ソーシャル・ジャスティス雑感(SJFメールマガジン2022年1月26日配信号より)
解題「グローバル化社会における草の根民主主義」
金子匡良(SJF運営委員)
先日、SJFの第10回助成事業が決定し、その発表フォーラムが開催された。今回の公募では、「見逃されがちだが、大切な問題」という例年どおりの基本テーマに加えて、「グローバル化社会における草の根民主主義」という特設テーマが設けられたのだが、SJFの中でも、この特設テーマの趣旨が分かりにくかったのではないかという反省の声が聞かれた。実は私は、このテーマの設定に賛同したひとりなのだが、言われてみれば、分かったようで分かりにくいフレーズではある。そこで本コラムを利用して、このテーマについて私なりの解題をしてみたい。(なお、以下に述べることは私の個人的な見解であって、SJFとしての見解ではない。)
「グローバル化社会における草の根民主主義」と聞いたとき、多くの人は『国内外の問題を地域レベルで話し合って解決していくこと』というイメージを持つであろう。そうであれば、ほとんどの市民活動はこれに当たり、そのような当たり前のことを今さら特設テーマに据える必要があるのかと思われるかもしれない。しかし、この特設テーマで問いたかったのは、民主主義の理解やそのあり方なのである。
「民主主義」を広辞苑で引いてみると、「権力は人民に由来し、権力を人民が行使するという考えとその政治形態」と説明されている。このように、民主主義の原像は、国家権力を国民のものにするというスケールの大きな概念なのだが、しかし、一般的に使われる民主主義は、必ずしも国家権力に関する場合だけではなく、企業、学校、地域といった小さな社会の運営にも当てはまり、家庭生活にも民主主義は存在する。そこでの民主主義の意味合いは、「みんなのことは、みんなで決める」という極めてシンプルな行動原理である。
では、民主主義の核心、つまりこれを欠いたら民主主義とはいえないというような本質的な要素はなんであろうか? それを考えるには、「みんなのことを、みんなで決められない」場合にどうするかを検討してみる必要がある。「みんなのことを、みんなで決められない」場合によく使われる方法が多数決である。みんなで決めようとしたにもかかわらず、全員が合意できる結論に到達できないとき、多数決をとり、相対的に多くの人が同意する案を「みんなの合意事項」とみなして、それに反対した人にも適用するのである。そして、このプロセスに民主主義の核心を見出す人も少なくない。「民主主義は“期限付きの独裁”である」という言い回しは、多数決によって少数派を多数派に従わせることを民主主義の核心と見ているひとつの表れであるといえる。
しかし、多数決を民主主義の核心と捉えれば、多数決で勝利したことを錦の御旗として、少数派への圧迫が起こり、まさに“独裁”を生むことになりかねない。そして、そのような“独裁的民主主義”による決定に少数派が納得するはずはなく、結局、社会は分断され、「みんなのことを、みんなで決められない」状態が恒常化する。結果として「みんなのことは、みんなで決める」という民主主義の基本原理は瓦解してしまうのである。
では、民主主義の核心をどこに求めればいいのか? それは、実は多数決の先にあるのではないだろうか。「みんなのことを、みんなで決められない」場合に、やむを得ず多数決で決定を行うとしても、それは所詮、一部の人だけが同意した暫定的な決定でしかなく、多数派はそのことをよく自覚しなければならない。そして、一旦決められた事項でも、少数派を含めて、より多くの人びとの同意が得られるように継続的に見直していくことが必要である。その見直しのためには、広く情報を公開し、常にオープンな環境で議論を続けていかなければならない。「みんなのことは、みんなで決める」という民主主義の核心は、多数決の後に行われるこのような見直し手続きにこそあるのではないだろうか。
そのような視点でこの国の自称民主主義をチェックすると、こうした見直し手続きがどこまで整えられているであろうか。ひとたび多数決で決められたことは、あたかもそれが全体の利益を反映したものであるかのように扱われ、それに反対した少数派の意見を無視して推し進められる。その上、情報も十分には公開されず、見直しの機会すら与えられない。そのため、少数派はただ反対を叫び続けるほかなく、社会は分断される。こうして「みんなのことを、多数派だけで決める」という非民主主義的な社会運営が、民主主義の名のもとに行われ、民主主義は形骸化していくのである。これは、国家単位の民主主義だけの話ではない。地域でも、会社でも、学校でも、家庭でも、同じことが起こっているのではないだろうか。
多数決で決まったことでも、それだけで万事よしとするのではなく、継続的に少数派の同意を得るための努力を重ねることが民主主義の核心であり、その営みが社会を強くするのである。このような真っ当な民主主義の実践を、少数派の視点に立って地道に訴え続ける活動が、私の考える「草の根民主主義」である。一度決まってしまった公共工事の再考をファクトベースで訴える活動、多数決によって押し流されそうになっている少数派の意見を代弁する活動、真っ当な民主主義を実践するための情報公開や政策評価を求める活動。これらの活動を国内外を問わずに行うことが、私の考える「グローバル化社会における草の根民主主義」の実践である。 ■