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  ソーシャル・ジャスティス基金(SJF)アドボカシーカフェ第40回開催報告

 

民主主義をつくるお金

ソーシャル・ジャスティス基金の挑戦 

 

 2015114日、小熊英二さん(慶應義塾大学教授)をゲストにお迎えし、上村英明(SJF運営委員長)のコメントと西川正さん(ハンズオン!埼玉常務理事)のコーディネートによるアドボカシーカフェを、SJFは文京シビックセンターにて開催しました。

 「自分が悪いのだ、しかたないのだ」という一人の思いから、社会全体が「これが問題だ」と思うまでに至ることの重要性が提示されました。「これが問題だ」と社会で認識されると、社会が変わります。「問題だ」と声を上げる時、その認識を共有していない人や異なる認識をしている人と対話し、認識の共有を拡大していくことが大事だと強調されました。社会の枠組みが変わることとお金の流れが変わることは循環しています。社会の枠組みは、全員が参加して、究極の目的は何かを考え、つくり続けていくことが大切だとの認識が共有されました。

20151104SJFアドボカシーカフェ 全登壇者 

西川SJFはいままで3回助成金を出していて、今日のようなカフェもやっています。社会的な対話をどう進めていくかを大事にしている団体です。その活動を目に見えるようにしましょうと、本を作ることになり、今年の始めから準備を進めてきました。そのなかで、どなたかにSJFの社会的な位置づけを語っていただきたい、この活動がどんな文脈に位置していくのかを評価していただきたい、そのうえで次の展開を考えていこう、という話になりました。では、どなたにお願いするか。それは、やはりベストセラー『社会を変えるには』を書かれた小熊英二さん以外にいないでしょうと私が勝手に言ってお願いしました。

 それではまず小熊さんに、今の社会のなかでSJFをどのように位置づけていけばよいのか、あるいは社会を変えるにはという視点から見たらどういうふうに語ることができるのか、お聞きしたいと思います。

  

――小熊英二さん 講演アドボカシーについて――

 

 この本(『民主主義をつくるお金』)がちょうどできあがったところだそうで、その中身も拝見しました。でも私は、この本や日本の社会運動圏で使われている「アドボカシー」(advocacy)の意味がわからなくて、自分なりに調べました。それで自分なりにわかったことをお話しながら、このソーシャル・ジャスティス・ファンド(SJF)について私なりの考えをお話したいと思います。1番目に「社会を変える」とは何か、2番目にアドボカシーとは何か、3番目にSJFの活動についてお話したいと思います。

 20151104SJFアドボカシーカフェ ゲスト

「社会を変える」とは

 

 「社会を変える」という言葉から、何を連想するか。法律を通すとか、議会の議席の配置を変えるとか、首相を変えるとか、いろいろあります。しかし民主党政権になったとき、首相あるいは与党が変わっても、あまり「社会」が変わった実感がなかった、とお感じになった方は、多いのではないでしょうか。

 では、何が変わったら「社会が変わった」ことなるのか。私は社会学者ですので、基本となる学問的なことを少しお話します。

 

力があるとみんなが認識するから力がある

 「法」とか、「権力」とか、「経済」とか、この社会で「パワーがある」と思われているものがあります。これらはいったい、何なのか。社会学的にいうと、これは「『力』として認識されたもの」なのです。

 例えば、ここに1万円札があります。1万円札は「力」があるでしょうか。上村さん、これは力がありますか。なぜ力があると思うのでしょう?

上村)はい、欲しいからです。

小熊)なぜ欲しいのですか。

上村)いろんなことに使いたいので、もらえたら何でもできます。

小熊)何に使いますか。

上村)食べ物を買ったり、本を買ったり、何かできそう。

小熊)でも紙切れですよ。

上村)でも価値があるので、日本の社会では使えます。

小熊)でも紙切れですよ。

上村)アメリカではもちろん紙切れですね。でも日本社会では意味があります。

小熊)どうして意味があるのですか。

上村)価値があるという合意があるので、使用できるからです。

小熊)そう、「価値がある」という「合意」があるから、「力」になりうるのです。つまり、本当はただの紙切れなのだけれど、みんなで「価値がある」と認めているから、紙切れ以上のものになるのです。

 もちろんみなさんも、紙切れそのものに価値を認めているのではない。日本政府の軍事力や警察力、あるいは日銀の信用力とかが、この紙切れの「価値」を保障しているから、それを信じている。そして、それを信じている人のなかでは、紙切れが人を動かすことができる。信じていない人、たとえば日本の通貨を見たことがない外国の人にとっては、紙切れにすぎません。

 つまり「力」というのは、みんなが「力があると認識している」から、「力」になるのです。本当は紙切れにすぎない1万円札に「力」があるのはなぜかというと、これを見せると人が動くからです。紙切れをめぐって人が争ったり、紙切れがほしくて働いたりする。ではなぜ人が動き回るかというと、人々がこれは力があると認めているからです。

 つまり「力」とは何かといえば、「人を動かす源」です。しかしそれは、動かされる人が「あれは力だ。従うべきだ」と認めないことには、「力」にならない。

 認識されなくなったらどうなるかというと、たちまち力は消えます。たとえば1万円札も、明日から日本政府や日銀の信用が破綻したら、ただの紙切れになります。

 つまり、「力」はそれそのものとして存在しているのではなくて、人が認めるから「力」として作用する。みなさんご納得いただけますか。ここは肝心な箇所です。

 「権力」もある意味、同じです。たとえば「自粛」という現象がありますね。首相なり政治家なりが一言発すると、行政命令でもなく法務執行でもないのに、人々が自粛することがあります。これは、人々が「あれは力のある人が発言しているのだ」と認識しているから起きる現象です。別に従わなくても、法的には何も問題ないのに、いわば勝手に、自発的に従っている。人々が「あれは力だ」と認めることで、権力が生まれるわけです。

 それでも、最終的には軍事力や警察力が、「権力」を支えているという人もいるでしょう。別に政府を認めているから従っているのではない、政府の法律や命令に従わなかったら警察力や軍事力で罰せられるので、それが怖いから従っているだけだ、という考え方です。

 しかし警察力や軍事力というのは、いわば銀行の信用を保証しておくために、一定の準備金を用意しておくのと似ています。預金を引き出しに来る人が少なければ、いつでも引き出せて、信用を保証できます。しかし、全員が引き出しに来たら、たちまち破綻します。

 軍事力や警察力も同じです。どこの国でも、国民の全員が政府の権威を認めなくなったら、軍事力や警察力だけでは政府の力を維持できません。最終的には、政府が国民から認められなくなったら、「力」として終わりです。だからどこの国も、そういう事態になる前に、選挙をやったり、政権の支持率を高める努力をしたりして、政府を「認めてもらう」ように努力するわけです。

 

認識の枠組みを共有している集団が社会

 では、それを「認める」のは誰か。もちろん一人ひとりの人間でもあります。しかし、集合体としての「社会」が認めている、合意している、という状態にならないと「力」にはなりません。

 ところで、「社会」とは何でしょう。たとえば日本社会とは、どういう集団なのか。これはなかなか、境目をつけるのは難しいのです。

 たとえば、ノーベル賞が話題になるときに、「日本人が受賞しました。ただしアメリカ国籍です」といったニュースが流れたりします。その逆に、日本の国境内に住んでいても、日本国籍を持っていない人もいます。日本の国境外で日本国籍を持っている人もいますし、日本国籍があっても日本の文化や文脈を共有していない人もいます。となると、「日本社会」というのは、いったいどこからどこまでなのか。

 これは難しい問題なのですが、社会学の考え方からいうと、以下のようになります。

 社会の範囲とは、「特定の認識を共有している集団」です。先ほどの例で言うと、「1万円札を見せたら駆けずり回ってくれる人たち」が日本社会です。

 この例がピンとこなければ、「特定の歴史認識とか、テレビ番組とかを共有できる集団」が日本社会だ、ともいえます。たとえば「水戸黄門」とか、「豊臣秀吉の草履とり」と言ったら、イメージがぱっと浮かび上がり、ある行動様式を自分でとり始めるという集団です。

 このように、ある言葉とか、あるいは一万円札とかを出したら、特定の行動をとってくれる集団。社会学的に言うと、特定のフレームワークを共有している集団が「社会」です。

 

参加者;娘が6歳なのですが、1万円札もわからないし水戸黄門もわからない。そういう場合、どう考えたらよいでしょうか?)

 

 それは実にいいポイントです。いま話した定義でいうと、娘さんはある意味では、「日本社会」の一員になっていないのです。

 じつは私の娘が4歳のころ、こういうことがありました。親戚の家で甲子園のテレビを見ていたら、娘が「何これ」と聞く。「なんでみんな、泣いたり喜んだりしているの?」というわけです。彼女は、お菓子やオモチャをもらうと、人が泣いたり喜んだりするのはわかる。しかし、棒切れで球を打ち、走って布団を踏んだ人数が多いことが、なぜ人を泣かせたり喜ばせたりする「力」になるのか、ということを認識していない。

 こういう人は、社会を構成している認識の外部にいます。彼女はおそらく、株価が上がったり下がったりすると、人々が喜んだり悲しんだりしていることも、なぜなのか全くわからないでしょう。「あれはお金の金額だ。力の源だ」という認識を持っている人は泣いたり喜んだりします。しかしその認識を共有していない人にとっては、電光掲示板の数字にすぎません。

 野球も、株価も、いわば約束事を共有しているだけです。その約束を共有している集団にとってだけ、意味がある。その約束なり、認識のフレームワークを受け入れると、電光掲示板の数字の上下によって人が駆けずり回り、喜んだり自殺したくなったりするわけです。

 その約束事を共有している集団のことを、「社会」というわけです。「日本社会」というのは、日本でだけ通じる約束事を共有している集団です。経済の世界でいう「グローバル社会」というのは、言葉や文化が違っても、電光掲示板の数字を見て喜んだり悲しんだりする集団です。世界共通語は英語だといいますが、一番の共通語は何といっても数字ですね。

 これを社会学では、特定のフレームワーク、特定のconstruction(組み立て、構成)を共有している集団だ、と考えます。

 ちなみに、憲法はconstitutionです。Constitutionというのは、「構成」とか「体格」といった意味ですが、憲法は「国の骨組み」です。日本国家の「骨組み」というのは、象徴天皇がいて戦力は持たないことになっているとか、言論の自由があって男女平等であるとか、そういうものです。それを変更しようとすると、「日本が日本でなくなる」という反応がおきる。そういった約束事を共有している集団が日本社会だ、という認識があるからです。

 

「これが問題だ」がリアリティになると社会が変わる

 この考え方からいうと、「社会を変える」とは何かというと、フレームワークを変えることです。

 フレームワークが変わると、人々の行動が変わります。たとえば「一万円札なんか、じつはただの紙切れじゃないか」という認識を人々が持ち始めたら、直ちに人々の行動が変わります。

 もっと身近な例で言えば、かつての日本の企業の会計基準は、今とは異なっていました。そのころは、企業の行動の原理が、いまと違っていました。とにかくシェアや売上げ重視で、経費はいくらかかってもいい、という行動原理だったわけです。ところがある時から、会計基準が変わって「売上げよりは利益だ」となり、売り上げがいくら上がっても、コストがかかると意味が無くなった。すると企業の行動様式が、直ちに変わりました。

 これはビジネスの世界では、「ルールが変わる」と表現されます。こういうふうに、フレームワークが変わると、人々の行動様式がガラッと変わってしまいます。

 政治の世界では、どうでしょうか。たとえばGDPを増やすのが、政治の目標になったりします。しかしこのGDPという概念は、1944年以前にはありませんでした。

 それ以前には、国力を何によって計っていたかというと、戦艦の数だったりしました。せいぜい、戦艦のもとになる、鉄鋼の生産量です。しかし現代では、戦艦の数や鉄鋼の生産量を、大国の条件だと思っている政治家はまずいません。

 また私の思うに、あと数十年のうちに、GDPという指標も、歴史的遺物になると思います。「中国のGDPが増えている」というけれども、実態としては、アップルのスマートフォンを、中国の国境内にある工場で組み立てているだけです。その部品は、日本から輸入したものだったりします。こういう状態で「中国のGDP」が増えても、それは「中国国境内の経済活動の付加価値の総額」というだけですから、それが「中国の国力」とイコールなのかはわかりません。グローバル化の時代ですから、1944年に作られた基準が時代遅れになるのは当然です。

 そうなると、20世紀の政治家や政府と、21世紀の政治家や政府は、違う原理で動くことになります。「まずは経済だ」とかいっても、「経済の指標を何で測るのか」の約束事が変わってしまえば、それ以前の努力は無に帰します。「まずは経済だ」という以前に、「そこでいう経済とは何か」の方が重要です。

 「法律を変える」というのはどうでしょうか。これも、たしかに「社会を変える」ことの一つの方法です。なぜなら、法律は社会の重要なフレームワークだからです。しかし、法律だけがフレームワークではありません。

 たとえば、自動車走行の制限速度をいつも守っている人は、ほとんどいないと思います。法律や省令に何が書いてあったとしても、「あんなものはそう書いてあるだけで、従う必要はない」と社会の側が認識していたら、たとえ法律の文面を変えても、何も変わりません。「力」だと認識されなかったら、一万円札が紙切れであるように、法律も文章にすぎないのです。

 その逆に、法律に書いていなくても、慣例として「みんなが従うべきだ」というルールになっているものがある。たとえば、正社員を解雇する前に企業が努力すべき基準は、別に法律の文面に書いてあるわけではないのに、社会的通念になっているとして裁判所が認めて判例になっているわけです。

 こう考えると、法律といえども、人々が「こうするものだ」と暗黙の了解をしている約束事に沿っていないと、「力」にならない。むしろ法律や判例というのは、人々が暗黙の約束事として従っていることを文章にしただけだ、という考え方もあるわけです。

 そう考えると、「社会を変える」というのは、フレームワークを変えることだ、ということになります。フレームワークが変わると、リアリティが変わります。

 「リアリティ」というのは、日本語でいう「現実」とは少し違います。「なにかリアリティがない」という言い方がありますが、これは「自分には認識できない」ということです。たとえば殴られても、興奮していると痛くなかったりします。つまり、「ケガ」という「現実」はあっても、「痛み」として認識できていないのです。興奮が覚めるとものすごく痛くなったりしますが、そこで「リアリティ」になったわけです。

 日本社会でフレームワークとリアリティが変化した事例でわかりやすいのは、1945815日です。あのとき、べつに日本社会の構成員が入れ変わったわけではない。憲法や法律は、あの日に変わったわけではない。軍事や経済の指標も、あの日に突如変わったわけではない。それなのに、その当時に日本の中心だと思われていた天皇が、もう戦争を終わりにしていいと放送したら、ガラッとフレームワークとリアリティが変わってしまった。そして、人々の行動様式がどんどん変わっていったわけです。

 こういうのが、「社会が変わるということ」だと私は考えます。首相を取り換えたり、選挙で勝ったり、法律を変えたりすることは、フレームワークを変える重要な方法ではあるけれど、あくまで手段です。手段にすぎないものを、目的と勘違いしていると、失望することになります。なぜかといえば、それだけでは変わらないことが、たくさんあることがすぐわかるからです。

 そこで、社会運動について述べることになります。社会運動を効果的に行なうにはどうしたらいいか、という学問的理論はいろいろあります。「社会運動の目的は、議会で法律を通すことだ」という研究も多いですが、それとは少し違う流れとして、「社会運動の目的は、社会の認識を変えることだ」という流派もあります。

 後者の流れは、constructivism(構築主義)という考え方です。後者の流派の考え方では、社会運動で何よりも重要なのは、「これは問題だ」という認識を作り出すことだ、ということになります。

 たとえば1950年代初めくらいまでのアメリカの南部社会では、白人と黒人はバスの中で違う席に座ることは、「問題」だと認識されていませんでした。しかしあるとき、一人の黒人女性が白人専用席に座ったときから、認識が変わった。最初は、「その女性が従わないのが問題だ」と思われていました。ところがそのうち、「白人専用席と黒人専用席があるのかの方が問題だ」と逆転するわけです。

 こういうふうに認識されて初めて、「これは問題だ。だから変えなければいけない」という動き(ムーブメント)がおきる。政党を動かすとか、選挙で勝つとか、そういったことは、「これが問題だ。変えなければいけない」という認識ができたあとになって、手段として重要になってくるものです。

 そういうふうに、人々の行動様式を変え、社会を変えるのが、社会運動だというわけです。問題が「問題化」され、運動がconstruct(構築)されてくるにはどうしたらいいか、というのがconstructivism(構築主義)の考え方です。

 815日の天皇の放送と、アメリカ南部で黒人女性が白人専用席に座ったという行為は、リアリティの変容をもたらしたという意味で共通しています。いったんリアリティが変わると、なぜそれ以前はあんな考え方をしていたのかが、かえってわからなくなる。「魔法が解けた」という言い方をしてもいいかもしれません。「魔法使い」というのは、いわば「リアリティの操作がうまい人」ですが、成功する社会運動家や起業家は一種のマジシャンです。

  

アドボカシー(advocacy)とは

 

 さてそこで、ようやくアドボカシー(advocacy) に戻ります。

 advocateという動詞が英語にあります。vocateというのは、vocalあるいはvoiceです。だからadvocate は「声を推進する」という意味あいで、日本語に訳せば「言挙げする」とか「唱道する」といったことでしょう。別にむずかしい言葉ではなくて、「ちょっと酒飲みにいこう」というのはadvocateです。

 そして、「これって問題なんじゃないの」というのも、advocateです。「白人と黒人が別々の席に座っているのは問題なんじゃないの」というのもadvocateです。社会運動でいう「アドボカシー」は、ここからきているわけです。

 

「自分が悪いんだ」から、「これが問題だ」と社会全体が思うまで

 この意味でのアドボカシーで大事なのは、「これが問題だ」と声を上げ、認識されることです。たとえば「女性がご飯を作るのは当たり前だ」という間は、「問題だ」と認識されることすらない。「これは問題なんじゃないか」と誰かが思い、「これは問題です」とadvocateして、「それは確かに問題だ」とみんなが認識するようになる。この回路が必要になるわけです。

 「これは問題だ」と認識されるには、まず当人たちがそう思ってもらわないといけない。たとえばブラック企業で働いている人は、「僕が悪いんだ、しかたないんだ」と思っている場合が多い。「これは不当なんだよ」と言われ、自分たちがそう思い、周りの人たちもそう思い、「お前がダメなんだ」と説教していた家族も「じつはあれは不当なんだ」と思い始めることから運動は始まります。その次に、そうして立ち上がって訴訟を起こしたり労組を結成したりした時などに、社会全体が「あれは正当な主張だ」と思ってくれることが大切なのです。

 お金や票を集めたりするのは、その次の段階です。また逆にいえば、「それは確かに問題だ」という認識が広まらなければ、お金や票は集まってきません。

 

認識を共有していない人と対話する声の上げ方

 次に理論として研究されているのは、声をあげる、アドボカシーをするにしても、「上手な声の上げ方があるだろう」ということです。

 たとえば「女性がご飯を作ってばかりというのは不当なのではないか」ということを考えた時に、直ちに鍋をひっくり返すというやり方は、あまり上手な声の上げ方ではないかもしれません。それよりは、「私の家事時間は貨幣に換算するとこれくらいで、ヘルパーを雇うとこれくらいの費用負担になる。だから『食わしてやっているのだから文句をいうな』ということにはならない」と説得するやり方のほうが、いいかもしれません。

 こんなふうに、なるべく広い範囲の人に、「あなたのいっていることは正当だ」と認めてもらえる言い方がある。場合によっては、政策や法律の専門家に、行政や政府を動かすための「言語化」として、法令的根拠や判例を指導してもらうというやり方もあります。そういうことを研究したり、アドバイスしたりするのも、「アドボカシー」の一種です。

 ほかにも、「子どもの貧困は放置していたら20歳になった時に何千万円かかります」というような言い方や、「軍拡をやると、経済的に非合理的ですし、国際摩擦は増加します。ですからこちらの政策のほうがいいです」といった言い方もあります。近年は、単純なヒューマニズムや平和主義では説得力が薄いということで、こういう言い方を開発するのがはやりのようです。

 もっともこういうのは、きわめて今風の説得の仕方というか、アメリカのエリートを口説くときのやり方だな、とも思います。こういうのは、合意と認識を広めるための手段ですから、相手次第と思ったほうがいいでしょう。実際のところ、「子供の貧困は重要な問題だ」という認識を広めるのに、経済合理性やコストから説得したほうがいいか、目の前で子供の貧窮ぶりを見せたほうがいいかは、相手によるとしか言いようがありません。

 この場合重要なのは、これは一種の対話だということです。「自分はこれだけ熱心なんだから」とか、「仲間もみんなこう思っている」というだけでは、認識を共有していない相手を口説くのは難しいということです。人の認識体系はいろいろですから、受け入れられたりしやすい声の上げ方がある、洗練させたほうがいい、という考え方は重要だと思います。

 その一つの方法として、「政策提言」とか「経済合理性」とかの形もあるよ、ということでしょう。日本にあてはめて活動するなら、日本の政治家や経済人にあわせた説得の開発、いわばローカライズがあってもいいと思います。

 私が調べたところ、日本で「アドボカシー」という言葉を使う場合、二種類の使い方があるようです。一つは、マイノリティが権利を主張する、「声を上げる」という意味の使い方。もう一つは、専門家による「政策提言」といった使い方です。この二つは、言葉の元の意味に帰れば、どちらも「アドボカシー」です。

 

ソーシャル・ジャスティス基金(SJF)について

 

 そこでソーシャル・ジャスティス基金(SJF)について、私のコメントに入ります。

 

活動の重要性を認識させる効果、きっかけをつくるお金

 SJFが出版した本を読んだところ、SJFが参考にしたアメリカのタイズ財団は、年間100億円くらい助成していてたくさんの活動をサポートしています。しかし、SJFの基金は年間300万円で、これまでの助成は一件あたり80万円とか25万円とか、はっきりいえば少額です。そのお金だけで何ができるかということだけをみれば、微々たるものだともいえる。

 しかし効果というのは、金額だけで決まるものではない。こういうムーブメントは、ただ事業を推進することではなくて、認識を変化させるという効果がありうる。

 つまり、金額としてはわずかでも、選ばれてお金が出たということになれば、「こういう活動は重要なものなのだ」という認識を広げることができる。社会にそういう認識を広げる効果もあるでしょうし、助成された当人たちが認識されたと喜ぶでしょう。

 もう一つ効果があるとすれば、いわゆるレバレッジです。レバレッジとは投資で使われている言葉ですが、要するにテコのことで、こちらがちょっと動かすと向こうが大きく動いてくれるというものです。

 つまり、あるグループに25万円の援助を出したら、それをきっかけに向こうは動き出す。そのグループがその活動のために費やす労力は、もしかしたら500万円分くらいかもしれません。つまり25万円の援助が、500万円のぶんだけ人を動かす、つまり「力」になるわけです。この場合、レバレッジは20倍になります。

 議論の切り口として、だいたいこんなところです。

 

西川)ありがとうございました。ご指摘いただいたことについて、まず上村英明さんからコメントいただきたいと思います。

 

――上村英明のコメント――

 

 『社会をかえるには』という本にはとても刺激をうけたのでお話をうかがいたいと思っていました。今お話をうかがって、頭の中が整理されてきたなと、印象的でした。

20151104SJFアドボカシーカフェ コメンテータ

 

問題の原因を普遍的に解決できるよう、制度・政策を変えていく活動を支援

 原点となる「アドボカシー」という考え方、問題があるから「声をあげる」ということについてまずお話します。私は学問の世界にいるという形になっていますが、どちらかというと社会運動家なものですから、その視点から言います。

 声を上げた者がいると日本社会では今までどうしていたか。現場に向かっていたのです。つまりブラック企業で働いている若者がいると、彼をどう助けるかと。障害者で雇用されない仕事に就けない人がいると、彼・彼女の雇用を確保するためにどう戦うかと。権利を奪われていた人あるいはさまざまな理不尽さに遭っていた人たちがいれば、その人たちをどう助けるかという活動が現場主義です。とくに、NPO/ NGOは、声を上げる人たちを組織化して、具体的に困っている人がいれば現場でどう救済するかということに取り組む組織だと思われてきたし、自分たちもそう思ってきました。

 そのなかで法や制度の問題が出てきても、それは救済の道具だと思われる場合が多かったと思います。彼・彼女を助けるために、行政や企業と交渉するための道具あるいは訴訟する場合には弁護士さんを通じて勝つための道具でした。 

 ソーシャル・ジャスティス基金(SJF)は、さまざまな声を上げている人たちを具体的に救済する活動はそれぞれのNGO/NPOにお任せしている支援者としての団体です。その支援の考え方は、声を上げる原因となったことが他のところで起きないようにする、さらには現場での市民活動がなくなってもその問題が起きないようにするために活動しようという、現場主義だけではないNGO/NPOの活動――具体的な現場での救済経験をもとに制度や政策を変えようとする別の活動に取り組もうというNGO/NPOの活動――を支援するものです。

 小熊さんがおっしゃったように、我々の言う「アドボカシー」は狭い意味でのアドボカシー、「政策提言」あるいは「制度・政策づくり」なのです。戦後の労働運動や学生運動がイデオロギー的な体制転換運動だった反省から、1970年代位からの市民運動はおおむね現場に向かいます。外国人労働者の子供たちの就学支援、寝たきりの高齢者への給食サービス、有機農業者との交流あるいはアジア・アフリカの「貧困」に苦しむ村人との連帯などです。1990年代には、こうした活動にも以前にくらべればお金が回るようになり、NGO/NPOにも「市民権」が認められるようになりました。そして、21世紀。僕などは科学漫画の影響でバラ色だと思っていた21世紀ですが、社会の方向性はどうもうまくいっていない、感覚的なものですが。非暴力から暴力へ、公開から秘密主義へ、お金で測れないものからお金へ。そうした理不尽なことがいっぱい起こっている時に、それを現場の救済だけの問題にとどめるのではなく、あらためて制度や政策の実現に向かう市民社会の流れを応援していこうというのが、SJFの活動です。単にスポットとしての現場で声を上げるというところから、一歩ふみだして社会全体の問題にしていく重要性があり、グローバルな時代に「ソーシャル」を見直そうというものです。

 

流れをつくるポイントを助成する効果

 レバレッジという話もおもしろく聞かせていただきました。9月に成立した安保法制に反対している友達がたくさんいます。僕はもともと人権の問題に取り組むNGOをやってきました。人権の問題をやっている人間と、安保法制などの平和や反戦の問題をやっている人間とで、両者の違いを感じました。後者の認識は、どうやって多数を集めるかにとても力点がある、デモをやるにしても力を結集して政府に目に物を見せるという感があるのです。デモのお知らせを拡散してくださいと、みなさんにもたくさん来たと思いますし、参加者が何人かということにある種のこだわりをもっています。「人民の海」で権力を包囲するという戦術なのだと思いますが、ある意味では権力と同じような、数を力とするロジックを使っています。

 しかし人権の運動は現在基本的に「少数者」の運動ですから、「人海戦術」はまず無理なので放棄すれば、多数決原理のなかでの「社会を変える」運動は不可能に見えます。しかし運動の経験から、レバレッジに関して言えば、多数派にならなくても、あるいはなる前に存在する「あるポイント」が重要です。運動はまだマイナーではあっても、あるいは多数派にはほど遠くても、そのポイントを見つけ獲得すると、ある社会的な流れができます。たとえばメディアの人たちが集まってくる、関心のなかった組織が動き出す、「支援したい」とお金が送られてきます。私たちが支援した愛媛でのLGBT運動がそうだと思います。日本の地方でLGBTの人たちの人権を守るという運動がいまや流れになっています。沖縄の辺野古で起きていることもそうでしょう。まだ沖縄内でじゅうぶんな一致があるわけでもありませんし、日本全体でも理解は深まっていませんが、ふるさと納税の資金が寄せられ、オール沖縄という概念が登場し、知事が国連で訴えました。そのような流れを生むポイントをクリアしていくと、少数派のままでも制度や政策を変えていくこと、あるいは変えていく流れをつくることができます。そのポイントを認識しているNGO/NPOへの資金の流れができれば、数十万円の助成でも結果として数百万円を使った活動と同じような価値を生み出すことがあるのです。

 そういった団体を選べるかどうかは、SJFの運営委員会や審査委員会の力量にかかっています。助成した例ですが、監獄人権センターが行った「刑務所出所者の社会復帰に関する制度づくり」、アムネスティ・インターナショナル日本が取り組む「再審開始を題材とした死刑制度廃止運動」。「こんなテーマに助成をする財団はありませんよ」と、当事者団体の方からも言われました。じつは死刑制度の時には、助成発表フォーラムに来られた方に私は言われました、「これは何が社会正義なのですか、たかだか一人や二人の人間を救うのが社会正義なのですか、お金の使い方がおかしい」と。私は運営委員長なのでお答えしました、「一人や二人が犠牲者であれば、社会的に意味がない、もっと多数を救うような活動をしたらどうかというご意見には、この『社会正義』を冠した基金の責任者であるからこそ同意できません。『正義』という視点から言えば、一人の問題であっても、それが普遍的問題につながることがあります。かりにも司法が間違っていて冤罪をつくり、そこに制度の問題があるとすれば、たとえ一人の問題であっても、みんなの問題なのです」と。この後、袴田巌さんに最高裁が再審を決定しました。司法判断に問題があったと認めたわけです。もちろんSJFの助成だけによるものではありませんが、ある流れがある時に少ない額でも大きな効果につながることがあるのです。

 そういう意味では、レバレッジの機能を効かせられるよう、みなさんのお金を扱う基金の運営陣がどういう理念を持って、どういうふうに投資していくのかが問われ、私たちが背筋を正さなければなりません。

 ご指摘いただいたように、たかだか300万円規模で、大手の財団にくらべれば非常に小額だし、みなさんのご理解がないと助成について先の例のように逆に社会的公正や公共性が問われてしまいます。日本には公共性について非常に貧弱な議論しかないので「対象者が少なければ公共性がない」と言われてしまう時に私たちが行ってきたことを、小熊さんの話から振り返ることができました。

 

「自由」な社会と枠組み、下からつくる政策や制度で民主主義を再構成する

 21世紀になっておかしくなったと私は話しましたが、小熊さんの本で教えられたのは、おかしくなった社会というのはじつは「自由で多様な社会」だということです。この「問題だ」と言っている社会は、じつは「自由で多様な社会」でもあるのです。今では、音楽や映像はインターネットからダウンロードしたらいくらでも安い値段で手に入ります。またファーストフードがあり、ユニクロに代表されるファーストファッションがあります。旅行はLLCを使えば海外に安く行けるようになりました。航空運賃だけなら成田・台北間は999円という広告も見つけました(笑)。どこでもコンビニがあります。民営化・規制緩和の影響は、とくに東京のようなメガシティにいると感じます。賃金が上がったかということは別にして、今の社会は、普通に生活していて、その日その日が重要な庶民にはすごく多様で自由に見えるということです。そのなかで「今の社会はおかしい」と言う時には、何を指しているのでしょうか。たとえば、安保法制に反対した学生たちのグループSEALDsは「自由と民主主義を取り戻せ」と言いました。しかしたぶん「自由」という感覚は庶民のなかにはあって、響かないのだと思います。だからコアになる主張は「民主主義」です。形式的な「民主主義」の手続きに則って、安保法制は成立しました。「おかしい」というのは、実質的な「民主主義」とは何かということで、ここに大きく関わるのは何よりも「社会正義」だと僕は思っています。

 「自由」という考え方が難しい状況になったと感じています。自由民主党だって、もとから「自由」という冠がついています。この時代に、なぜあらためて制度や政策の視点からの社会変革が必要かというと、人々に「自分たちの自由な判断でやりましょう」と言うだけでは、今の社会を変革できないと思うからです。「自由」はもともと幅の広い言葉ですが、保守派から言わせれば「わがまま」、革新派からいわせれば「市場競争」を含んでとりとめもなく、個別にそして至るところに浸透しています。この時代だからこそ、小熊さんのおっしゃったフレームワークを変えるには、信じるものや意識だけでなく、いわば交通整理の道具として制度や政策を変えるのが必要なのです。制度や政策は、ある意味、強制です。人権でも、自由はさまざまな側面で基本的な価値です。しかしその自由を守るためにも、人権規準という普遍的な強制的規準が必要です。それは、自由競争を維持するためにも政府の規制や制度は不可欠であり、表現の自由はあってもヘイトスピーチは明確に禁止されなければならないことと類似しています。

 しかし新しい制度や政策が必要だとしても、一つ要件があります。それは、下からつまり市民のイニシアティブでつくっていくことです。上から制度や政策が下りてくる時には、それを扱う人の価値や意識が変わっていなければ、制度は有効に運用されず、社会は何も変わらなかったということが起きる可能性が高いのです。戦後、日本の民主主義が、日本国憲法と教育基本法を両輪としたのはそのためです。つまり下から制度や政策をつくり変えていく活動のなかで広がる意識と、それによる政策が一緒になって展開していくことによって、民主主義として市民社会に貢献するのだと思います。戦後、民主主義の格好はあったけれども、実態として意識の変革はなかなか難しかったと評価されます。この失敗は、意識を戦後教育がつくりきれなかったという問題と同時に、市民が自ら制度や政策をつくりきれなかったことに原因があるのではないでしょうか。

  

――パネル対話――

 

西川)反論してという話ではなかったと思います。最後「民主主義をつくる」という話しになりましたが、ソーシャル・ジャスティス基金は社会的公正をつくるといっていて、上村さんのなかでは、民主主義は社会的公正を含む概念だと、もしくは社会的公正のことをいっているのだというお話だったかと思います。社会学的には民主主義って何ですかと、小熊さんにお伺いしたいところです。

 

自分が決定しているという実感があるか

小熊)「民主主義」の古典的な定義は、要するに統治にあたる人が社会のなかでどのくらいの比率か、ということでしかありません。つまり、社会の統治者が一人なのが君主政、10人くらいの複数であるのが貴族政、全員であるのが民主政です。

 そうすると問題は、「自分たちが社会の統治者である」という意識を全員が持てているかどうか、というのが民主政であるか否かの基準になります。形式的に選挙をやっていても、「自分たち全員が統治者である」という意識がなくて、「あの人たちが決めている」という意識なのであれば、それは貴族政です。選挙で貴族を選ぶ貴族政というのも、古代にはあるとされていました。

 そしてそれは、「自由」と密接に関わってくる。「選択の自由がある」というのは、必ずしも「自由」ではない。たとえばA定食・B定食・C定食の中からどれでも選べます、というのは「自由」とは呼ばない。

古典的な意味での「自由」とは、「従属(subordinate)していない」、「服従していない」ということです。つまりそれは「自分が統治者である」「自分が主人である」という感覚が持てている状態です。

 それと対比されるのが、「奴隷」(slave)という状態です。それは「服従している」という状態で、自分で自分の運命を決定できない。自分の運命を決定できないのであれば、いくらいいものを着て、いいものを食べていても、古典的な定義では奴隷です。

 いわゆる「従軍慰安婦問題」でも、西洋では「性奴隷」という呼び方をする。それに対し、「そんなに待遇が悪かったわけではない」とか「暴力で強制的に連れてきたわけではない」といった反論もある。しかし重要なのは「自己決定権があるかどうか」であって、待遇がよかろうが悪かろうが、境遇が主人の意向一つで変わってしまう状態であれば奴隷です。

 じっさい古代ギリシャには、一種の高級奴隷がいました。音楽などの技術があったり、専門職であったりはするけれども、市民権がなく、民会に行く権利がない。だから民会で決定されたことに運命が左右されてしまう。だから、待遇はいいけれども、奴隷でした。

 こういう定義からいうと、「服属していない状態」が「自由」です。その意味では、たとえ高い給料をもらっていても、雇い主の意向一つ運命が左右されるような状態であれば「自由」とは呼ばない。もちろん自由主義経済では、雇い主がいやだったら、雇い主をとりかえる「自由」はある。しかし、労働力を売る時には、主人に命じられるままに働かざるをえない。

 それは、肉体労働であろうが頭脳労働であろうが同じです。マルクスがいうところの「頭脳労働」と「肉体労働」は、手足を動かしているか書類を書いているかの問題ではなくて、「命令する側」と「命令される側」の区分です。自由主義経済のもとでの労働者は、確かに封建的な身分関係から逃れて、主人をとり換えることはできるけれども、実際には自由ではない。

 同じように、800円で音楽を聴きほうだいになったからといって、自由ではない。選択肢を決定するのは向こう側で、そのなかから選ぶ自由があるだけです。与えられたものから選ぶ範囲が増えたところで、人間は自分が決定しているとか、自分が主人だという実感は持てない。むしろ、与えられる状態に慣れて、自分で作り出す力が衰えていく。つまり自由でなくなります。

 2015年夏の安保法制反対の抗議では、「民主主義ってなんだ」というスローガンがありました。私は、あれは「自分が統治者であるという実感が持てない」「自分が自分の主人であるという実感がない」ということを言いたいのだろうな、と思っていました。手続きとしては、選挙をやって、議会の多数派が形成されて、それで法案が決まっていくという流れに遺漏はないんだろうけれど、何か違うと。そういう直感を、ああいう言い方で表現しているのだろう、と思っていました。

 それは、票の数がどうしたといった話とは、別のことだと思います。上村さんは「デモの数を集めるという発想は『多数を集めることが力だ』という発想だ」とおっしゃいましたが、そういうふうには私は受け取っていませんでした。

 ついでにいえば、「数を集めるのが力だ」という発想を批判する上村さんが、「金額を集める」ことにどうしてこだわるのか、私には理解できないところがあります。金額はわずかでも、認識を広めるという効果を発揮できれば、目的は達成できるのではないか。そう考えるなら、場合によってはお金ではなく賞をあげるのでも、同様の効果はあるではないかと思います。

 もちろん、認識を広めるよりも、事業を推進するという効果を狙うんだ、という考え方からいけば、100億円あった方がいいでしょう。しかし、年間100億円を助成できる財団になったら、それはそれでいろいろ問題が出てきて、「何か最初に目指していたことと違うな」といったことも出てくると思います。それよりは、少ない金額でどういう効果が狙えるかを考えたほうが、実りが多いのではないかと思いますが。

 

「私もつくることができるんだ」と思える人を増やす

西川800円で音楽を聴ければそれが自由というわけではないというのは、上村さんはこの本のまえがきの中でもおっしゃっているかなと思います。

 小熊さんの「主人であるかどうか」というお話しをうかがいながら、私が市民活動やNPOにかかわってずっと考えてきたこと――「それが社会の問題だよ」と認識できるかどうかがポイントだということ――を思い出し、なるほどそうだなと思いました。

 「その問題の当事者が誰なのか」ということを私はずっと考えてきました。たとえば発達障害の子が一人クラスにいたとして、その子が毎日問題を起こす場合、その子の問題だと考えるのか、その子をふくめて全体のなかでどうしていったらよいのかと考えるかによって全然見え方が違ってくる。

 私は20代に障害者運動をやっていたので、「アドボカシー」という言葉は、「権利擁護」のなかで使われる言葉として聞いていました。それは80年代半ばくらいでしたけれども、ずっと後になってNPOの世界で「政策提言」の意味だよと聞いて「あれ『権利擁護』じゃなかったっけ」と思いました。小熊さんのおっしゃったローカライズということなのでしょうね。

 その障害者運動でやっていたことも、問題を「その人の問題」として考えないで「社会の問題」として考える、そういう運動だったのだろうと思います。「社会の問題だ」と言ってしまうのは簡単かもしれませんが、「社会の問題って、誰の問題?」といえば、一人ひとりが当事者であると気づいていくということだと思います。だから市民活動の意味は、小熊さんがおっしゃる「フレームワーク」をきちんと指摘して「あ、そうだ」と思ってくれる人をどれくらい増やしていけるのかということだと思います。

 それを「民主主義」の問題に言い換えると、「私が当事者なんだ」、「私がつくることができるんだ」、「誰かに決められることではない」、そう思える人が増えていくこと。このことに尽きると、市民活動やNPOがたくさん増えていくといいなと20代から活動を続けてきて思っています。私たち「ハンズオン!埼玉」ではこれを、「『どうせ』から『どうかへ』」という言い方をしています。「どうせ私のいうことは聞いてもらえない、どうせ私には力はない」という人に対して、「そんなことはない。きちんと私たちも一緒にいるし、何かを一緒につくっていこうよ」という人が隣にいれば、その人は「どうか」一緒に考えてほしいと他の人にも呼びかけていくだろう、そんな社会にしていきたいと活動をしてきました。

 その意味で、ソーシャル・ジャスティス基金から「一緒に本を作ってもらえませんか」と話があった時に、この本の意味はおそらく、「『どうせ』から『どうかへ』」を応援していこう、最終的には「だれもが、この社会をつくっていける」そのような社会をつくっていこうということだと思いました。 

 「アドボカシー」という言葉を、こんなふうに解釈してよいでしょうか、小熊さん?

小熊)いいと思います。

 

市民がつくるお金の流れ

上村)ありがとうございます。小熊さんから「なんでお金を気にするんですか」というご意見があったのですが、市民運動をやって30年位になる私も、どちらかというとお金は次にくるものだと思っていました。でもいろいろな活動をする時に、自分たちが使うお金のありがたみも30年間で身に染みて感じてきました。

 タイズ財団という話がありましたが、欧米社会には寄付文化があるので、政府や企業のお金の流れに対して、市民社会のなかでのお金の流れがあるのですね。経験からしか言えず申し訳ないですが、日本社会では、政府や企業からのお金の流れは非常に太いわけですけれども、市民自身によるお金の流れは非常に細い。これがない社会で民主的なことができるのかなと思うようになりました。

 「お金に色はない」とよく言われます。「政府のお金だって国民の税金なんだから使えばいいじゃない」と、政府のお金を使ったことのない人あるいは政府と対立することなく活動してきた人からは言われます。でもじっさいには、政府にとって役に立ちそうなことにはお金が出やすく、そうでないテーマにはお金が出ないのです。僕個人の例でいえば、1980年代にアイヌ民族の人権確保で動いていました。いくつか政府にも民間財団にも助成の応募をしましたが、当時は「同化政策は完成してアイヌ民族はもはや存在しない」と言われた時代で、どこも出してくれませんでした。存在しない集団の権利に「公的なお金」が回るはずがなく、国内制度では拉致が明かないので、国連に行く必要がありました。旅費・宿泊費をどうする、通訳を含めて専門的なサポートはどうすると考えるとお金にぶつかるのです。

 個人的な見解ですが、何億円もほしいとは思っていません。しかし300万円の基金で十分だとも思っていない。今年もSJF41件の助成申請がありました。見逃される視点を拾った非常に優れた活動が少なくありません。でもお金がないので、少ない額しか助成できない。もうちょっと市民によるお金の流れをつくらないといけないという意識は、理念的でも理論的でもありませんが、体験的であり実体的なものとして持っています。

 

全員が従属関係のない状態を共有するジャスティス

  私の言っている「民主主義」は「社会的公正」です。「横の民主主義と縦の民主主義」という言い方を私はしています。人権の問題を想定していただくとわかると思いますが、誰でもみんなが同じだという理念は重要です。我々の一つの社会のなかで、同じ市民が平等に「自分が主人だ」という意識が広がる横の軸は重要ですが、同様に我々の社会はさまざまに質の異なる集団を抱えています。その集団の人たちとの関係性を公正にしていくという縦の軸がないと、たぶん21世紀の市民社会における民主主義は成立しないと思います。西川さんに反論すると、「私が」を主語にすると、「私」は日本人か・外国人か、大人か・子どもか、男性か・女性か・あるいはLGBTか、国籍を持っていますか・持っていませんか、といったことが問われてしまいます。つまり「私」を気軽に使いすぎると、その「私」から排除される人がたくさん出てきます。そういう人たちのあり方もふくめて社会のなかにジャスティス、「公正さ」を求めていくことをあらためて考えたいというのが、ソーシャル・ジャスティス基金の一つの理念だと思っています。

 

 

小熊)ジャスティス(justice)というのが何を指すのかですが、基本的には、その社会が「これが公正だ」と思っていることです。社会保障の分野では、どういう社会保障の体系が築かれるかは、その社会によって違うという説があります。つまり、「基本的には自助努力で、弱者だけ公的扶助をすればいい」という価値観の社会と、「基本的な人権は全員に保障されるべきだから、公的扶助の所得制限はしない」という価値観の社会では、社会保障の体系の作られ方が違う。つまり、「何が公正か」は、社会によって違うということです。

 同様に、「人権はどんな人間にも保障されるべきで、それは性的指向などとは関係ない」という価値観の社会と、「社会の道徳秩序の維持は、個人の人権より優先されなければならない」という価値観の社会は、「公正」のあり方が違う。これは、どちらが絶対に正しい、というものではない。前者が文明的で、後者は野蛮だという言い方は、やめた方がいいというのが、文化人類学や少数民族問題の研究者が唱えてきたことです。

 しかしそうはいっても、個人の人権を保障する方が優先される、という価値観に世界の潮流はむかっている。また「社会の道徳秩序の方を優先するべきだ」という価値観は、現代社会においては、その本来のあり方とは異なるような、排外主義的な役割しか果たしていないことが多い。

 となると、現状の判断としては、個人の人権を優先する価値観を普及させた方がいいということになる。しかしその場合、「個人の人権を認めないのは野蛮だ」と一方的に強制しても、相手は反発するか、面従腹背で、陰で差別するという姿勢しかとらない。そうだとすれば、やはり認識を変えてもらうように、働きかけていくしかないでしょう。

 また「自分の統治者は自分だ」というのが民主主義だという定義と、公正が民主主義だというのは、矛盾していないと思います。「自分の統治者は自分だ」というのは、自分が隷属していない、自由だということです。そういう考え方からすれば、自由と民主主義は矛盾しない。

 この考え方をとったのは、たとえばジョン・ロックです。人間は神がつくったものだから、神にだけは服属しているけれども、誰でも神がつくった理性を分有している。だから、人間が人間に服属することがあってはいけない。その意味で、人間は平等であり、自由であるというわけです。これは、所得が平等であるとかいう話とは、別の考え方です。

 もっとわかりやすくいえば、こう言い換えてもいい。人間は誰しも尊厳があるのだから、その意味で平等である。尊厳がある以上、隷属状態になってはならず、だから自由である。こう言い直してもいいでしょう。

 この考え方は、アメリカにおける「ジャスティス」の考え方に、建国宣言を経て流れ込んでいると思います。つまり、アメリカでは誰でも、自分の統治者は自分であり、従属関係がない。それこそが、アメリカが自由の国であるゆえんであり、アメリカにおける「公正」である、という価値観ですね。

 それは、単に数が多い方の意見が通るのが民主主義だ、マイノリティにとっては民主主義など多数派の暴力だ、という話とは違う。ですから、私の言うことと、上村さんのおっしゃることは、矛盾したことではないと思います。

 

信頼関係を築くことから

 また寄付のことについてですが、日本に寄付文化がないといいますが、じつはそういうことはありません。たとえば戦後すぐに、シャウプ調査団というアメリカの税制調査団が入った。その報告書では、日本は寄付が多すぎると述べています。

 ところがその寄付は、みなさんが想像するような、チャリティなどではない。地域のお祭りへの寄付といったものです。お祭りだけではなくて、地域コミュニティの維持のための寄付も多かった。たとえば壱岐だと、国税や地方税よりも、住民の寄付のほうが多かったりする。ただ日本の寄付は、地域共同体単位の寄付はとても多いのですけれども、地域を超えることはまずない。

 つまり、寄付を出す範囲が「同郷の地域の人」までであって、「人類」とか「国民」とかの範囲に広がらない。政府の権威には一応したがって、税金は出すけれども、それは少ない方がいいと思っている。福沢諭吉が日本を形容して、政府はあっても「国民」はない、と述べたことを想起させます。

 人間は、信頼しているものにしかcontributionしません。contributionとは、「寄付」とか「貢献」と訳します。つまりお金を出すだけではなく、労働を供給するとかも含みます。

 日本では、町内会の掃除とか、自治会の草刈りとか、地域単位の労務提供やボランティアワークはとても多い。けれども、それが地域を超えて広がらない。それから「サービス残業」という形で、会社に対してボランティアワークをする人は多いですが、これも会社を超えては広がらない。

 つまり、日本は「寄付の文化がない」のではない。contributionの関係というものが、会社と地域と家族の3つを超えては広がらないのが特徴なのだと思います。会社を信頼の対象にして、ボランティアワークをするという文化は、わりあい珍しいともいえますが。

 これはじつは、寄付や社会運動だけではありません。たとえば日本の銀行が、融資する場合もそうです。地方銀行では、同じ県の高校同窓生が役員をやっている企業には融資しても、プロジェクトや事業を評価して融資するというのはほとんどしない。土地を担保にとるか、あるいは人間関係がある場合に融資する。「これはいいプロジェクトで、社会に役に立ちます」とかいうことよりも、「同郷の誰それさんの紹介です」というほうを信用する。そういう文化というか、フレームワークが少し前までは根強かった。

 いまはさすがに、銀行もそれではやっていけないので、変わりつつある。しかしプロジェクトを評価するといっても、評価の制度も充実していないし、人材もいないし、やり方がわからない、というのが日本の銀行の悩みです。

 しかしこれは、「そんな社会は遅れている」とか頭からいっても、反発されるだけで変わらない。またこれは日本だけではなく、私が行った国ではインドやメキシコも、けっこうそういう社会です。

 「寄付や信頼の文化がない」わけではなくて、「ありはするけれども欧米とは形が違う」ということを前提に、変える必要のあるところは変えていくべきでしょう。くりかえしになりますが、「ない」のではなくて、「形が違う」のですから、形を変えていけばいいのです。

  

――グループ・ディスカッションの発表、登壇者からのコメント――  

 

参加者)

「みんなが腹落ちしたということを紙にまとめてみました。『自分が主人公』を事業の柱としてスタートした団体さんの方がいらっしゃいまして、声を上げていく練習がみんなに必要で、そういう声をより増やしていくことが仲間を増やしていくことにつながって、それが社会を変えていくことにつながるのではないか。

 声なき声をひろって、それをきちんと、仲間になってもらうための言葉、受け入れてもらうための言葉として語ることが必要だよね、というところで終わりました」

 

「私たちのなかでは、3人の話しがかみ合っているように聞こえなくて面白かったというところから始まり、取り組む問題とテーマが違うからではないかという指摘がありました。最終的に目指しているところは『自分がどう従属しないで自由にいられるのか』ということだとすると、制度やフレームワークが変わることで民主主義をつくるような政策提言をすることにお金を使うことがソーシャル・ジャスティス基金の趣旨だと思うのですけれども、じゃあ『制度が変われば個人は自由になるのか』という問題意識があって、話を聞きたいです

 

「声をあげて流れをつくるというのは難しいよね、という話が最初に出ました。声の上げ方の問題として、相手と議論するときに相手の人格を否定するような言い方をしてはダメだよね、相手と違う部分だけを指摘するのだと。いろいろな人とコミュニケーションしていくことが大事で、相手が持っている知恵をインプットして生かしていく方法を発見できればすごくいいじゃないかと。

 会社に勤めていないので発言の自由度があるという意見もあり、ほんとにいま会社勤めていると言えない・やれないと。また同窓会で難しい話を出すなということもあると。

 デモに参加したけれども、何々やめろ・何々守れというような、非常に消極的な感じがしたと。もっと前向きに、これがほしいと言えればいいなという意見がありました。でも同時に、否定的・消極的なことばかり言わないで対案を出せとすぐに言ってくる人がいますが、それはそれで良くないじゃないかという意見もありました。 

 いまは、えらいのは役人で、役人以外がアイディアを出したり提案を出したりすることを頑固に否定するところがあると。行政交渉などで『我々はこういう問題があって、こういうふうに取り組んだ、制度化してくれ』と言うと、以前80年代半ばまでは、役人のほうが頭を下げて『それは本来我々がやるべきことでした、ありがとうございました』と言われたけれども、80年代の後半からは『だれの許可を得てそんなことをしたのか』と役人が言うようになりましたと。

 アドボカシーは、エンパワーメントとセットじゃないかという発言もありました。力が無いと思っていた人が強くなって主張するということがあるのだけれども、日本でのエンパワーメントの使い方は、上下関係がまったく変わらずに、上の人が下の人に強くなれと言うような使われ方をしているが、本来エンパワーメントは下剋上だと」

 

「自由って何だろう? 従属しない、自分自身で決められる。じゃあ、この生きていくなかで従属しないこと、全てで、あらゆる意味で、お金を儲けるために働き――。神様がつくって、神様にだけ従属するんだよって、なるほどと思いながら、自由って何かなと。

 それから、民主主義って何なの?」

 

「民主主義はこうだって、ちゃんとわかって言える人はいないのではないか。多様な社会の多様な人々の人権がちゃんと想像できる人が、自分の決定権を持てば、そういう人たちが多くなれば、社会の公正はいい方向に行くのではないかという話などをしました。

 信頼資本財団などを知っているので、お金という部分が、社会を変えていくことは大事だなと思っています。じっさいにソーシャル・ジャスティス基金の小さいお金も大きな組織にきちっと生かされて大きな運動になっているけれども、NGO/ NPOにお金が十分に回っていないという状況で、世の中お金で回っているので、どうやってダイナミックにお金の流れを変えられるのかなと。たとえばNHK受信料であれば不払い運動だとか、銀行がどこにお金を使っているかを考えて預け先を変えるといった運動もあるのですが、なかなか広がっていないなかで、やはり行政や企業ではないところで、市民がつくり出すお金の流れがもう少し世の中に生かせたらいいのかなと思っています」 

 

{以下、小熊英二さんからのコメントは当日会場にて共有いただいた通りです}

 

課題をともに考える基金

上村)お金を扱う人間はお金の怖さを知らなければいけないという点は、非常にそう思います。つまりお金を集めることによって、お金に取り込まれてしまう、あるいはお金に従属してしまうということがあることも事実です。では、難しいからお金という手段を諦めるのか。

 みなさんアドボカシーカフェにこられて、ソーシャル・ジャスティス基金(SJF)をなんかちょっと変なファンドだなと思われたのではないかと思います。SJFは、上から目線の基金じゃないよという態度を、助成する団体にどう示すかについて、非常に苦心しています。一般的には、助成金を出す側は、応募書類を審査して、お金を出したから頑張ってねと贈呈式のようなものをします。時期がくれば、お金をちゃんと申請した目的通りに使ったか会計のチェックが入り、合格すれば型どおりの報告会が開催されますと、まるでお行儀のよい冷たい関係です。これに対してSJFは、助成する活動をしている人たちとその課題をともに考える部分を一緒につくり、社会的な広がりをともに担いたいと考えて、こうしたアドボカシーカフェという対話の場をつくっています。

 さらに、ダイアログという助成先団体の交流会もやっています。これは、助成を通して体験したそれぞれのNGO/NPOの体験や取り組みには貴重なものがあるため、助成が終わった団体にも来ていただいて、その後の活動や新たに学んだことをみなさんとシェアしていただいているものです。SJFのやり方がベストだとは思いませんが、NGO/NPOの支援する組織としての「礼儀」を模索していることが表れていると考えてください。

 

社会の枠組みを自分が常につくっていく

 制度が変われば個人が変わるかという問題については、そんな簡単には変わらないと思います。たとえば先ほど話した冤罪が、なぜ起きたか。日本は敗戦によって新しい法システムをつくりました。けれども警官も裁判官もみな戦前の教育を受けた人たちでした。あいつが犯人だろうという見込み捜査が冤罪のひとつの温床となったのです。つまり制度が変わっても、やっている人間の価値観や意識が何も変わっていなければ、制度の運用は最低のレベルになってしまいます。これは、憲法と教育基本法は民主化のための二つの大事な法システムといわれたのですが、現首相はその両方を目の敵にしていて、変えやすい教育基本法は2006年に変えられてしまったことからも示されていると思います。

 ただし小熊さんが言われたように、制度が変わることは個人が変わる契機にはなります。その意味では、制度を変えるということが、ただ単に上から来るのではなく、社会的な運動とどれだけ一緒になっているかによって、先ほど述べましたようにその質が違ってくると思います。

 長い目で見れば、制度が変わったために私たちはいろいろメリットを享受していますよね。たとえばイギリスとフランスとドイツが戦争することは、100年前はありえたわけですが、たぶんもうないと思います。これは欧州の制度や国連という国際制度が担保になっています。また、政治的に対立をあおる人がいますが、中国と日本が全面戦争することもないと思っています。それはWTOなどいろいろな制度が、非暴力の環境をつくってきたからです。

 

西川)今日は、小熊さんからあえて「お金なのか?」という問題提起をしていただきました。本(『民主主義をつくるお金』)のまえがきにも上村さんが書いておられますが、今、お金で商品を選べば自由だ、という感覚が広がっていると私も思います。でも本当の自由はそういう意味ではない。自由とは「自分たちでつくることだよね」というのが今日のお話だったかと思います。その意味では、これからの社会は、「そのお金を通してどういう関係をつくっていきたいか」が問われていると思います。ソーシャル・ジャスティス基金も、最初はお金でつながっていくけれども、最終的な出口はそこではないということですよね。今日はありがとうございました。 

敬称略               

  

●映画 『首相官邸の前で Tell the Prime Minister
(小熊英二さん 企画・製作・監督)
 渋谷アップリンクで上映(20159月~)。詳細はこちらから

  

●書籍 『民主主義をつくるお金』(発行20151031日)販売中、詳細はこちらから  

  

●SJF 助成発表フォーラム 第4回  ~参加者募集中、詳細はこちらから

16年1月18日(開場18時)、 新宿区・若松地域センターにて開催します。

パネリスト;
NPO法人 僕らの一歩が日本を変える。後藤寛勝さん(代表理事)
NPO法人 OurPlanet-TV 白石草さん(代表理事
NPO法人 WorldOpenHeart 阿部恭子さん(理事長

 

  

 

*** この2015114日の企画ご案内状はこちらから(ご参考)***

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