【巻頭言・委員長のひとりごと=SJFメルマガ2020年6月17日配信より】
新型コロナウィルス感染症対策の検証を始める時が来た
(上村英明・SJF運営委員長)
2020年もいよいよ半ばとなった。東京オリンピック・ブームに酔いしれる予定の日本をはじめ、世界は、この約6か月新型コロナウィルス感染症というパンデミック(3月11日WHOによる宣言)にあっという間に席巻された。
日本でも、1月16日に最初の感染者が確認されて以来、国内感染者は1万7589名、死亡者は907名を数えるまでに拡大した(5月31日現在、NHK)。そして、4月7日には「緊急事態宣言」が発令され、5月7日の解除予定日は、残念ながら、同月31日まで延長された。幸い5月25日に宣言は全面的に解除されたが、さまざまな不安は払拭されていない。この間、市民には「外出自粛」と「3密の回避・接触機会の8割削減」が求められたが、小中高校はほぼ3か月休校となり、大学ではオンライン授業、大手企業でも業績ダウンやテレワーク、そして中小企業には助成金が準備されたものの、多くの事業者が閉鎖や倒産に次々と追い込まれている。
欧米のメディアは、この「緊急事態宣言解除」の状況に対して、「奇妙な成功(mysterious success)」(米フォーリン・ポリシー<電子版>5月14日)と評価する。そして、日本社会でもこの「解除」を機に改めて、政府の政策・社会のあり方に関して、包括的な検証作業が始まってもいいのではないだろうか。
新型コロナウィルス感染症は、グローバル化したこの現代社会に多くの検討課題をもたらしたが、日本に限ってもそれは例外ではなく、その検証ポイントは大きく以下3点にあるように思われる。
まず、これまで日本政府が実施してきたコロナ対策自体の検証作業だろう。1月30日には「新型コロナウィルス感染症対策本部」が内閣に設置され、また2月14日にはこの対策本部の下に有識者から構成される「新型コロナウィルス感染症対策専門家会議」(以下、専門家会議)が設置された。
この2つの組織によって主導されたコロナ対策には、欧米メディアのいう「奇妙さ」があり、今後のことを考えれば、政策の合理性の説明はやはり不可欠だろう。1月30日の「国際的に懸念される公衆衛生上の緊急事態宣言」以来、WHOの指示は「PCR検査の拡大」と「感染者(軽度感染者を含む)の隔離」であった。しかし、日本政府は、先ほどの「外出自粛」と「3密の回避・接触機会の8割削減」(ソーシャルディスタンシング)という独自対策を全面に打ち出して現在に至り、宣言解除後はこれを「日本モデル」の成功と自画自賛してきた(安倍首相の解除宣言:5月25日)。
WHOモデル政府の論理では検査の拡大は医療崩壊を起こすとして実施されなかったが、本当にそうだったのか。
例えば、4月18日には感染症研究や疫学中心の専門家会議に対する危機意識からか、日本医師会は臨床医学の視点で「COVID-19有識者会議」を設置した。
日本医師会は4月1日には医療崩壊を予想して、「医療危機的状況宣言」を発しており、「COVID-19有識者会議」の最初の政府への要請が、感染者の「見える化」を目指したPCR検査と抗体検査の実施体制の早期整備であったことは興味深い(日本医師会COVID-19有識者会議HP)。
さらに、大村秀章愛知県知事は東京・大阪では、病院の入院拒否・救急の搬送困難という医療崩壊が実は起こっていたとも指摘している(5月11日の記者会見、朝日デジタル:5月27日)。
他方、検査体制が確立できないのは中核となった保健所の人手不足という説明が専門家会議から聞かれたが、その理由は公衆衛生政策が軽視された結果でもある。保健所は、1996年には全国で845か所に設置されていたが、2020年には、55%の469か所に激減していた。
因みに、厚生労働省が、政府目標のPCR検査体制1日20,000件を達成したのは、宣言解除10日前の5月16日のことであった。今後の「第2波」を考えれば、この「奇妙さ」には一定の合理的説明が必要だ。
実施した政策のもう一つの側面は、行政手続きや法の支配のあり方としての合理性の検証である。4月23日国連のアントニオ・グテーレス事務総長は、「権威主義の高まり」に警鐘を鳴らし、緊急事態であっても「人権と法の支配」を尊重する政策の実施を訴えた(5月8日、ドイツのフランク=ヴァルター・シュタインマイアー大統領の欧州における終戦75周年演説では、これらの価値に加え、「民主主義と国際協力」の原則が強調された)。
この点、決定プロセスは十分明らかにされたのか、手続きは正当だったかの検証である。例えば、2月27日に発表された、3月2日から春休みにわたる全国の小中高校の一斉休校要請は、首相と側近のみの決定で、閣議はおろか、国会にも専門家会議にも相談されなかった。また、先ほどの「専門家会議」では議事録すら取られておらず、危機管理に携わる行政機関としてのあり方が問題視されている(朝日新聞5月30日)。
さらに、保健所を中心とする検査体制を縛ったのは、2月17日に専門家会議から厚生労働省を通して発表された「相談・受診の目安」(37.5度以上の熱4日以上など)と言われる。これには、より緩やかな改訂規準が、5月11日に厚生労働省から発令されたが、当初の基準も専門家会議では合意になっておらず、誰が決定したかは謎だという(読売新聞:2月17日)。
つまり、「奇妙な成功」には、手続き上の多くの謎が含まれている。
「緊急事態宣言」に関していえば、4月7日の「改正新型インフルエンザ等対策特別措置法」に基づき発令された。しかし、この「緊急事態」は法令上のそれであって、憲法を凍結できる「緊急事態」ではない。その点、外出自粛や営業自粛要請に関しては政府の説明責任・市民の知る権利(憲法第13条)は尊重されなければならず、経済・文化・学術・教育等の停止に関する損失補償・損害賠償請求権も正当な要求とみなされる。さらに、日本政府の中国・韓国からのみの入国制限実施(3月6日:その後3月25日に111ヵ国に拡大)、WHO総会へのWHOの初動対応の検証要請(5月12日)等も、その理由を検証されるべきだろう。
次に、日本の新型コロナウィルス感染症対策の人権上の公正さの検証、政策の対象から不当に排除された人がいないかを考える視点であり、これはグテーレス事務総長やシュタインマイヤー大統領も強調する点だ。
外出自粛や営業自粛は、社会の隅々にまで広がったが、補償政策は10万円の給付金(特別定額給付金の閣議決定は4月20日)から商品券、アベノマスクまで場当たり的に何度も変更され、説明や方法も二転三転する中、自粛の経済的影響は社会的に脆弱な人々を直撃した。
外国人労働者や移民・難民には多言語で十分政策の展開は理解されるように伝わっただろうか。子ども、高齢者、女性、在日コリアンなどのマイノリティや先住民族、障害者、性的マイノリティに政策は公平かつ迅速に適用されただろうか。埼玉県では、小学校でアベノマスクの着用が義務付けられる一方(時事通信:5月25日)、朝鮮学校の子どもたちがマスク配布から一時排除されるということが起きた(毎日新聞:3月11日)。
さらに、緊急事態宣言や営業自粛によって多くの企業が休業あるいは倒産に追い込まれたが、中小企業の自営業者、非正規雇用労働者や派遣労働者、ひとり親家庭あるいはDVで悩む家庭への政策上の配慮は十分行われただろうか。また、バイトや就活もままならない大学生も多く政府の支援は必要だが、政府の「学生支援緊急給付金」(5月19日閣議決定)は、留学生に成績基準を導入するなど、差別的制度を包含している。加えて、刑務所・拘置所・留置場などの刑事施設や入管収容施設、乳児院・児童養護施設などでの、必要な措置の確認も検証の対象である。
もちろん、こうした対応では、感染者自身に対するいわれなき差別や偏見の防止、医療従事者への適切な防護具の提供や待遇の改善、公共交通機関・食料日用品店・在宅ケアなどライフラインに関わる人々への適切な予防措置、検査へのアクセス確保などが必要で、その検証も忘れてはならない。
また、デジタル監視技術に関しては、プライバシー保護など人権上の基準の確保が不可欠である。加えて、本来コロナ危機対策へのこうした脆弱な立場に置かれた人々や関連NGOの参加も不可欠である。大阪にある「アジア・太平洋人権情報センター(ヒューライツ大阪)」では、「新型コロナウィルスと人権」という特設ページが4月17日に設けられ、国連人権機関のコロナ対策へのメッセージや日本の人権NGO、さらに各地域弁護士会等の声明や緊急政策提言が広範囲に集められている。
https://www.hurights.or.jp/japan/news2/2020/04/post.html
最後に、新型コロナウィルス感染症対策の教訓から、ポスト・コロナの社会を大胆に構想する検証が必要だろう。政府からも、それに類する提案は出始めている。厚生労働省はポスト・コロナの「新しい生活様式」を5月4日にまとめ、発表した。例えば、基本的生活様式としては以下のようなものだ。手洗い・手指消毒、咳エチケット、こまめな換気、身体的距離の確保、3密の回避、毎朝の体温測定と症状がある場合の自宅療養。働き方の新しいスタイルでは、テレワークやローテーション勤務、時差通勤、オフィスを広々と、会議はオンライン、名刺交換はオンライン、対面での打合せは換気とマスク(厚生労働省HP)、と残念ながら想定内のかつ対処療法としての提案が続く。
しかし、コロナ危機の教訓をこの程度あるいはこれだけで終わらせていいわけではなく、むしろ終わらせるべきではない。
やや話は飛ぶが、緊急事態宣言の間、興味深かったニュースは、感染症対策の下でインド北部の空気がきれいになり、30年ぶりにヒマラヤ山脈が見えたというものだった(朝日デジタル:4月17日)。これを、新型コロナウィルスが「グローバル資本主義に急ブレーキをかけた」と小田博志は表現した(平和学会、平和フォーラム、コロナ危機に立ち向かう、5月25日)。飛行機や高速鉄道の多くは運休し、多くの場所で工場は閉鎖され、道路から車の渋滞が消え、満員電車も解消した。私自身も5月7日にはスーパームーンを見たが、首都圏の空は格段に澄んでいた気がした。
この感染症を、「グローバル化を背景に発生し、グローバル化を介して拡大し、そして、グローバル化を一時ストップさせた」と、小田は表現している。いくつもの環境・開発NGOも、これをその関心事から具体的に次のように説明する。
こうしたパンデミックは開発の無謀な拡大や地球温暖化の進行によって環境が破壊され、未知のウィルスを持った野生生物が人の生息圏内に現れ、このウィルスが大量飼育などの家畜を介して、変異した結果だとみている。その意味、コロナ危機は、グローバル化の下で依然として拡大する大規模開発や「環境危機」と密接に結びついている(グリーンピースのHP)。そして、このパンデミックを繰り返さないためには、大規模開発や環境破壊を停止し、肉食のための家畜の大量飼育を止めて、都市をスリム化する必要がある。それは、自然と調和の取れた、持続可能な社会、里地里山・地産地消の社会の建設への待ったなしの提案でもある(日本自然保護協会HP)。
これらと類似した提案は、日本では、「3.11」東日本大震災後に自然エネルギーの利用や分散として登場したが、なかなか全国的な議論にならなかった。しかし、今回は日本全体に問題は及んでおり、本質的にグローバルな課題でもある。ひょっとすれば、グローバル化に対する人間らしい生活の回復につながる流れが構想することが重要であり、生活様式に歴史的転換点が生まれる可能性もある。
もう一点は、軍事化に対抗する構想力である。
こうしたパンデミックでは、膨大な損失補償・損害賠償の資金が必要であることが今回改めて明らかになった。補正予算の連続は政策としては、不可欠だが、財政的にみれば、経済破綻への道ともなる。その点、韓国政府は、国防費の中のイージス艦やステルス戦闘機の購入費用を新型コロナウィルス感染症対策に運用することを決定した(韓国・中央日報:4月16日)。
「軍事費を減らして民生ニーズにというキャンペーンはこれまでもくり返し行われてきたが、今回のコロナ危機ほど世界的規模で切迫感をもってこのことが求められているときはない」と川崎哲は指摘し(平和学会、平和フォーラム、コロナ危機は世界を軍縮に導くか、4月18日)、核軍縮を含め軍事費削減の促進も提案している。
従来の軍事費を使った公衆衛生における国際協力システムの構築こそ、この時期にタイムリーな提案で、大賛成だ。しかも、今回のパンデミックは、アフリカや中南米では依然収束しておらず、これら地域への緊急支援は今後も必要とされるだろう。
なぜ、こうした検証や大胆な提言が必要なのだろうか。むろん、このほぼ半年の経験から教訓を学ぶためだが、その他に1点確認しておこう。
イスラエルの歴史学者ユヴァル・ノア・ハラリは、ポスト・コロナ社会には、2つの選択肢があると分析している。第1の選択は「全体主義的な監視」対「市民の権限強化」、そして第2の選択は「国家主義的な孤立」対「世界の結束」である(日本経済新聞:3月31日)。選択がある理由は、実行された多くの短期的緊急措置が、嵐が去っても消えないからである。第1の選択は内政に関するものであり、第2の選択は外交に関するものだ。
つまり、私たちが、緊急措置への記憶が残る中、2つの選択で積極的に「市民の権限強化」と「世界の結束」を選ばない限り、ポスト・コロナ社会では、新しい生活様式の下、「全体主義的な監視」や「国家主義的な孤立」が社会政策の基軸として選ばれる可能性もあるということだ。
ともかくも、第2波、第3波の襲来という説もあるが、未知のウィルスによる新しいパンデミックの発生は、グローバル危機の一つとして、近い将来また起こりうる可能性がある。パンデミックに対する民主的で国際協力を基盤とした対策の準備は、重要な社会政策の課題になることだろう。 (了)<2020/05/31>
*************************************
本稿の日付は、すべて2020年である。なお、今回政府から支給される10万円の「特別定額給付金」を不要な人がいれば、市民による「検証委員会」設置に利用できないだろうか。ひとつの私見である。
<本稿の執筆に関しては、まちぽっと事務局の瀧川恵理さんと小林幸治さんにお世話になった。心から感謝したい。>