ソーシャル・ジャスティス雑感(SJFメールマガジン2025年5月21日配信号より)
「書かれた憲法」と「書かれていない憲法」
金子匡良
- 書かれていない憲法
毎年、憲法記念日の前後に、各新聞社やテレビ局が年中行事のように憲法に関する世論調査を行う。その中では、決まって「憲法を改正すべきか?」、あるいは「憲法9条を改正すべきか?」という質問が行われ、改憲支持が何パーセント増減したかがニュースとして報じられる。
ここで改正すべきかどうかが問われるのは、『日本国憲法』という名称のついた、文字で書かれた憲法のことである。このように文字で書かれた憲法を「成文憲法」という。このように漢字で書くと堅苦しいが、英語では実にシンプルに“written constitution”(書かれた憲法)と表記される。
しかし、憲法には「書かれた憲法」だけではなく、「不文憲法」(英語では“unwritten constitution”)と呼ばれる「書かれていない憲法」も存在する。ここで多くの人は、「書かれていない憲法」とは一体どのようなものなのかと怪訝に思うであろう。書かれていなければ、当然、見ることも読むこともできない。そんな幽霊のような憲法が存在するのだろうか?
- イギリスの憲法
「書かれていない憲法」を持つ代表的な国はイギリスである。そもそもイギリスには、『イギリス憲法』という名称のついた単独の法典は存在せず、人権や国家機構に関する重要な法律(例えば、1998年人権法や王位継承法など)が憲法であると考えられている。すなわち、イギリス憲法は数多くの法律の集合体なのである。もちろん、それぞれの法律は紙に書かれているので、これらの法律はイギリスの成文憲法といえる。
しかし、イギリスで憲法と考えられているものは、こうした法律だけではない。法律以外にも、裁判所が示した重要な法解釈や、国家運営上の重要な慣行が、憲法の一部を成すとされる。これらの解釈や慣行は、紙に書かれているわけではないので、不文憲法と呼ばれる。このようにイギリスには、成文憲法と不文憲法があり、両者が相まってイギリス憲法を構成しているのである。
- 憲法習律
イギリスの不文憲法のうち、国家運営上の重要な慣行を「憲法習律」と呼ぶ。例えば、国王の政治的行為は内閣の助言に基づいて行われるという慣行や、国王は下院の第一党の党首を首相に任命するという慣行などは、憲法習律であると考えられている。イギリスでは、国家運営に携わる者は、こうした慣行を実行しなければならないとされており、それはまるで成文憲法のように為政者を拘束するがゆえに、憲法習律もイギリス憲法の一部に組み込まれているのである。
ただし、憲法習律はあくまで慣行に過ぎないため、法的な拘束力はなく、したがってそれに反する行為を行ったとしても、裁判を通じて是正を図ることはできない。しかし、もし為政者が憲法習律に反すれば、政治的・道義的な責任を問われることになり、その者は政治的な権威と支持を失い、民主主義プロセスの中で排除されることとなる。
このように、憲法習律は、歴史の中で培われてきた重要な慣行に対する人びとの信頼と、それを守ろうという信念によって支えられている。それは、その時々の為政者よりも、長年の歴史的な叡智と経験則に信頼を寄せ、それによって為政者の行為を拘束しようという権力コントロールの手法といえる。
- 日本に憲法習律はあるか?
日本では成文憲法である「日本国憲法」だけが憲法であるとされており、憲法習律の存在は認められていない。しかし、国家運営上の慣行の中には、事実上の憲法習律とみなせるものもある。
例えば、いわゆる「非核三原則」を挙げることができよう。日本国憲法の中には核兵器の不保持を明記した条文はなく、自衛の範囲内であれば、憲法上、核兵器の保有も禁止されないというのが、1950年代からの一貫した政府見解となっている。しかし、核兵器を持たず、造らず、持ち込ませずという非核三原則は、一種の憲法習律として定着しており、これを真っ向から否定する政策を打ち出せば、その政府は国民の信頼を失い、もはや政権を維持することはできないであろう。憲法9条が核兵器の保有を禁じていないとしても、それを許さない歴史的叡智と経験則が日本社会には根づいており、事実上の憲法習律として為政者を拘束しているのである。このように考えれば、日本にも「書かれた憲法」と「書かれていない憲法」が存在していると見ることができよう。
- 憲法習律の創出と護持
憲法習律は、紙に書かれた憲法の条文からではなく、憲法の条文をより良く実現しようとする実践的慣行から生まれる。そして、その慣行が国家運営の公正性を確保するために必要であり、それゆえそれを守り抜くべきであるという人びとの信念によって護持される。逆にいうならば、人びとが憲法をより良く実現しようという志を失うとき、憲法習律はいとも簡単に消えてなくなることになる。
人権の観点から憲法習律を考えれば、この分野での憲法習律を創り出すのは、人権をより良く実現しようという市民の活動に他ならない。憲法14条には1946年から性差別の禁止が明記されてはいるが、その「書かれた憲法」に命を吹き込んだのは、長年に亘る性差別への抵抗運動と、それを通じて社会に少しずつ拡大していったジェンダー平等の意識という「書かれていない憲法」であった。
今もなお「書かれた憲法」の隙間を埋めるべく、憲法をより良く実践しようとする運動によって、「書かれていない憲法」を創り出そうとしている数多くの人びとがいる。日本国憲法の生命力は、そうした運動によって支えられるのである。それをサポートすることによって、「書かれていない憲法」の裾野を広げ、この社会に真のジャスティス(公正・公平)を確立していくことが、SJFに課された使命といえる。■
*コラム執筆者・金子匡良: SJF元運営委員・元審査委員。法政大学法学部教授。専門は、憲法・人権法・人権政策など。著書に『人権ってなんだろう?』、『人権の法構造と救済システム』等。