ソーシャル・ジャスティス雑感(SJFメールマガジン2023年5月17日配信号より)
憲法記念日に憲法を思う
金子匡良(SJF元運営委員)
◯奇妙な世論調査
毎年、5月3日の憲法記念日が近づくたびに、新聞やテレビで奇妙な世論調査が行われる。「憲法を改正すべきだと思いますか?」という質問をし、「はい」と答えれば改憲賛成、「いいえ」と答えれば改憲反対に分類し、昨年に比べて改憲賛成派が何%増えたか、あるいは改憲反対派がどのくらい減ったかと報じるのである。この亜流に、憲法9条の改正に賛成か反対かを問うという調査も盛んに行われており、やはり賛否の増減が世論動向の変化として報道される。
この種の調査が奇妙に見えるのは、改正の中身ではなく、改正することの是非そのものを問題にしている点である。そもそも法を改正すること自体は、何ら珍しいことではなく、忌避されるべきことでもない。問題はどのような改正を行うかであり、本来、改正の賛否はどのような改正を行うかという改正の中身について問われるべきである。にもかかわらず、憲法については、以前より改正そのものの是非が問われ続けている。
◯憲法に関するねじれの構造
その理由のひとつは、改正賛成派を「改憲派」、反対派を「護憲派」に分類し、前者をいわゆる保守勢力の支持者、後者を革新勢力の支持者であると色分けし、両者の現状の勢力図を明らかにするのに、先の質問はうってつけであったためである。つまり、前述の世論調査は、改憲に賛成か反対かを問うものであるというよりは、いわゆる保守層と革新層(リベラル層)の分布を明らかにするためのものなのである。
しかし、よく考えてみると、この分類も奇妙である。憲法は国の体制の根幹を定めた法であるのだから、“保守”勢力は憲法の護持を訴えるべきであり、“革新”勢力は憲法の改革を唱えるべきであろう。しかし、日本では、保守勢力が憲法の変革を主張し続け、革新勢力が憲法の守護を高唱してきた。この「ねじれ」の構造も日本ならでは政治風景である。
◯憲法への愛憎
憲法に関する日本の政治風景でもうひとつ特徴的なのは、日本国憲法ほど為政者に嫌われてきた憲法はないということである。先進国であればどこの国においても、為政者は憲法への忠誠を表明することで、自らのリーダーとしての資質を示そうとする。ルールに無頓着なスポーツ選手よりも、ルールを順守する選手の方が尊敬を集めるのと同じである。ところが日本では、憲法に忠誠を示すどころか、それへの嫌悪感を露わにする為政者が少なくない。元首相の安倍晋三氏は、その著書『美しい国へ』の中で、現行憲法がいかに日本をダメにしたかを蕩々と述べている。同様に、保守派を自認する政治家ほど、憲法への愛着や尊敬の念は薄い。彼ら・彼女らの地位と権限の源は、憲法に由来するにもかかわらず、である。
それに対する反発もあってか、いわゆる護憲派=革新勢力は、憲法への愛が深い。「恋は盲目」との例えのように、一途に憲法を愛し、一言一句とも変えさせてはならないとの主張も少なくない。その背景には、為政者が示す憲法への不遜な態度に立憲主義の危機を感じ、憲法の文言を堅持することが立憲主義の実現につながるという考えがあると思われるが、ややもすると偏愛とも映る憲法への執着は、やはり日本に特有のもののように思える。
◯議論の場をつくる
近年、憲法改正論議は、改正するかしないかという段階を超えて、具体的に何をどのように変えるかという議論に移ってきている。自民党はいわゆる改憲4項目を示しており、日本維新の会も具体的な改憲案を提示している。各種世論調査が改憲賛成派の増加を示していることから見ても、もはや改正の是非のみを論じる時点は過ぎ、何をどのように改正すべきかの議論に焦点は移りつつあるように思われる。
その一方、憲法をめぐるねじれの構造や愛憎の対立といった日本的風景は、相変わらず続いている。このような中で、冷静な議論が進められるのであろうか。今後求められるのは、憲法憎しの改憲論や憲法愛しの護憲論の応酬ではないはずである。何を目的として、どの文言をどのように変えるのか。その結果、どのような効果が発生し、どのような弊害が起こりうるのか。そのような緻密な議論を冷静に行い、相互に対案を提示し合えるような場を形成することが必要である。
そのような熟議の場をつくれるかどうか。日本の立憲主義は大きな岐路に立たされている。■