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報告=ソーシャル・ジャスティス基金(SJF)アドボカシーカフェ第36回

生活保護

バッシングに抗して活用策を考える

 2015513日、SJFは第36回アドボカシーカフェを、ゲストに尾藤廣喜さん(弁護士生活保護問題対策全国会議代表幹事/厚生省)を、コメンテータに寺中誠さん(東京経済大学他講師)をお迎えし、文京シビックセンターにて開催しました。

 尾藤さんは厚生省に3年間勤務し、そのうち1年半生活保護を運用していた経験があり、厚生省が制度を設計した時にどのようなことを考えていたのかを踏まえてお話しされました。

 日本国内の餓死者数は、1995年に50人を超えて以来高止まりし、2003年には90人を超えていました(厚生労働省人口動態統計)が、報道で注目され始めたのは、121月に札幌市で姉(病死)と妹(凍死)した孤立死事件以来です。この事件の前、姉は3回にわたって生活保護の相談に福祉事務所を訪ねているにもかかわらず、若くて働けるだろうといずれも追い返されたそうです。しかし、本来、生活保護の受給要件に年齢は有りません。この25年前にも、札幌市では生活保護申請が認められずに、母親が3人の子どもを残して餓死した事件があり、福祉事務所に生活保護を相談に行っているにもかかわらず救われなかったことで、生活保護制度のあり方が厳しく問われたことがありました。にもかかわらず、25年後にまた、このような事件が起きてしまったのです。これ以降、マスコミで相次いで餓死・孤立死が報道されるようになり、尾藤さんらは生活保護の捕捉率(受給資格がある人のうち実際に受給している人の割合)を高めようと取り組み始めましたが、それを見計らったように、生活保護バッシングは起こされました。

 生活保護バッシングが意図するのは、反論の力が弱い受給者への攻撃を通して、生活保護制度を使うことに対する恥の烙印を世間に広げて制度を使いにくくするとともに、社会保障制度の最低基準とされる生活保護を攻撃することで他の保障制度の基準引き下げをも効率的にしやすくする事だとの見方を尾藤さんは示しました。

 元来、生活保護制度の役割は、憲法25条に基づく「生存権」を保障することだと尾藤さんは強調されました。この251項は、マッカーサー草案にはなく、日本国民の運動の力によって生まれたものであり、1950年に公布された生活保護法は、欠格事由はなく、無差別平等に、貧困になっている状態に注目して、権利として生活保護制度を保障するという画期的な内容を持つものだそうです。

 この生活保護法の原理には、この立法に関与した当時の厚生省・小山進次郎課長らの考えが色濃く出ていると、小山さんの薫陶を入省当初受けられた尾藤さんは話されました。同法の1条には「生存権保障の原理」が規定され、自立の助長も含まれますが、その趣旨は、自分が主体として生きていくために生活保護制度を利用してほしいということであり、権利性の確立を示すものです。同2条の「無差別平等の原理」の定めにより、受給申請を追い返す理由に使われている“若いから働ける”や“住民票がない”等は本来、生活保護の利用要件ではないことが明らかにされています。同3条の「最低生活保障の原理」は給付内容が最低の生活を保障するものでなければならないことを定めており、先になされた老齢加算と母子加算の削減はこれを無視するものです。同4条の「保護の捕足性の原理」は、収入や年金があった場合でも、最低生活費より世帯収入が低ければその差額が生活保護費として支給されることを意味しており、稼働能力の活用を過度に強調したり自動車や学資保険の保有を問題視したりすることは、この原理の濫用であるといえます。また、不服申立制度の確立も同法に定められていますが、十分な機能を果たしておりません。

 このように本来正しく定められた制度の原理を骨抜きにする制度運用が今行われているのは、財政当局が何とか生活保護費を削減したいと考えるなかで、保護制度の中身自体をいきなり後退させるのは反発が多いことから、まず申請手続きを難しくし、生活保護法制の知識がない人を追い返すよう仕向けているとの見方を尾藤さんは示しました。今あらためて生活保護法の原理にたちかえることは、生活保護制度の正しいあり方を考える根本となるものであり、非常に重要だと尾藤さんは強調されました。

 これら違法・不当な制度運用やバッシングに対して、どのように生活保護制度への理解を高め、いかに活用していけばよいのか、については、後のグループ対話のテーマとなりました。

尾藤さん当日写真(写真=尾藤廣喜さん・左と寺中誠さん)

 つづいて寺中誠さんから、憲法25条の生存権に基礎を置く生活保護制度は、形式的平等(equality)ではなく実質的平等(equity)を求めているという視点からお話されました。すべての人は、社会的・身体的・心理的など様々な条件により、同一の標準的な人間モデルにあてはまることはありません。にもかかわらず同一の社会保障を与える形式的な平等原則には、上から福祉を施すというパターナリズム、同一の標準モデルを押し付けるという抑圧的な性格があります。これに対し、ひとりひとりの異なる必要に応じる社会保障は、保障の形や量はそれぞれで異なりますが、実質的には平等に必要性を充たします。この実質的平等には、クオーター制やアファーマティブ・アクションなどにより、マイノリティをマジョリティ以上に支援するという意図的な調整が含まれます。まさに不平等によって、平等を実現するというやり方です。

 生活保護をもらっている人を「ずるいと思う」という人の場合、自分と生活保護の利用者との間にある決定的な非対称性に気づいていません。

 人権には2つの姿があると寺中さんは説明されました。一つ目は「剣」としての人権であり、もうひとつは「底のフタ」としての人権です。社会で生きていくためには、依存できる社会資源――お金、言語能力、権力を使ってコミュニケーションをとっていく必要があります。私たちが普通に社会で生活している間は、人権は意識の上では問題にならないかもしれません。でも、もし私たちにこれら社会資源が無くなってしまった時、最後の手段として頼るべきものが、人権という剣になります。しかし、この伝家の宝刀ともいうべき人権は、全部が無くなった時に持っている剣ですからさほど強くありません。人権訴訟はなかなか勝てないのが現実です。

 一方、社会で生きる上で「保障」となる社会資源はバケツにため込まれています。もし、なんらかの理由でバケツの「底」が抜けた場合には、あらゆる保障が無意味になってしまうといえます。選択的に奪われるのではなくて、全部がいっぺんに無くなってしまう。これが、人権の不可分性・相互依存性といわれる所以です。そこで、この「穴」が空かないように防ぎ、「穴」が空いたら塞げるように「あらかじめデザイン」された「フタ」としての制度が必要です。これを考案するのが人権政策です。しかし、日本には、このような政策が無く、「底のフタ」が抜けたらそのままという状況です。先の「剣」としての人権では、この穴は塞げないにもかかわらずです。

 「底のフタ」としての人権は、福祉を与えるというアプローチに親和性があり、形式的平等に流れがちで抑圧的な構造にもなり得ます。そこで「底のフタ」としての人権、福祉の位置付けは、あくまで、実質的平等を実現するために、生活を回復するための措置とするのが、憲法25条が示す社会権であり生存権であるといえます。「剣」としての人権により、自分に必要なことを訴求できることを保障するという実質的平等を基本とすることが大前提となります。

 日本の生活保護制度の原理は、困窮している人がその人の必要性に応じて利用していくという、「剣」としての人権でもあり、実質的平等を満たすものです。国際的にはPension(「年金」と訳されている)の一部を担うものに相当します。Pensionは、みんなで資金を貯めておき必要な人にその必要に応じて支出される、相互扶助的な収入維持を確保するために設けられた制度です。なお、日本の年金制度では、過去の実績収入に対する保障という意味が強く、Pension全体のごく一部を担うに過ぎません。本来のPensionは、働けない人々の生活保障のかなめであり、働けなければ誰でも受給できます。諸外国では、薬物使用者のためのPensionなども存在します。

 生活保護バッシングは、社会保障の根幹をなす生活保護制度を、形式的平等の論理に持ち込み、実質的平等を実現しようとする流れを攻撃している由々しきものだとの見方を寺中さんは示しました。

寺中さん当日写真(写真=寺中誠さん・左と尾藤廣喜さん)

 ここで、尾藤さんと寺中さんにパネル対話いただきました。尾藤さんは、厚生省を辞めてまで生活保護問題対策に取り組んでいる理由について、「生活保護の強さの魅力」だと話されました。生活保護には、「最低限の生存を要求する権利」があり、個々の事情によっては、特別基準の設定をする義務が行政にあります。また、社会保障制度のなかで、生活保護制度は、直接憲法に依拠した制度であり(25条)、最も先鋭なる「剣」をもった権利だとの見方を尾藤さんは示しました。

 実際、弁護士として、生活保護関係の担当した事件は20件中18件を勝訴しているそうです。例えば、障害を持っている人が自動車を持っていることを理由に生活保護が支給されなかった案件(大阪府枚方市の事件)で勝訴したこともあり、それぞれの利用者の需要に合わせた権利を保障していく「実質的平等」の持つ力強さに惹かれているとお話されました。反面、政府から見れば、福祉的に恩恵的に形式的平等に与えて行きたいところであり、生活保護制度はこわい制度でもあるのだろうと指摘されました。

 会場からは、運動として政治家との連携の仕方や経済界の考え方について質問されました。尾藤さんからは、議員さんに実態を知ってもらい、制度を理解してもらった上で、政策を変えていってもらえることが大事だと答えられました。議員さんが所属されている政党によってさまざまな難しいこともあり、自民党では生活保護基準を10%引き下げることや保護利用者に食事用の回数券を配ったりするいわば「隔離政策」なども公約に掲げていますが、あきらめずに自民党に行って、説明を継続しており、通院交通費がちゃんと支給されるように厚生労働省に働きかけてもらい認められたこと等の成果があります。また、安倍総理も最低賃金を引き上げると言っており、生活保護の基準引き下げに対する運動を、そういった動きと絡めて進めることも重要であると提言されました。

 寺中さんからは、自民党のなかでも、ヘイトスピーチの激化を問題視する声が出ていることに関連し、生活保護受給者を隔離する政策案は自民党の主張から考えても差別的政策であり、差別禁止法を制定する動きと生活保護問題を連帯させることも考えられると提言されました。また、国際的には日本に対して、Pensionとして機能するよう年金の制度を整備する必要があると指摘されており、生活保護をその文脈に位置づけることで、年金問題に対する経済界の抵抗は強いかもしれないが、今後は与野党双方で議論できるとよいとの考えを示しました。

 

 つぎに、これまでのお話をもとに、グループディスカッションに移ります。尾藤さんと寺中さんにもテーブルに参加いただきました。そして、このディスカッションの内容を会場全体で共有できるよう各グループより発表いただき、それらの意見について、さらに尾藤さんと寺中さんから意見をいただきました。

 「生活保護」という名前を「再出発支度金」などに変えることで、困った時に生活を立て直すために必要な制度だという正しい理解を促進するようイメージを変えるのはどうか、という会場からの意見について、寺中さんからは、リセットする点では意味があるだろうが、これまで誤ったイメージをうえつけてきた社会状況が変わらなければ、この問題は再生産されるだろうとの考えが示されました。尾藤さんからは、日弁連では「生活保護法」を「生活保障法」と改名することを提唱していることが紹介され、また国際的な潮流としても改名が進んでおり、韓国は、日本に視察に来たが日本の惨状を知り、独自に「国民基礎生活保障法」と改名し、ドイツは、働ける能力があるけれど現在はたまたま失業しているに過ぎない状態を社会扶助するという趣旨で「失業手当2」という通称にし、スウェーデンは、保護ではなく「生計援助」と呼んでいるように、保障の性格をふまえた名称にすることがむしろ世界の趨勢だと報告されました。また、生活保護「受給者」と呼ばずに、主体的に受けている方たちという意味で「利用者」と尾藤さんは呼んでいます。

 支援の仕組みが不十分で、専門職でないアルバイトや3年程度でケースワーカーが交代していることなど制度運用上の問題を指摘した声をうけて、寺中さんは、これは制度の完全な欠陥であり、各人にあった生活再生メニューの提供が必要だとの考えを示し、そのモデルとして、介護保険のケアマネージャーが各人に対応したメニューを提供していることを例に挙げました。さらに、渋谷区で制定されたLGBTに関する条例がホームレスの排除とセットとなっていた事例を報告し、よいマイノリティと悪いマイノリティを区別するような政策意図に拠って上から与えられる保障制度という問題を指摘し、当事者からの視点で考えて行くというソーシャルワーカーとしての対応を制度的に確立していくことが必要だと強調されました。

 民生委員は生活保護制度を知らないために頼りにならないとの声に対しては、民生委員は大変な任務であり、なり手が不足しているなかで、集まる機会も少なく、研修は最初だけであり、なかなか制度への理解が進まない状況が報告されました。

 グランドデザイン、国としてのビジョンが必要だとの意見について、尾藤さんは、いい内容でグランドデザインについて合意形成していくことが大切だと提言され、日本は「自助努力」を強調する「自己責任」論を押し付けているのに対し、スウェーデンのキーワードは「信頼と尊敬」であり、利用している人には働ける可能性があると信頼し尊敬の念を持って対応していることが報告されました。

 「生活保護は私たちみんなの問題です」というメッセージが重要であり、バッシング等から発せられる逆のメッセージとの溝をいかに埋めていくかとの問題提起をうけて、尾藤さんは、何より実態を広く知ってもらうことが大切だと強調され、実態についてのデータ解析とともに、ヒューマンな内容と事実を踏まえた報道・ドラマ・コミック等により、一つ一つの事例背景と問題点を大切に広報していくこと、生活保護申請への同行と審査請求などを対策として提示されました。また、「生活保護基準引き下げ違憲訴訟」や、生活保護問題対策全国会議による「捕捉率100%運動」への取り組みを紹介されました。

 

 最後に、寺中さんからは、私たちは誰しも生活保護基準に生活が落ちる可能性があり、生活保護という非常に強い権利を使って、生活を改善したり社会復帰したりできることを大切にしていこうと提言されました。また、生活保護を利用して立ち直った、厳しい状況だったけど生活保護を利用して満足できているといった良い話をどんどん広報していくことは有効だと指摘しました。雑誌「はるまち」が、生活保護を受けてこんなに頑張っていますという話がたくさん掲載されていると尾藤さんから紹介されました。

 尾藤さんからは、生活保護は人が生き、暮らしていくうえで極めて重要な制度であることが強調され、理由のないバッシングへの悲痛な思いを語られました。厚生省に入った時、いろいろな問題を例えば「鍋に集めて」保障するように努力したけれど、鍋に穴があいていたら全部抜けてしまう、しかし、上から鍋を見ていたら穴に気付かない、下から見ないと気付かないと考えていたことに言及され、寺中さんのバケツの「底のフタ」の話への共感を示されました。

 生活保護制度は、市民社会の根本を支える制度であり、市民ひとりひとりの権利意識と表現力、表現されないことをも汲み取る力が大切だという言葉で締めくくられました。

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