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ソーシャル・ジャスティス基金(SJF)アドボカシーカフェ第67回開催報告

“他者への想像力”を

~日韓の歴史認識をめぐる問題にジャーナリストと共に目を向けて~

 

 2020年10月31日、ジャーナリストを目指す日韓学生フォーラム(以下、日韓学生フォーラム)に参加した若者たち――猪股修平さん(中国新聞)・李偰嘏イソラさん(韓国カトリック大学生)・権大鈺クオンデオクさん(韓国兵役中)・南真臣さん(京都新聞)・姜明錫カンミョンソクさん(韓国youtuber)――、西嶋真司さん(映像作家)、植村隆さん(日韓学生フォーラム実行委員会委員)をお迎えしたアドボカシーカフェを、SJFはオンラインで開催しました。

 最悪の日韓関係と言われる中、対話を通して親しくなっていった日韓の学生たちがいます。

 「韓国はいつになったら日本を許すの?」と問うた日本人学生と議論した姜明錫カンミョンソクさんは、その学生と一緒に元従軍慰安婦が暮らすナヌムの家を訪問した時のことを話しました。その学生はその後も韓国との交流を深め、韓国の人々がなぜこの問題に執着するかを理解し、「被害者中心的な解決が正しい」と表明するとともに、日本国内でこの問題がどう受け止められているかについてもよく知り、解決の難しさも認識していることが紹介されました。

 過去を済んだことにし得る加害者と、癒され得ない被害者と、学ぶ歴史の内容は大きく異なっており、そうして造られた情報格差の問題が提起されました。歴史の現場を日韓の学生が共に訪れ、学びあい、歴史認識を共有しようとする歩みが報告されました。

 韓国の民主化を支えてきた日本の人たちがいる歴史を学び、日韓の市民社会の連帯の可能性を見出した権大鈺クオンデオクさん。ジャーナリズムだけは私たちの悲しみを超えて均衡を保たなければなりませんと語りました。

 負の歴史に向き合い続けたジャーナリストの足跡が西嶋真司さんから紹介されました。その一人である林えいだいさんが丹念に追った福岡県にある朝鮮人炭鉱夫の無名墓地。その地を日韓学生フォーラムで訪れた時の気持ちは言葉にならないと李偰嘏イソラさんは語りました。徴用工について、姜明錫カンミョンソクさんは、韓国から見れば強制動員であり、その被害者が「自分たちの声を聞いてくれ、私たちを無視しないでくれ、私たちを嘘つきだと言わないでくれ」という声を「反日」でくくられたら、被害者の尊厳はどうなるのか、それは慰安婦の問題も同じだと提起しました。

 同じ人間が直面した悲しみや苦しみを国境や時代を超えて想像する力の大切さを植村隆さんは強調しました。だれでも発信できるネット時代だからこそ、現場から声を丁寧に発信することの大切さを猪股修平さんは強調しました。南真臣さんは、現場でとらえた事実を愚直に報道したいと話すとともに、差別を増幅しやすいネットの問題も指摘しました。

 他者の立場に立った歴史認識が問われています。

 詳しくは以下をご覧ください。

※コーディネータは辻利夫(SJF企画委員)

 

――植村隆さん(日韓学生フォーラム実行委員会委員)のお話――

 私は今、韓国のカトリック大学の客員教授をしており、同時に週刊金曜日の発行人をしております。早稲田大学を1982年に卒業し、朝日新聞の記者を32年間やっておりました。

 本日は、「排外主義を乗り越え、連帯しよう」というタイトルで、ジャーナリストを目指す日韓学生フォーラムの活動がどうして始まったのかという背景や、そのねらい、どういう活動をしているかについてお話したいと思います。

Kaida SJF(植村隆さん)

 朝日新聞では当初、千葉支局と仙台支局でサツ回りを行い、その後1年間、朝日新聞社の派遣で韓国の延世大学に語学留学をしました。韓国語がある程度わかるようになった後、大阪社会部の記者になり、自由な立場で在日コリアン問題を担当していました。大阪は在日コリアンが多い地域であり、とくに多い生野区に住んで、在日コリアンの人たちと生活を共にしながら在日コリアンの人権問題を担当しておりました。

 当時、仲間たちと「在日コリアンは隣人である」というテーマで記事の連載を始め、題字(イウサラム=「隣人」)にハングル文字を使ったところ、韓国の雑誌記者が取材に来て、「なぜ韓国語の題字で連載をしているのか」と聞かれた記憶があります。貧しくて学校に行けず読み書きのできない在日コリアンのお母さん(オモニ)がいて、仕事の終わった後、オモニ学校というボランティアたちがやっている夜間学校に通っている風景を描いたりしました。その頃、在日コリアンは就職差別や結婚差別、あるいはアパートに入居する時にも差別を受けるなど、様々な差別に直面していました。私は同じ日本社会のなかに差別を受けている人がいる、それを日本人は知るべきだという思いで連載をしておりました。

 その連載の延長線上で、慰安婦問題の取材も始めました。1991年8月11日の朝日新聞大阪本社版の社会面トップで、「韓国にいる元慰安婦の女性が証言を始めた」という第一報の記事を書きました。慰安婦のことは韓国では「挺身隊」と呼ばれていたので、挺身隊という言葉も使って書きました。これが、韓国の元慰安婦の女性が被害体験を証言した最初でした。さらにこの記事の3日後に、その女性が記者会見をして、自分の名前はキムハクスンだと述べ、被害体験を話しました。それをきっかけに、元慰安婦の女性たちが証言を始めました。元慰安婦女性の#MeeToo運動のようなものです。

 ところがその記事が二十数年後、2014年、週刊文春という雑誌に「慰安婦捏造の記事を書いた植村がお嬢様大学の教授になる」というような誹謗中傷の記事が出て、その大学に激しい攻撃が行くという事態になりました。しまいには家族にまで脅迫状が届くようになりました。これは、韓国でもニューヨークタイムズ等でも報道され、慰安婦問題を報道した記者が弾圧されたと位置付けられ、国連の調査も受けました。こういった誹謗中傷を行った極右の論客を相手に、名誉棄損の裁判を起こしました。それと同時に、言論闘争も始めました。当時、私が「挺身隊」という言葉を使ったために、「慰安婦は挺身隊ではないのに植村は捏造した」というように批判されましたが、記者会見をした元慰安婦のキムハクスンさん自身が「挺身隊だった」と話していました(東亜日報)し、北海道新聞の記者も彼女にインタビューし、「挺身隊」という言葉を使っていました。

 実はこの植村攻撃は、植村だけに対する攻撃ではないのです。

 日本で有名な灘中学が、慰安婦のことが少し記述されている教科書を使ったところ、なぜそんな教科書を使うのかといった抗議の葉書が大量に送りつけられるという事件もありました。その教科書には河野談話が出ている程度でしたが、そういう攻撃を受けました。

 また、wam(女たちの戦争と平和資料館)という慰安婦についての資料館(東京都新宿区)にも、慰安婦問題を展示していることに対して爆破するという強迫の葉書が送られてきました。

 

お互いの国の歴史を知り合って、共に話し合える仲間を日韓の国境を超えてつくろう

 これはどういうことかと思いました。

 私自身は、大学生時代に韓国に出会いました。光州事件が起こり、韓国の現代史に関心を持って、心を痛めておりました。その連帯のために集会に参加したり、新聞に光州事件を批判する投書を行ったりしました。当時、金大中氏が光州事件の背後人物だと韓国政府が発表して死刑判決まで受ける状況でしたので、それに対して批判しました。また韓国に旅行して、韓国の若者と出会いました。

 そうすると、韓国は光州事件で民衆を軍事独裁政権が弾圧している一方で、人々は明るくて人懐こくて、すっかり韓国のファンになりました。独裁政権とそこに住む人々は違うんだと、自分の目で見ることによって、韓国をより深く分かるようになりました。語学留学の際には、金大中氏の事務所に話を聞きに行ったりしました。

 そういう中で、私は韓国の歴史を知ることの大切さに気づき、人権や平和を守ることがジャーナリストの使命だと考えるようになりました。

 この植村バッシングを考えると、日本の中に根強い反韓感情があることがわかります。負の歴史に向き合おうという動きに対しては、植村バッシングと同じような攻撃が起きているわけです。

 

 これをどうやって変えていかなければいけないか。

 私はジャーナリストですから、相互理解、隣国をよく知るジャーナリストを育てていくことが大事ではないかと思いました。

 私はソウルに来てあらためて思うのですが、歴史はやはり記憶しないと、再びそういうことが繰り返されるのではないか。歴史を知ったうえで未来を語り合う必要があるのではないかと思うのです。

 そして、裁判闘争で私を支援してくれる仲間たちと「ジャーナリストを目指す日韓学生フォーラム」を立ち上げました。日本と韓国のジャーナリストを目指す若者たちが交流する中で、お互いを刺激し合って、お互いの国の歴史を知り合って、そして問題をどう解決していけばよいのか、そういうことを共に話し合える仲間を日韓の国境を超えてつくろうというのが狙いでした。

 第1回はソウルで行い、第2回は広島で行いました。広島では、元市長の平岡敬さんと日韓の学生たちが交流しました(写真下)。平岡さんは、広島市長として初めてアジアに対する侵略戦争の責任を謝罪した方です。平岡さんは朝鮮半島出身者の被爆者問題を、中国新聞の記者時代にずっと追い続けた人でもあり、その面でも若いジャーナリスト希望の学生たちの参考になると考えました。

Kaida SJF

 第4回は韓国の光州(写真下)、第5回は日本の九州に行きました。詳しくは、参加した学生たちが後で話してくれると思います。

Kaida SJF

 第6回の日韓学生フォーラムは韓国で開催する予定でしたが、新型コロナ危機により、オンラインで20年11月28日に開催することになりました。これは、チェ・スンホ(崔承浩)さん(写真下)という韓国のプロデューサーをゲストに招きます。日本でも彼による『共犯者たち』というドキュメンタリー映画が公開されました。イ・ミョンバク(李明博)とパク・クネ(朴槿恵)による保守政権の時代に、いかに韓国の放送メディアが弾圧されたか。そして放送局幹部が政権の落下傘人事で決まり、政権の意のままになる幹部が放送局を支配していた。そういう時代の中で、自由な報道を求める記者たちの戦いが描かれている作品です。

Kaida SJF

 今回のzoomによる日韓フォーラムでは、こういう時代についてまず学び、そしてチェ・スンホさんのお話を伺い、彼を囲んで、ジャーナリズムとは何か、真実の報道とは何か、権力に迎合しない報道とはどういうふうにすべきか、語りあいたい。チェ・スンホさん自身は、MBCの敏腕プロデューサーでしたが、労働運動に関わったということでクビになり、ニュース打破というメディアを立ち上げて『共犯者たち』を創るわけです。その後、ムン・ジェイン(文在寅)政権の誕生とともにMBCが民主化した時に、チェ・スンホさんはMBCの社長になりました。そして今は、ニュース打破の一プロデューサーとしてドキュメンタリーを作っています。

 こういうことを日韓学生フォーラムは行っています。ぜひみなさんに関心を持っていただき、参加していただきたいと思います。どうぞよろしくお願いいたします。

 

 

――西嶋真司さん(映像作家)のお話――

 僕も以前、韓国の特派員をしており、ちょうどその時に、慰安婦問題が起きました。僕も植村さんと同じように「挺身隊」という言葉を使っておりましたが、まさか当時、それが捏造や誤報だとは思っておりませんでした。それが今の日本では「捏造」などと言われるようになってしまった。

 この間に日本はどうなったのか、ジャーナリズムとは何だろう。日本は自分たちの国の都合の悪い歴史を隠そうとする。それが日韓関係を悪くしているのではないかと思っていました。そのような中で、植村さんから日韓学生フォーラムを開きたいということで関わるようになりました。
Kaida SJF(西嶋真司さん)

 今年20年の1月から2月にかけて行った第5回の日韓学生フォーラムは、九州の福岡県の筑豊と、福岡県と熊本県の県境にある三池炭鉱の跡地(大牟田・荒尾)と、熊本県の最南端にある水俣市を訪れました。

 

差別を受けた人たちへの共感 負の歴史に向き合い続けるジャーナリズム

 筑豊は戦時中の朝鮮人の強制労働という負の歴史を抱えています。筑豊で働いて国に帰ることのできなかった朝鮮人労働者たちのお墓もあります。

 水俣市は、有機水銀中毒の公害が起きた場所です。この水俣病は、経済発展を優先する国と企業のもたれあいによって起きた公害だといわれています。

 こうした歴史は国家にとって隠しておきたい不都合な歴史なのです。そうした歴史に向かい合い続けたジャーナリストがいます。写真(下)の右が上野英信えいしんさん、左が林えいだいさんです。どちらも筑豊において、朝鮮人の強制労働問題などを通して、国家とは何なのか、民族とは何なのか、差別とは何なのかという重要なテーマを記録していました。

Kaida SJF

 今回、林えいだいさんが語った筑豊、朝鮮人の強制労働の歴史があります。そのダイジェストがありますのでご覧ください(映像割愛)。

Kaida SJF

 また、熊本県の水俣病を描いた『苦界浄土』を著した石牟礼道子さんの足跡も尋ねました。(映像割愛)

 石牟礼さんの本を読んでいると、不条理な病に対する恨みではなく、患者さんを慈しむ優しさが溢れているのです。非常に悲惨な状況を見ながらも、愛情によって水俣病の現状を訴えたのが石牟礼さんだったと思います。

 

 これらの原点は、差別を受けた人たちへの共感であり、民衆を顧みない権力への反発だと思うのです。ジャーナリストの目線は常に弱い立場の人たちに向けられていたと思います。

 林えいだいさんが、なぜ記録するのかについて語った未公開の映像があるので見ていただこうと思います(映像割愛)。

 林えいだいさんは、「誰かが記録をしないと、権力は何でもする」と。この権力の暴走を許さないのがメディアの使命だと思っています。最近「奢る権力、媚びるメディア」というような言葉があり、権力の前にメディアが自由にものを言えなくなったといわれています。

 今回、日韓学生フォーラムに参加した若いジャーナリストたち、これからメディアでいろいろな人に影響を与えていく人たちには、こういう九州の地で民衆に寄り添って権力と向かい合ったジャーナリストがいたということを心のどこかに留めておいていただければと思います。

 

 

――日韓学生フォーラムに参加した若者たちのお話――

猪股修平さん(中国新聞)・李偰嘏イソラさん(韓国カトリック大学生)・権大鈺クオンデオクさん(韓国兵役中)・南真臣さん(京都新聞)・姜明錫カンミョンソクさん(韓国youtuber)の5名にお話しいただきました~

 

猪股修平さん) 広島の中国新聞で平和報道の中心を担う市政担当におります。今はちょうど原爆に関する若者の活動などを取材しております。先ほど植村さんのお話に出た平岡敬さんの後輩です。

 日韓学生フォーラムには、第1回のソウルから毎回参加しております。私がフォーラムで得たこと、それから記者になって今も生かしていることをお話ししたいと思います。

 写真(下)は、広島で開催された第2回日韓学生フォーラムに参加した時、最終日に撮った写真です。この時は、まさかその2年後にその広島で記者をやることになるとは思ってもいませんでした。日韓学生フォーラムの参加者とはその後も再会し交流が続いています。

 フォーラムのたびに、学生同士いろんな話をします。雑談から今の日韓関係まで、さまざまなことを話せる機会になっています。

Kaida SJF

 

日本の社会科教育の未熟さを痛感 

 そもそも自分が韓国語を学び始めたのは大学2年生の4月からでした。それはちょうど第1回日韓学生フォーラムが開かれる年でしたが、ハングルも読めず、勉強してようやく挨拶や簡単な単語が分かってきた程度の時でした。

 そのフォーラムで、パク・ウォンスン(朴元淳)ソウル市長に会った時のことで忘れられないのが、日韓の歴史認識の壁について「ドイツの戦後から学ぶことは多い」と教えられたことです。当時は何もわからず話を聞くだけだったのですが、今となってはもう亡くなられて、忘れられない言葉です。

 また、板門店に行って、国境の向こう側に朝鮮の兵士がいて、こちらをずっと見ている目も忘れられません。

 ナヌムの家で、ハルモニ(おばあさん)の手を握った時、ほんとうに温かくて、その感覚も忘れられません。

 何より貴重だったのが、韓国で記者になりたいというジャーナリズム魂を持った同年代の仲間に出会ったことです。

 一方で反省点もあります。日本の社会科教育の未熟さ、自分が中高で習ってきた歴史教育が全くお粗末だったことを実感しました。また、教育だけでなく、自分の勉強不足が悔しかった。さらに、もっと韓国語がわかっていたら、もっと多くの学びがあっただろうなと悔しかったです。

 もっと韓国の人と韓国語で話したいという気持ちで、独学で韓国語を勉強するようになりました。バイト代も注ぎ込み、個人的な旅行だけでなく、大学2年生の終わりに延世大学の語学堂に1か月間留学をし、3年生の後期半年間はソウルの国民大学に交換留学をしました。その時に、韓国の日韓フォーラムで出会った友達とご飯に行ったり、兵役についている友達に面会に行ったりしました。言葉が通じない時は辞書だけでなく身振り手振りを使いました。どうにか韓国語ができるようになってからは、日韓関係の話ですとかいろいろな話をするようになりました。

Kaida SJF(猪股修平さん)

 留学していたのは2018年の8月から2019年の3月まででしたが、皆さんもご存じのように、日韓関係が急激に悪化した時期に重なります。大法院での徴用工の判決ですとか、航空自衛隊機への火器レーダー照射ですとか、芸能的な話題では韓国のBTS(防弾少年団)のジミンが原爆Tシャツを着て、日本の中でセンセーショナルに報道され、関係が冷え込みました。

 そんな時に自分が何をソウルでしていたか。ふつうに遊んでいました。語弊があるかもしれませんが、国家間のいさかいは、現場レベルで言えば全く関係ないですね。日本人だからとひどい目にあうことは無いですし、むしろ日本から来たことを歓迎してくれるのです。日本大使館前の慰安婦少女像の前で座り込みをしている学生と、「寒いですね」とコーヒー飲みながら1時間ぐらい雑談したりもしました。

 

だれでも発信できるネット時代 現場から声を丁寧に発信

 日本や韓国の報道が一部分しか切り取っていないとずいぶん感じるところがありました。現場にいるということは貴重な時間となりました。

 ただ遊んでいるだけでは、韓国にいる日本人として余りにもよくないと思い、その頃ちょうど「あらたにす」という日経新聞・朝日新聞・読売新聞が共同で運営しているサイトがあり、そこを媒体として、韓国での生活について発信していました。

 暴力的に振る舞う人はいませんし、毎週末にクァンファムン(光化門)の前でデモ行進があるのですが、それは日本に対するデモではなく、ムン・ジェイン(文在寅)政権に対するデモだったりするので、そういった場に行っても「学生さんよく来てくれたね」と言ってくださる方々はたくさんいました。日本人だからといって理不尽な目にあうことはありませんでした。

 一番感じたことは、現場で見たことを伝えることの重要さ。報道陣ではない、ただの学生だとしても、今の時代は誰でも発信できるから、現場にいる人間が発信しなければダメだと感じました。

 その「あらたにす」に上げた記事を書いていた時に、韓国キョンヤン新聞の記者が見ていてくれて、その方のコラムで自分の記事を取り上げてくれました。ただ、その記事を、日本のインターネットユーザーから名指しで批判されました。ここで言葉にすることは気分が悪くなるような批判ばかりでした。そういう人たちは、韓国に足を運んだこともない人たちが多く、とても残念な気持ちになりました。

 韓国に対する理解とまではいかなくても、知らないのに批判だけする人があまりに多すぎると思います。批判の声を出す人の矛先が自分に向けられた時に、そういった批判の多さがとてもショックでした。

 

韓国の視点からも見る 日本の加害の側面

 こうしていろんな韓国の方と出会いましたし、その後留学して、中国、台湾、朝鮮出身の友達とも出会い、東アジア各国の友達ができていました。

 また、曾祖父が日本陸軍中佐になり日中戦争の最前線に行ったと後々聞かされました。

 ここまで自分が韓国に行って、西大門刑務所にも行って、日本帝国時代の加害の側面も見ていて、しかも自分自身も加害側にいた者の子孫として、いろいろな境遇が分かった時に、自分がやるべきことははっきりしたなという感じになりました。

 就職した中国新聞のある広島は、世界に二つしかない被爆地です。どうしても被害者としての側面ばかりを取り上げているという印象があります。平岡敬さんのようにきちんと報道している方もおられますが、朝鮮半島出身者の方がどれだけ原爆で亡くなられたのかを知っている人は、広島の人でも限られているのではないかという感覚があります。

 私自身は、会社内で一人か二人しかいない韓国語ができる記者として、広島市内の韓国関連のニュースはほとんど自分が取材しています。最近では、韓国人原爆犠牲者慰霊祭の取材や、広島にある韓国総領事館が移転するというニュースをスクープでとったので取材しましたし、民団(在日本大韓民国民団)や朝鮮総連の関係者へのインタビューもしました。

 日韓関係は依然として厳しい状況ですが、報道で受ける印象よりも、現場で取材していると本当に韓国が好きだという声もありますし、それを丁寧に発信していくというのが、日韓学生フォーラムで韓国の視点からも見ることができた者の責務であると感じています。ですので、両国の架け橋として生きていきたいと考えております。

 

 

李偰嘏イソラさん) こんにちは。私は韓国のカトリック大学の学生です。今日は九州で体験した私の話をお聞かせできて光栄に思います。私は今年の2月に九州で開かれた第5回日韓学生フォーラムに参加しました。福岡県筑豊の旧産炭地、熊本県の荒尾市、水俣市で私が見て聞いて感じたことは、私にとって大きなターニングポイントになりました。とくに九州で学んだ朝鮮人炭鉱夫の歴史というのは、日本の現地ならではの学びだったと思います。

Kaida SJF(李偰嘏さん)

 

最悪の日韓関係のなか、対話を通して親しくなっていく私たち

 今日お話するのは、日韓学生フォーラムだからこそ体験できることと、対話を通して親しくなっていく私たちということです。2泊3日、短くて長い時間に私が体験したことをお話して、日本の人との友情を話したいと思います。

 私は日本語が下手です。日本を旅行するために学んだ、ありがとう、すみません、日本で道に迷わないための文章しか知らない状態でフォーラムに参加しました。

 私が東京を旅行した2016年ごろは、安倍首相の自民党が3期9年の総裁任期を打ち出して、世論が非常に悪かった時です。安倍首相の経済政策に対して日本のメディアは「アベノミクスが限界に直面」というような否定的な記事を掲載していました。私は東京で安倍首相に対するデモを直接目にしました。正確な内容はわかりませんが、おそらく当時の総裁任期の延長や経済危機に対して政府を批判する内容であろうということは伝わってきました。安倍首相の人形を叩いていたおばさんが、デモを不思議そうに見ていた私たちにウィンクをしてくれました。そのデモはとても愉快でした。

 

 私は第5回日韓学生フォーラムに参加すると決めてから、とてもワクワクしました。でもフォーラムの日が近づくにつれて少し悩み始めました。というのも、当時、日韓関係は最悪と言われていて、日本行きのチケットを買ったということは周りに自慢できるものではありませんでした。言葉が通じない日本の友達とどうやって交流するのか、どうやって生活するのか、大きな課題に思えました。

 先に発表した猪股修平さんは、私にとって初めての日本の友達です。彼は日韓学生フォーラムが開かれる前に韓国に来て、その時、一緒にお昼を食べました。それが修平さんとの初めての出会いでした。

 彼は福岡空港に到着した私を迎えてくれて、フォーラムの集合時刻まで一緒にお昼を食べたり、ショッピングモールを見学したりしました。修平さんと一緒に食べた抹茶かき氷の味は忘れられません。それは、同じ年ごろの日本人の友達から感じた初めての温かさであり、修平さんのおかげで私は自信を持つことができました。

 その後に出会った多くの日本の友達、そして在日韓国人の友達との出会いは、ときめきと喜びの連続でした。みんな私をすごく歓迎してくれて、私について知りたがっていました。お互い英語で話したり、通訳を介して話したりして、フォーラムの最終日には私の日本語は初日に比べて上達していました。それは、一緒に過ごしたみんなが私にとっての先生になってくれたからです。

 

福岡県・朝鮮炭鉱夫の無名墓地 若い人たちに歴史を伝える

 一番印象的な見学の一つは、福岡県の日向墓地を訪れたことです。見知らぬ異国の地で死を迎えた、墓地もない空き地に埋葬された無名の朝鮮人炭鉱夫たち。ある先生がおっしゃったお話が今も思い出されます。日本人は飼っていた犬の墓もあるのに、朝鮮人は埋葬された跡すら見つけることができないと。地図にもないアリラン部落、アリラン峠を直接目にした時のその気持ち、想いはとても言葉では表現できません。

 韓国代表として朝鮮人たちの部落の跡にマッコリ(韓国のお酒)をかけて黙祷できたことは自分にとって記念碑的なことでした。私が飯島先生に、「イソラを韓国代表に選んだ理由は何か」と聞いた時に先生がおっしゃったのは、「韓国と日本の代表がマッコリをまいたのは、全ての人に歴史の真実を知ってほしいという願いだった。それを通じて、誰が誰を追悼しているのかを思い起こしてほしいと思った」という話を聞きました。そして「ソラにマッコリをまいてほしかったのは、ソラが一番若かったから。ソラより、もっと若い人たちに歴史を伝えてほしいと思った」とおっしゃってくださいました。

 

 九州フォーラムでお会いした多くの先生方、記者のみなさんは、私が自分の考えを率直に言うように促してくださって、私は、個人的な思いと、韓国の若者の思いをできるだけ幅広く伝えようと努力しました。その時、私は韓国の代表スピーカーのようでした。一番悲しかったのは自分で日本語ができないということ。もちろん韓国語ができる日本の友達が通訳してくれましたけれども、プロの通訳者ではないので、伝えにくい表現もあっただろうと思います。私が話したいことを十分に正確に伝えるには不足だったかもしれません。もし自分が流暢に日本語をできたら、自分で直接伝えられることがあっただろう、ということで私にとってたくさんの学びがありました。

 夜は宿で飲み会をしました。韓国や日本の政治について討論したり、歴史について意見を交わしたりしました。もちろん進路の話、異性の話、一番好きなK-POPは何というささやかな大事な話もしました。日本の友達と話すのはとても楽しかったですし、一緒に飲んだビールの味は最高でした。徹夜をしたこともありましたし、一時間だけ寝て翌日のスケジュールを消化したりしました。

 その時に会った友達と熊本で撮った写真(下)です。修平さん(一番右)もいます。夕方、水俣の海を歩きながら夕焼けを見ました。

Kaida SJF

 

 フォーラムの後、修平さんと安西さんは私に会うためにソウル行きの航空チケットを予約してくれました。残念ながら新型コロナのためにキャンセルになってしまいましたが。今もたくさんの友達と連絡を取り合っています。

 最初は違う存在だと思いましたが、同じ仲間でした。コミュニケーションのために橋をかけてくださった植村先生、そして日韓学生フォーラムのためにご尽力くださった多くのベテランの記者のみなさま方、素晴らしいみなさまがいらしたからこそ、このような出会いを実現することができました。これからも引き続き、両国にいる仲間たちと連帯を深めていきたいと思います。ありがとうございました。

 

 

権大鈺クオンデオクさん)(兵役中のため、写真と音声メッセージを流しました)

 みなさんこんにちは。私は大韓民国の陸軍にいます。西海岸で兵役中です。今は軍人ですが、ジャーナリストを目指しています。入隊直前まで日韓学生フォーラムに参加していました。

 兵役中のためいろいろな制限があるにも関わらず、今回のシンポジウムに招待してくださった植村先生、そして私のお話を聞いてくださる参加者のみなさま、それから通訳のみなさまに感謝申し上げます。

 今私がいるのは軍事作戦地域のため、カメラの持ち込みや動画の撮影は厳しく制限されています。音声と写真のみでご挨拶しますことお許しください。

Kaida SJF(権大鈺さん)

 

 今日は、「友情の日韓、ジャーナリズムが世界を変える」というテーマでお話ししたいと思います。

 韓国と日本はよく「近くて遠い国」と言われます。私にとっても日本は遠い国、嫌いな国でした。日本の人たちは欲張りで、利己的で、韓国をいつも苦しめる国だと思っていたのです。歴史的にも、そして今も、未来もそうだろうと思っていました。平凡な学生だった私がなぜこのような考えを持つようになったのでしょうか。そして隣国との仲がなぜ悪いのでしょうか。

 もちろん解決しえない歴史の問題はあります。日本は植民地時代、朝鮮半島に大きな傷跡を残しました。

 では翻って、世界の問題を発掘し報じなければいけないメディアは日韓関係の改善のために何をしたのでしょうか。だれもすぐには答えることができないでしょう。これは誤ったメディアの慣例が問題だと思います。

 韓国人は日本についてニュースを通じて接します。韓国人が日本のニュースに接する方法としては、東京にいる特派員の記事を読んだり、あるいは韓国のメディアが日本のメディアの記事をそのまま写したものを読んだりすることです。残念ながら誠実でない東京の特派員たちは記事を何も考えずに流してしまいます。国際面をみても日韓関係は刺激的に報じられます。刺激的でこそ多くの人が見てくれるからです。例えば、韓国の記者たちは日本の産経や読売新聞がこう報じたと、まるで日本全国の意見かのように伝えます。そうなると韓国人としては日本に不信感を抱き、嫌いになっていくのです。

 

日韓市民社会の連帯の可能性 韓国の民主化を支えてきた日本の人たちに見出す

 さて、私は光州・ソウルで行われた日韓学生フォーラム、そして九州でのフォーラムに参加しました。そこで、ジャーナリズムを目指す、内定をもらっていたジュニア記者たちに出会いました。始めて話をして、心を開きました。

 光州・ソウルで行われたフォーラムのテーマは韓国の民主化を学ぶことでした。私が初めて学んだことを話します。韓国の民主化について、日本も少なくない支援をしていました。韓国の民主主義のニュースは日本を通じてヨーロッパに伝えられました。韓国の知識人は日本に亡命し、そして世界を通じて自分の立場を表明していました。これはフォーラムを通じて初めて知ったことです。

 そして日本の良心的な知識人は昔から韓国を支えてきましたし、これは現在も続いていると思います。日本の市民社会と韓国の市民社会の連帯の可能性を、そこに私は見出しました。昔からあったことです。これを私たち韓国人がきちんと報じるということも、韓国メディアの新しい役割だと思います。

 また、韓国の民主化は日本の社会に多くの示唆と刺激になると思っています。韓国は血を流して民主化を成し遂げました。しかし日本はアメリカからもたらされた民主主義です。韓国の真の民主主義は、いまだ家族で世襲を行い保守政党が与党になる日本の政治に一つの刺激になるのではないでしょうか。

 

「ジャーナリズムだけは私たちの悲しみを超えて均衡を保たなければなりません」

悲しい歴史は一緒に勉強して共通の歴史に

 昨年の冬、日韓関係は最悪でした。私は九州でのフォーラムにおいて、徴用工について学びました。韓国の軍に入隊する直前の最後の時間でした。本当に忙しく、フォーラムに参加するか最後まで悩みました。しかし私は参加して本当に良かったと思いました。

 あの現場で植民地の歴史を学ぶ日本の学生から、希望を見ました。一生懸命メモを取る手や、証言に耳を傾ける学生たちの姿から希望を見出しました。一緒に勉強したことによって、日本に残る韓国の悲しい歴史は共通の歴史の痕跡となりました。それは一つのストーリーとして、私たちの胸に深く刻まれています。

 お酒を飲んで、日本の友達と一緒に社会や歴史について、そして進路や就職、異性についての悩みも分かち合い、私たちはアジアの同じ若者なのだと思いました。お互いの歴史を知り、友達になることがとても重要なのだと思いました。友達になれば隣国を嫌いになる必要はありません。私はこのフォーラムを通じて、猪股修平という友人に出会いました。彼は中国新聞で働いています。韓国に対する関心が高く、韓国語が上手です。私が日本に行くたびに修平は私の通訳をしてくれて、そして私は修平が韓国に来るたびに通訳をしたり、一緒に話し合い、お酒を飲んだりします。心を開いて正直に話し合ったところ、彼が韓国の友達のように感じられました。いつも私たちの共通のテーマは、「平和の朝鮮半島と日本、そして東アジア」でした。私は修平と話をしながら幸せな想像をしました。

 修平は入隊する私のために悲しんでくれました。福岡から韓国に帰って入隊の準備をしなければならないとなった時、修平を始め多くの日本の友人が悲しみ涙を流してくれました。とくに修平は大泣きしたそうです。その時の映像は私のところにまだありますので、除隊したら一緒に見ながら笑いたいと思います。

 この時の思い出はいつも私を元気にしてくれます。こうして友達や、肯定的な観点や、お互いを応援するような観点から記事を書けば、日韓間の誤解は解けると思います。相手側の記事をもう一度精査してから書くでしょうし、平和と親善の方向で記事を書くでしょう。

 ジャーナリズムだけは私たちの悲しみを超えて均衡を保たなければなりません。私たちが東京の特派員となり、日本の友人たちがソウルの特派員となり、そして私たちがピョンヤンの特派員となれば、朝鮮半島と日本は一層近くなるでしょう。人々は私たちの声を通じて東アジアを見て、読み解くと思います。

 お互いの国を応援する気持ちを送り合うのが、ジャーナリストを目指す日韓学生フォーラムの役割であり、こうした友情のジャーナリズムは世界を変えると思います。

 

 最後にこのフォーラムを通じてもう一つ学んだことは、私の考える視点を広げてくれたことです。私は共同通信社の新崎盛吾さんに感謝申し上げたいと思います。新崎さんが沖縄の人だということで、沖縄の本を読んだのですが、その本の著者は新崎さんのお父様であられる新崎盛暉先生でした。

 沖縄について新崎さんと話をして、国の中の上下関係についても考えることになりました。そして米軍基地についても意見を交わしました。私は今軍人です。もし戦争が起きれば、私たちは99%死にます。私たちは沖縄やグアムから出撃してくるアメリカのために敵を足止めする時間稼ぎの駒に過ぎないのです。こういう話をフォーラム当時に話しましたが、それが今の私の現実になりました。

 また、沖縄と東北原発事故の共通点――東京という中心の欲望による被害を受けた地方――について。さらに、東アジアや朝鮮半島にも広げて話し合いました。

 

 このように話ができる機会をくださって、ありがとうございます。厳しい訓練で辛くなるたび、皆さんとの思い出が私の支えになっています。

 いつしか私の軍生活も半分が過ぎようとしています。そして今、私は部隊長として、部下を率いる立場となりました。ソウルと東京でまた会いましょう。

 

 

南真臣さん) 京都新聞ニュース編集部で新聞のレイアウトを担当しています。

 私は今まで計4回、日韓学生フォーラムに参加しました。3年前の11月にソウルで行われた初めての日韓学生フォーラムでは、元従軍慰安婦のおばあさんたちが暮らす「ナヌムの家」というところを訪れました。それまで私は従軍慰安婦について、かつて日本軍相手に性接待していた女性たちがいた、軍が運営していたとか、強制的に従事させられていたと主張する人もいる、という程度の認識でした。訪れる3年ほど前には、いわゆる「吉田証言」や、今日お話ししている植村さんに対する激しいバッシング等もありまして、中には、「賠償金欲しさのでっちあげ」だとか、「軍が運営した証拠はない」と主張する方々もおりましたので、私は正直どちらが正しいことを言っているのか当時はよくわかっていませんでした。

 ナヌムの家では、2人の元従軍慰安婦の方にお会いしました。その一人、イ・オクソンさんは「まずは私の話を聞きなさい」と1時間以上にわたって自分の過去の話を始めました。

 内容としましては、14歳のころに、働きに出た先で、男2人に突然連行されて、中国の飛行場の建設に従事させられたと。またある日、また移動すると言われて、家に帰れると喜んでついていったら、日本軍向けの慰安所で、そこで一日に40・50人の相手をさせられた。そこで一度も報酬や金銭はもらえなかった。我慢の限界で、避妊具をつけない軍人に激しく抵抗したところ、その軍人が激怒して脚を刀で切り付けられた。

 その脚には傷跡らしきものがいまだに残っていました。韓国語の証言だったので、私を含め日本の学生は、聞いている時は内容を理解できませんでした。しかし、言葉がわからないにもかかわらず涙を流す学生もいました。迫真的でリアルな証言には心が震え、作り話とか、でっちあげとはとても思えませんでした。

 ジャーナリストや専門家を名乗って「でっちあげ」と主張する人たちの中で、元慰安婦の人に直接会って話を聞いた人は、いったいどれぐらいいるのか、正直疑問なところです。その人たちが話を聞いても「でっちあげ」と主張できるのか聞いてみたいところです。

Kaida SJF(南真臣さん)

 

 19年2月には沖縄を日韓学生フォーラムで訪れ、辺野古新基地の埋め立て反対の座り込み現場へ行きました。一部メディアでは、抗議活動をする人は過激派だとか、日当をもらって参加しているだとか、中国や韓国から資金援助を受けているなどと報じられて、それを信じている人が多少なりともいるのが現状です。

 しかし現場にいらっしゃった人たちは、みな手弁当でやってくる人ばかりで、中には沖縄の現状を憂えて他県から通っているという方もいらっしゃいました。抗議活動で暴言や暴力はほとんど無くて、平和的な抗議活動を徹底しているように感じました。

 また当時は、辺野古新基地の賛否を問う県民投票の投開票日の1週間ぐらい前だったと思います。フォーラムの帰り日に、沖縄県庁の近くを通ったのですが、そこでは埋め立て反対への投票を呼び掛ける音楽イベントが行われていて、私も30分位それを見ていました。イベントの参加者も、閲覧している方も、高齢者から小学生まで幅広くて、沖縄の人はいかに辺野古に新しい基地をつくられるのが嫌なのかを肌ですごく感じました。

 

差別を増幅するネットの問題に気を付けつつ 現場でとらえた事実を愚直に報道

 日韓学生フォーラムへの参加を通じて、現場を実際に見て回ることや、真実をありのままに伝えることの大切さを学びました。

 最近日本で議論になっている日本学術会議の任命拒否問題では、一部のテレビや新聞がデマや事実誤認を事実であるかのように報じました。これは、関係者に話を聞けば、すぐ嘘だとわかる話のはずなのに、まともに取材せずにマスコミが誤報を垂れ流している状況は、一人の記者として恥ずかしいですし、正直憤りさえも感じています。

 たくさんのデマが流れている今の時代だからこそ記者としてできることは、現場をきちんと見て、感じたままのことを捻じ曲げずに記事にすることだと思っています。私は今、記事をたくさん書いたり取材したりするような部署にはおりませんが、一人の記者として事実に愚直であり、真実をしっかり伝える記者であり続けたいと思っています。

 

 ただ報道する側にいる私としては、韓国や朝鮮に関してどう報道するのかすごく悩んでいるところがあります。報道することによって差別を増幅させてしまわないか。最近はネットにも記事を上げるので、ネットだとコメント欄などに差別的な投稿がたくさん来たりすることもあり、それによって在日朝鮮・韓国の方をさらに傷つけてしまわないかという悩みはすごくあります。また、自分の会社に極右の人たちが攻撃に来ないかという恐怖心も正直あります。

 ですが現場でとらえた事実を愚直に報じることを大事にし、差別の増幅にならないように気をつけながら報じていくしかないのかなと思っています。

 

 

姜明錫カンミョンソクさん) まず、ちょっとしたコメントですが、日本のみなさんにお伝えしたいことがあります。

 
Kaida SJF(姜明錫さん)

 

「自分たちの声を聞いてくれ、私たちを無視しないでくれ、私たちを嘘つきだと言わないでくれ」という被害者たちの尊厳を

 悲しいなと感じたことがあるのです。

 僕が初めて留学したのは札幌でした。始めて親しくなった女の子がいたのですが、その子が「韓国って島国なの?」と聞いたことがあります。僕はすごくびっくりしたのですが、今考えると彼女を馬鹿にしたくないのです。おそらく、大変な生活のなかで国際事情や隣国のことを考える余裕がなかったかもしれないし、彼女自体は問題じゃない。

 日韓の間にある情報格差がとても大きいのです。とくに過去、私たちの関係する歴史についての情報格差が大きいのです。

 韓国が好きになって、韓国に行って、韓国の文化を楽しんで、人々とつきあって、「やっぱり、メディアでも反日というけれど、それは政治ばかりの話なんだよね。私たち民間交流ではそんな反日なんか無いよね」と言う。

 そんな話をされるのがとても悲しく感じられるのです。

 先ほど西嶋さんの話にも出ましたが、徴用工の話は、韓国で言うと、強制動員なのです。だから強制動員の被害者たちが、「自分たちの声を聞いてくれ、私たちを無視しないでくれ、私たちを嘘つきだと言わないでくれ」と言っていることを「反日だ」ということでまとめてしまえば悲しいじゃないですか。その人たちは何だったんだと思う。慰安婦も全くそうです。

 私たち、国際化が進んでいって、みな差別のない、公平な、みんなと分かち合える、国際社会にふさわしい精神性をおそらく持つと思うのです。

 でもそうなったとしても、過去のことを有耶無耶にして無くしてしまえばよいのか。「反日」と言って済ませてよいのか。

 「韓国をなんとなく好きになったのだけれど、政治はやっぱり難しいや、歴史はやっぱり難しいや」という話がよくあるので。「日本と韓国の政府はお互い様だね」みたいな。もちろん韓国も歴史問題を政治的に使う場面もあるとは思いますが、せめてのことで、今の韓国政府は違う傾向の方が強いなと思うので。みなさんは日韓関係を考える方々のなかでは核心的な人々だと思うので、こういう話をぜひお伝えしたかったのです。

 

 それでは自作した映像を流します。

――こんにちは、私は日韓関係に関する映像を配信するyoutuberです。主に韓国の人々が知らない日本の事情について扱ったり、日韓関係の改善のために頑張っていらっしゃる日本市民の声を伝える動画を作ったりしています。

 早く日本に行きたいです。私にできることがたくさんあると思うので。

 

 2017年11月、(韓国で開催された)初の日韓フォーラムに通訳で参加しました。2日目の夜だったと思いますが、日本人学生と言い争ったことがあります。

 話題は、日本軍「慰安婦」問題でした。彼にこんな質問をされたんです。
 
Kaida SJF

 その場は、その日の日程が終わって、日韓学生がわいわい楽しく交流する飲み会でした。そんな雰囲気の中で、二人だけ真剣に真面目な話をしていたのです。

Kaida SJF

 と私が答えると、彼にさらにこんな質問をされました。

Kaida SJF

 場はシンとした雰囲気で、みんな一言も言わず聞くばっかりになりました。私たちはほぼ3時間このような話を交わしました。しかし、お互い納得のいく結論にはたどり着けませんでした。

 ところで、あいにくその翌日の朝一番目のスケジュールが(元従軍慰安婦が住む)「ナヌムの家」訪問でした。この日、元「慰安婦」のイ・オクソンさんが学生たちを前に、慰安所での経験を全部おっしゃったのです。どういう経緯で慰安所に入れられて、どういうことをされたか。刃物で刺されて、残った傷跡などを見せてくださったりしました。

 その日の夜、あの日本人学生と再び話し合いました。

 私たちの間にはちょっとした変化がありました。もちろん、私たちの間にはまだ一致していない部分もありました。でも、私たちの会話は、もはや葛藤や対立ではなかったのです。

 この経験はとても特別で不思議なものでした。

 

 それ以来、あの日本人学生とは3回も日韓学生フォーラムに参加し、彼が韓国の光州を訪れたこともありました。

 そして私がyoutubeを始めたとき、出演を頼んだことがあります。もちろん、彼はそれに応じ、2年前のように、また私たちは「慰安婦」について話を交わしました。彼は、今度は、こう語ってくれました。

Kaida SJF

 「しかし、現実的に、そのような解決は難しいと思う」と。

 

 彼は2年間、韓国人の友達と付き合い、両国の歴史認識について、いろいろと考えていた。フォーラムにも参加し、韓国との交流も深まった。そのため、韓国の人々がなぜこの問題に執着するかを理解できた。しかし同時に、日本国内でこの問題がどう受け取られているか、どう認識されているか、よく知っていたのです。

 

過去を済んだことにし得る加害者 癒され得ない被害者 歴史の造られた情報格差

 よく考えてみると、日韓学生たちがそれぞれ成長しながら、得られる両国の関係史についての情報量にものすごい格差があります。

 韓国は、朝鮮末期から植民地になって独立するまでの歴史を、とても重要な教科課程に組み込んでいます。半面、日本では日韓関係史について1~2ページでまとまるぐらいの短めの記述になっている場合が多いのです。ですので、正規教科課程だけを履修したと仮定した場合、この問題について特別な関心がなければ、私とあの日本人学生のような会話になってしまうのです。

 韓国は日本に対して「歴史も知らないのか」、日本は韓国に対して「なぜそんなに過去に執着するのか」と思う状態なのです。だから、彼の始めの質問が、「韓国はいつになったら日本を許すの?」だったのです。

 この情報の格差が解消しない限り、こうした構造的な問題によって、日韓は対立する運命にあるのでしょう。

 

 しかし、この話の希望的な面は、私と彼がこの問題に関する合意を見つけ、議論することができたということです。これは、私たちの間で理解が深まったため、可能だったものでした。

 この日本人学生は、「慰安婦」問題について、被害者中心的な解決が正しいと主張しています。ただ、そうすることがとても難しいことを知っているために挫折しているだけです。これは、「韓国の立場を全く理解していなかった」彼の始めの立場を考えたら、とても大きな変化ですね。

 私も単純に、彼に自分の主張だけを並べていた時からすると、このような構造的な問題が原因で、「日本では多くの人々がこの問題を受け入れにくいだろうな」という理解を得ることができたのです。

 もちろん、このままで良いというのではありません。

 とにかく、互いにちゃんと向き合ってコミュニケーションをとれば、互いへの「知る」が積もれば、きっと分かち合えると思います。

 

 相手を憎みたくて憎んでいる人々はいないと思いますので、きっとそこには誤解が潜んでいるのでしょう。この誤解をどう払しょくするかが課題でしょうけれど、距離が近づき、頻繁に会って、会話が増えれば、きっとある程度は解消されると信じます。

 私には、この問題が悲観的には見えません。近未来にきっと糸口が見えてくることを信じています。私のやりたいことは、その日を少しでも近づかせることです。だから、早く日本に行きたいです。私にできることがたくさんあると思うので。

 これをご覧になっているみなさんも、ぜひ応援お願いいたします。

 最後までご視聴ありがとうございました――

 

 

同じ人間が直面した悲しみや苦しみに対する想像力 他者の立場に立った歴史認識を

植村隆さん) 日韓の間は、いま日本でいえば、非常に反韓感情が高まって、知らないのに偏見だけで批判してしまう。実際に現場に行ったこともないのに批判してしまう。あるいは韓国の友人と交流したこともないのに、「韓国人とは」と差別してしまう。

 そういう偏見があると思いますが、やはり現場で知ることによって、「ああ同じ人間だ」ということがわかる。そうすると、会ったことのない、しかし過去の人々に対する想像力。同じ人間が直面した悲しみや苦しみに対する想像力も出てくるのではないでしょうか。妄想力ではありません。想像力というのは、様々なことを知ることによって、その問題をより普遍化できる、そういう考える力だと思うのです。

 日韓の交流を通して、お互いを思いやる気持ち、そういうのを“他者への想像力”ではないかなと思います。

 いま発表した日韓学生フォーラム経験者たちの学びから感じ取っていただければと思います。

 

辻利夫さん) 他者からの視点ですね。他者の立場に立った歴史認識ということだろうと思います。■

 

※この後、グループ対話を行いました。各グループに出演者も加わり、グループの方々に感想や意見、ご質問を話し合っていただいた後、会場全体で共有するために印象に残ったことを各グループから発表いただきました。各グループにおいて逐語通訳をボランティアで担ってくださった方々にあらためてお礼申し上げます。

 

●次回の企画ご案内
ソーシャル・ジャスティス基金(SJF)助成発表フォーラム第9回

【日時】2021年1月22日(金) 13:30~16:00 
【会場】オンライン開催
 ~詳細が決まりましたらご案内いたします。ご予定いただけましたら幸甚です~

 

※今回20年10月31日のアドボカシーカフェのご案内チラシはこちらから(ご参考)

 

 

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