちが意図しない効果の例もあります。実際に地域の企業で受け入れてくださったのですが、受け入れるにあたって日本語がわからないので、絵や図で分かりやすいマニュアルが、その現場で初めてできたということもありました。それまでは、背中を見て覚えるという職人さんの世界で、若い人のなり手がいなくなっていたのが、そのマニュアルができたことで初めて、新しい若い人たちにも分かりやすく伝えられるのではないか、という気づきがあったとのことで、私たちにとっても勉強になりました。
参加者)日本も、北朝鮮の難民を受け入れていくようになっていくのでしょうか。
鶴木さん) 専門性が無くお答えできない部分もありますが、近いところでお答えします。
じっさいには北朝鮮から来ている難民の方もいらっしゃいます。ただ、日本に在住している朝鮮系や韓国系の方々、また支援団体もあり、私たち以外にも支援してくださる存在があるので、私たちの事務所にはなかなかいらっしゃらないのが現実です。先ほどアフリカ系の難民のお話しをしましたが、私たちの事務所に来る方は頼る所が他にない方が多いので、アフリカ系の難民の方が多いです。
また、今後なにか情勢が変わって、一気に難民が来るということもあり得ると思います。その時に初めて難民の制度や政策を整えるというので果たして間に合うのか、ということも気になっています。ドイツには年間100万人以上来ているなか、日本での難民申請者はまだ年間7000人台という状況なので、むしろ今が体制を整える最後の好機かなとも思っています。
大河内) 難民というのはある意味とても高度な政治的な問題です。以前、ベトナムから来た人はボートピープルといって難民として扱われたのですが、中国から来た難民は経済難民と呼んで偽装難民という扱いだった。じっさいに中国の体制が崩壊して本気で難民が大量に日本に押し寄せたら大変なことになるということが圧力になって、日本からの経済協力の発展があったという側面もあります。
じつは難民問題というのは、来た人にどう対応していくのかだけではなく、政治的にどう扱っていくのか、どういう理屈のもとに切り分けていくのかということに、一人ひとりがとても翻弄されていく問題なのだなと、難民に関わってきて思います。ある意味、限界もありますし、それをどうやって乗り越えていくかという問題も今後あると思っています。そういう様々なレベルで難民問題というのは考えていかなければいけないことだなと思います。
~もう一度グループ対話をゲストと深め、各グループから一言いただきました~
(参加者)「お話をお聞きして、この問題を自分事としてとらえていくことが大切だなと感じました。報道されるのは一部だなと思ったのですが、その一部の報道でもいちおう目を通して大変なんだなという状況をわかっている人はいて、何とかしなければという思いはあったとしても、外で誰かが何かをしないことに憤りを感じてしまいがちです。そうではなくて、『私たちが何をできるか』を考えていかなければと自分自身とても考えされられました。」
「若者にどう期待するか、みたいな話しになりました。その前に、若者はインドシナ難民のことも知らずにいるので、歴史を知ることができているのかという話がありました。そこで、若者とどうつながっていくのかという話になりました。若者も大きく二つ分かれているのではないか。自分から率先して元気に動いていく若者と、都会のなかでどう動いてよいか分からない若者との二つに。でも、その元気に地域のなかでどう生きていくかと自分たちの生き方を考えている若者は、どんどん自分たちのアイディアで社会を動かす力になっていくので、そういった形で若者に期待できるのではないかという話をしていました。」
「ここに関心のある人達が集まっているはずですが、私も含めて知らないことがあるなと思いました。それぞれお互い持っている知識が違うので、それを上手くつなげたらいいのではないかと思います。手助けをしたいと思った時に、それをつなげる所がないとか、知っている人がいないとか、そういう問題があるのではないかなと思いました。」
「グループに加わってくれた内海さんからの、中東からこちらに帰ってくると荷物が急に重くなるというお話しが印象的でした。ちょっとした手助けが苦手な日本人。そういうことと難民、お金は出すけれども受け入れはできない、ということと無関係ではないかもしれないと思いました。
私は教員をやっていて学生に話していますが、日本人は親切心や優しさが及ぶ範囲が厳密に限定されていて、そこを取っ払うことが非常に難しいようです。取っ払うきっかけがあればできることが、なかなかできないでいるという気がしています。やはりお金だけ出しているということでいいのかな、というのは個人的に常々感じていました。
鶴木さんにグループに来ていただいた時には、民間企業などの現場で変わってきているところが増えてきていると伺いましたので、政府や社会全般というレベルでは20年・30年たってもあまり変わっていないと悲観的になってしまうかもしれませんが、企業さんで変わってきているところから、日本人の優しさや親切心が及ぶところを広げていくきっかけになればなと思いました。もちろん難民という立場にならなければいけない人が一人もいなくなることが一番重要なのですが、そういう人がいるのであれば、どうぞ日本へ来てくださいとなればよいと思います」
「この問題をよく知らないよね、ということをよく話しました。関心は持っているけれども、じっさいに何が起こっていて、なんでこんなに日本に入ってきている難民の人は多いのに認められている人は少ないのかとか、その人たちがどういう生活をしていてどういうふうに困っているのかとかよく知らないので、さきほど『自分事としてとらえる』というお話しがありましたが、自分事としてとらえるのが難しかったりするのかなと思いました。
『何が恐怖なのでしょう』という内海さんのお話しのなかで、無知から生じるとありました。よく知らないということが、多様性を受け入れる障害になってくるのかなと思いました。一回行ってみたいよね、さきほどの中小企業が集まっているところでの難民受け入れの成功事例の場に、行ってみたいという発言がありました。
我々ができる事は、正しいことを知り、正しいことを伝えていく事なのかなと思いますので、今日のお話をうかがって、そういうことを広めていければなと思います。」
「難民や他国から来られた方は、衣食住が整う以前に基盤となるものとして、教養とか文化的なことをまず大事にされていることを、じっさいに現場で見られたというお話をゲストにグループでうかがったのが印象的でした。
難民の問題について現場で活動されるときに、社会全体を包括して考えるとか、ソーシャル・インクルージョンの部分は、福祉の現場でなされてきたことと共通する点があるなと前から考えていました。難民の問題だけを一つ取り上げて考えるのではなくて、それと同時にある、日本が前から持っている問題と包括的に考えられたらいいなと、僕自身がそういう視点を持ちたいなと今日は考えされられました。」
~最後にゲストから一言ずつ~
共通項を見出すことから始まる和平
内海さん) みなさんのお話しをきいて、言いたいことがたくさんあるのですが、3つだけ。
まず一つ、日本の福祉の経験が生きているのではないですかという質問ですが、まさに経験しているところです。ヨルダンで障害者の社会参加活動をやっているとお話ししましたが、最初の呼びかけに来てくれたシリア人は1人でした。それでどうしようかと考えたのですが、シリア難民とだけ話し合って何かやろうと思ってもいろいろわからないことが多い。そこで、経験豊富なヨルダン人の障害者に聞いてみようと相談してみたら、その後シリア人とヨルダン人の障害者の活動が一気に動き出したのです。障害者のことは障害者に聞け、というのは私が日本で障害者からさんざん学んできたことなのですが、あちらでもそうでした。「障害」という共通項で、ヨルダン人とシリア人の垣根がストンと無くなって、すごく上手くいっています。
二つ目、自分でできること、なにか身近なこととして考えようという話で、一つの例を思い出しました。
ガザとイスラエルの交流をしようとしている女性の団体がやったことです。「Slimming for Peace」というプログラムで、「女性の共通の課題はダイエット」ということに着目して、「どうやって健康的なダイエットをするか」というプログラムにパレスチナの女性とイスラエルの女性を集めたそうです。最初パレスチナ人とイスラエル人はお互いに偏見丸出しでぜんぜんダメだったそうですが、何度もセッションで会ううちに「ダイエット」を切り口に対話も生まれ、終わる時には「この人たちと会えなくなると思うと寂しい」というところまで行った、という成功例があります。
共通項がうまく見つかれば、たとえば趣味がある人だったらスポーツとか何か一緒にするグループづくりとかしていければ入りやすいかなと思います。
最後ですが、シリア和平は、本当に切実です。私たちNGOで「シリア和平ネットワーク」をつくって、本当に戦争をやめさせようと思っています。馬鹿みたいな話に聞こえるかもしれませんが、でも過去には、「馬鹿みたいな」話を実現させた人たちもたくさんいるのであきらめず、これから、メディア等にも熱心に呼びかけていきたいと思っています。みなさんも覚えておいてください。
鶴木さん) 今日は、あるグループでお話ししたとき、話がポジティブだったね、と言われました。それを言われて思い出したのですが、実は以前まで、私は支援の現場のお話しをする際に、あれが大変これが大変、とできない話ばかりしていたのですが、参加者に「大変なことや、できないことは分かったけれど、ではどうしたら良いの?」と言われて「あ、そうだな」と思いました。それ以来は、大変、できないとばかり言うのではなく、「とはいえ、これができるのではないか」であるとか「Win-Winでこういう可能性を目指せるのではないか」となるべく私たちがこの後できる可能性について、お話しするように心がけています。みなさんと「じゃあ何ができるか」を一緒に考えていきたいと思っています。
いま私は30代となり日本社会を支えていかなくてはいけない世代の一人だと思っているのですが、これからの日本を考えた時に、日本が変化に弱い国であるのは困るなとシンプルに思っています。グローバル化のなかで、若い世代から変化に強い日本にしていきたいな、とあらためて感じています。
大河内) 今日のいろいろなお話をつなぎ合わせていきながら、一人ひとりの他人事ではなく自分事、すごく大きな自分事も世界に生きる一人としてあるということに、だんだんと意識を向けて行ければいいなと思いました。
●今後の企画ご案内
『ソーシャル・ジャスティス基金 助成発表フォーラム第5回』
【パネリスト】公益社団法人 子ども情報研究センター 奥村仁美さん
NPO法人 わかもののまち静岡 土肥潤也さん
NPO法人 メコン・ウォッチ 木口由香さん
【日時】17年1月13日(金) 18:30~21:00
【会場】新宿区・四谷地域センター
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