ソーシャル・ジャスティス雑感(SJFメールマガジン2022年9月21日配信号より)
「人権」と「思いやり」の違い
金子匡良(SJF運営委員)
- 人権は思いやり?
先日、とある団体の職員研修に講師として招かれ、人権について話をする機会を得た。その中で「『人権』と『思いやり』は異なるものであり、これを混同して、人権教育を『思いやり教育』や『やさしさ教育』にすり替えてはならない」という趣旨の話をしたところ、質疑応答の中で、そのような考え方には違和感があるとの疑問の声が出された。同様の経験は以前にも何度かしたことがあり、かつて某県の教員研修で同じような話をしたときにも、強い反発を受けたことがある。
確かに世間では、人権尊重とは人を思いやることであり、その心を育むことが人権教育であるとの理解が根強い。毎年12月の人権週間のころに、各地で人権標語コンクールや人権作文コンクールが行われるが、そこでの入選作品を見ても、思いやりややさしさを強調したものが少なくない。たとえば、昨年行われた、ある県の人権標語コンクールで優秀賞に選ばれたのは、「やさしい心の花 だれもが持っている 思いやりの種」という作品であった。
私も人権と思いやりが無関係であるとは思わない。思いやりの心が人権保障を側面から補強することはあるであろう。しかし、人権を尊重することと、思いやりの心を持つことは決してイコールではない。
では、両者にはどのような違いがあるのであろうか。
- 人権と思いやりの違い
まず、人権と思いやりでは、その担い手が異なる。思いやりには「思いやる側」と「思いやられる側」があり、思いやりを発するか否かは「思いやる側」がイニシアティブを有する。それゆえ、思いやり教育・やさしさ教育では、「思いやる側」を対象に「思いやりの心を持ちましょう」という内容の教育が行われるのである。
これに対して、人権は人としての尊厳を傷つけられた者や自由を不当に束縛された者などが、「自分の尊厳や自由を尊重せよ」と主張するために用いるものである。このとき人権を主張するかしないかのイニシアティブは、尊厳や自由を奪われた人びとが有する。そして人権教育は、「どんな人にも人権があり、それを奪われたり、不当に制約されたりしたときは、声を出して抗議してもよい」ということを教えるものである。
- 「人権=思いやり」図式の弊害
思いやりはそのイニシアティブを「思いやる側」が握ってしまうがために、思いやりの対象を「思いやる側」が選別することができる。その結果、思いやるに値する人びとのみが思いやりの対象に据えられることになり、自分たちの理解が及ばない者や、自分たちを不愉快にする者、あるいは自分たちの価値観に敵対する者は、思いやりの対象外となる。このような選別や排除が容易に起こることは、人類の歴史を見ても明らかであろう。人種が異なる者、民族が異なる者、宗教が異なる者、卑しいとされる職業に就いている者、罪を犯したとされる者やその家族などは、常に思いやりの対象外に追いやられてきた。そして、「思いやる側」は、こうした人びとを思いやれない理由をこう説明してきた。「あいつらは社会の敵である。悪いのは向こうであって、我々ではない」と。
このような考え方をそのまま人権に移し替えてしまったらどうなるであろうか? 人権にそれを「与える側」と「与えられる側」が存在し、誰に人権を認めるかを「与える側」が判断できるとしたら、どうなるであろうか? そのとき人権は、容易に差別や迫害を正当化する理屈へと転化してしまうであろう。
- 人権の意義
それゆえ人権思想では、どのような人でも人間であるがゆえに人権を持つと考えられている。人権の存在意義は、社会の中で虐げられている人びとや迫害されている人びとに力を与え、自分たちをねじ伏せようとする勢力に抵抗する機会を保障することにある。つまり、人権の本質は抵抗にあるといえる。ここが予定調和的な集団主義思考を前提とする思いやりとの最大の違いである。
19世紀の欧米でベストセラーとなり、日本でも明治19年に翻訳されて人びとの知るところとなった法律学の名著、イェーリング(著)『権利のための闘争』は、以下のような文章から始まる。(翻訳は村上淳一(訳)『権利のための闘争』(岩波文庫、1982年)によるが、一部筆者が改変している。)
「権利の目標は平和であり、そのための手段は闘争である。世界中の権利は、これを否定する者から闘いとられたものである。自己の権利を貫かねばならない立場に置かれた者は、権利の理念を実現するために、行動しなければならないのである。」
この一文は、人権を含む権利の本質を巧みに描写しているといえる。不公正な世界を変えていくためには、強者や多数者の「思いやり」に期待していてはならない。不公正を強いられている者の抵抗こそが、世界をより良いものへと作り替えていくのである。
強者や多数者からは雑音とみなされ、かき消されそうになる小さな抵抗の声にこそ、公正な社会への糸口があると信じて、それを支援する。SJFの推進するアドボカシー活動は、まさに「権利のための闘争」の一環なのである。 ■