報告=ソーシャル・ジャスティス基金(SJF)アドボカシーカフェ第37回
原発事故後の言葉と民主主義
リテラシー・ワークショップVol.3
2015年6月12日、SJFは、講師・モデレーターに影浦峡さん(東京大学大学院教育学研究科教授)を、ゲストに「はっぴーあいらんど☆ネットワーク」の鈴木真理さんと千葉由美さんをお迎えして、第37回アドボカシーカフェを開催しました。
福島県いわき市の学校給食にいわき産米を使用することを13年4月から市が検討を始めたことに対し、千葉さんをはじめとする、子どもたちを内部被ばくから守るためのアクションをスタートしたママたち(「子どもたちの安心・安全を考えるいわきママの会」)がいます。14年10月には教育長の判断で使用が決定されましたが、いわき市教育長に同ママの会が提出した質問状への回答に対して千葉さんが抱いた、「瞬時にその論理矛盾を指摘できなかった自分が悔しい」との思い、「私たちがもっとしっかりしていれば、子どもたちをもっと守れたのにという後悔の念」に端を発し、市民の言葉の力を磨き引き出していくような場づくりが始まりました。「おかしい」と感じたこと、もやもやしていることを大切にして、真っ当な社会をつくっていくための言葉を社会に向かって発していくための具体的な考え方を、影浦さんと一緒に考え、練習してきたリテラシー・ワークショップは、今回で3回目となります。冒頭で影浦さんは、壊れた論理を持つ言葉が横溢し、被害者が加害者や無関心な人に説明をしていかないと分かりあえない社会のなかで、理性による判断を丁寧に言葉になぞり一つ一つ組み合わせていけば誰でも平等に考えることができるという民主主義の基本的理念を踏まえ、「自分の頭で考えて自分が正しいと判断したから正しい」(竹山美宏氏)ときちんと言えるよう学んでいくことが大事であると強調されました。
(影浦峡さん)学ぶ目的は「自分の頭で考えて自分が正しいと判断したから正しい」ときちんと言えるようになることです。そのために、言葉の「形」を分析すること、そして言葉の「形」をつくって表現することが課題となります。
言葉は、考えをデザインする最も基本的な素材です。問いを問うことは言葉でしか出来ず、言葉は社会を成り立たせる知的媒体であり、言葉が拘束力持つから暴力を避けることができると同時に暴力になることもあります。言葉は、一文字でも、文字の一部でも異なると全く異なる意味や拘束性をもちます。「トマレ!」と「トマト!」、「大好きな人」と「犬好きな人」が違うのは、形が異なるからです。
=作業1=
(影浦さん)まず、言葉の形を分析するため、言葉が表わす世界の形が近いものをグループ化してみます。言葉が配置される順番、形を読み解いて、意味の形をとらえ、その意味が表わされている世界の配置を考え、その世界について誰がどこで誰に対して言葉を発しているのか話し手と受け取り手の位置を考えてみることが大切です。
このステップを具体的に練習してみるために、少人数に分かれた各テーブルで、社会で実際に発せられた言葉を取り上げた12種類のシートを分類するワークショップを行い発表しあいました。作業を通して、「何か変だな」と思われる言葉の中に、1. 本来は別個に確認されなければならない定義を自分の望みや目的に応じてつくりかえ、目的と理由を逆転させている、2. 自分が言っているから正しい、3. ある事象について、問題そのものにコメントするのではなく、被害を受けている人・心配する人・議論する人などの反応に対してコメントしている、4. 全体と一部・全てと或る・集団と個人を非論理的かつ不当に混同し、おかしいことを社会の問題ではなく個人の問題に帰着させている、といったパターンが浮かび上がりました。
1のグループに分類された言葉には、「自衛隊が派遣されている地域が非戦闘地域だ」(小泉純一郎元首相 2004年11月10日)、「現在の憲法をいかに法案に適応させればいいかという議論を踏まえて閣議決定した」(中谷元・防衛相 2015年6月5日衆議院安保特別委員会)等がありました。
2のグループには、「(憲法学者が安全保障関連法案を『違憲』と指摘したことに関し)憲法解釈の基本的論理は全く変わっていない。世界に類を見ない非常に厳しい武力行使の新3要件の下、限定的に行使する」(安倍晋三首相 2015年6月8日ミュンヘン記者会見)、「(福井地裁が高浜原発3・4号機の再稼働を認めない仮処分を決定したことについて)原子力規制委員会が十分に時間をかけて、世界で最も厳しいといわれる新基準に適合するかどうかを判断したものであり、再稼働を進めていくという方針には変わりはない」(菅官房長官 2015年4月14日)がありました。
3のグループには、「(放射線について)しかし、まだphysicalな被害がほとんど顕在化していないにもかかわらず、なぜ人々はここに不安を抱くのだろうか」(一ノ瀬正樹氏・東大哲学教授)、「(集団的自衛権に関し)いま、人の生死とか戦争とかについて話しているんですよ。」(辻元清美議員 衆議院特別委員会)に対する「(ヤジ)大げさなんだよ。」(安倍晋三首相 2015年5月31日)等がありました。
4のグループには、「第一三条 全て国民は、人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公益及び公の秩序に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大限に尊重されなければならない。」(自民党改憲草案 cf.現憲法同条は「すべての国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする」)という個人ではなく人という社会的に定義がなされる類について尊重されることを示す言葉や、「ほとんどの人に影響を与えないレベルで決められた法的上限値より小さな放射線被曝量で、こうした過酷な障害が多発することはおよそ考えにくい」(小野昌弘氏・イギリス在住の疫学者/医師)という、集団で見た時の確率が低いという主張の中に、ある個人がその障害当事者になってしまう確率は0ではなく、また発症したときの重篤度は変わらないという事実を隠してしまう言葉などがありました。
(影浦さん)このように、もやもやがあって、もやもやを明らかにしたいという目的があったら、もやもやを言葉の形に置き換えていくことが、言葉の似た形・対応する構造を考えていくステップを練習することにより必ずできます。
=作業2=
(影浦さん)次に、おかしいと感じた言葉に対して主張する前に、自分の言葉の形をつくって表現できるよう、同類の形をした言葉(アナロジー)の例をできるだけ身近な話題でつくってみます。おかしいと感じた言葉とアナロジーとの対応を検討することで、状況の理解が促進されます。すぐにできない場合は、ステップとして、その元となった言葉のキーワードに下線を引き、他の身近な話題の領域や概念の言葉に置き換えて、つなぎの言葉を○で囲み、その前後を移し替えるといったことを行います。
実際に練習するために、ここで再びグループに分かれてワークショップを行いました。アナロジーを対応させる言葉として課題に挙げたのは次の5つです。
1.「100ミリシーベルトを被ばくしても、がんの危険性は0.5%高くなるだけです。そもそも、日本は世界一のがん大国です。2人に1人が、がんになります。つまり、もともとある50%の危険性が、100ミリシーベルトの被ばくによって、50.5%になるということです。たばこを吸う方が、よほど危険といえますDr.中川のがんから死生を見つめる99:福島原発事故の放射線被害、現状は皆無」毎日新聞2011年3月20日)、
2.「自衛隊が派遣されている地域が非戦闘地域だ」(小泉純一郎元首相 2014年11月10日)、
3.「放射線そのものに原発由来か天然由来かの差異はありません」(大河内直彦氏「科学的思考で地球とエネルギーの未来を考える」 日経BP社specialコンテンツサイト2012年7月)、
4.「『後方支援』は『現に戦闘行為が行われている場所』(戦闘現場)では実施しないから米軍などの武力行使とは一体にならず、憲法上問題ない。」(日本政府見解 2015年)、
5.「柏市の公園などでの線量は、高いところでも1時間当たり0.5マイクロシーベルトくらいです。この環境に24時間ずっといた場合、内部被ばくも含めた年間の被ばく量は5~6ミリシーベルトになります。屋内の線量は屋外よりずっと低くなるため、実際の被ばく量は、この値よりかなり低くなります。小さなお子さんでも普通に遊ばせてよいと思います。(Dr.中川のがんの時代を暮らす-2-毎日新聞2011年7月3日)
1の言葉に対するアナロジーの例として、影浦さんは、会場の一人に次々と重い荷物を持たせ、さらに空の紙袋を持たせようとし、怒ったその人に対し、「50kgの荷物にたった0.5kg重くなるだけじゃないか。よほど、あっちの人が重い荷物を持っていて大変だよ。」と言いました。確率的な問題は個人レベルでは実感しにくいため、私たち自身も何となく集団を上から眺める目線になってしまいがちなことが、この事例からわかりました。このような目線は、憲法の「国民はすべて個人として尊重される」にも反しています。
2の言葉へのアナロジーとして、会場から「私が遠慮なく勝手に木を切ったのだから、ここは私の庭だ」や、「俺の言葉は法律そのものだ」が挙げられました。
(影浦さん)このような論理を許していると、言葉が壊れ、世界が壊れます。言葉が世界にきちんと対応しなくなり、その対応に基づいて世界や社会を正しくつくって行きましょうという相談のための言葉でなくなってしまいます。アナロジーで考えることで、当初のおかしいと感じたことについて、実は正しいのか、やはりおかしいのか確認できます。なんとなく納得させられてしまう言葉について、身近な例で納得できている話題に類比を広げることによって、おかしさに気づくことができます。
3のアナロジーとして、多摩動物園のクマさんが逃げ目の前にクマさんが出没している時にクマさん学者が「秩父の横瀬には○○頭のクマさんがいて、クマさんそのものに動物園由来か横瀬由来かの差異はありません」と言う状況を影浦さんは例示しました。
(影浦さん)本来人が問題にしているのは、このたとえで言うと動物園で管理されれば安全であることが前提となっているクマさんが逃げたことです。3の言葉については、本来原発は絶対安全だとして管理していた放射性物質が爆発したことを問題にしている状況で、放射性物質はどんな由来でも放射性物質でそう変わりはないと言うことに意味はありません。3は、自分の科学的知識の範囲で考えられる範囲に問題を狭めてしまえば成り立つかもしれませんが、問題の焦点とは異なっています。
4のアナロジーとして、裁判判決の「水商売の女性との関係は恋愛関係のない枕営業だから夫婦関係上、何の問題もない」が会場から挙がりました。また、「『長谷部さんが銀行強盗をしている時に、私はその車を運転していて、銀行強盗の現場に行っていないから銀行強盗と一体となっていないから法律上問題ない』と言ったって通用しない」という趣旨の言葉(憲法学者・小林節氏)を影浦さんは例示しました。
(影浦さん)5はそもそも法律や基準に関係することであり、背景を確認する必要があります。この作業は次の作業(知識を確認していく作業)に通じるものです。「年間の被ばく量は5~6ミリシーベルト」という基準は、放射線管理区域に相当します。また、管理基準では一般公衆の被曝限度は年間1ミリシーベルトと定められています。法令が不備なため、現状についてこの法律を適応できるか厳密にはわからないという問題はありますが、一般に1ミリシーベルトを最大の追加被ばく線量とする社会的合意のもとで原発が運用されていたのですから、これを維持する形でその立法の欠陥を埋めるのが当然であり、その欠陥を利用して、だから現状を放置していいのですという論理は間違っています。なお、原発とは対照的に、脱法ドラッグについては、次々と法律に規定されていないドラッグが出回っている現状に対して、包括指定により管理されることになりました。法令とのこうした関係を踏まえるならば、5の言葉は、「未成年の飲酒量は多い季節でも一人当たりウィスキー換算200mlくらいです。でも、毎日飲んでいるわけではないので、実際の飲酒量の一日平均はずっと低くなるから、未成年の飲酒は認めてよいと思います」、Dr.影浦の飲酒の時代を暮らす、といった主張とアナロジカルで、そこからもおかしさがわかると思います。
=作業3=
(影浦さん)もやもやの正当性が確認できたら、言葉の背景に、変だなと思うことを公共的に共有するための根拠を探して行きます。例えば、作業1でも取り上げた「(放射線について)しかし、まだphysicalな被害がほとんど顕在化していないにもかかわらず、なぜ人々はここに不安を抱くのだろうか」(一ノ瀬正樹氏・東大哲学教授)については、physicalな被害と不安が対立していますが、「健康」とは何かという根拠を、日本も批准しているWHO(世界保健機関)憲章にある「健康」の定義に求めることができ、心と体と社会の全部が充実している状態が健康であり、不安を感じる状態は健康だとは言えず、その状態自体が被害であると言えます。どういう根拠を求めるかは、身近な例について直感で変だなと思うところを出発点に探す方向を考えて行きます。{※今回は説明のみで、ワークショップは行いませんでした。}
以上のように、言葉を分析することから、論ずる方向が見えてきて、もやもや解消の第一歩が踏み出せます。そして、アナロジーを出来るだけ身近な事例でつかうことで、表現ができるようになり、もやもやの根拠を調べる方向が見えてきます。
誰が誰に・何について・どのように、の3点それぞれについて、提示されている文章を通じて具体的に検討することが大切です。世界の言語表現の基本要素は驚くほど限られていて、言葉の対象の構成(個物の列挙と集合の導入、それらのうち何が選ばれているかによる場合分け・組分け)、正しいか否か判別する命題の構成(論理構造から)、言葉の対象の位置づけ(5W1H・誰が何をいつどこでなぜどのように)、話し手の配置(誰が誰に発した言葉か)の4つをチェックすれば、大体の言語表現については問題点を明らかにできるでしょう。
学ぶことの大きな目標の1つは、竹山美宏氏の言葉にあるように、「先生が言っているから正しい」という受け身の姿勢を「自分の頭で考えて自分が正しいと判断したから正しい」という自立の姿勢に変えることです。まず、もやもやを大切にして、自分が悪いと思わずに――もやもやのなかには怒っていいくらい正当なもやもやがあり、自分で或いは人と相談しながら言葉にしていくことが大切です。
最後に、いわき市在住の千葉由美さんから、『いわき市の取り組み――学校給食問題での教育長の言葉を紐解く』というテーマでお話しいただきました。
(千葉さん)学校給食で早く地元福島のお米を使わせようという動き――風評被害を払しょくさせるために、福島の子どもたちが福島産の食品を食べていることで、安全をアピールするという動きあり、これを実施する自治体には補助金が出る制度が設けられているというシステムになっています。いわき市は2013年4月に学校給食にいわき産米を使用することを検討し始めました。
そこから、私たちは「子どもたちの安心・安全を考えるいわきママの会」を始めました。1年半にわたって、署名集めや要望書の提出などを行ってきましたが、14年10月に教育長の判断によって、強行に地元産米の使用が決定されました。私たちは、いわき市教育長に対し、『原発事故に伴う子どもへの健康影響についての質問書』を14年12月に提出しました。教育長からは、文書による全回答は立場上できないとのことでしたが、一部回答いただけた言葉から今日のテーマについて考えたいと思います。
「状況認識の手続きについて――お弁当持参の申請が300人程度であったことから、不安に思っている家庭が少ないと判断できると思いますか。」という質問に対し、教育長の回答には、「300人を多いとも少ないとも捉えてはおらず、それを現実として受け止めなければいけないと思っている。そして、その現実を踏まえて、今後も測定の現場を見学してもらうなど、理解を得るための努力をしていく」とありました。現実は――300人が現実ではなく、意思表示ができないまま不安に思っている保護者が潜在しています。保護者が持つ選択肢は、給食に同調して子どもの心を守るか、お弁当を持参させて子どもの体を守るか、のいずれかしかありません。教育委員会は、実際には300人を上回る不安が、保護者の間に存在していることを分かっているため、私たちがこれまで何度もアンケートの実施を求め続けて来たにも関わらず、いまだにそれに応じようとしていません。
「差別について(教育長の考え)」という質問に対しての回答には、「水俣の子どもたちも長い年月をかけて誤解による人権侵害を受けてきた。正しい知識を身に着けることでそれは払しょくしていける。つまりそれが放射線教育だ。この土地でできたものを食べることができないことや、この土地で暮らしながら外で活動ができないということは、差別に繋がる。将来子どもたちが差別を受けた時『いや!そんなことはない。地元のものを食べて、外で過ごすことができた』と言わせてやるためにも、検査体制を整えて除染をすることが大事」とありました。
この回答の構図や論点について、前回のリテラシー・ワークショップで整理したことをお話しします。
回答にある「子どもたち」を分けて考えてみると、水俣の子どもであれば、被害を受けて病気になった子と病気にならなかった子がいて、いわき市の子どもであれば、今後病気になる子と今後病気にならない子に分けられます。このうち、教育長が指している「子どもたち」は、水俣の病気にならなかった子のことであり、病気になった人たちは隔離されて差別をうけたという事実があるにもかかわらず、それらの人のことには触れられていないという矛盾があり、実態が隠蔽されています。
いわき市の子どもが「地元のものを食べて・・・」と言い返すことができるのは、今後病気にならない子であるという前提が抜け落ちています。今後身体的な影響を被り、事故によって苦しむ子どもたちが含まれていません。水俣で、人権侵害を長い年月をかけて払しょくしてきたのは、病気にならなかった子どもたちです。
水俣については、差別をしたのは周りの人、垂れ流して幸福に生きる権利を奪ったチッソ、それを規制しなかった社会という問題の原因があります。今回の原発事故をそれと対応させて考えれば、ばらまかれた放射性物質であり、原因となる社会問題があります。それらを無視したままの論点となっています。一方で、検査体制を整え除染をする必要があるといい、ばらまかれたという事実、原因を認めていると考えられるにもかかわらずです。
この教育長の給食問題についての言い訳に対してその協議の最中から腹立たしかったが、瞬時にその論理矛盾を指摘できませんでした。そんな自分が悔しくて、まだまだ力不足だなということが思い知らされました。こういう事例は他にもたくさんありますが、市民がなんとなく「おかしい」と思っても、「おかしさ」を指摘できる力が市民に十分になく、先ほどのような報道のあり方を市民が許していることにつながっていると思います。私たちがしっかりしていれば、さらに子どもたちが被ばくしていくことは無かっただろうという強い後悔の念があります。
けれども、このように思っている人は一握りかもしれないし、一市民が、一母親がそこまでの力をつけられるという場はまだ少ないです。でも、それに気づいたことがスタートラインだと思うので、今回のように市民の言葉の力を磨いていく、ますます引き出していくような場が大事だと思っています。今日はその素材として、給食問題を取り上げました。
「おかしい」と気づく目線を植え付けていくためにも、誰かがメッセンジャーになって「おかしさ」を発信していくことが大事だと思うので、地域を超えて伝えていきたいと思います。
(影浦さん)最初にお話しした、学ぶ目的につながっていることに皆さんもお気づきになったのではないでしょうか。
これまでのお話しをふまえて、あらためて「(放射線について)しかし、まだphysicalな被害がほとんど顕在化していないにもかかわらず、なぜ人々はここに不安を抱くのだろうか」(一ノ瀬正樹氏・東大哲学教授)を考えてみると、不安と感じる人が問題化されて、実際に汚染されていること自体は隠蔽されて、元気で不安を感じさせない子どもたちをアピールすればいいという形でサイクルが動き始めてしまう。
でもそういう時に、最低限、世の中に健全な側面もあって、行政の人が「『空気』を読めと飲まされて」と題するポスターで、イッキ飲ませ・飲酒の強要阻止の広報を行っており、これをアナロジーとして給食問題のお弁当の話を考えれば、「お弁当を持ってくるのはつらいというのは、空気を読まされている」ということであり、いわき市の行政の人に対し「今やっていることは、飲酒についてはおかしいと言っているじゃないですか」と言える。このように、これまでの行政の発言や行いと対応させてあてはめてみると、今の行いや発言は「おかしい」と指摘できることがあります。
千葉さんが「市民がきちんと言葉にできなければいけない」と提言されました。社会に向かって開いていくという時には、もともと社会で共有されている情報に根拠を求めていけます。日本には憲法をはじめ、言葉の上ではかなり健全なものが共有されていますから、そういう言葉をどこまで丁寧に使っていき、きちんとその場その場で言えるような練習と準備をしていかなければいけません。
原発事故の問題は、ひとりひとりが固有に抱えている困難な問題です。けれども、社会が水俣に学べなかった部分が悪い形で出ている側面もあります。いまここで一緒にどうやって原発事故に対して反論したり、少しだけ真っ当な社会をつくるための言葉を発したりするのかは、このこと自体を経験していなくてもアナロジーによってもう少し分かるかもしれない。そして逆に、このこと自体について言葉にできたら、他のことについて経験したことについてもそれだけ真っ当な会話ができるかもしれません。
言葉の形は限られています。どのようなものを見ても、いくつかの限られたパターンで嘘や間違ったことが出てきます。ただ、違う領域の話になると気づかないだけです。気づけるよう練習して、まさに現在進行形の問題について共有して、少しでもできることを、と思います。
(千葉さん)福島で何が起こっているのか分からないという状態だと思いますが、私たちはなるべく伝えたいという思いがあります。一方通行ではなく、私たちが発信することについて、何が疑問なのか、何が分からないのか、受け手と発信する側とが直にやりとりして問題を共有し、具体的な動きにつなげたいと思っています。
(鈴木さん)今回のような場が持てるようになっただけでもチャンスだと思っています。みなさんと疑問を共有して前に進める場をつくって行きたいと思います。 ■
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