ソーシャル・ジャスティス雑感(SJFメールマガジン2026年5月20日配信号より)
日本国憲法と日本人ファースト
金子匡良
- 給食は日本人ファースト?
とある学校の先生から聞いた話である。その先生のクラスでは、給食の際に最初に配膳されたものを食べ切った生徒から、順番におかわりをもらうことができるというルールになっていた。ある時、おかわりをもらうために、2人の生徒が同時に配膳台へと向かった。ひとりは日本人の生徒、もうひとりは外国にルーツをもつ生徒であった。タッチの差で先におかわりを受け取った日本人の生徒が、もうひとりの生徒にこう言ったそうである。「日本人ファースト!」
それを言った生徒に悪気はなかったのかもしれない。ウケ狙いの軽口のつもりだったのかもしれない。しかし、それを言われた側の生徒は、自らの出自ゆえに受けた屈辱に、深く傷ついたのではないだろうか。某政党が選挙スローガンとして用いて以来、この言葉を耳にすることが多くなったが、そこには社会を分断させ、マイノリティを切り捨てる差別的な響きが満ちている。
- 各国の憲法の平等条項
そもそも憲法は、すべての人間は尊厳ある存在であり、その尊厳性に差はないという原理(これを「人間の尊厳の原理」という)を基調としている。これを最も端的に表した条文として有名なのが、ドイツ基本法(ドイツの憲法のこと)の1条である。そこでは、「人間の尊厳は不可侵である。・・・それゆえドイツ国民は、世界のすべての人間共同体・・・の基礎として、不可侵にして譲り渡すことのできない人権を信奉する」と宣言されている。人間の尊厳が不可侵であれば、当然、すべての人は平等に扱われなければならない。そこでドイツ基本法3条は「すべての人は、法律の前に平等である」と定め、万人の平等を宣言している。
これはドイツだけのことではない。アメリカ憲法は「何人に対しても法の平等な保護を拒んではならない」(修正14条)と定め、フランス憲法の一部である人権宣言は、「人は、自由かつ権利において平等なものとして生まれ、存在する」と謳い(1条)、スイス憲法でも「すべての人間は、法の前に平等である」(8条)と定めている。より詳細な規定を置いているのはカナダ憲法であり、「すべての個人は、法の前および法の下に平等であり、・・・とりわけ人種、出身国ないし民族的な出自、肌の色、宗教、性別、年齢、精神的・身体的障害に基づく差別を受けない」(15条)と定められている。要するに、各国の憲法では、人間はみな平等であり、人にファーストもセカンドもないことを明らかにしているのである。
- 日本国憲法は日本人ファースト?
ならば、日本国憲法はどうなのであろうか?「日本人ファースト」を否定し、分断や差別と闘う礎となる規定を持っているのであろうか?
ところがである。日本国憲法は人権の原則に関する条文で、「すべて国民は、個人として尊重される」(13条)と定め、「人」や「人間」ではなく、「国民」の尊重を謳っているのである。同様に、平等に関する条文でも、「すべて国民は、法の下に平等であつて、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、・・・差別されない」(14条)と定め、「人」の平等を定めるのではなく、「国民」の平等を定めている。これにとどまらず、日本国憲法は至るところで「国民」を強調し、憲法上の人権保障はあたかも国民にしか及ばないかの如く規定しており、まさに「日本人ファーストな憲法」となっている。
憲法がこの有り様であれば、他の法律もみな日本人ファーストなのかというと、実はそうでもない。労働基準法は「使用者は、労働者の国籍・・・を理由として、賃金、労働時間その他の労働条件について、差別的取扱をしてはならない」(3条)と定めている。また、職業安定法は「何人も、人種、国籍・・・等を理由として、・・・差別的取扱を受けることがない」と定め、平等保障の対象を「何人」、つまりすべての人と規定している。
- すり替えられた憲法条文
では、なぜ憲法は徹底して日本人ファーストなのであろうか? その背景には、憲法制定時の巧妙な言葉のすり替えがあった。
広く知られているとおり、日本国憲法の原案は、当時日本を占領統治していたGHQ(連合国軍総司令部)が作成した。そのGHQが最初につくった平等条項の原案は、平等についてどのように規定していたかというと、「すべて自然人は、法の前に平等である」という条文になっており、しかもこれに続けて「外国人は、法の平等な保護を受ける」という条文も付け加えられていた。ここでいう「自然人」(natural person)とは、生物としての人間を意味する法律用語であり、つまり最初の憲法案では、先ほど紹介した世界の憲法に匹敵する、すべての人を対象にした裾野の広い平等保障が定められていたのである。
ところが、英文でつくられたこの原案が、日本側に手渡され、日本の官僚の手によって日本語に翻訳される過程で、様々な“意図的誤訳”が行われることとなる。まず、「自然人」は「人」に言い換えられ、最終的には「国民」へとすり替えられた。また、外国人の平等保障を定めた条文はすべて削除された。こうして、国民のみの平等を定める日本人ファーストな平等条項ができあがったのである。
なぜこのような誤訳が行われたのであろうか? そこには、この条文の翻訳担当者であった法制官僚・佐藤達夫の考えが強く反映していたと言われているが、単にひとりの官僚の考えというよりは、戦前から日本社会に固着していた日本人ファーストの思想が体現されたともいえよう。同時期に制定されたドイツ基本法が、「世界のすべての人間共同体」を見据えて人権を考えたことと比較して、憲法の随所に置かれた「国民」の二文字に、日本の立憲主義の限界を見ることができる。
- 憲法改正論議の高まりに際して
高市政権の成立以降、憲法改正を求める声が熱を帯びる一方で、改憲に反対するデモや集会も各地で行われ、まさに国論を二分する論争が高まっている。この中にあって、いわゆる「護憲派」の中には、「日本国憲法は世界に誇る平和憲法であり、改正すべき条文など存在しない」という主張も散見される。その心情は理解できないわけではないが、他方、現在の憲法は、そもそも制憲時の誤訳によってすり替えられたものであり、これを本来の姿に戻すために、世界標準の立憲主義憲法に変えるべきとの改憲論もあり得よう。子どもまでもが毒されている「日本人ファースト」の言説に対して、すべての人は平等であると反論できる明示的な根拠を、憲法の中に見出せないことは甚だ残念である。
いや、それ以上に残念なことは、巷の改憲論の多くが、日本の立憲主義のバージョンアップを目指すものではなく、むしろバージョンダウンを図るかの如くのものであることであろう。憲法の存在意義を見失った中で憲法を改正すれば、日本の立憲主義を著しく劣化させることになる。
憲法のバージョンアップを目指すために改憲を議論するのではなく、憲法の劣化を防ぐために改憲に反対せざるをえないという現状は、悲劇的なまでに虚しい。いつになれば真っ当な改憲論議ができる国となるのであろうか? 毎年5月の憲法記念日を迎えるたびに、暗澹たる思いが増すばかりである。
*コラム執筆者・金子匡良: SJF元運営委員・元審査委員。法政大学法学部教授。専門は、憲法・人権法・人権政策など。著書に『人権ってなんだろう?』、『人権の法構造と救済システム』等。NPO法人まちぽっと理事。

