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ソーシャル・ジャスティス雑感(SJFメールマガジン2024年10月16日配信号より)

 

私は憎まない

大河内秀人

    

 今回のイスラム組織ハマスとイスラエルの軍事衝突が始まって丸1年となる10月7日、日比谷で、ドキュメンタリー映画『私は憎まない』の上映会で、主人公イゼルディン・アブラエーシュ博士の講演を聴いていました。

 博士は1955年にガザの難民キャンプで生まれ、占領下のあらゆる困難を乗り越え産婦人科医となり、イスラエルの病院で初のパレスチナ人医師として働き、イスラエル人とパレスチナ人両方の赤ちゃんの誕生に携わり、「ユダヤ教徒、イスラム教徒、キリスト教徒の赤ちゃんの違いは?みんな同じく生まれたての赤ちゃんだ」「すべての人の平等、正義、自由の上に共存は可能である」と、共存が可能であることを自らの医療で体現してきました。しかし2009年の軍事侵攻の際、恐怖の中で閉じ込められていた自宅への砲撃により、3人の娘を目の前で奪われるという悲劇を経験しました。それでも憎しみを持たず、和解と共存を信じ、訴えるのです。

 釈尊の「実にこの世においては、怨みに報いるに怨みを以てしたならば、ついに怨みの息むことがない。怨みを捨ててこそ息む。これは永遠の真理である」(真理のことば・中村元訳)という教えは、仏教者として平和運動に関わる私が常に軸として持つ理念であるが、アブラエーシュ博士は、その言葉を誰よりも心に響かせてくれました。

 「憎しみは“病”です。誰も憎しみを背負ってこの世に生まれてくる人はいない。憎しみはつくられ、感染する」と語ります。憎しみと向き合い、原因を正しく突き止め、赦しと共存こそが正しい道であると分かれば解決できる。娘を失うことだけでなく、80年近くに及ぶ占領下の苦しみの中から、搾り出された真実の重みがあります。「恨みを抱いて報復したとしても娘は帰って来ない。いつか娘たちの許に行くときに、和解と共存というお土産を携えて行きたい。」

 

 ガザの悲劇を「傍観」している世界中の人々の多くは、いかんともし難い問題として諦めているかもしれません。アメリカでも国連でも止められない、行き着くところまで行くしかないと思っている人もいるでしょう。力でしか解決できないと思っている人たちが、戦争を容認し、支えています。弱者、少数者を切り捨て、収奪に加担し、暴力構造の一部となっています。

 一人ひとりが、さまざまな悲劇や過ちを乗り越え、この世界が築き上げてきた、例えば世界人権宣言に象徴される人類の到達点としての平和と人権の思想、それは決して聖人君主ではなく、それを経験と学びの中から共有した「市民」が押し上げてきた理念に立つべきではないでしょうか。

 

 ちょうど30年前。1994年の10月、ルワンダで起こった大虐殺を受けて、対立していたとされる二つの「民族」にまたがる現地のNGOによる和解と未来のための「再融和」ミーティングに立ち会いました。その時双方のメンバーが口にしていたのが「市民」という言葉でした。同じ市民として共存の社会をめざしながら、政治勢力によりつくられた分断と不信、憎悪に絡め取られてしまったのはなぜなのか。互いに親族を殺され、辱められた悲しみを未来への教訓とするため、問い続けました。

 私はその時、孫子の代にも消し去ることはできないだろうが、しかし、その先に必ずその日が来ることを信じて、共に問い続けながら生きていくしかないのだと強く感じ、一人の人間として世界と未来に繋がり、責任と可能性を自覚して生きる市民社会を足元からつくっていかなくてはならないと痛感しました。

 

 アブラエーシュ博士は、そのために勇気と信念、そして知識を挙げます。私も30数年前からガザと共にイスラエル国内に何度も足を運び、多くの人と出会いました。占領と人権侵害に反対し共存をめざすイスラエルの人権平和活動者ともつながっていますが、一般的なイスラエル人はパレスチナ人の生活実態はほとんど知りません。私がガザを訪ねたと言うと、なぜそんな危険な人たちのところに行くのかと驚愕されます。同じ人間とは認めず、そこには明らかな差別と偏見があります。

 占領下で常に銃口を向けられ、移動の自由もなく、仕事も奪われ、農地や家屋を破壊されても成す術もない状況の中で、ガザの人々は親類縁者、地域の助け合いの中で生きており、社会状況のために比率の高い障がいを持つ人も共生し、独居老人とかホームレス(家を破壊されテントに暮らす人はいますが)として孤立している人を見たことはありません。困難な状況の中でも、一人ひとりが互いを信頼し、誇りと希望を持って生きている姿は、まさに「市民社会」のモデルでした。

 

 偏見と憎悪は、無知から作られます。分断と隠蔽という作為に人々が絡め取られているのは、今の日本にも言えることではないでしょうか。力によって支配し、競争によって勝敗が決まる社会では、人々は勝者の言いなりになるしかありません。自分がいくら考えてもどうしようもなく、どんな悪事も政治的な力関係でスルーされれば、それ以上追求しても意味がないと思ってしまうのです。正義は力で決まるものでいいのでしょうか。

 アブラエーシュ博士は最後に、日本の人々、市民に対して、真実を知り、自分の頭で考えて、行動してほしいという言葉を最後に残しました。現実に目を瞑らず、人間として、ガザに向き合ってほしいと。 ■

 

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