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ソーシャル・ジャスティス基金(SJF)アドボカシーカフェ第24回報告

 

◆ 次回アドボカシーカフェ ◆  ~参加者募集中~
 『裁判員制度がなげかける死刑の情報開示』 327
  ゲスト:田口真義さん(東京地裁 裁判員 経験者)
      若林秀樹さん(アムネスティ・インターナショナル日本事務局長)
  詳細はこちらから: http://socialjustice.jp/p/20140327/

 

 


『国連人権勧告は守らなくていいの?―国際人権条約と日本の人権施策―』

シリーズ:「日本で生かそう!国連人権勧告」第4回 【報告】

 

 2014年2月28日、新宿区四谷地域センターにて、SJFは第24回アドボカシーカフェを開催しました。なぜ、日本政府は度重なる国連人権勧告をことごとく跳ねつけ続けるのか。その元にある構造を考え、国連からの人権勧告を日本で生かしていくために私たちは何ができるのか、多様な視点からの対話が活発に繰り広げられました。
 今あらためて、安倍内閣が昨年6月に「国際条約機関からの勧告には法的拘束力がない、だから履行義務もない」という趣旨の閣議決定を行ったことに端を発し、日本の人権施策が国際人権基準と切断されている実態に注目が集まっています。
 今回ゲストより問題の背景として、アベノミクスに現われているネオリベラルな姿勢は、スピード感や効率性を重視し、経済発展のためには民主主義的なプロセスや人権すら「緩和」されるべき規制とみなされるような人権軽視の姿勢につながり、競争にさらされている人々はバルネラブルな―経済的/社会的/心身的など総合的な不安定感や傷つきやすさの感覚を強め、人権はあたかも弱者の武器だと感じられるようになり、ヘイトスピーチのような反動が顕在するようなっているという視点が提起されました。
 そして、人と出会い対話することの重要性、権利を踏みにじられやすい少数派の人権が守られているのか―制定されているルールの本来の目的に立ち返り問い直すことの重要性、たとえ人権を制限しなければならないような場面でも、その基準や手続きが国際基準に沿うよう、国際法体系と国内法体系の対話を進めることの重要性が共有されました。

◆ 主なプログラム ◆
◇ 寺中誠さん(アムネスティ・インターナショナル日本前事務局長/東京経済大学現代法学部非常勤講師)からの提言
◇ 塩原良和さん(慶應義塾大学法学部教授)からのコメント
◇ ゲストと参加者のグループディスカッションや対話
◆ モデレーター 大河内秀人(SJF運営委員/江戸川子どもおんぶず代表/パレスチナ子どものキャンペーン常務理事ほか)

塩原さん 寺中さん
参加者と対話する塩原良和さん(左)と寺中誠さん

 

◆ 概要 ◆ (敬称略)

― 人権勧告には法的拘束力は無い?― 条約に批准/加入することは、国際人権基準の体系を受け入れていること。

◇ もし、外国人の立ち入りを禁じる建物があった場合、私たちは責任を問うことができるだろうか。前提として、日本が批准している条約である自由権規約・社会権規約・人種差別撤廃条約では差別は禁止されており、日本国憲法14条では法の下の平等が規定されているが、差別禁止法にあたる国内法はないことが法律上の問題である。憲法や条約の義務を負うのは国家だが、日本の場合、この義務を民間人の間での権利調整につなぐ国内法や制度の体系がない。さらに権利侵害された本人がことを公にして訴訟を提起しなければならない、その訴訟も勝ち目があるかどうかは疑わしいなど、大きな不利益を被る手段しかなく、責任を問うのは難しい。

 「勧告には法的拘束力がない」という日本政府は間違っている。たしかに国際人権基準の体系のなかで法的拘束力があるのは条約のみだが、裏を返せば、条約のみに法的拘束力があるのは、政府からの誓約である条約に肉付けする国内法制度の体系を整えることを促すためだ。人権条約に批准や加入するということは、国際人権基準の体系を受け入れていることだというのが国際的常識だ。差別を禁止する条約に加盟しながら、国内法制度が整えられていないというのは、人権を国際水準で判断する基本が確立していない例だ。

 国際人権基準の体系は、条約以外には、条約機関による「一般的意見」や「勧告」、国連人権理事会や総会の「決議」、「規則」や「ガイドライン」、国連特別報告者による「報告書」、全体の基本となる「宣言」からなる。このうち、条約機関の「勧告」は、条約にもとづいて設置される多様な人権の分野に関わる専門家や研究者の委員会が、90年代後半より人権に関する改善意見として出しているもので、NGOからの広範な情報提供をふまえた内容となっている。

 また、日本国憲法98条は「日本国が締結した条約」は、「誠実に遵守することを必要とする」と定めている。(寺中)

 

― 人権の鎖国政策?―国際人権基準と連携できない行政システムの内にある日本の人権委員会構想。

◇ なぜ、国際人権基準が日本では使われないのか?(参加者)

◇ 条約を国内で実効的に実施するシステムが、個人通報制度と国内人権機関だ。国内人権機関の役割は本来、国際人権基準と国内法体制を連携させることだ。しかし、日本に特異な法体制として「行政権は憲法問題を扱わない」が前提となっている。戦後、憲法は変わったが、法体系システムは旧法が継承されている。したがって、条約とその遵守を定める憲法に則ったシステムについて行政権は判断できず、結局のところ、日本の行政は、国際法を排除する構造となっている。日本の人権委員会設置案は行政内部にあるものの為、人権条約の誠実な実施にむけた責任を負うことができない。

 日本の国内人権機関の構想は異質なものに作りかえられている。日本の人権擁護法案(自民党)や人権委員会設置法案(民主党)では、国内人権機関に関する国際基準であるパリ原則で最重視される政策提言機能はなく、準司法機能についても、パリ原則は公権力による直接的な人権侵害や制度的人権侵害を主たる対象とするのに対し、日本では私人間の問題について司法が違法性を認めた事例のみを扱う取り締まり機関にすぎない。

 パリ原則による本来の国内人権機関の機能を発揮できる位置づけに従うとすれば、国際人権基準を、日本国憲法98条にしたがい、国内法体制に実務的に反映できるような憲法的な機関にする必要がある。しかし、日本の法案では、国際人権法上の権利や憲法上の権利を問うことはできない位置づけであり、所轄が法務省である。国家行政組織法という縦割り行政の国内法体制の内に位置づけられ、勧告の実施に向けた責任も持たせないものだ。(寺中)

 

― そもそも人権など?―勧告を受け入れない日本の実態。

◇ シャラップ!シャラップ!(黙れ!黙れ!)と、日本政府代表の人権人道大使が、2013年の国連・拷問禁止委員会で発言する場面があった。これは、日本が2008年の自由権規約委員会から「もっと近代的かつ科学的な捜査技法を取り入れるべきだ」との指摘を受けながらも変更や改善がなかったことに対し、委員から「自白偏重に偏っており、まるで中世のようだ」との指摘に反応したものだ。さらに、日本の大使は「日本はこの分野で世界でも最も進んだ国の一つ」と発言し、その場の失笑を買ったためにその発言に至った。日本の刑事司法の問題点について、感情的な反発を交えたうえ、一切の国際的な批判を受け入れないという強硬な態度を示してしまった。

 そもそも人権など!といった感が蔓延しているようだ。2007年当時の文部科学相による、人権をバターに喩えた「人権メタボリック症候群」発言は、「西欧起源の人権」に対する文化的反発を利用したものと考えられる。

 すべての条約機関が勧告している点に、国際人権条約違反を認定した裁判例が報告されていない点がある。日本の司法機関は条約や国際人権基準を根拠法としてほとんど考えていないことを反映している。また、刑事司法の分野については、特に勧告が多く出されており、死刑廃止については、「世論」を理由とする死刑維持の姿勢に対して強い勧告が出されている。(寺中)

◇ 冤罪を生む背景に、司法が本来人権を守る役割を負っているという意識が薄いことがあるのでは?(参加者)

◇ 安倍政権は法的拘束力がないものは認めないという立場をとっているが、司法とは何か、ルールを問いなおす良い機会を作ってくれているとも言える。

自民党による改憲草案が発表されたが、ここにも、人権に関し国際人権基準から孤立した国内法システムに閉じこもる態度が強く表れている。国際的な人権基準では、拷問禁止などについては、絶対的権利として他の権利との調整をおこなう余地は認められていないが、日本国憲法36条の拷問禁止について「絶対に」という文言が、この改憲草案では削除されている。また同案では、「公共の福祉」の概念を、「公益および公の秩序」という概念に置き換え、政権の恣意により人権を制約する余地を大幅に増やしている。さらに、憲法97条という、国内法的に定義された基本的人権を、国際人権基準の権利と同等のものとする意義のある条項の削除も提案している。(寺中)

 

 

― ルールは守るべき?―権利を制限する「目的」規定にあいまいさがあり、行政の恣意性を許す構造となっている。

◇ 人権は、蹂躙されやすい少数派の立場を「世論」に対して守るため生み出されたものである。国際人権保障体制の中では、その人権の制限には、権利調整には「法定」された手続きや「目的の正当性」など厳格な基準が必須だ。 日本の内閣法制局の基準では、「公共の福祉のために①必要な場合に、②合理的な限度において」制約することがありえるとされ、「公共の福祉の内容や制約が可能な範囲については立法の目的等に応じて具体的に判断」とあるが、確認されていないままであり、人権機関からこの点も勧告を受けている。さらに、立法における「目的」規定があいまいであり、目的があり合理的に説明さえつけば一方の権利を制限する権利間調整ができ、行政の恣意を許す構造となっている。日本はルールの「遵守」を尊ぶが、本来ルールが必要となった理由である「目的」は意識されなくなってしまっている。(寺中)

◇ 「いじめ」をめぐる議論が、子どもの権利侵害の問題としてではなく、「道徳」というルールに反することが問題として世の中で議論されていることは問題をゆがめているのではないか? いじめの問題について2つのアプローチがあると思う。自治体で「いじめ防止条例」を制定するような狭い道徳的価値観では厳罰の流れとなるが、「子どもの権利条例」にむけた動きでは「子どもの権利」条約をいかした流れになると思う。(参加者)

◇ 「道徳」がナショナリズムに回収され「権利」に関する哲学的思考と切り離されているのだとしたら問題だと思う。ナショナリズムとは違った形で、正義や公正さについて考える道徳があってもよいと思う。(塩原)

◇ 逸脱した行為を簡易的に判断できるためルールを作っているのだが、今、ルールを作りすぎた結果、「道徳」ルールに反するから「いじめ」は問題という論理ができてしまっている。だれが苦しんでいるかという本来の問題点に着目し、道徳を問いなおし新たなルールを作ることはできるはずだ。留意したい点は、モラルを強調する場合には加害者を何とかしようというやり方となり、権利侵害を強調する場合には被害者の権利を認めていこうというやり方となる点だ。「いじめ防止条例」は前者のアプローチ、「子どもの権利条例」は後者のアプローチと言えるだろう。(寺中)

◇ 「多文化共生」概念の再定義の試みと共通しているが、手あかのついた言葉や概念を問いなおすなかで、「子どもの権利」と対話する概念として「道徳」の概念自体をつくりかえていく戦略も考えられる。(塩原)

 

― 激化する排外主義から、真の多文化共生への道は?

◇ 日本の国内人権機関の構想が作られた時の背景に、少年に対するモラル強調による厳罰化と、外国人を排除する排外主義の高まりがある。 犯罪統制を決定するモラルに対するイメージ調査によると、日本のモラルが蝕まれていると思う/やや思う人は8割近くを占め、ことに若者のモラルについて、非常に/やや低くなったと思う人は8割を超えている。さらに犯罪不安についての調査によると、居住地域という身近なところでは以前と同じくらいと思う人が6割を超えるのに対し、日本全体では、とても/やや増えたと思う人が9割を占めている。モラル低下や犯罪への不安が高まるなかで、厳罰ポピュリズム―国民感情や世論に比重が置かれた厳罰化現象が現れている。激化する排外主義はモラルによって正当化されるケースが多くなっており、政策面でも、少年へのモラル強化と一致する傾向が強い。 日本の国内人権機関は、法案では、補完的な介入機関としての位置づけであり、「国民」の機関として、「国民」に入らない人は排除するような人権侵害の危険性を含んでいる。(寺中)

◇ ヘイトスピーチに見られるような排外主義への揺り戻しは、人権を弱者の武器―弱者がふりかざす特権とみなす空気が高まっていることの表れだと思う。人権は誰もが持っているのに、自分のことを弱者だと思っていない人には関係がなく、弱者のふりをしている人たちがマジョリティを傷つける武器だと感じる空気がある。

 この背景には、バルネラビリティ(社会・経済・政治・文化に関わる地位の不安定さ、心身の傷つきやすさ)があると思う。自分がよりバルネラブルな状態であるとの感覚が社会に広がっているようだ。自分が傷つきやすいと思っている人が増えると、逆差別の感覚、排外主義的な風潮が強まる。

 なぜ、傷つきやすさという感覚をより強くもつ人々が増えたようにみえるのだろうか。現代社会の中での一人ひとりの日常経験の質の変化が一因だ。時間的な経験の変化として、社会がスピードアップし効率性を強調する風潮が高まっている事、空間的な経験の変化として「例外状況」が多くなっている事がある。「例外状況」は、経済特区などに見られるネオリベラリズムの特徴であり、本来守らなければいけない事を効率性重視の名の下に取り払うという規制緩和の手法だ。そこでは民主主義的なプロセスも、人権ですら、緩和されるべき規制とみなされてしまう。

 安倍内閣による国連人権委員会の勧告に対する閣議決定は、保守的な排外主義の最新バージョンであるが、それと同時に、人権を軽視することで得する人がこの社会のどこかにいることも示唆している。スピード感をもって経済を発展させる勝ち組重視の風潮のなかで、人権という規制を緩和せよと感じている人々がいると直感的に思う。深刻なのは、人権を軽視するこうした姿勢は人々のバルネラブルな感覚を強めていき、その結果マイノリティの人権を軽視する政府への支持が強まる可能性があることだ。人権を軽視する政府こそがマジョリティを含めた人々のバルネラビリティを高めているのだから、人々は自分で自分を苦しめている。(塩原)

◇ 企業に対して人権を主張したい場合、国家に主張して国家が企業に指摘するのか、それとも直接企業に責任を問えるのか?(参加者)

◇ CSRの分野にも関連するが、「ビジネスと人権に関する国連指導原則」(国連「保護、尊重及び救済」枠組実施のために)でとりあげられた問題だ。それによると、法的には国家が責任を負っているが、最も大きな役割を担うのは国内人権機関とされている。国家は立法等を通じて対応するが、企業や私人間の問題に国家が直接に介入するのはハードルが高いため、国内人権機関が国家を経由せずに企業に直接主張することが想定されている。(寺中)

◇ 政府の広報は、制度をつくったことで保障したことになってしまうような、本来の意味とは違うように伝えているのではないか。一人ひとりが人権や憲法についてきちんと学び、国際人権基準を生かせるとよいと思う。価値観の多様性が進むなかで、権利を自分の言葉として実感を持って語れるといいと思う。(参加者)

  



◆ 次回アドボカシーカフェ ◆  ~参加者募集中~
 『裁判員制度がなげかける死刑の情報開示』 327
  ゲスト:田口真義さん(東京地裁裁判員経験者)
      若林秀樹さん(アムネスティ・インターナショナル日本事務局長)
  詳細はこちらから: http://socialjustice.jp/p/20140327/

 
◆ ぜひSJFをご支援ください http://socialjustice.jp/p/shien/
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***2014年2月28日企画のご案内資料はこちら(保存用)***

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