(SJFメールマガジン21年7月21日配信号より)
“justice”と“正義”のあいだ
金子匡良(SJF運営委員)
SJFのフルネームであるSocial Justice Fundを直訳すると「社会的正義基金」になる。この中の「社会」も厄介な概念なのであるが、それに輪をかけて「正義」は取扱注意の難物である。
実は人類はこの「正義」に数千年の間、悩まされ続けており、いまでも正義とは何かについて論じる著書や論文が数多く出版されている。
学問の歴史の中で、正義について最初に取り組んだのは、紀元前4世紀に活躍したプラトンと、その弟子のアリストテレスであるといわれている。プラトンは正義を国家統治における調和の問題として捉え、安定的で調和のとれた国家運営の実現を正義と位置づけたが、アリストテレスは正義を個人と個人の間の調和の問題と捉え、個人間で権利や義務、あるいは利益や負担を公正に分配し、割り当てることが正義であると考えた。
このうちアリストテレスの正義の捉え方は、その後の正義論にも大きな影響を与え、現代においても、正義の本質を社会における公正な分配や分担と考え、あるべき正義の姿を明らかにしようとする試みが重ねられている。そこでは、功績に応じた分配を正義と捉える見解や、必要に応じた分配を正義と捉える見解、あるいは分配をめぐる丹念な討議のプロセスこそが正義であると主張する見解などが提示されてきた。
さて、数千年間に及ぶ正義の議論をわずか400字でまとめてみたが、このような正義の論じられ方に、多くの日本人は違和感を持つのではないだろうか? 少なくとも私はいまだに何ともいえない居心地の悪さを覚える。その原因は、「正義」が社会における分配の問題を意味するという、欧米の用語法にある。
私が子どものころから感じてきた「正義」は、悪に対峙する価値や理念である。「正義の味方」である仮面ライダーやウルトラマンは、公正な分配のために戦っているのではない。悪の手から地球を守るために戦っているのである。それなのに正義を社会における分配の問題として論じるのは、何か違うのではないか、そんな違和感を禁じ得ない。
しかし、よく考えてみると、そもそも“justice”に“正義”という訳語を与えたことがボタンの掛け違いなのではないかということに気づく。日本語の“正義”は「正しい義」を意味する。明治時代に発刊された日本初の国語事典『言海』を引くと、「義」とは「確(カタ)ク正シキ理(スヂ)ヲ守リテ行ヒ、一身ノ利害ナド顧ミヌコト」と説明されている。このような意味合いは、いまでも多くの国語辞典で正義の第一の語義として記載されている。
そう、まさにこれこそ日本人が感覚的に理解しているところの「正義」ではないだろうか。仮面ライダーは、世界平和という正しい理のために、自分の命をなげうって戦っているのである。それは英語で言えば、justiceな存在と言うよりは、rightな存在と言えるであろう。
“justice”はもともとjust(公正・公平・ぴったり当てはまる)+ice(行為・性質・状態)が語源になっており、平たく言えば、物事が当てはまるべきところにぴったり当てはまっている状態を意味する。欧米人が正義を分配や割り当ての問題と捉えるのはそのためであろう。“justice”の対義語は“injustice”(不公正・不公平・不当)であり、分配や割り当てが偏っており、不平等なことを指す。
これに対して、日本語の正義の対義語は「悪」や「不義」であり、いずれも道理に反することを意味する。英語で言えば“wrong”や“evil”や“immoral”がこれに当たるであろう。ショッカーは悪の軍団であり、それはwrongでevilな集団であるが、かといってinjusticeな存在だとはいえない。
このように考えてくると、“justice”を“正義”と訳したことが誤解の始まりだといえるのではないだろうか。justiceと正義のあいだには、大きな径庭があるにもかかわらず、これを結びつけたことが躓きの石のように思える。本来の語義に沿えば、“justice”には「公正」や「公平」などの訳語を当てるべきだったのであろう。
justiceは「義」という道徳的な正当性、言い換えればそれぞれの個人がいかに生きるべきかという個人的な問題ではなく、社会の中における人びとの公平な関係性、すなわち社会を構成し、運営していく際のあるべきルールの問題なのである。
私は、不均衡でいびつな、それゆえ少数者の声がかき消されがちな現代社会に対して、少しでもjusticeを広げようと取り組んでいる人びとを支援することがSJFの役割であると考えている。SJFは「正義の味方」ではなく「justiceの味方」なのである。ゆえにSJFは、「社会的正義基金」ではない。あくまで「ソーシャル・ジャスティス基金」なのである。 ■