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ソーシャル・ジャスティス基金(SJF)アドボカシーカフェ第98回開催報告

 

ヘイト&ホープ:演劇の可能性を開く

異なる背景を持つ他者とのコミュニケーションへ

      

 2026年9月5日、ソーシャル・ジャスティス基金(SJF)は、升味加耀さんと川村瑞樹さん(演劇ユニット「果てとチーク」の共同主宰)、松岡宗嗣さん(一般社団法人fair代表理事/ライター)、中島梓織さん(劇作家・演出家・俳優/演劇団体「いいへんじ」主宰)を迎えてSJFアドボカシーカフェを開催しました。

 

 抑圧される構造を変えようとする考えに至る道筋を、演劇はどうやって作ることができるのかと升味加耀さんは問いかけました。心動かされる物語を、その背景にある社会構造に対する問題意識につなげられるよう、物語を読み解くリテラシーが必要だと松岡宗嗣さん。自分には関係ないと切り離されないフィクション、問題の構造に考えが及ぶように立ち止まれるフィクションを模索していると中島梓織さんと川村瑞樹さんは語りました。

 マイノリティの話をマジョリティに分かりやすく伝えるときに落とされることが多いと感じてきたため、難しいことを難しいままに分かりやすく伝えるように意識していると松岡さんは言います。それは、どんな地域でも少なくとも生きられる社会環境にするためには法整備が必要で、それをサポートしたいと情報発信をする中で感じたことだそうです。

 分かりあえなさとどう向き合うのか。SNSで再生回数が伸びるような対立型・論破型の言葉は、互いの理解を邪魔しています。白黒はっきりつけられない構造の問題について議論を深めるにはSNSは不向きだと松岡さんは指摘します。加害者的側面も被害者的側面も、マジョリティ性もマイノリティ性もみんな持っているという認識の上に立って演劇を作り、演劇を介した対話の場を作っていきたいと升味さんは言います。

 そうした演劇を観て、自分が責められていると感じて防衛反応が出ている相手とどう対話を重ねていけるかと升味さんはさらに問いかけました。批判的反応をどれぐらい想定して作品を出しているのか、創造や挑戦を制限する可能性とのバランスもあるという問題を松岡さんは提示しました。差別的な言動をあえて作品中に使うことで「ん?」と思って対話するきっかけになればと中島さん。「対話」は、まずは「聴く力」ではないかと川村さん。話がまとまらなくても、途中で分からなくなっても、意見が変わってもいい場で、相手の話を聴きながら対話の練習をしていければと。

 対話の場は、傷つくことも発生しうるという前提で、その傷つきもフォローできるよう有機的な環境を整えていくのが大切だと松岡さんは説明し、別のマイノリティ性を持つ人と対話をする時に、自分がまだ不勉強で、どういう言い方をしたらよいかわからないから、傷つけてしまうかもしれないからと止めたくないと強調しました。お互い、間違ったことを言いうる・傷つけうる・傷つけられうるといった不安や恐怖心を持っているけれど、対話の場を重ねて、いつの間にかうれしい気持ちに誰かがなっていたらいいと中島さんは語りました。

「共にすごす長い時間」が分かり合いにつながる一つの鍵ではないかと、参加者が紹介した言葉が共感を呼びました。

 

 詳しくは以下をご覧ください。 ※コーディネーターは宮下萌さん(SJF審査委員/弁護士)。


 

 

 

 

 

 


(写真=上左から時計回りで、中島梓織さん、松岡宗嗣さん、宮下萌さん、升味加耀さん、川村瑞樹さん)

 

 

目次

——升味加耀さんの導入話——

 皆さんこんにちは。お集まりいただいて、ありがとうございます。

 我々は普段、都内で演劇活動をしております。それらの劇場で上演する作品から、対話の機会や、社会で問題になっている構造などを考えてもらう機会をお客さんに作れないかと考えながら活動をしています。

 直近の作品に『きみはともだち』という作品があり、その一分弱ぐらいのダイジェスト版があるので、それを使って活動の紹介をさせていただきます。

(※ここで、升味加耀さん作・演出:『きみはともだち』ダイジェスト版が放映されました)

 

抑圧的な構造を変えていこうという考えに至る道筋を演劇はどうやって作ることができるのか

 というように、基本的には会話劇をやっています。小劇場で、50人ぐらいから100人ぐらいまでの劇場で活動していることが多いです。

 この『きみはどもだち』という作品は、私自身がノンバイナリーというジェンダー・アイデンティティを持っているのですけれども、トランス女性とその恋人関係にあるノンバイナリーの登場人物が出てきます。

 みなさん普段はたぶん、「ノンバイナリー」という言葉は聞き慣れなかったり、トランス女性は身近にいないと感じていたりするかもしれません。けれど、実際には言えないだけで、きっといると思います。

 では、「なぜ、言えないという抑圧が存在するのか」という構造の問題を考えていくことに、見ている人それぞれの中でつながっていくといいなと思いながら、この話を書いて上演をしていました。

 その公演の場で、「わかりあえなさを囲む会」という対話の会も開催しています。お客さん同士が作品を通して、この作品を見てどんな問いが浮かんだか、どんなふうに考えたかというのを、正解とか作品の解釈とかを問うのではなくて、「その作品を通じてどういうことを考えたか、みんなで交換してみよう」という会です。そこに毎回20人ほどお客様が参加してくださって、大変豊かな時間だなと思いながら見ていました。

 わかりあえないということがコミュニケーションの前提になりますし、私たちが上演している作品に対して様々な反応があがることも当然想定されます。これは劇場という場の健やかさだとも思うのですが、あるシーンを見てわかる人・わからない人、笑う人・泣いてしまう人などいろいろなお客さんがいる。それを見ることで、なぜその反応になるのだろう、社会の中でどういう経験をしたら、あるいはどういう立場にいたらこういうふうに変化するのだろうと考えたりする機会になればと思っています。

 普段は私も含めて多くの人たちが見過ごしてしまうこと、「なんか今すごいこと言われたな」と思ったけど社会生活の中でなんとなくスルーしてしまう瞬間、おかしいと思いながらも仕方がないと諦めているようなことでも、演劇はよくも悪くもダイレクトに、生身の人間が発してくるエネルギーによって「やっぱりこれはおかしかった」「そこに自分/他者の痛みがある」と可視化される。原始的ですが、そのパワーの強さが演劇ならではだと思っています。

 皆さんそれぞれ、社会の見え方は異なると思いますが、この上演時のパワーを受け取ったお客様が、劇場の外でも、その事について考え、動き出すにはどうしたらいいのか。この抑圧的な構造を変えていく小さな主体になっていくための道筋を、演劇はどうやって作ることができるのかと最近は考えております。

 

 

 

 

 

 今回のアドボカシーカフェではそういったことをお話しできるといいなと思っております。また、演劇という枠ではなくても、皆さんそれぞれのフェーズで社会正義を目指していくためにやっていることがあると思いますし、我々はすごく小さなところから始めていますけれども、それもまた一つのフェーズではあると思うので、いろいろな視点からお話しできればなと思っております。

 

宮下萌さん) はい、ありがとうございます。 演劇が持つ力は本当に素晴らしいなと、すごいパワーだなと思っております。他の手段ではなかなか伝えられないことでも、演劇で社会正義にどうやってつながるかということを本日お話しできればと思います。

 それでは、皆様に、生の作品を今日ご覧いただくということで、中島梓織さんによるオリジナル公演作品のショート動画を上映したいと思います。それでは中島さん、お願いいたします。

 

 

—中島梓織さん作・演出:『われわれなりのロマンティック』ダイジェスト版放映—

中島梓織さん) 皆さんこんにちは。「いいへんじ」という劇団を主宰しております。

 果てとチークには、ここ数年「外から眺める人」として参加させていただいていて、升味加耀さんと川村瑞樹さん、公演に参加されるみなさんのおしゃべり相手という感じで関わらせていただいています。『われわれなりのロマンティック』という作品は、川村さんにも昨年、出演していただきました。2時間分ぐらいある作品ですが、17分にまとめたものをご覧いただければと思います。

 

 

 

 

 

(※ここで『われわれなりのロマンティック』ダイジェスト版が放映されました)

 

——川村瑞樹さんと中島梓織さんのクロストーク——

 

中島梓織さん) ちょうど 1年前ですよね、上演したのが。

川村瑞樹さん) 1年前ですね。

同じく名付けられたアイデンティティでもグラデーションがあることを前提に対話していく

中島さん) 作品のテーマは、フェミニズムと、クワロマンティック(友情と恋愛感情の区別ができない・しない・したくないという恋愛的指向)を中心にして、さまざまなパートナーシップの形を描くことでした。

 このダイジェスト版には、主にどのようなトピックが扱われていたのかを 17 分間に詰め込んでしまったのですが、実際は、本当に長い時間をかけて、それぞれ自分の気持ちを言葉にしたり、相手が言っていることを聴いて自分との違いに葛藤したりしています。対話を通じて、自分のセクシュアリティや、どのようなパートナーシップを望んでいるか、女性差別的・家父長制的な価値観の中でどのように生きていくかといったトピックを詰め込んだ作品でした。

 川村さん、 1年ぶりに見てみてどうでしたか。

 

川村さん) 懐かしい気持ちと、でも昨日のことのような気持ちもあって、不思議な感覚で、ちょっと泣きそうになりながら映像を見ていました。

 おっしゃったように、いろんなことをたくさん話していく時間でした。だからこそ、見ていただいた方からの観劇後の感想で、どこが自分にとって近く感じることか、逆に、どこは自分が今まで考えてこなかったことなのか等、作中で語られる様々な事から、自分が今どこの立場で何を考えているのかを改めて考えたという内容のこともいただきました。

 

中島さん) そうですね。川村さんが演じた役、「明里」は、フェミニズム研究会の幹事長の役でした。主人公の「茉莉」や「蒼」はそのフェミニズム研究会で出会うのですが、そこでは、8つの「哲学対話のルール」を共有した上で対話をしていきました。大学生の頃は、時間もあったし、余裕もあったし、自分の気持ちを言葉にすること、相手の言葉を聴くことを大切にできて、未来に希望を抱いていた。それから社会に出たところ、現実には、差別や偏見があって、パートナーとの対話がもう上手くいかなくなっていく。後半は、そのような現実にどう向き合っていくかがテーマになっていました。最後は、主人公の「茉莉」も哲学対話を主催する側になって、大学時代と同じルールをみんなと共有します。

 「いいへんじ」としては、それぞれに見えている景色が異なることを前提とした上で、少しでも社会がマシになることを願って、これからも対話を続けていきたいと考えています。それは、果てとチークのお二人と話していて、影響を受けていることでもあり、お互いに励まし合っているので、この作品に川村さんが出てくれて、とても心強かったです。

川村さん) タイトルに「われわれなりの」とついている意味が話の中でもすごく感じられました。名前があることに救われる時もあるけれども、同じ名前のアイデンティティやセクシュアリティでもグラデーションがあることが作品の中にしっかりと描かれています。我々一人ひとりが個人として存在していることを改めて考え直していこう、というところが作品に描かれていることに、私も救われて力をもらっていました。


 

 

 

 

宮下萌さん) お二方ともありがとうございます。後でパネル対話もありますので、積もる話もあると思いますが、また後ほどよろしくお願いいたします。

 それでは続きまして、松岡宗嗣さんどうぞよろしくお願いします。

 

 

——松岡宗嗣さんのお話:「『発信』における意識と課題」——

 私は演劇に直接携わっている人間ではないのですが、果てとチークさんに『きみはともだち』の6月のアフタートークで呼んでいただいたのがきっかけで、今日も呼んでいただいたのかなと思います。

 私は普段、性的マイノリティやジェンダー、セクシュアリティに関する情報発信を活動としてやっています。その中でどういうことを意識しているかとか、課題と葛藤しながらやっていることをお話しできればと思います。

 簡単に自己紹介します。2018年に設立した「fair」という団体は、ジェンダーやセクシュアリティに関する情報をメインで発信しています。Yahoo!ニュースや GQなどで、主に政策や法制度を中心に記事や動画で発信をすることが多いです。どちらかというと、社会制度や政治の硬い話を伝えることが多く、国会で参考人として答弁したこともありました。本もいくつか(『LGBTとハラスメント』、『多様な性を生きる』など)出しています。

 演劇に近いところですと、性的マイノリティを描く映画やドラマなどの監修をやらせていただくことも最近は増えていますが、脚本などの中身の監修というよりは、出来上がった作品の宣伝の監修で携わることが多いです。物語をどう届けていくかのところで、適切ではない言葉を使って批判を受けてしまったり、考えていること自体はそんなに悪くないけれども、その言い回しでは違う伝わり方をして批判を受けてしまったりすることが多々あるので、そこを防ぐ目的で監修に入ることがあります。

 

どんな地域でも少なくとも生きられる社会環境にするために法整備をサポートする情報発信

 私自身がゲイの当事者で、カミングアウトするようになったのは大学生ぐらいからですが、高校時代までセクシュアリティについては完全に隠してきたというよりは、自分で少しネタにしながらサバイブしてきたタイプの人間でした。それは多分、世の中の雰囲気的に――もちろん自分の前世代の人たちがいろいろ、特にシスジェンダーのゲイに関しては、道を切り開いてきてくれた感じもあり――、笑いにするか・隠すかという二択のどちらかで生き残るという感覚があって、自分の場合は少し笑いにしながら生き残るという感じだったと思います。

 幸いにも、私はカミングアウトしてもそんなに否定的な反応を受けずに生きてこられましたが、大学に入ってから同じゲイの友人やいろんなセクシュアリティの友達ができる中で、自分の周りのほとんどの人は周りに言ってないし、家から追い出された経験があるとか、友達を失った経験があるとか、そういうのがびっくりするぐらいバンバン出てくる状況で、何が起こっているのだろうと思いました。自分と同じような当事者たちで、同じような地域に生まれて、同じような年代のはずなのに、なんでこんなに経験が違うのだろう、というところが問題意識の出発点です。

 最初は大学の LGBTQ のサークルを探していろいろ話をしてみて、それがきっかけで NPO に出会って、学生ボランティアとして学校・企業・自治体でお話をするようになったのです。それは10年少し前ぐらいですけど、当時 「LGBT って、どんなイメージ持ちますか?」と聞くと大体「マツコデラックスさん」と答えられるような状況で、「『LGBT』って言葉、どれぐらい知っていますか?」と聞くと1割も手が上がらないぐらいの時代状況だったと思います。なので、私みたいな人がゲイの当事者だと話すと、「こんな“ふつう”の人がゲイなんだ」と結構驚かれるような状況だったと思います。

 もちろん活動の意義は感じていて、そういうふうに人が思っているステレオタイプを書き換えることができるのは大事だと思っていましたけれど、それと同時にモヤモヤしている気持ちがずっとありました。それはなぜかというと、報道や、自分の友達の友達や知り合いを見ると、本当に今死にたいみたいな状況の人がたくさんいる状況で、一人ひとりが半径 20mを変えていくことは大事だと思いますし、こういう活動で学校に行ってお話して身近な環境が変わっていくことはすごく大事ではあるのですが、それには限界もあるとずっと考えてきました。

 そうして、セーフティーネットとして法制度が変わっていく必要があるのではないか。どんな地域であっても少なくとも生きられるような状況にするためには、法律できちんと守ってもらえるような状況を作らないといけないのではないかと感じるようになりました。それで、ロビー活動をしているNGO に参加して、法律を変えてほしいとお願いをしに国会議員に会いに行くような活動も少しはしたのですけど、端的に言うと向いてないなと思っていました。

 ひょんな機会から、ウェブメディアのHUFFPOSTという媒体とつながって発信をする機会をもらって記事を書くようになりました。やがて、自分自身に向いているのは、具体的に法整備をするための活動をするよりは、その情報を届けることでサポートする方なのではないかと感じて、こういう活動に至りました。

 なので、私の問題意識としては、制度の話、特に、同性婚もそうですし、トランスジェンダーの法的性別変更に関する制度、または差別を禁止する法律はどうやったらできるだろうとか、 2023年にLGBT 理解増進法ができましたが、この法律の何が良くて何が悪いのかとか、そのようなことを分かりやすく発信をすることです。主に政治や法制度を発信するに至った理由としては、そういうところがあります。

 

マイノリティの話をマジョリティにわかりやすく伝えるときに落とされることが多いと感じてきた 難しいことを難しいままに分かりやすく伝えるように意識

 ここからは、そういった発信時の意識や葛藤についてお話します。

 政治や法制度、社会構造の話はやはり難しいですよね。いきなり伝えてもなかなか伝わらない。関心を持っていない人に伝えるのはすごく難しいと思っています。それでも、なるべく分かりやすい言葉で伝えるというのが基本だと思っています。でも同時に、ジェンダーやセクシュアリティのマイノリティの話について、マジョリティの人に分かりやすく伝えようという時に、いつも誰かを見落としてきたと感じてきて、それは自分自身も経験してきたことではあると思っています。

 例えば、2010年代の初期はLGBTQ の記事が徐々に出てくるようになった時代ではありつつも、毎回「LGBTとは」みたいな文章が記事の冒頭か最後に書いてあるけれど、その中身が雑だったり適切ではなかったりすることが結構ありました。そういう分かりやすくする時にこそ落とされることが多いから、その難しいことをできるだけ難しいままに分かりやすく伝えることができたらいいなと思いながら私は日々発信しています。

 特定生殖補助医療法案という、ざっくり言うと、生殖補助医療――例えば精子提供を受けて出産したい時に受けられる医療――へのアクセスは残念ながら限定的で、法律上結婚した夫婦に限るという考え方が出てきていて、この法律は実際には成立していないですが、それが成立しそうになった時に問題を提起する記事を書いたりしました。こういう時も、どうやったら分かりやすく、でも正確に難しさはそのままで、そのリアリティを伝えられるか考えながら書いていました。

 

心動かされる物語を社会構造に対する問題意識につなげられるよう物語を読み解くリテラシーを

 もう一つが、そもそものこういう制度や構造の話は伝わりづらいという根本的なところで、これは私が活動の中でずっと感じてきたことです。学校・企業・自治体でこういう話をする時、私は制度やハラスメントの話など専門的なことを話してほしいというオーダーを受けるのですけど、その中で私のライフヒストリーを話す場合と話さない場合があって、その感想を見ると、「ライフヒストリーで、お母さんへのカミングアウトの時に言われた言葉が印象的でした」といった感想が来ることが多いのです。やはり多くの人の心に残るのは、制度や構造についての問題意識よりは、個人的なストーリーが一番刺さるのだなというのは常々感じていました。一方で、個人のライフヒストリーとか、心を動かすストーリーのみが伝わって、その先の制度や構造の話にまで視点が移っていかないところにいつも葛藤を感じていました。

 これはいい面と悪い面の両方があると思っていて、物語の力はすごく重要だと思うのです。演劇もまさにその一つだと思っていて、物語から問題が伝わったり、ハッとさせられたり、感情が動いたりというのはすごく大きなきっかけになると思います。一方で、物語の力をある種悪い方向に働かせることもできるわけで、排外的なものやヘイト的なものに個人の感情を向けることもできる技術だからこそ、その物語を読み解くリテラシー、まさに制度や構造の話とセットでないと、物語を紐解いたり自分の中に落とし込んだりするのは難しいのだろうと葛藤しながら発信をしています。

 

 

 

 

 

論破型の動画再生数は伸び、白黒はっきりつけられない構造の問題の議論を深めるのに不向きなSNS 

問題意識が両極にある人より中間層の人をどれだけ引き込めるかに注力

 そんなことを言いながら実は私は SNS で最近、一人二役みたいな演劇のセリフっぽくして、制度や構造の問題を理解するような発信にトライしています。その理由の一つは、テキスト自体がだんだん読まれなくなっているという課題意識があります。2010年代から比べると明らかに記事はあまり読まずにショート動画で情報を得ている人が増えているので、そこに発信する立場としては、そういう傾向を問題視するだけでなく、きちんと対応していかないと情報が広がっていかないと思っているからです。

 もう一つの理由が、伝え方のところで、ただ難しい話をポンと投げたとしても、それは受け手に届かないことが多いので、そこを会話調にするなど工夫しながらやっているというところです。ただ、これもやりながらいつも葛藤しています。例えば、「同性婚反対論の矛盾」という発信をした際に、「少子化につながるんじゃないか」といったあるあるの偏見に対してパンパンパンと打ち返していくような動画を作ってみたところ、200万回ぐらい再生されてバズったと思ったけれど、同時にすごい引っかかりを感じました。これは論破形の動画で、その趣旨は「同性婚の反対論というのはすごく偏見です」ということですが、私はもちろん主張としてはそう思ってはいるけれど、結局その動画は論破して気持ちいいという感覚を増やすようなものになっていました。

 結局こういうものがアルゴリズム(ユーザーのタイムラインやフィードにどの投稿をどのような順番で表示するかを決めるための評価・選別ルール)上は広がりやすくて、自分もいろいろトライして「どっちもどっちだよね」といった動画も作ってみたけれど再生数は全然伸びませんでした。そういう難しい課題を扱うものや分かりづらくて白黒はっきりつけられないものは再生数が伸びづらく、分かりやすくて相手を論破できるものの方が伸びる。今、こういうアルゴリズム、 SNS 環境の中でどうすればいいのかと葛藤しています。

 対話型のSNSというのは対決型になりやすいので、私は一つルール、モットーにしているのは、議論は SNS 上ではしないということです。それは、白黒はっきりつけられない構造の問題をいきなり、もちろん自分の主張として発信するけれど、SNS上の発信から議論を深めていくというのは結構難しい、特に Xは難しいのではないかと思っているからです。

 むしろ私が力を入れたいと思うのは、「ちょっと今悩んでいるな」とか、「どうなんだ、この問題」と思っている中間層みたいな人をどれだけ引き込めるかっていうところ。両極にある人がバチバチになっているところを見せても、その先に議論は広がれないのではないかと思っていて、中間層に注力したいと思っています。もちろん、ヘイトを向けられることもあれば、ひどいデマに基づく主張をコメントされることもあるけれど、それに応答するよりは、それはもう一旦無視してできるところに注力しようというのが私の今の考え方です。

 

議論はSNS上ではしないことがモットーだが 発言者の影響力が大きい場合は問題意識を発信 相手が市井の人の場合は批判をせず自分の意見としてのみ発信

 議論と対話のことについても、今日せっかくなのでお話できればと思います。

 一つは先ほど SNS 上で議論はしないとお話したところに近いのですけど、Xでも、例えば政治家とか権力的な立場のある人がひどい差別発言をしている場合であれば、私は問題があることを発信することがあります。ただ、それが身近な一般の人、例えば地元の商店街の人とかであれば、同じような発言であっても、私はSNS に書いたり、個人を批判したりすることは基本的にはしないようにしています。

 その発言者と自分の間にあるパワーバランスとか、発言者の影響力によって対応を分けるべきなのではないかと思っているからです。なので、先ほどのSNSでは議論しないというルールも、細かい話で言うと、例えば誰か一人の X の投稿がすごい批判にさらされていた時に、その人の影響力がすごく大きそうだと思ったらリツイートをしながら問題だと発信することもあるけれど、その人の影響力がそんなに大きくなかった場合には、その人に何かわかるように発信するのではなくて、ただ自分の意見として投稿するとか、発信者と自分の間にあるパワーバランスを考えながら発信するように心がけています。

 

SNS上の問題発言を直に追及するより 中間層を多く引き込んで最終的に問題発言をした人が気づけるタイミングを期する

 その一つの背景としては、自分も間違えることがあると思っているというのがあります。相手もステップが必要だっていう前提は持ちたいと思っているのです。例えば、SNSで偏見に基づく差別的な発言をした人がいたとして、その人は問題ではあるし、その影響力は少なくないし、誰かしらを傷つけているから、間違っているということは言いたいのだけれども、10年前の私がそれを気づいていたかと自分に問えば、気づいてなかったことも多かったと思うわけです。だからこそ、SNS上の問題発言を追求することに注力するよりは、中間層をもっと引き込んでいって、最終的にその問題発言をした人が何かしら気づけるタイミングがあったらいいな、みたいな感覚で発信することが多いのです。

 

失敗しても学び合いながら対話ができる場があるといい

対話の環境は最も影響を受ける人がその場にいるという前提でつくる

 むしろ、SNS とか不特定多数に見られる場ではない空間で、偏見とか失敗も交えて議論や対話ができる場があったらいいなと思っていて、私は日頃は SNS で発信している立場ですが、SNSで議論はしないという立場をとっています。多分 SNS プラットフォーム側からするともっと戦ってほしい人だと思うけれど、それはしないようにしています。SNS以外の場所で、失敗も含めて学べるような場があった方がいいなと思っています。

 同時に、これは演劇を作っている皆さんもよく思っていることだと思うけれど、対話は常に不均衡であると思っています。例えば、学校のクラスで「今から同性婚の議論について皆さんで話してください」と先生が言っていきなり議論ができるかというと、その中にはカミングアウトしていない当事者の子もいるかもしれず、そういう力関係が出てくると、対等な対話はできない状況なので、対話のテーブル、つまり環境整備に気をつけていかないといけないと思っています。

 この時に意識していることは、先ほどの演劇の動画の中で出ていた「哲学対話のグランドルール」も一つの環境整備の技だと思いますし、抽象的に意識しているのは、これはイギリスのマリブラックさんという元国会議員の言葉を借りたものですが、対話は「最も影響を受ける人が望む形で敬意を持って行わなければならない」ということです。その場にいないと思われている状況であっても、影響を受ける人がいるという前提で、言葉遣いや言い方は気をつけなければいけない等、最も影響を受ける人が望む形で行われているかどうかというのを常々意識しながら、対話が行われてほしいと思っています。

 私からの問題提起は以上になります。ありがとうございます。

 

 

——パネル対話(升味加耀さん、川村瑞樹さん、中島梓織さん、松岡宗嗣さん、宮下萌さん)——

宮下萌さん) ありがとうございました。私自身弁護士なので、難しいことをできるだけ難しいまま分かりかりやすく伝えるということを身に染みて感じました。物語の重要性や対話についても、今から始めるパネル対話で皆さんと議論していければと思っております。

 それでは皆様、今の松岡さんの話題提供も含めまして、どなたからでも構いませんのでコメントいただけますでしょうか。

 

みんな加害者的側面も被害者的側面も、マジョリティ性もマイノリティ性も持っているという認識の上に立った物語 互いの理解を邪魔する対立構造を生まない

升味加耀さん) 今の松岡さんのお話で、特に発信と葛藤はもう本当に首肯という感じで、肯いて聴いていました。演劇の場合も対立構造が明確に見えて悪者を勧善懲悪的にやり込めるという形の方がスッキリする人はおそらく多いし、ドラマやエンタメの世界ではその構造が使われることが多い。

 でも、どうしても自分がフィクションの物語でマイノリティを見る時に、マジョリティをモンスター化してしまう。「そんなこと言うやつ、絶対良くないじゃん」みたいな。その瞬間に、視聴者からすると、その人は敵になってしまって、その主張の中に自分と似ているものがあったり、自分の経験の中で同じことがあったり、同じことを言ってしまったりということが微かにあったとしても、もう完全に見逃されて、その対立構造の中で、「私たちとは関係ない、私たちの世界にはいない、このモンスターをやっつけよう」という話になってしまいがちだというのはすごく気になっています。

 本当は「マジョリティ」とされている人たちの中にもグラデーションがあり、なぜそのような態度を取ってしまうのか、背景にそれぞれの苦しさがあるというところまで書いていかないと群像にならない。私たちと地続きの社会を描くことを目指し、お客さんから見た時に「私の隣にもこんな人がいる」と想像しながら見てほしいと考えた時に、単純な対立構造はかえって問題点の理解を邪魔してしまい、すぐさまエンタメ構造の中に集約されてしてしまう。それは分かりやすいし、劇場を出る時にいい気持ちになれるかもしれない。でも、それは私たちが目指していない構造で、むしろ私たちはお客様も含めてみんなが等しく加害者的側面も被害者的側面も、マジョリティ性もマイノリティ性も持っているものだから、多少辛くても自省し想像してほしいしそれが大切なことだなと思いながら演劇をやっています。

 やはり難しいですよね。

 

自分に関係ないと切り離されないフィクション 物語の背景にある問題の構造に考えが及ぶよう立ち止まれるフィクションを模索

中島梓織さん) 難しい。

 『われわれなりのロマンティック』でも、「フェミニズムをテーマにするよ」と物語の冒頭で掲げるのですが、「フェミニズム」という言葉自体、 SNSなどでは誤った認識で広まってしまっていることもあり、「私たちは『フェミニズム』という言葉を、女性だけのものではなく、あらゆるジェンダーによる差別や抑圧をなくしていくという意味で使います」と実際に台詞で言う、というある種強引な手を取りました。それでも、本当に一部の方ですけど、「お説教的だった」というような感想もありました。こちらとしては、一緒に考えたいと思っているのですが。

 フィクションは、現実と切り離せるからこそできることもあるけれど、逆に、切り離すことで「自分とは関係ない」とできてしまうこともあって、そのなかで、どうやったら私たちが考えている対話に招待できるのかなとずっと考えています。「願い下げ」とされることもあって、その時にどうしたらいいのかなと。本当に難しい。

 

川村瑞樹さん) そうですよね。 物語が先行していってしまい、その中に描かれる構造にまで考えが及ばず物語だけをエンタメとして楽しむ。もちろん観方は人それぞれで良くて、演劇という媒体を選んでいるのはこちら側ではあるけれども、意図を提示することも大切だなと。『われわれなりのロマンティック』の感想で、「登場人物がみんなベースとして対話ができる人たちだったから、現実よりもユートピアに思えた」というのもありました。確かに稽古場も本編も”対話のできる環境である”という意味でユートピアではあったけれど、おぺさん(中島梓織さん)が作品の上演期間中にもすごく発信していたのが、「この2時間だけは立ち止まって考えたい。劇場の中だけがユートピアであったとして、そこで一度立ち止まって考えたい」ということでした。どういう姿勢で観てもらいたいのかを完全に委ねる方法もありますが、創作や上演の意図を発信していくことで、上演を観ている人の中に引っかかるフックがより一層できる事もあるのかなと思いました。

 

宮下萌さん) 上演も素晴らしい発信の仕方だと思うけれど、私個人的に終わった後に対話の機会があるというのが、自分だけだとモヤモヤして何だったのかなとなってしまうところを共有できる場があってすごくいいなと思いました。

 

升味さん) ありがとうございます。東京公演と三重公演のどちらでも「対話の会」というのを千秋楽の日、公演が終わった後にやらせていただいて、公演を見てすぐ来たというお客さんが結構多かったです。

 そこで、松岡さんがおっしゃっていたように、対話の前提として「そこで一番影響を受ける人がリスペクトされた状態で行う」ということが浸透している場であるかどうかが、対話のパワーバランスにすごく影響を及ぼすということを痛感しました。どれぐらいこちらがファシリテートできるか、難しいなと思いながらやっていました。「この対話の場では良い・悪いというジャッジはしない」という前提ではあるけれども、では何を言ってもいいかというと、それは違うということを、まず対話の基本姿勢としてわかってもらうには、長期のプロセスが必要だと感じました。

 

宮下さん) 松岡さん、いかがですか? 今の話について、ファシリテートの面でプロとして。

 

傷つくことも発生しうるという前提で、その傷つきもフォローしながら対話できる有機的な場を

松岡宗嗣さん) 私も全然ファシリテーションのプロではなくて、すごく分かりますという気持ちを感じながら聴いていました。

 私の場合、例えば企業研修であれば、その企業に属している人たちが対象なので、そこで守られるべき規範があったり、学校でも評価軸があるので正解の答えが出てきたりして、逆に言うと、「本当はそう思ってないはずですよね」みたいなのが出てこなくて、議論が煮詰まらないこともあります。

 一方で、市民講座とか雑多に誰でも来られる場所で講演した後に質疑応答や議論の場を作ると、本当に予想だにつかない有象無象のコメントが出てきて収拾がつかないこともありますが、その中にすごくコアで素朴な、少し偏見も入っているけど、叫びみたいなものが出てきます。それは確かに大事な問題提起だと深掘っていくと、その会が良い方に向かう場合もあります。

 両方にいい面と悪い面があると思います。だから、場のセットの仕方はすごく有機的で、その場にいる人がどういう発言をするかによって調整する必要があるので、ファシリテーションや設定する人たちの環境整備の力に因るところはあります。確かに属人的で大変ではあるし、重たいことではあるけれども、そこにはSNSにはない力学があると私は思っています。

 SNSではそういう力学は発生しづらい。対話のテーブルを含めてもアルゴリズムというある種のルールがしっかりしているから、攻撃的で短い文章で決めつけられるものの方が拡散されていく。そういうSNSのようにルールが画一的な場よりは、もっと有機的なオフラインであまり拡散されない場で、でもそこで傷つくことも発生し得るという前提で、その傷つきをフォローしながら対話の方に促していくスキルをみんなで鍛えていくことが大事だと常々思います。

 本当はこれを義務教育のレベルでやっていたらいいのです。批判的思考力とか、相手の意見を批判することと人格を否定することは違うとか、そういうベースラインを整えられたらいいのです。そういうことに関して演劇から学べることはすごく多いといつも思っています。

 

自分が責められていると感じて防衛反応が出ている相手とどう対話を重ねていけるか

升味さん) 我々は誰かを傷つけたいと思って上演しているわけではないけれども、攻撃的な意見や感想を我々もお客様から頂くことがあります。その中には、自身が責められていると感じ、防衛反応で反射的に表出したと思われる内容もあります。まず何であれ観客からの感想が生まれたこと自体を受け止めて、その後に、この人たちとコミュニケーションの元々の土壌がない状態で話し始めなければいけない。

 この先の課題として、そんな環境で、どう対話を重ねていけるのか、というのがあります。疲弊もするので、絶対にいつもしなければいけないことではないと思うのですが、対話の会などで同じようなことが起こった時にどういう形で解決できるのかと考えています。最初の制度設計から変えていかないといけないと思っていました。

 

中島さん) 私も、先ほどの松岡さんのお話を伺って、「SNS上では発信はするけど議論はしない」というところは、自分を守りながら社会を変えていくために、大切なことだなと思いました。 ただのレスバトルになってしまっては意味がない。

 お互いが時間をかけて考えていくものだし、観客にとっては、今回の作品を観てギョッとしたことも、必要なステップだったのかもしれない。次の作品を観た後には少し変わっているかもしれない。だからこそ、自分をきちんと守ることも大事だと思いました。

 『きみはともだち』のアフタートークで、川村さんと「対話の練習が必要だよね」という話をさせていただいたことを思い出しました。

 

川村さん) そうですね、ありがとうございます。その練習として、直接的に自分のことやお互いのことを言い合うのではなくて、上演作品を個人と個人の間に入れて、同じ場で観て思ったことや感じたこと、作品について話すことから始めるのはいいかもね、という話をあの中島さんとアフタートークでもさせていただきました。

 

宮下さん) 本日この後、参加者の皆さんとグループ対話の機会がありますので、先ほど放映いただいた『われわれなりのロマンティック』のお話から始めていただくのもいいかもしれないですね。

 そういう作品から防衛反応があるというのは、何かしら刺さっているのだとやはり思うのです。何も感想が出てこなかったり、無難なことしか言われなかったりというのは、あまり影響を与えられていないということの裏返しでもある。何かしら自分の中で考える、何か重いものがあるからこそ、そういう反応が出てくるのではないかとも思います。それに対応するのは疲弊することではあると思うので、ご自身を守りながら、でも、伝えたものはこの人に何か刺さるものがあったと受け止めていただく方がいいのかなと思いました。

 

どれぐらいの批判的反応を想定して作品を出すか 創造や挑戦を制限する可能性とのバランスを図る

松岡さん) 今の話に引きつけて、私から皆さんに質問してよいですか。

 私も作品に監修として携わらせてもらう時にいつも「怖いな」と思っているのが、まさにその「刺さる」とか「ちゃんと届く」作品は誰かの感情を動かすものだということです。それはすごく傷つける時もあるし、鼓舞したりする時もあるし、感情が動いて議論が広がっていって良いなと思ったり、つらいなと思ったりする。そういうものが「物語」だと思うし、そういうものであるべきだと思うけれど、監修はディフェンシブな面が大きいので、懸念を言わざるを得ない。

 でもそれをやりすぎると、同じような作品を作ろうとしている力学、教科書的で金太郎飴的な物語にさせようとする力学にもなると思っています。物語のクリエイティビティとか、何かにトライしようとしていることを制限する可能性もあると思っていて、そこはすごく気にしています。だから私が制作をしている人と関わる時に伝えるのは、「少なくとも何も意図していない炎上や批判がたくさん出るようなことは避けましょう」、「でも分かった上で、そういった議論が起きる状態を作った方がいいと思う」みたいなことは伝えるようにしています。

 物語を作っていくとき、どれぐらいの反応を想定して作っているのかなというのはぜひ伺ってみたかったです。例えば「これは結構ハレーションが起きるかもしれないけど、でもやるべきだな」という意思決定でどれぐらいやっているか、そういった温度感はぜひ伺ってみたかったです。

 

 

 

 

 

 

 

 

升味さん) 私と中島さんは対話やフェミニズムについて考えていることが多分少し似ていると思いますが、表出の仕方が違うと思っています。私は、地続きで辛かったり苦しかったりすることを、ある程度受け止めやすいフィクションにはしつつ、そのまま載せるので、「このシーンでは、そう感じる人は当然いるだろうな」というのはある程度分かりながらやっています。

 でも、劇場によっても地域によっても反応が違うので、自分が予想したのと全然違うこともあって、そういう意味で非常に「生もの」だと感じがしながら上演しています。

 

差別的な言動を作品中に使うことで、「ん?」と思って話し合うきっかけになれば

中島さん) 『われわれなりのロマンティック』では、『クワロマンティック宣言』という論考を書かれた、社会学者の中村香住さんに、ジェンダー・セクシュアリティ監修で入っていただきました。中村さんには脚本の時点から読んでいただいて、差別的な言葉をどこまで使うかというような話をしました。

 差別的な言動が当事者に降り注いでいることは現実にあることで、そのような状況を表現したいというところと、客席にいる当事者が必要以上にしんどくなってしまうのは嫌だというところの葛藤がありました。

 自分にできることは、そういった言葉を作品中に使いながらも、当事者が「ん?」と感じていること、例えば「嫌だったんだけど、そのときは何も言えなかったんだよね」のような台詞を、セットにすることかなと思っています。あくまでも考えるきっかけとしてそのような表現を使うというか。

 

松岡さん) 少なくとも回収するということまでをセットで考えられているというのは、すごく大事な論点だと思いました。意図して出して、それに対する表現の方法は多様だけれども、何かしら回収しながら表現されているのだなというのは伝わりました。

 

宮下さん) この後、ご参加の皆さんとのグループ対話もありますので、それに向けてコメントいただこうかなと思いますが、いかがでしょうか。

 

松岡さん) 私が前提として常々思っていることは、自分自身の問題意識は限界があるし、間違えているし、まだまだ認識が足りないことが多い中、でも自分なりにできる発信をしていくということです。

 人と会話したりする中でも、きっと間違えるだろうけれど、間違えるからといって会話をしないとか、コミュニケーションが途絶えるというのは一番良くないことだと思っているので、その方法は工夫したいと思っています。例えば、別のマイノリティの人と対話をする時に、自分がまだ不勉強で、どういう言葉の言い回しをしたらいいか分からないから、会話したら傷つけてしまうかもしれないから止めておこうというふうになりたくない。

 すごく細かい話で言うと、「これ、もし間違っていたら言ってほしいんですけど」と言って補助線を引きながら話すとか、実はできることがたくさんあるのではないか。きちんと相手に指摘してもらえるような環境を作りながら、うまくコミュニケーションして、失敗しながら学んでいくことはできるはずだと思います。

 その一つがもしかしたら演劇を観ることかもしれない。「こういう言い回しは、こういう人がこう感じるんだ」みたいな学びにもなると思うので、演劇の価値や可能性もたくさんあると思います。

 別のマイノリティの人と対話をする時に、自分がまだ不勉強で、どういう言葉の言い回しをしたらいいか分からないから、会話したら傷つけてしまうかもしれないから止めておこうというふうになりたくない。と私は思っています。

 

中島さん) 最近、似たような社会問題を扱った演劇を作っている友達と、「こういう問題を扱う作品をやる時って怖くない?」ということを話しました。私の今の立場としては、「怖いけどやる。やるけど怖い」。その繰り返しです。「この社会を少しでもマシにしたい」という気持ちは変わらないし、やめてしまったら現状維持か悪くなっていくだけなので、怖いけど、やる。

 対話の場では、それぞれが、「自分が間違ったことを言ったらどうしよう」、「傷ついたらどうしよう」、「傷つけたらどうしよう」というような、不安や怖さを持っていると思います。自分だけが怖いのではないかと感じてしまいがちですが、実はお互いが不安を抱いているということを前提にして、学び合うことも含めて対話を重ねていける場を作っていきたいと思っています。

 自分も、対話の場の参加者として、意見を言って、聴いて、間違える中で、気付かされることがたくさんありますし、これからも練習するしかないと思っています。

 今日はそういう場の一つだと思っているので、この後のグループ対話もすごく楽しみにしています。

 

川村さん) お話を聴き、話しながら、ここまでとても有意義な時間だったなと思います。

 対話をする時に、「対話」と言われると、どうしてもうまく話さないといけないとかが先行してしまいがちですが、でも、まずは「聴く力」ではないかと思います。自分は同意できない意見や自分には分からないことだったとしても、人の話をまずは最後まで耳を傾けて聴くところから対話が始められるのかなと思うので。

 「哲学対話のグランドルール」の中にもあったけれど、話がまとまらなくてもいいし、途中で分からなくなってもいいし、意見が変わってもいい。というところで、少し肩の力を抜いて相手の話を聴きながら対話をしていく練習ができればいいなと思いました。

 

升味さん) 松岡さんや中島さんがおっしゃった「怖い」とか、「どの立場から言ってんねん」みたいなことは自分もあります。自分がわかり得ないこと、想像し得ないことについて本当に発言していいのか、という疑問は常に頭にありますが、話さなければ始まらない。意図して相手を傷つける発言の場合は別として、一発レッドカードで退場にならない場が増えるといいなと思っています。

 ここに当事者がいる、あるいはこの構造の中で被害を受けている人がいるかもしれないという意識を常に持つことも大事ですよね。自分がその加害の構造に意識的でなくてもどうしても加担してしまうことあるので、自分がその構造のどこにいるのかを考え、距離感を見定め、お互いにとっての境界線を守りながらお話ができたらいいなと思いました。

 

 

――グループ対話とグループ発表を経て、ゲストからのコメント―― 

※グループにゲストも加わり、グループの方々に感想や意見、ご質問を話し合っていただいた後、会場全体で共有するために印象に残ったことを各グループから発表いただき、ゲストからコメントをいただきました。

 

升味加耀さん) 皆さん本当にありがとうございました。それぞれのグループでお話ししたこと、いろいろあったと思いますが、それが皆さんの中で、また次、何かを考える時や、誰かと話す時に、いい形で作用したら良いなと考えています。

 

川村瑞樹さん) いろんな方のいろんな話を聞く場という意味でも、すごく有意義な時間だったなと思いました。今後も、聴いて考えたことや、改めて変わった考え方等を振り返りながら、創作にも普段の生活にも向けて考え続けて行きたいなと思います。ありがとうございました。

 

松岡宗嗣さん) 私のグループの中でも、今日この場がすでにその対話の練習の場、実践の場になっていること自体がすごく素敵だというコメントをいただいて、私もすごくそう思ったので、本当に今日この場に呼んでいただいて嬉しかったです。今日みたいな場が広がっていくといいなと思いました。ありがとうございました。

 

中島梓織さん) 自分たちも、このような対話の場を増やしていって、当たり前にたくさんある状況になるといいなと心から思っているので、自分にできることを頑張っていこうと改めて思えた機会でした。本当にありがとうございました。

 

 

 

  • 果てとチークの今後の公演ご案内

〇はたけの劇場×見沼田んぼ福祉農園(さいたま市):2026年11月23日

https://bench-p.com/projects/crossplay-saitama2026/ 

 

〇『くらいところからくるばけものはあかるくてみえない』(座・高円寺1):2027年1月15日-17日

https://hatetocheek.com/bakeaka2027/ 

 

 

 

  • 次回SJF企画のご案内★参加者募集★
    『ソーシャル・ジャスティス 連携ダイアローグ2026』

【日時】2026年11月21日(土)13:30~16:00 
【詳細・お申込み】https://socialjustice.jp/p/20261121/  

 

 

 

※今回26年9月5日のアドボカシーカフェのご案内チラシはこちらから(ご参考)

 

 

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