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ソーシャル・ジャスティス基金(SJF)アドボカシーカフェ第43回開催報告

 

加害者と被害者――家族支援について考える

 

 2016年5月23日、ゲストに片山徒有さん(あひる一会代表・被害者と司法を考える会代表)と、阿部恭子さん(NPO法人 World Open Heart理事長)をお迎えしたアドボカシーカフェを、ソーシャル・ジャスティス基金(以下、SJF)は文京シビックセンターにて開催しました。

 「更生がすべての人の願いではないでしょうか。もう一度犯罪が起こらないためのサポートが必要です」と阿部さん。「被害に遭って自分は決して今まで幸せではなかったかもしれない。でも今、生きていることはすごく大事だし、これからも生きていろんな人と関わることによって、もっともっといろんな人と幸せになっていきたい」と片山さん。

 謝罪、償いは、被害者と加害者の幸せにつながるのか――。許し、に達するまでには――。さまざまな問いかけがなされました。生きる、という普遍的なテーマにつながるお話に、深く考えさせられ、新たに気づかされる場となりました。詳細を以下に紹介いたします。

大河内秀人・コーディネータ/SJF企画委員)

 SJFは、一般的にはなかなかとりあげにくい問題、あるいは多くの方には関心を持っていただけない問題、しかし非常に大事な課題に取り組む団体を助成しています。また多くの方に、そういった社会課題に気づいていただくために、対話事業を行っております。今日のアドボカシーカフェは、その代表的な活動であり、立場の違う方からお話を伺って、会場のみなさんに対話していただくという場です。本日は、加害者家族支援という視点からみなさんとともに考えていければと思います。まず、SJFが助成しておりますWorldOpenHeart(以下、WOH)という加害者家族支援を行っている団体の理事長、阿部恭子さんから、つづいて、被害者家族の当事者でもある立場から片山徒有さんにお話しを伺います。

 

 

――阿部恭子さんの講演――

 よろしくお願いいたします。今日申し込んでいただいた方たちは意識の高い人たちが多いかもしれませんが、加害者家族支援ということが一般的かというと、まだそうではないかと思います。

 2008年当時、私は東北大学に所属しておりまして、社会的差別と自殺の問題を研究しておりました。当時、自殺が年間3万を超えていて社会問題になりつつありました。昔は、自殺は個人の問題とされ、対策をしようというのはあまりなかったようですが、それから大きな社会問題となりまして、政策がとられたり、自殺対策基本法ができたりという流れがあったと思います。

 私がそこに関心を持ったのは、私の知り合い――とても親密な大事な人――から自殺が起きたことがきっかけです。すごく不思議な感じがするんですよね、急に会えなくなるっていう感覚が。その人といたグループは、人権の活動をされていた方たちのグループでもあり、アドボカシー活動にも関心がありました。自分が10代から関心があったのは、まず死にたいと思っている人たちの気持ちに関心を持って、その人たちの話を聞いて、その人のために何ができるかを考えることです。それを誰がやるのかという答えは政策的には難しいことだと思いますが、とにかく、寄り添っていく支援が大事だと思っていました。社会を変えていくということも視野に入れながらも、いま苦しんでいる人のサポートをしていきたいとずっと思っていました。

 今でこそ「引きこもり」という言葉がありますが、WOH設立前、家庭教師をしていた子どもに引きこもりの子どもたちがいて、実際にそのサポートをして、何ケースか実際に進学してもらえました。引きこもりから脱することができたポイントは、支援として、本人より家族にアプローチすることです。引きこもりは、本人ではなくて家族の問題です。本人が精神的に病気なのではないか、といったアプローチをしがちですが、そうではなくて、家族が変わると本人が変わります。実際の活動で接してもそうでしたし、心理の専門家の間でも言われていることです。

 犯罪者の家族が自殺をするということは、私のいる宮城県など東北地方でも当時から起きていました。自殺をしたいといった時に役所の窓口に相談に行きますと、今はその悩み――多重債務やセクシュアルマイノリティなど――に対応している相談窓口を紹介してくれます。しかし当時、被害者や被害者の家族が死にたいといった時の相談先は紹介してくれるのですが、加害者の家族が死にたいといった時にどこに相談に行けばいいんですかと聞いても、「弁護士――、ですかね」という程度の対応でした。そこで初めて、そういったサポートが加害者家族にはないのだと分かりました。

 そこで、学生たちで、お金もなかったなかで何ができるかなといった時に、市民センターのような場所を借りて、加害者の家族が集まって、グループ・カウンセリングみたいなことならできるよね、と始めました。そういう会を、「犯罪加害者家族の会」というそのままの名前で呼びかけて始めました。今思えば、勇気のいった名前でした。

 その会を、河北新報の記者さんが見つけて、「犯罪加害者家族支援始まる」といった記事を夕刊トップに載せてくださって、これがインターネット記事となって全国に届きました。その翌日から、電話が殺到しました。誰から電話が来たかといえば、半分はマスコミで、半分は加害者の家族からでした。

 今でも忘れられない電話をいただきました。「今までどれだけ、このような会ができることを待ち望んででしょうか。いままで、死ぬに死ねない、生きるに生きられなかった」と。「今本当にこのような時代になったのですね、うれしいです」と。

 このような支援は国内でWOHが初めてでしたが、欧米諸国では割と一般的に行われているサポートです。民間主導で、宗教団体がかなりカバーしています。いずれにせよ支援があるのです。「Prisoner’s family」という単語で検索していただければ、たくさん支援団体が出てきます。問題は、アジアですね。何をすればよいかというところから始めました。まずは、電話をホットラインで24時間引いて、加害者家族が困った時は電話してきていいですよ、というシステムを設けました。あとは、定期的なカウンセリングの会を設けました。これが、2008年で、現在にいたるまでに約500件以上の家族から相談を受けてきました。

 

日常に潜むリスク

 みなさん、「加害者家族」とはどういう人か、いろいろ想像しておられると思います。「加害者家族」とは、「自ら犯罪や不法行為を行った行為者ではないが、行為者と親族または親密な関係にあったという事実から、行為者同様に非難や差別に晒されている人々」と解釈しています。これは、何か学術からとってきたことではなく、あらゆる家族の相談を受けてきて、そのデータから定義付けしたものです。

 「加害者」という言葉は、非常に便利だなと思いました。なぜならば、逮捕される前の人――任意同行をかけられている人や被疑者など――も含まれるからです。たとえば学校で子どもが大けがをさせてしまったという場合には、少年事件になるかどうかはその段階ではわからないわけですが、被害者がいますから、加害と被害があります。また民事の被告――たとえばセクハラなど、性犯罪と社会から思われている人――も「加害者」という言葉に全て含まれる。これは、故意ではないケース、交通事故なども含まれます。

 500件位の相談を日本全国から受けてきて驚いたのですが、みなさん、犯罪者にどのようなイメージを持っておられますか。私も一定の傾向が示せるのではないかな――海外ですと貧困地帯で犯罪が多い傾向などが示されている――と思っていましたが、今まで私たちWOHが受けてきた日本の加害者家族の特長は、貧困やあからさまな家庭内暴力とは無縁な、ごく一般的に見える家族でした。

 最も多く相談を受けてきた罪名は、殺人事件で、50件以上です。殺人事件の家族のなかには、もちろん代々DVや酒乱といった背景を持つ家族もあります。でも大半は本当にふつうの家庭から、大きな凶悪事件が生まれているということを示しています。少なくとも普段、加害者家族の方と接していて、慣れてきたということだけではなくて、「特殊な人々」という感覚はありません。もちろん、いろいろきっかけはあるとは思いますが、こういう家庭でも、こういう事件が起きてしまうのだと驚きます。じっさい相談者の半数以上が定職を持っている方たち、つまりきちんと地域で生活をしている人たちです。それゆえに事故が起きたときの罪悪感や罪責感、世間に対する後ろめたさはすごく深くなります。

 ただ、こういうデータになったのは、若干、理由があると思っています。相談者のみなさんがどのようにWOHを探すかというと、インターネットから――今は「加害者家族」という言葉がネット上に出ていますから、「加害者家族支援」でつながることが多いですが、当初は「犯罪者支援」「犯罪者家族支援」「加害者支援」といったキーワードで――検索することが多いようです。あと私たちは定期的にプレス・リリースしメディアに出ることもあり、テレビや新聞を見てWOHの記事を見た人からです。新聞やテレビに出た次の日は相談件数が増えるのです。つまり相談者は意識の高い人たちで、家族が何とかしなければいけないと考えられる人、知的にも高い人が多いのです。それゆえに犯罪が起きたときに失うものも大きくなります。

 

 「日常に潜むリスク」と私は最近、呼んでいます。交通事故もありますから、いつ自分がそっちに行くかわからないという意識を私は持つようになりました。

 犯罪者の家族が犯罪を止めることは、現実的に難しいです。みなさん、家族だから言えることもあるけど、家族だから言えないこともありませんか。たとえば性に関する部分――私はあまりそういったことを家族に言いたくないですけれども――。そういった言えない部分に犯罪の原因が潜んでいることもある。だから、家族が発見して止めるなんて現実的にはほとんど不可能です。家族は、よく社会から、「なんで一緒に生活していて気づかなかったんですか?」と責められることがあります。でも、それを言われても、家族が24時間監視するわけにはいきませんから、気がつかないこともあるでしょう。

 

 加害者家族になると、どういうことが起きるか。

 私たちのデータでは、人権侵害を受けた人が51%いました。誹謗中傷、いじめ、ハラスメント――いやがらせ、家に落書きをされたり、手紙を投げられたり、電話をかけられたり――。

 驚いたことが、41%の人が結婚破談です。これは若いカップルに多いのですが、「またいい出会いがあるから辞めなさい」と両親に言われるそうです。それほど影響が大きい重大事件をWOHは扱っていることが多いので、こういった割合になるのだとは思います。

 40%の人が、家に住めなくなって転居を余儀なくされています。

 そして、31%が、進学や就職をあきらめています。子どもたちにとっては、非常につらいです。転居は、転校を余儀なくします。子どもにとっては、「急に何で」ということですよ。昨日まで楽しく遊んでいて、みんな泣きながら転校して行っています。でも、そこには住めないような事情があるのでこういう結果になっています。

 また38%で、家族関係が悪くなっています。

 

加害者側の誠意ある謝罪被害者のニーズに応える

 今日の一番大切なテーマです。今日は、私たちのほうから、片山さんにお願いして来ていただいています。加害者家族支援というものができて、被害者の方たちは、どのようにとらえて、どう思われるのだろう、とよくご質問も受けますし、今日、その辺をお伺いしたいです。

 加害者家族支援をする現場では、加害者家族と被害者と関係がないということは少ないです。支援の直接の対象は加害者家族ですけれども、被害者側から、加害者の状況を伝えてほしいと申し入れがあることもあります。

 加害者家族も事件を起こしてしまった責任を非常に感じています。謝罪や償いをどうしていけばよいですか、と聞かれることもあります。こうした謝罪や償いをきちんとしていくことは、社会生活に復帰する前提としてすごく必要なのです。修復的アプローチといわれています。またこれは、加害者家族の願いでもあります。加害者家族は、どうしようと、こそこそ逃げ回っているのではなく、きちんと謝罪をしたい、本当に申し訳なく思っている、それを被害者に伝えたい、でも、ひとりでは怖い、怒られるんじゃないかと躊躇してしまいがちです。

 最近、私が積極的に行っていることは、謝罪に同行することです。これは正直つらいです。いいことを言われることはまずないですし、かなり厳しい瞬間です。少年事件を扱った時、少年と一緒に謝りに行きました。玄関のピンポンを押した後、後ろを振り返ったら、少年は逃げていて。でもそこで帰るわけにもいかず、ひとり説明して怒られて帰ってきました。逃げる気持ちも分かるけれども、そこをちゃんと通ろうよと。だから同行する。誠意を見せるのは、加害者本人の更生にとっても、家族にとっても、被害者にとっても大事だと思うのです。だからできる範囲では積極的に行う支援です。被害者の方にしても、情報がほしいのです。自分の家族が無駄に傷ついたと思いたくない。また同じことが繰り返されるのではないかという恐怖心もある。でも、加害者家族としては、被害者側とのコンタクトは勇気がいるのですよね。そこを、橋渡ししてあげる。同行して、先に行動で示してあげる。

 被害者支援もまだ十分ではないと思います。そのなかで、加害者家族の支援を感情的に受け入れられるか。そんなことをやっている暇があったら、ほかにやることがあるでしょうと、お叱りを受けることもあります。でも、加害者家族支援は、被害者の利益を侵害するようなものではありません――ここは説明させていただきたいと思っているところです――。今日は対話カフェですから、丁寧に話し合っていければいいなと思います。被害者だから関係ないでしょとか、加害者だから責任をとれとか、そういうことではなくて、お互い、丁寧に向き合っていくと、共通点もあるのです。

 本当に被害者のニーズに応えられるのは、加害者側の誠意ある対応ではないかと。丁寧に向き合っていくことが大切だと日々活動しています。今日は、その話をさせていただきたかったのです。

 

 加害者家族支援は、本当にさまざまです。被疑者段階の支援と被告人段階、受刑者段階の支援は異なります。 自白事件と否認事件とも違いますし、刑事事件と少年事件も、それぞれに支援内容が異なります。ご関心のある方は、『加害者家族支援の理論と実践』(現代人文社、2015)を去年出版しましたのでご覧ください。このなかに、対話をしたケースも載っています。加害者家族が刑事弁護にどうかかわるか、心理的支援はどうなっているかも載っています。

 今日のテーマでいうと、この本のなかの「関係修復に向けた支援」という章も読んでいただきたいです。加害者が被害者側に謝罪に行く時もそうですが、加害者が地域から出ていけといわれたときも、私は加害者に同行して説明します。これ、本当に怖いです――複数の方に囲まれてしまうので――。でも私は、頑張って誠意を見せて話せばきっとわかってくれるんじゃないかという信念で対応します。これは、理解させることが目的ではありません。なんで怒っているのか、をまず丁寧に聞くことから始めます。だから問題を必ず解決して帰ってくるという気持ちはなく、被害者側の気持ちをお話していただく、聞かせていただくことが目的です。そうしたところが、加害者家族支援で、一番、地道で大事なところではないかと思っています。

 ここからは、片山さんにパスしたいと思います。     

登壇者20160523 

 

――片山徒有さんの講演――

 私は、どちらかというと、被害者のくくりに入ってしまうと思います。自分から「被害者です」とは言いたくもないのですが、ある朝突然、息子が交通事故で亡くなって被害者の中に入ってしまいました。当時は交通事故で年間一万人くらい亡くなる時代でした。でも、そういうことは夢にも思いませんでしたので、この先どうやってこの事実を受け止めていけばいいのかわかりませんでした。

 今でも考え続けています。なんで、命は無くなるのかな。

 いま、阿部さんのお話を聞いていて――人は時には自分のことを傷つけるし、他人のことも傷つけるし、結果として犯罪が起き、結果として被害者を生んでしまう。これは、過去の歴史、数千年あるいは一万年ぐらいの歴史のなかで、どうして傷つく人を無くすことはできなかったのかな――と考えます。

 多くの人が満ち足りて幸せを感じることができるかと考えた時に、僕は被害者のことについて理解していただきたいなと思います。

 正直に申しまして、新聞やテレビで出てくる「被害者」についての解釈というのは、全体の中でのごく一部かと思います。たしかに残っているものはあります。不安になったら、僕らも厳しくなります。相手のことを許せないような見方になってしまいます。でもそれが、ずっと続くかといえば、私は、そんなことはないと思います。たしかに悲しい。多くの人が、泣き叫び、不安に感じて、その時期を、何とか乗り越えるわけですけれども、その後に普遍的に自分たちはどのような位置にいて、この先どのようにしたらいいだろうと考えるようになります。

 

もう被害者を出さないよう、「被害者を出してしまった人」言い分も聞く

 「犯罪」の場合は、犯罪被害者とそうならない場合の二つに分かれます。「犯罪」がつく場合は、国が関わりますので、「被害者を出してしまった人」に対して一定の処罰が下るかもしれないし、下らないかもしれない。社会の中で国が果たして行く役割も大きいのですが、そういった形で、社会的にその犯罪について被害者の見方を考えて、被害者を出してしまった人の言い分も聞いて、後々もっと被害者を出さないようにしたら良いといった事を考えたいと思っています。

  私は、「加害者」という言葉を普段使いません。「被害者を出してしまった人」という捉え方は使います。なぜならば、被害者を出してしまった人以外にも、もしかするともっと影響を与えた人や考え方もあるかもしれないからです。その一つは、社会的な価値観であったり、無関心であったり、被害者を生みだす環境みたいなものもあるかもしれません。

  色々な経過があって国と一緒になって何か取り組めるテーマはあるのか、と考えました。

 いろんな被害団体がいろんなことをテーマにし、あるいは要求してできた法律が、「犯罪被害者等基本法」です。これは、刑事裁判もそうですが、被害者が置かれた状況に応じて、国が適切に関わっていくという法律です。それが今日に至るまでさまざまな省庁に受け継がれてきました。内閣府がこの間まで窓口だったのですけれども、先頃から警察庁が窓口に変わりました。

  これはけっこう優れた法律ではないかなと思っているのですが、ふたを開けてみると、今回、警察庁が被害者を担当する窓口になりましたけれども、予算配分の多くが「犯罪被害者等給付金制度」といって、治療費や見舞金を出すためにいろんな工夫をこらして、いろんな被害者の期待に応える仕組みになっています。

 一方で、「犯罪」がつかない被害者に対する支援はどこにあるのかといえば、たとえば奨学金の問題で文科省にもっと頑張ってほしいな、医療過誤の被害者問題で厚生労働省にもっとなんとかしてほしいなと思っても、なかなかそういう部分については口を出しづらいという雰囲気が漂っていると思います。残念なことに、「被害者」というくくりで世間一般に取り上げられているのは、「犯罪被害者」なんだなと最近思いました。

 

 犯罪被害者といってもいろいろな人がいて、一重に言うと、遺族の声がひときわ強い、と感じています。私は交通事故「遺族」のくくりに入りますので、交通事故で被害を受けた人の話を聞くことは多いです。この話の共通点は、昨日まで被害に遭うと思っていなかった人が被害に遭っているということ。もう一つは、被害実態が劣悪であり、そこで声を上げるほどのレベルの人は、家族が突然亡くなる、あるいは家族が重傷で昨日までそのようなことは夢にも思わなかったことが現実になってしまうという実態です。ここにも交通事故被害者が厳しい状況に置かれていることが示されているのではないかなと思います。

 先般では「厳罰化」ということで、運転者に対する責任も重くなってきました。これがよいのかよくないのかは、私には瞬間的に理解できません。自分は車が好きですし、車を運転しますし、車で移動する自由さや、人間が要求するそもそもの快適性を考えると、自動車というのは捨てがたいなと思っています。一方で、事故を起こしてしまった時のことを思うと、より緊張して運転しなければいけないこともあるのではないかなと思います。またドライバーの責任だけではなくて、より安全な車を造る自動車メーカーの工夫や努力も必要です、警察も交通信号や道路の通行区分ペイントをより安全に塗り替える事など交通事故を防げることがいっぱいあるのですから、より一層そういった面にもご注意いただきたいなと思います。 

 

被害者家族の支援、テーマとしての命はずっと生き続けている

  では、家族支援はどこにあるのかといった場合、私も被害者支援をすることがありますが、非常に重篤な被害者が出たという結果の場合、被害者支援に関わるというと、当事者はもう命はないわけですから、家族の支援ということになります。一人が亡くなり、お父さんお母さんがいたら意見が違うのは当たり前のことです。おじいさんとおばあさんがいたらもっと価値観や悲しみは違うわけです。ご兄弟がいたらそれに輪をかけて違うでしょう。わが子の命の大切さについて、みなさんがさまざまなことを考えます。このなかで、この悲しみ、このつらさをどうやって解決していけばいいのということを考えた場合、簡単には答えが出ません。結果として、社会からは被害を出してしまった人に全ての非難が注がれるということになります。

 私は、極端に結論だけを求めることは避けたいので、なるべく整理して考えます。

 結果として命が亡くなったことはもう取り返しがつかない。でも、僕たちが今できることがあるでしょう。それは何だろう、一緒になって考えたいと思います。 

 たとえば、同じ町内で、同じような交通事故を出さないために僕たちができることがあるかもしれない。今まさに救うべき小さい命がある。それを助けるために、どういうアプローチがいいのかな。たとえば学校に出かけていって、命の大切さを子どもたちと一緒に話すことも一つだと思うし、亡くなった子どもが友達に伝えたかったメッセージを聴き取ることも、もしかすると大事なことかもしれない。

 そういったことを積み重ねて、命ってとても貴重なんだな、生きているってすごく素晴らしいんだな、テーマとしての命はずっと生き続けることはあるでしょう。それを自覚して、他の人たちと共有することが一番大事なのではないかなと考えています。

  最近は、犯罪被害者等基本法の一環で、被害者を出さないために、「いのちの教室」というのが行われるようになりました。中学校や高校に行って、「自分や他人を傷つけることはやめようね」といった問題から、「僕たち大人が正面から向き合うから」という話をしに行くわけです。最初はどういう話をするのかなと不安半分ではあったのですが、――被害に遭って自分は決して今まで幸せではなかったかもしれない。でも今、生きていることはすごく大事だし、これからも生きていろんな人と関わることによって、もっともっといろんな人と幸せになっていきたい――、それを考えて伝えています。もちろん、非行やいじめ、なかには犯罪の被害者になった子どもたちも、そのなかに含まれています。直接にはその子どもたちの疑問への答えや問題の解決にならないかもしれないけれど「少なくとも生きているうちにどこかで答えがみつかると信じよう」と言って終わるようにしています。

 

命が成長するスポーツ活動から達成感

 もう一つ、私のやっていることは、種まき作業です。

 被害者支援というのは誰でもできる、そういうコンセプトでやっています。

 どんな悲しみでも、1年経つとたいていは世間の関心は薄くなります。もしかすると忘れ去られてしまうのかなと思われるかもしれません。でも、そんなことはありません。いろんな場面で彼や彼女が言っていたことはみんな忘れていません。そういったことを繰り返し語りかけていくことによって、記憶はいい意味での上書きができますので、もっともっと亡くなった人の代わりに僕たちがしていける道はあるのかなと思います。

 

 最近そういったことをずっと考えていて、普遍的なテーマは何かないかなと。あるところで、スポーツ活動が良い効果をもたらすかもしれないということを考えるようになって来ました。 

 少年院や刑務所で、みなさん集団生活・集団食堂をやっているのをずっと見てきて、僕は普遍的なテーマは命なのですから、命が成長するところに何か普遍的なプログラムやテーマがあるかといえばスポーツではないかな、と予測を立てたのです。 

 2年位前に、全国の少年院に――日本には56の少年院がありますが――そこに一斉にアンケートをしようという事になりました。送って、法務省の矯正局も応援してくれて、全ての少年院から返事がありました。もちろんいくつかの少年院には実際に伺いましたし、一緒にスポーツもやりました。 

 さまざまな事柄を噛みしめて先生も悩みながらやっています。少年院で一定期間を一緒に過ごしていって、子どもたちからどのような事で達成感があったかというと、スポーツを挙げる子がすごく多かったです。 

 社会に出てから、たとえば再非行や再犯にスポーツを行った事がどれほど影響をもつのかはまだ分かりませんが、きっといい影響があるのではないかなと思っています。 

 

謝罪は被害者側の選択、安心できる生活を送れることが一番 

 もっと重篤な犯罪者と向かい合うこともあります。

 ある刑務所では、ずっと謝罪の事を問い続けている授業があります。 

 謝罪とはどういうことかと言うと、もちろん、やってしまったことを謝る、ととらえることはできます。でも、どんなに謝ろうとも、被害事実は変化しないわけで、一方は施設で更生プログラムを受けて成長をしていきますが、被害者側は悲しみに浸りながら社会内で静かに時間が経過して行くという隔たりがあるのですが、どこまで心に響くのか、というのは非常に難しい課題があります。 

 でも、そのような背景を踏まえても刑務所や少年院はすごく真面目に捉えて謝罪について真正面から捉えようとしています。 

 確かに、被害者と被害者を出してしまった人にとって、謝罪の機会が良い結果を生む場合もあります。もちろん、かえって傷口を広げるような結果になるなど、そうでない場合もあります。 

 非常に難しい局面なのですが、こういった機会について、たとえば謝罪を望むか否かは被害者側が選択することだろうと思います。 

 たとえば、同じ地域で一緒に暮らしていると、同じ国内でしたら、そうそう何千キロも離れているところにいるわけではなく、もしかすると、どこかですれ違うかもしれない。その時に、お互い嫌な思いをしないで済む、安心できる生活を送れることが一番いいと思っています。

  

大河内)ありがとうございました。ここで阿部さんから、ひとこと、お願いいたします。

 

加害者の被害経験を理解、許しと謝罪

阿部さん) 思い出されたことで、私は大学の時に家の前で痴漢にあったことがあるのです。夜9時半ごろですか、抱きつかれて。これ罪名だと、強制わいせつ事件で、裁判員裁判になります。この時は、すごく騒いで、いちおう難を逃れました。すごく嫌な思いをして、いちおう警察には届けたので、犯罪被害者です。犯人が捕まっていたら重大事件ですが、犯人が捕まらなかったですし、知らない人ですし、未解決です。

 私がその時すごく感じたのは、悲しみより、むかつきです。22歳のころ、せっかく楽しく帰ってきたところ、あんなことになり、「なんでこんな変態のために1日警察に時間を取られなければいけないんだよ」と友達に言っていました。警察で何度も同じことを聞かれて、わずらわしくて面倒くさくて、本当に怒っていた。

 でも今、事件のなかで、性犯罪の加害者家族と接することがあります。イメージで性犯罪をする人は独身とか女性に恵まれない人なのかなと思いきや、そんなことは全くありません。普通に家族や子どもがいる人もいます。私を襲った人も、恋人とかいたかもしれないですよね。逆に、自分の恋人もそういったことをしていたかもしれないですよね。逆だったらどうしようと思いました。性犯罪って、やっていることとしてはすごく破廉恥ですが、そこに至るまでにはいろいろ傷つきがあったりするケースをたくさん見てきて、イメージが変わりました。たぶん加害をしてしまった人も、過去に被害経験があったりする、それを理解したことが許しにつながった――、かな。

 許しましたかね、もう今は。ただ、謝罪とかは受け入れたくない、正直どっかで幸せになってくれていたらいい、もう目の前に現れないでくださいという感じです。

 これは、こういう加害者家族支援につながる過程に大事な出来事だったのではないかなと思い出しました。だから本当に、いつどっちになるか分からないわけです。

 

大河内)片山さんから捕捉は?

 

なぜ犯罪が起きたのか、本当のことが知りたい

片山さん) もう一点お話しましょう。先ほどから交通事故の被害者遺族になってしまったというお話をしましたが、実はその後もう一件で被害経験がありました。

 インターネットによって、うちの子どもの裸の写真などがばらまかれたのです。インターネットは無法地帯という時代――数年前ですが――でした。「交通安全支援サイト」という、とんでもない名前のサイトに息子の写真があったわけです。

 困ったなと最初思ったのですが、これは何とかしなければいけないと思って、告訴告発をしました。

 相手がどういう人か最初はわからなかったのですが、やがて、相手は小学校の先生だとわかりました。お父様は、ものすごく偉い人でした。もちろんお父様がきちっと教育をしないから、とは思わないのですけれども、もしかすると、僕らが声を上げなければ、とんでもない方向に社会は動いてしまうのではないかと思いました。

 声を上げることで、失うものも多いのです。最初の事件では、息子の命が無くなって、それを受けとめるために、もともとは不起訴事件だったのできちんと本当のことを知りたいということが動機で、再起訴を求めて署名を集め、目撃者を自分で探していったわけです。でも次の事件では、いわゆる社会の文脈の中で、子どもを性の対象とすることは是か非なのか、あるいはインターネット上でいやらしい画像を共有することについて、僕は嫌悪感を持っていたのですが、もしかすると言論の自由との兼ね合いで僕が問題提起をした事が批判を浴びるかもしれないと思ったのです。

 いろいろあって、この人は起訴されて有罪になりました。僕は検察側の証人として裁判の場で、こういう人は刑務所で社会的な隔離をして教育更生しないと絶対に直らないですよと意見を述べました。初犯ですから執行猶予がついていたのですが、猶予期間中に、私たちの感じていた不安が的中して同じような犯罪で再犯しました。結果として実刑になりました。

 

 彼が刑務所から仮釈放になろうかという時期、審理に「仮釈放審理での意見陳述」という制度が出来たので、実際に告訴、告発をした当事者として確認をしたいと考えました。 

 何度も何度も刑務所に行って「会いたい、話をしたい」と伝えても拒否されました。その人の暴力性や残忍性についてではなくて、なんでそういうことをしなければならなかったのかについて話をしようよ、というところがなかなか理解されにくかったようで残念な気持になりました。 

 

~グループ・ディスカッションを行い、ご質問・ご感想・ご意見にゲストからコメントいただきました~

――スポーツを通した修復的司法について、どういう競技を行い、どういった効果がありますか?

片山さん) 修復的司法ではしばしば、レンズを通して話すという言い方をします。応報的レンズを通して見ると憎々しく見えてしまうという考え方だそうです。修復的レンズを通して見ると、比較的マイルドに見えるらしいです。そういうことではないにしても、52の少年院でいろいろな取り組みをやっているのを実際に見に行って感動したのが、組み体操です。達成感という意味で、いろんな少年たちと幹部たちが2カ月3カ月、組み体操のチームを作って取り組んでいるのは、いま批判を受けている骨折事故なども考慮すれば、意外といいかもしれないと思いました。

 もう一つすごく感銘を受けたのが、少年院での登山です。山に登るだけでなく、その後に一緒に温泉につかります。それが大事で、法務教官のほうから先に、少年の背中を流してあげる。それが対話につながっていく部分もあるのです。僕は研究授業としての登山に参加したことはないのですが、ある施設の研究授業では、裁判官とか、保護観察官など、いろいろな人が参加していて、みなさん必ずお風呂に入って、背中を流してあげるそうです。ああ、いいなと思います。

被害者の謝罪要求から、被害を出してしまった人は更生へ 

 謝罪を求めないことは、かえって厳しいと思います。謝れとか、これは許せんとかいった見方よりも、ちゃんと前を向いて生きてよね、というメッセージをずっと送り続けていますし、幸せになるってことはすごく厳しいことだと思っています。自分の人生に投げやりになってはいけない。

 ある意味でものすごく応報的な考えに陥る被害者にも僕は同じ話をするのですけれども、どっちがいい? 何も考えずに同じ被害を出してしまった人が一生を終えるのと、ある程度自分の目標を掲げて生きていって、自分が生んでしまった非行あるいは犯罪の原因はこれなんだということをつかんで、理由をつかんだ結果、一定の成果を残していくのと、どっちがいい? といつも聞きます。私はやはりそれぞれの人が、目標を掲げて幸せになっていくことがいいと信じています。

 気を遣っているのは、言葉の魔力はすごく怖いなということです。日本語は相手の気持ちを推測するには大変優れた言語で、自分はこうなんだと主張しないで、相手に想像してもらうということは、すごくいい面もあり、かえって厳しい面もあると思います。そのような前提で、私は言われたら嫌なことは言わないし、されて嫌なことはしない。それは、どんな人に対してもそうしたいと思っています。なかなかできないですが、普通に生活をしながら相手の気持ちを理解していきたいなと思っています。

――修復的司法の対話が行われる時、適切な仲介者の不在が日本では指摘されています。適切な仲介支援が必要だと思います。

片山さん) 僕のやっている被害者支援には二通りあって、一つは、依頼なさる側からこれを助けてくださいというリクエストがある場合です。たとえば「自分の被害を自分ではどうにもこうにも抱えきれないから何とかしてほしい」といった場合です。たとえば警察にも行ったけれども、また何かあるのではないかと怖いのかもしれません。

 もう一つは、こちらから支援させてほしいと申し出をするパターンです。これは、どうしてもこの事件については関わりたいという場合です。子どもが被害に遭っていて、その地域でその痛みが共有できているのかがわからない。それを自分の目で確認し、自分から支援を判断したいというのがあります。

 当たり前ですけれど、被害者支援って何をしてくれるのかわからない、とみなさんおっしゃいます。一緒にご飯を食べましょう。一緒に買い物に行きましょう。普通に何でもやります。話し合いにも行きますし、警察の捜査にも立ち会いますし、検察官に提出する証拠も一緒になって考えていきます。裁判になった時にはどういうことが起きるかもちろん事前に説明しますし、被害者意見陳述があるのですけれども予め打ち合わせをします。

 ご遺族がストレスの少ない形で、かつ満足感のあることがすごく大事です。被害を受けると、ストレスの連続ですから、せめて、そのあと出会った関わりがよかったかどうか、ということが一応の評価になるのではないかと思います。

 私たちの活動は、厳罰が目的ではありません。被害者遺族がそれまで受けた悲しみ苦しみを、プラスに転じてもらうことが目標です。そのためにどうしたらよいかを、一生懸命考えます。難しいのは、そういうような関係性ができると、それまで友達でも何でもなかったのですが、いろんなことを知ってしまうことです。どうやって、フェードアウトするか、徐々にどう距離をとっていくかがすごく難しい。ともすれば生活面だけでなく全部われわれで支えなければならないこともありますが、この事件だけではなくいろんな事件を支援していますので、難しいところです。

――加害者家族支援に対する批判はありましたか? それは被害者側からか、加害者側からですか?

阿部さん) 批判はあります、時々。思ったよりは少なかった。誰が言ってくるのかを、私は重要視します。何の関係もない方からの批判は無視します。被害者を体験したという方からのお話しは重要視します。それが本当の話しかどうかは、話しを聞けばわかります。怒りのなかに悲しみが、伝わってきますから。被害者の方がなんで加害者支援に不快感を覚えるのかを、まずきちんと話を聞きます。また説明を求められたら、その説明もさせていただきます。議論ではなく、ケアの体制で話を聞くということが大切です。

――加害者家族支援が与えるものは、加害者家族から求められるものか、それとも、支援側が必要と思うものですか? 

阿部さん) 加害者家族支援は、こちらが勝手に必要と考えたものではなく、加害者家族が必要だというものを与え続けたいです。私たちの支援メニューは、ぜんぶ加害者家族の相談データからつくっています。定義もそうです。海外から取り入れたものでもありません。当事者のニーズから全て組み立てること、そこだけは絶対に外したくないです。こちらから押し売りはしません。

 家族へのアプローチは難しいところですが、私の場合は、ご相談があった家族に対応しています。ただ場合によっては、マスコミの人が可愛そうすぎるとつないでくれたり、最近だと、弁護人が教育的なことも含めてつなげてくれたりすることもあります。それは、本人――相談したいけれどできないという人――のニーズを拾えたらいいかなと思います。なかにはいますよ、こういう団体が嫌いという当事者も。そこに無理やり行かないよう、デリケートに対応していきたいと思っています。反感とかは仕方ないです。加害者家族支援をやっている以上、そういう覚悟をやっていかないと。これに限らず何をやっていても、いろんなことを言う人はいます。

――阿部さんの団体(WOH)に「罪を軽くしてほしい」という相談はありますか? そうした相談にどのように対応していますか? どんな専門家がかかわっていますか?

阿部さん) 減刑してほしい。露骨には言わないまでも、弁護士さんから頼まれる時は、基本的にそうだと思います。関わっている人はみんな刑を軽くしてほしいでしょう。それはケースバイケースですし、刑罰の重さを今は議論しません。できれば更生してもらうことが大事ですよね、刑が何年ということよりも。

 最近、WOH で積極的におこなっているのが、情状鑑定です。日本の加害者家族支援の特徴として、刑事弁護人と一緒に築いてきたことがあります。草場弁護士は先輩でもあり事務所も近く、ご協力くださっています。

 情状鑑定とは、簡単に言えば刑を軽くするものです。犯罪に至るまでに何があったのかを聞くと。起訴の後に、心理士などに鑑定をやってもらいます。これが本当に大事なことです。家族なんて一生縁を切れないわけです。夫婦からだったら離婚するかどうか質問が来たとしますと、その人の気持ちが大事。でも気持ちが分からないから質問するわけで、それを決めるうえで、なぜ犯罪が起きたのかを知るべきだと私は思います。これは、判決が確定する前(未決)の段階では情報が入りませんから、弁護人の協力が必要です。

 いろんな依存症があるケースでは、家族の関わり方が問題を助長していることも、残念ながら見受けられます。この場合、両者にとって、両者が関わり続けることは良くないだろうし、また被害者が出るかもしれない。最終的に決めるのは当事者ですけれども、その実態解明をどこかの時点でやらないと。

 大きい事件だと被告人はやることがない時間があって、その時間に漫画を読んでいたりするのではなく、更生の準備をするほうが時間の使い方として有効だと思います。時間を無駄にしない支援が必要です。家族も、拘留されてはいないけれど、時間的には拘束されている感覚があるわけです。裁判が終わるまで罪責感があって、何をすればいいんだろうと。その時にきちんと、更生のことを考えているということは、家族の精神状態にとっても良いと思いますので、積極的にそういった支援をしています。

 更生がすべての人の願いではないでしょうか。もう一度犯罪が起こらないためのサポートかと思います。

――被害者が謝罪を拒んだ場合、その後の対応は?

阿部さん) 基本的に、被害者が望まない以上、しません。たまに刑を軽くするために、無理やり――もしかしたら本当に悪いと思っているのかもしれませんが――手紙を送って被害者に嫌な思いをさせる人がいます。そういう人は、止めます。

 さきほど私への性犯罪の話をしましたが、たとえば犯人に彼女がいて謝られても、何を謝るのという気持ちです。謝罪を受けたくない。ほっといてほしい。

 なので、被害者から、誠意をもって謝罪してほしいと言われた時に動くことにしています。

 片山さん、その点はいかがですか?

片山さん) まずは、これ以上、つらい思いをしたくないという思いが現実問題としてあるんでしょうね。そのためには、普通は、謝ってもらって、これ以上はないよねという確約がほしいんでしょうね。でも、そもそもが、なんでそんな悪いことをしちゃったの、と考えると、そう簡単にはいかないようにも思います。そこには、言語や文化の違いとか、男女の違いとか、社会的な習慣の違いとかさまざまなものがあって、結果、折り合いがつかないのだと想像します。

 以前、被害者支援を考えた時、ある弁護士さんから、「弱肉強食の文化をどうとらえるか」と問いかけを受けたのです。野生動物は強いものが弱いものを支配するが、人間というのはそうではないだろうと。文化もあるし、法律も社会制度の一つにすぎない、そのなかで、片山は何をしようとしているのか、と聞かれたのです。うーん、と考えさせられました。手っ取り早く謝罪をしてもらって解決して、心のとげが取れればと、それまで思っていたのが、ちょっとそれは表層的なところなのかもしれないと思うようになりました。

 被害者支援は、もしかすると、これ以上関わらないようにしてあげること、これ以上つらい思いをしないよう、なるべく、そっち側に視線をやらないで楽しいことを考えよう、明日のこと、自分自身のこと、なるべく明るい話題を考えようと支援することかもしれない。それが正しいことかは、わかりません。僕のところにも、ずいぶん厳しいご意見が届くことがあります。

 いろんな人が、自分の被害経験を癒したい。そのためにはどうしたらよいか、一歩先、二歩先を見て、一生懸命、歩いているんだと思います。僕はそういうことも考えつつ、じゃあ10メートル先ぐらいも見てみようということも考えます。

 あまり難しい事は考えずに1年後、10年後、自分はどういう生活をしていたいかを考えた場合、「悲しい、悲しい、許せないんだ」ばかりでは参ってしまいます。ただ普通の生活ができるようになることが一番だと思っています。

阿部さん) 被害者支援のほうは、犯罪被害者等基本法がありますが、かたや加害者家族には、いまのところ法制度の枠組みがありません。

 なお活動の広がりについてですが、いま大阪のほうで、「スキマサポートセンター」という加害者家族支援団体ができました。この団体は臨床心理士さんがメインでやっていて、代表も臨床心理士の男の子です。ずっと仙台に通ってきてくれて、研修を受けたりしてくれました。これまでも、いろんなことをやろうとした人はいたのですが、うまくいかなかった。それだけ難しいのでしょう。流行った時があったのです。私たちの活動は珍しいのでメディアで注目された時があって、クローズアップ現代でも取り上げられて、そういうのを視て面白いと思われた時期があって、何かをやった人はいたのですが今につながっていなかった。いまは、その隙間サポートセンターの彼が西で一つ、東に一つWOHという状態です。あと例えば、ダルクさんのように薬物依存症の会や家族会もありますし、性犯罪の家族会を持っていらっしゃる榎本クリニックさんとか、アディクション(嗜癖)絡みだと家族がけっこう重要な位置に置かれているので、家族会をカバーするなど対象を絞った加害者家族支援が行われています。ピンポイントで増えていけばいいと思っています。

――加害者家族または被害者家族の子どものケアについては?

阿部さん) たしかに子どもをメインにした団体さんもあります。私たちは、子どもメインというより、家族を、いわゆる養育者をメインにしたサポートをしています。子どもから直接電話相談を受けるというより、子どもはお母さんと一緒に来ます。子どもといっても年齢発達段階はさまざまですが、ある段階で「何でパパはいないの」と始まるわけです。初めは「病院にいるんだよ」とか言っても、ある段階で気づいてきたり、親戚が言ってしまったりした時に、家族は困るわけです。

 話すのが一番だと、経験的に思います。海外では、子どもは知る権利があると言われています。でも日本流では、狭い社会のなかでは、伝え方はけっこうデリケートな問題だと思いますので、基本的に、子どもに聞かれたら話してくださいと言っています。

 この時、子どもが知りたい目線で話してほしいのです。たとえば部活に集中している時に「実はお前のお父さんは」とか話されたら、部活に集中できないじゃないですか。なので、ある程度余裕のある時を選んでそういう環境をつくって話してほしい。場合によっては、私も客観的に同席しています。私に連絡していただいて、私のほうから話すということもあります――私のほうが家族の情報を持っていることもありますので――。子どもにとっては、パパはいつ帰ってくるのか、それだけが知りたいこともあります。どこにいてもいいから、会えるのか会えないかだけを知りたいと。そこをきちんと答えてあげるといいと思います。親としても言わないストレスがあるのですが、大人の目線で、ワーと言ってしまって満足するは、親子お互いにとってよくないので、第三者が入ります。

 情状鑑定の話しが出ましたが、なぜ犯罪が起きたのかというのは、子どもの人生にもかかってくると思います。きちっと解明することは、それが100%真実といえるかは分からないけれども、子どもの人生にとって重要だと思います。さきほどの性犯罪の例でも話しましたが、単なる変態なわけではないのです。それなりの背景があって犯したと。だから、刑事弁護人をなさる方には、きちんとそういうアプローチをしていただきたいです。

 片山さんには、被害者のお子さんのケアについてお伺いしたいです。

片山さん) たいていのことはなんとかなるので生きていればいいことはあるんだよ、といつも言い続けています。

 僕が最初に自分の子どものこと以外に、被害者支援を始めようという時に、いろんなところで勉強しました。まったく未知の世界ですので、いろんなところに行きました。2000年ごろですね、こういう勉強は面白いんだと気がつきました。

 たとえば虐待の子どものケアの事など、書籍を読んでもなかなかわからなかったのですが、さまざまな事例を聞くたびに、これはすごいなと感じるようになりました。

 自分は普段大きな声を出しませんし、何か壊す音は――ガラスが割れる音も――大嫌いです。しばしば、そういうことに無関心な人が大声を出したり自分の意見を一方的に強く主張したりすることに、プレッシャーを感じていました。

 最近は、少年院や刑務所だけでなく、ふつうの中学・高校にお邪魔してお話しています。できれば保護者の方も来てくださいというと、けっこう来てくれます。

 そのなかで、虐待とまではいかなくても、一方的な価値観について親の押し付けに近いなという話も出てきます。それはどこまで、社会的に対応すべきなのか、たとえば学校などが関わって行くことなど、ある程度、当事者間以外も継続的に見ていかなければいけないのかなと思います。

 多くの皆さんが「そのぶん社会で支えていくからね」という話をしますと、ちょっとほっとなさるようです。

 僕は問題を難しくは考えていませんので、どうあるべきと聞かれると困ってしまいますが、自分自身が不快なことはしない、してほしくないと思います。

――宗教は、救済たりえますか?

阿部さん) 日本の加害者家族に、世界的に見て特徴的なのが、だいたいが無宗教なことです。欧米など、宗教という土壌があるなかで、パワーをもらうという発想はいいと思いますが、日本での問題は、困った時にすがるというケースが多くて、関わり方がすごく依存的なのです。新興宗教などにのめりこむ加害者家族の方はトラブルが起きているのです。

 加害者家族自身にも問題があることがあると実は思っています。家族が犯罪を助長するというような立場にいる方はもちろんいます。その人には、自分の家族病理に気づいてほしい。なかには、それに気づきたくないのか、気づけないのか、そういう話を避けて、宗教のほうでひたすら祈っている人がいます。

 パワーをもらうという意味では宗教はいいのですが、家族病理などは残ります。これは別次元の話です。再犯を防ぐ観点からも、私はよく「信仰はいいですよ、でもいまは少し休信しませんか、少なくとも判決確定までは家族病理を考えて、自分の家族関係を見つめ直しませんか」と言うこともあります。何かしら家族が要因となっているケースでは余り宗教はよくないかなと思います。

片山さん) 難しい。でも、いろんな人にお勧めすることがあります。「困った時、悩んだ時に、歴史を感じましょう。その時に、海に出かけたり、お寺に行ったりして、いろんな風景を見るといいですよ」とお話しします。「なぜかというと、千年、二千年前に、この同じ空間にたたずんだ人が絶対いるから」と。

 修復的司法だと、しばしばキリスト教が良い役割をします。とくに被害者支援でいうと、シェルター機能をキリスト教が果たすことが多いからです。あと、生産的行為――ビスケットを焼いたり、ワインを作ったり、農場でいろいろなものを作ったり――が昔から行われてきました。これは日本の被害者支援に欠けているポイントなので、取り入れていきたいと思っています。

 一概に「宗教はいけません」とはなかなか言いがたい。うまいことバランスを取れるポイントもあるのではないかなと思います。最終的に善悪の判断は人間が決めることですので、歴史を感じながら一緒に共同作業をするとか、さまざまな歴史を感じるなかで、宗教は再評価されていいのではないのかなと思います。

大河内)宗教については、「許し」というものに対して、どういうアプローチができるのかなという点がもう一つあると、個人的に思いました。

――加害者家族、被害者家族、その支援者間で連携はありますか? 

阿部さん) 表立ってではなくても、被害者の支援団体さんとは連携したいと思っています。片山さんの団体とはご相談させていただいています。もっと広く連携したいと思っています。被害・加害は難しくて、たとえば、お父さんがお母さんを殺したケースでは、その子どもは被害者遺族であって加害者家族でもあり、一つの家族のなかに被害者と加害者がいて、こういうケースは支援の網からこぼれてしまうのです。犯罪被害者が交通事故の加害者家族だったりする事実あります。被害者だったりすると、加害者になると余計に自責の念にかられたりして、本当にわからないことがあって、やはり連携はしたいなと考えています。

片山さん) 僕の見方だと、加害者はイメージにないので全員が被害者になると思っています。社会生活を営むなかで「それは違法行為だよ」という結果があれば、それはそれで是正していけばいい話であって、なるべく多くの人達と意見を出し合って行く方がより良いと考えます。

大河内)ありがとうございます。

 ほかに会場からいただいたコメントに共通している点として、加害者も被害者であるという現実について、正確に知ることから理解していくことの大切さがあります。本当の現実を知ることから、それを引き起こしてしまう構造を正しく知って理解していくことの大切さ、それは家族支援につながると思います。

 最後に、ゲストのお二人から一言ずつお願いします。

阿部さん) 私たちWOHは、ソーシャル・ジャスティス基金の助成を受けまして、今後こういったシンポジウムを全国で予定しています。都内でも秋から冬にかけて予定していますので、ぜひ来てください。今日は宮城県仙台市から来ましたが、震災5年目なんですね。熊本で震災が起きていますが、あのような状態は5年前を正に思い起こさせることで、たくさんの人が死んだんですね。

 私は、加害者家族を一人も死なせたくないと、すごく思っています。それは、社会的にどのような批判があろうとも、死なせたくない、そのために活動を頑張っていきたい。これからもよろしくお願いします。

片山さん) ありがとうございました。

 目指している最大のことは、犯罪被害者をゼロにすることです。多くの人が被害者のことを理解して、そういうような思いをみんながしないようにしたら被害者がゼロになる、と思ったのです。で、始めていって、交通事故はどうなったかと。たしかに毎年1万人台だったのが、今は4千人台までに減ったんです。僕の力ではないです。ほかの人たちが厳罰化を叫んで、飲酒運転を厳しくしよう、取り締まりを厳しくしよう、車の安全デバイスが発展したこと、普段の生活の中で無理にお酒を飲まないでも良いという飲酒文化と市民の関わり方の変化も大きいと思います。

 でも、すごく大きいのは、社会のなかで「交通事故ぐらい」という見方が減ってきたことです。事故が半分まで減ったんです。もっと減らすにはどうしたらよいか。それは、もっともっと連携が必要なんです。

 僕は、楽しいことをやり、生きたいように生きたいと思います。嫌なことはしたくありません。被害者支援は楽しいんだということを、ぜひみなさんにわかっていただきたいです。人と出会ったら面白いです。人とお話しして、よかったと言われるととても嬉しいです。まだまだ勉強不足で、いろんな人にお会いして教えていただきたいことがたくさんあります。よろしくお願いします。

大河内) お二人の奥の深いお話から、さまざまな気づきを感じていただければ幸いです。こういった問題を正しく理解して、100%解決することは難しいかもしれませんが、人間に対する信頼とか、社会への希望とかをみなさんが持ち続けられることが、ソーシャル・ジャスティスに通じることではないかなと思いました。ありがとうございました。

●今後のアドボカシーカフェのご案内
政治と放送――視聴者の信頼は』(SJFアドボカシーカフェ第44回)
【ゲスト】吉岡 さん(BPO放送倫理検証委員、日本ペンクラブ専務理事
     立山 紘毅さん(山口大学経済学部教授、憲法学・情報法学専攻
【コメンテータ】白石 草さん(OurPlanet-TV代表理事)
【日時】16年617(金) 18:30~21:00
【会場】文京シビックセンター
★詳細は、こちらから

*** この2016年5月23日の企画ご案内状は、こちらから (ご参考)***

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