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報告=ソーシャル・ジャスティス基金(SJF)アドボカシーカフェ第31回 

 

◆ 次回アドボカシーカフェ ◆  

ヘイトスピーチをのりこえる!
 【日時】1112日(水)18302100
 【会場】文京シビックセンター 
 【登壇】辛 淑玉さん(のりこえねっと共同代表
     上村 英明さん(市民外交センター代表)
     寺中 誠さん(日本経済大学現代法学部非常勤講師)
 【詳細】 http://socialjustice.jp/p/20141112/

 

外国人と生活保護

シリーズ:「日本で生かそう!国連人権勧告」第6

  

 20141014日、SJFは第31回アドボカシーカフェを若松地域センター(東京)にて開催しました。大分生活保護事件について、福岡高裁判決と最高裁判決とを国際人権法の視点も含めて分析するとともに、自治体の福祉業務の現場の視点からみた社会保障政策全体への提言がなされ、私たちが現在直面している問題が集約されていることが浮き彫りとなりました。

 ゲストの奥貫妃文氏は、「外国人は生活保護が受けられなくなった!」と単純な誤解された受け止め方が先走りしていることへ強い危惧を示しました。福岡高裁の判決を画期的と評価しながら、最高裁の判決は元に戻ったに過ぎず法的インパクトはないとの考えを示しました。一方、社会的インパクトとして、ネットや報道、さらに地方議会などでリアルに外国人の生活保護申請を排除する動きが現れ、政治の主流派の人たちがこの排外主義的な流れに乗ろうとする動きにつながっている点を指摘しました。今後の課題として、外国人の社会権について、国際法と整合性をとりながら正面から理論の精緻化を進める必要があると提言しました。

 一方、コメンテータの大川昭博氏は、福祉業務の実務に携わる立場から、原告の方に「活用可能な」資産が確認されていることから、どこの自治体においても判断が割れる難しい事案であり、保護の決定自体は明らかに不当とは言い切れないところに「弱み」があったのではないか、したがって、敗訴したからと言って、外国人に保護請求権を認めない今の解釈が正当性を勝ち得たわけではない、との見方を示しました。一方、この判決が独り歩きあるいは曲解されることによって、生活保護制度への無理解がいちだんと増幅され、生活保護を受給している外国人へのプレッシャーが強まるような世の中になるのではないか、との危惧が示されました。また本質的な問題としては、労働力不足を補うために外国人を受け入れていながら、移住者の存在を前提としない社会保障・福祉制度となっているがゆえに、貧困や格差が拡大し、結果として外国人の生活保護が増えていくという悪循環がある、との考えを示しました。今後、国境を越えた人の移動がさらに活発になる中で、社会のリソースをどう分けていくのか、私たちの社会の在り方が問われており、外国人を単なる「労働力」としてではなく、地域でともに暮らしていくことができるようにするための基盤を構築することが重要だと提言しました。

 会場全体での対話を通して、この判決が問うているものは、外国人に生活保護を出していいか、という議論にすり替えられるものではなく、移住者が貧困に陥るリスクをできる限り減らせるような、場当たり的ではない制度設計が重要性ではないか、ということが強調されました。

 

 主なプログラム 
  講演:奥貫妃文さん(相模女子大学人間社会学部社会マネジメント学科専任講師)
    大川昭博さん(自治体職員、移住労働者と連帯する全国ネットワーク運営委員
 ◇ 質疑応答とパネル対話
 ◇ グループ対話 
 ◇ 講演者との対話
 *コーディネータ・寺中誠さん(東京経済大学現代法学部ほか非常勤講師/
アムネスティ・インターナショナル日本事務局長) 

 

 概要 ◆ (敬称略) 

――立法施策を伴わない外国人への生活保護

 1946年の旧生活保護法では、日本人・外国人を区別していず「生活の保護を要する状態にある者」の生活を保護し「社会の福祉を増進することを目的」としていたが、50年の生活保護法で「生活に困窮するすべての国民に対し」保護し「自立を助長することを目的」となり、この国籍条項により、外国籍の人は生活保護法の適用対象外とされた。
 52年の対日講和条約発効に伴い、旧植民地出身のほぼ全ての方が日本国籍を喪失し、「外国人」に変わった。これを背景に54年、厚生省の通知で「当分の間、生活に困窮する外国人に対しては一般国民に対する生活保護の決定実施の取扱に準じ」=準用することとなった。
 82年の難民条約批准までに、社会保障を同条件で受けられるという内外人平等原則に則り、健康保険や年金などの社会保障各法における「国民」という文言=国籍条項は撤廃されたが、唯一、生活保護法の国籍条項は維持された。さらに、外国人労働者の急増とともに不法滞在外国人の取り締まりが強化された時期、90年には厚生省係長の口頭指示により、生活保護法を準用する外国人は入管法別表・第二=永住者・日本人の配偶者・永住者の配偶者・定住者に限定された。
 行政の裁量による施策であり、法の下の平等が保障されていない。なぜ、立法施策を伴わないのか。外国人に保障されない人権として、憲法学者の芦部信喜先生は、参政権・社会権・入国の自由をあげているが、社会権については「とりわけ、わが国に定住する在日韓国・朝鮮人および中国人については、その歴史的経緯およびわが国での生活の実体などを考慮すれば、むしろ、できるかぎり、日本国民と同じ扱いをすることが憲法の趣旨に合致する。」と述べている(『憲法〔第5版〕』岩波書店2011年)。(奥貫)

 

――大分外国人生活保護訴訟に見る、法と実態の乖離

 訴訟の当事者は、昭和7年に京都市で出生し、永住者の在留資格をもつ中国国籍の人で、婚姻相手が認知症で入院後、相手の弟と同居するようになると、暴力・暴言を受け、預金通帳を取り上げられる等の経済的虐待を受け、入院した。その入院費など生活に困窮し、大分市福祉事務所に生活保護申請をしたが、本人名義の預金残高が相当あることを理由に申請が却下された。これにより、大分市に対して、却下処分の取消し、および保護開始の義務付けを請求し、予備的に保護の給付、さらに予備的に保護を受ける地位の確認を請求した。
 第1審の大分地裁判決では、訴えは全て棄却された。生活保護法1条により、受給者の範囲は日本国籍を有する者に限定されたと判断し、保護法1条が憲法25条(生存権)に反するとは言えず、憲法25条の趣旨にこたえる立法措置は司法の判断に委ねられないとした。また、国際人権規約の社会権規約を根拠に個人が生活保護の開始を請求することはできないとした。
 第2審の福岡高裁判決は、裁判所初の判断があり、画期的な判決だ。難民条約の批准とそれに伴う国会審議を契機として、一定の範囲の外国人において日本国民に準じた生活保護法上の待遇を受ける地位が法的に保護されることになったものと判断し、一定の範囲の外国人も、生活保護法の準用による法的保護の対象になるものと解するのが相当で、永住的外国人である原告は、その対象となるものとした。そして準用であっても、生活保護の利用について権利性を認め、生活保護の申請が却下された場合に、これに対する不服申し立ておよび取消を求める訴訟等で救済を受ける権利があることを認めた。
 最高裁判決は、従来通りに戻っただけであり「法的」インパクトはない。生活保護法が適用対象について定めた「国民」とは日本国民を意味するものであって、外国人はこれに含まれないものと解されると判断した。また、行政庁の通知に基づく行政措置として、一定範囲の外国人に対して生活保護が事実上実施されたとしても、生活保護法の改正等の立法措置を経ずに生活保護法が外国人に対して適用または準用されるものと解する余地はないとし、通知は、事実上の保護を行う行政措置として、当分の間、日本国民に対する生活保護法に基づく保護の決定実施と同様の手続きにより必要と認める保護を行うことを定めたものであると判断した。
 最高裁も追認した「当分の間」の通知のまま、立法措置のない不作為は克服すべき課題だ。(奥貫)

◇ 訴訟となった事案は、生活保護の実務に携わる立場から見ると、保護の決定の判断がきわめて難しい部類に入る。生活保護の申請者に本人名義の預金が残っていた場合、法第4条の規定に基づき「活用しうる資産」とみなされるのが通例である。本人が「そのお金は自由に使えない」と申し立て、たとえそれが事実であっても、福祉事務所ではその裏付けが取れないため、保護の開始決定は容易ではない。この事案についても、審査請求以前の問題として、使えない通帳を取引停止し、再発行してもらい本人が確保することができたのではないか、親族から暴力を振るわれているならば、手続きを弁護士にあらかじめ委任し救済することができたのではないか、という疑問がぬぐえない。唯一考えられるのは、相続がこじれていて、通帳に入っているお金も含め自分のものであるという主張が親族に対して積極的にできなかった事情があったのかもしれない。しかし、本人名義の預貯金があれば、それを活用する努力をしてもらうことが保護の要件とされている以上、大分市としてもそれに目をつぶって保護を開始するのは難しかったのだろう。しかも本人はその後生活保護を受けており、そのような状況であれば、裁判所が敢えて国の解釈を踏み越えた判断を下すことは考えにくい。不謹慎な言い方になるが、誰が見ても生活保護にならなければおかしい事案、審査請求であれば確実に福祉事務所が負けるような事案であれば、もしかしたら訴訟は「面白い」展開になったかもしれないが…。
 実際の現場では、外国人も日本人もほとんど違いはない。外国籍の人であっても、「申請書」を書いてもらっているし、その後の取り扱いも日本人と全く変わらない。異なるのは、「申請」の時点で、外国人は法に基づく保護ではなく、行政措置として保護を行うことを説明している。したがっていまのところ、この最高裁判決が与える現場への影響はゼロと言っていい。保護の決定をするときも、審査請求で負けるような決定は、外国人であっても行わない、というのが現場の常識でもある。社会保障制度で国籍条項があるのは生活保護法のみだが、実害が無かったから今に至っている(放置されている)のだろう。(大川)

◇ 最高裁判決の「社会的」インパクトは、「法的」インパクトに対し、非常にネガティブな方向に乖離している。「外国人は生活保護を受けられなくなった」という表現がメディアに見られたが、上記のとおり最高判決に対して誤解がある。今、排外主義が非常に強いと感じている中で、さらにこのような報道がなされ、複雑な流れを知らない先走った動きにつながっている。実際、千葉県の習志野市議会では、判決をふまえた上で、外国人の生活保護の申請が来ても受け付けないようにするという議案が提出され、さすがに棄却されたそうだ。大川さんの自治体ではどうだろうか。(奥貫)

◇ 私のところも含め、福祉事務所では外国人と日本人を区別して保護の決定を行うことはない。ただし、先の市議会のような話はあり得るだろう。議員でさえそうなのだから、まして一般市民にはどこまで理解されているか疑問だ。何より、外国人で生活保護を受けている人を見る目が厳しくなる、制度への無理解がいちばん怖いと思う。最高裁で原告が負けたからといって、外国人に生活保護の受給権がないことが正しいと証明された訳ではない。冷静に論議する姿勢が大切だと思う。(大川)

◇ もし、みなさんが、外国で困窮して日本に生活保護を求めるように外国に言われたら?もしくは日本で困窮した外国人で国籍のある国に生活保護を求めるように日本に言われたら?と想像してみると、いずれにも無理があると思うだろう。何より、生活の実体がどこにあるのかに重きを置くべきだ。日本の司法や行政は国籍で区別しているが、この形式論が行きつく先を見据えていかなければいけない。(寺中)

◇「永住的外国人」とは?(参加者)

◇ 高裁の判決文には定義がなく、不十分なところであり、今後の課題だと思っていたが、最高裁では言及がなかった。推測しかできないが、入管法別表・第二の方と特別永住者ではないか。(奥貫)

◇最高裁が福岡高裁の判決を覆した決定的な理由は?(参加者)

◇ 福岡高裁は「権利がある」とは明言していない。法的な利益があるとは言っているが、高裁ですら「権利性」を極力避けている中で、最高裁としては正面切って「権利性」を認める訳にはいかず、ある意味自然な振れ方だろう。また、既に生活保護が出ていて一応解決が付いている状態で、わざわざ権利性を認めて別の政治的影響力を行使することは最高裁としては避けたかったのだろう。(寺中)

◇実務上は、判決により生活保護が取消されないのか?(参加者)

◇ ならない。いったん決めた行政措置がひっくり返ることはない。行政措置に対して、不服申立する権利は認められないという構造があるだけだ。この方は入院中の医療費滞納分については保護にならず、その後は保護になったという行政措置がとられているが、審査請求権がある保護はしないという構造だ。(寺中)

◇財政的に厳しくなった時、この最高裁判決が使われることはないのか?(参加者)

◇ 「ない」と私は断言したい。身びいきと思われるかもしれないが、日本の自治体労働者は、概して真面目で公平性を重んじる集団である、と日々実感しているからである。しかし、何かのはずみでタガが外れ、外国人には生活保護の審査請求権がないから、法第56条で禁じられている不利益変更の例が、どこかの自治体で出てこないという保証はない。(大川)

◇なぜ外国人は審査請求ができないのか?(参加者)

◇ 国の説明では、生活保護法第1条に「国民」と書いてあるから、ただそれだけである。生活保護の高校就学費が教育扶助ではなく、生業扶助として実施されているのも、教育扶助は義務教育に対して行う、と法第13条に書いてあるから、というのと同じ理屈だ。(大川)

 

――移住を前提とした社会保障政策が必要

 外国人の貧困問題に関連して言うと、私の勤める自治体の統計では、全体の保護率は3.83%なのに対し、外国人の保護率は11.91%だ。これから少なくとも、外国人のほうが保護を受けにくい、あるいは排除されているとは言えない。一方で、外国人の方がそれだけ貧困に陥りやすいことを示していると言える。
 難民条約の批准により、社会保障制度の国籍条項が削除されたことは当然だが、これによって外国人の社会福祉・社会保障サービスが増えるということを制度設計にまできちんと入れていたかどうかが問題だ。例えば、児童手当については、こどもを連れて来日する外国籍の人が増えれば、いままでは、在来人口に対する出生率でおおよそのこどもの数が読めていたものが、途中入国により人数が変わってくるため、その分をどう予想し、予想できない部分はどうするのか等について考える必要が出てくる。また、知的障害のサービス給付基準となる判定について、母語の違う中で障害をどう判定していくのか等、外国人がいることを前提にした運用も考えなければならない。最も問題と思われる年金については、途中入国の場合は、年金受給期間は短くなり、それに伴って受給額も下がるから、当然のことながら生活保護を受ける人が増えてしまう。年金受給権については、移住者の存在を意識したグローバルな制度に移行していかなければならないにもかかわらず、小手先の改革に留まっている。年金制度の不備により貧困に陥る移住者を生活保護に送り込むことによって問題が解決するわけではない。移住者の貧困問題を、生活保護の中に押し込めるのではなく、社会保障、福祉制度全体の在り方の論議に位置付けていかねばならない。
 今の政策においては、移住者は労働力不足を「補完」するものに過ぎず、あくまで「出稼ぎ」扱いでしかない。ゆえに、定住を前提とした受け入れ制度を整えようともせず、格差を放置したままだ。これでは貧困が拡大し、今後さらに外国人の生活保護受給者は増えるだろう。内外人平等の原則に基づいて社会福祉・社会保障制度を運用することは勿論、人の移動・移住を前提にした社会保障や税の制度をつくり、定住者も移住者も共生できる基盤を社会に作ることが重要だ。その視点に立つことができれば、今回の審査請求を巡る問題もおのずと解決していくに違いない。(大川)

◇ 外国人であるが故に生活保護で救われざるを得なくなっているにもかかわらず、その最後の救済すら受けられない人がいる。これは制度設計が間違っている。社会的に弱い立場の人も、きちんとここで生活できるような社会制度が必要だ。外国人に生活保護を出していいか、という議論に変換されるような問題ではない。
 国際人権基準では、外国籍と内国籍で分けるという視点はなく、分ければ差別だ。また、実務上も、分けるのは煩雑なだけだ。しかし、訴えにかかるような場合、つまり異議申立をするような場合には問題になってきている。異議申立に権利性がないというのが日本の司法の判断だが、国際人権法では権利性があるとされる。自由権規約26条の侵害であって、社会権規約にも関わってくるという構成をとることが多い。なぜなら、社会権規約については自動執行力がないのでそれを使って訴訟ができないと言われているのに対し、大阪高裁で、自由権規約26条(法の下の平等)などの自動執行的効力を認めた例(1989年、外国人に対する指紋押捺制度について)があり司法に一定の理解があるので、もし、今回の大分生活保護訴訟も、自由権規約26条違反だからという論理で訴えた場合にはどうなるかと注視してきた。しかし、人権規約の国内法的効力の解釈をしたのは高裁レベルまでであり、最高裁はそれを避け、今回も国籍主義に戻って国際人権法が入ってこない判断をしたのだろう。(寺中)

◇ビザの更新を受けられないから生活保護を受けられないケースがあるようだ。(参加者)

◇ 在留資格が入管別表2でない場合保護は受けられない。入国管理局が、生活保護を受けている外国籍の方の在留資格を制限しているという「うわさ」も流れているが、福祉事務所の方から、在留資格を出さないように働きかけている、という事実は確認されていない。(大川)

◇ ビザは外務省、入管は内務省の管轄だが、永住者はこの問題を発生させないだろう。日本人の配偶者、永住者の配偶者もおそらく大丈夫だろう。定住者については危うい。(寺中)

◇難民は生活保護を受けられるのか?(参加者)

◇ 在留資格による。難民の方で、「定住者」でなくても、入管別表1の「特定活動」で「活動の制限」がつかない場合は厚生労働省に協議したうえで保護を受けることができる場合がある。その他の別表1の資格、あるいはオーバーステイの人を排除しているのは、生活保護は本来、働いて保護から抜けられるよう自立を助長する目的のため、就労が限定される、あるいはできない外国人は保護の対象とならない、というが国の解釈である。(大川)

 

――「国民」を、ここで「生活する」人として

◇ 大分生活保護訴訟事件は私たちの現代の典型的な社会問題を集約している。親族から虐待を受ける問題、夫の認知症があり介護の問題や成年後見制度の問題、中国籍であるが故に申請権がない問題など多くの問題を含んでいる。
 最高裁の判決により、国籍至上主義・自国民優先主義を自明のものとすることへの共感が生まれたと感じているが、これをのり超える社会権の法制度を構築することは克服すべき課題だ。改めて「外国人」の「社会権」を問い、「市民社会」の構成員としての権利と義務について、国際法と整合性をとりながら正面から理論の精緻化を進める必要がある。
 また、生活保護が準用されるのは、入管法別表・第二に当てはまる外国人のみで、準用すらされない人たちをどう社会保障制度に入れていくのか歴史的経緯も考え理論化したい。(奥貫)

◇ 外国人の保護請求権を認めない生活保護制度のありようは、現在の入国管理制度とも関連している。「公的な扶助の対象になりかねない外国人の入国は認めない」という思想は、今でも入管行政の中に色濃く残っている。生活保護制度についても全額が公費であるがゆえに、「日本に来たら日本の福祉制度に頼るな」「国民の税金で支えられているんだから、日本人に限定して何が悪い」という発想は、実は現場ではなく、一般市民の中にこそ、そのような発想が根強く存在しているのが現実である。そのような、差別を生む発想を許し裏付けているのが、外国から来た人を、単なる労働力としてではなく、人として受け入れていこうとしない日本の入国管理政策であるといえる。グローバルな人口移動が避けられない今の情勢においては、移住者をどのように受け入れ、移住者も含め豊かさを公平に分け合っていくためにはどうしたらいいのか、を考えていくことが不可欠である。その意味においても、入国管理政策の在り方は、私たちの社会の在り方に関わる課題であると言える。(大川)

◇ 国民とは何か?納税者には、さまざまな国籍の人が含まれるから、国籍とは当然イコールにはならないというのは国際法上も常識だ。国民を、日本国の予算・財政を握ってそれを支えている人々という意味でとらえるならば、納税者はいろいろな国籍の人がいるが、その人たちすべてに福祉や公共サービスを提供するのが妥当だろう。それを、国民に限ってサービスを提供するのは国際的には一般的ではない。要は、そこに「生活している」という状態がはっきりするのであれば、その人にサービスを提供するべきだ。日本の場合に問題なのは、「生活している」という状態をはっきりさせるのが「戸籍」であり、国籍と一致させられる点だ。なぜ、戦後まもなく、全ての在日の人を日本国籍から排除できたのかについては、物理的な面だけでも他国からみれば不思議かもしれないが、植民地出身者の方を以前から別の戸籍で管理していたため、それをそっくり日本国籍から外してしまえたからだ。日本に住み続けながらも、突然、日本国籍を失うとともに、国民としての権利を失った為にこのような問題がおきている。
 政策がないのがポイントだ。政策を考える時の一番の基本は、誰が権利を持っていて、誰が義務を負っているかを明確にすることだ。生活保護も、生活者がその権利を持っていて、国側が義務を負うというシステムになるはずだが、場当たり的にピースをはめ込むように対処してきた結果、権利・義務関係が不明確のままで、政策として完全に理解できる人はおそらく皆無の有り様だ。国際人権委員会からも、政策をつくるよう勧告されている。(寺中)

 

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