ソーシャル・ジャスティス基金(SJF)アドボカシーカフェ第49回開催報告
●次回アドボカシーカフェご案内
『経済開発と格差 日本のミャンマー支援と現地の人々』
【登壇者】黒田かをりさん(一般財団法人CSOネットワーク事務局長/理事)
木口由香さん(NPO法人メコン・ウォッチ事務局長/理事)
上村英明(コーディネータ/SJF運営委員長)
【日時】 2017年9月21日 18時30分から21時(開場18時)
【場所】 新宿区・若松地域センター
【詳細】こちらからご覧ください。
「少年法18歳未満」から考える
大人ってなに? 子どもってなに?
2017年6月12日、丸山泰弘さん(立正大学法学部准教授/刑事政策・犯罪学)と、須藤明さん(駒沢女子大学人文学部心理学科教授・臨床心理士/元家裁調査官)をお迎えしたアドボカシーカフェを、SJFは文京シビックセンターにて開催しました。
少年法は、罪を犯した子どもの、犯罪事実だけを見るのではなく、保護の必要性を社会的背景までふくめて調査をし、その子どもに適した再教育と福祉、懲罰を三位一体として提供することが要諦だと、丸山さんは話しました。少年の保護が優先され、全ての少年事件が家庭裁判所に送られます。家庭裁判所において、家裁調査官が、再犯の危険性や、更生のための手当てを社会調査で明らかにする高度に専門的な仕組みについて、須藤さんが話しました。
少年法の適用年齢を20歳未満から18歳未満へと引き下げることは、その間の人たちが、社会のなかで更生のチャンスを与えられる試験観察を受けられなくなる等、教育的アプローチの崩壊につながると、須藤さんは話しました。受刑し更生した当事者でもある参加者は「刑務所より少年院のほうが厳しい。教育がきつい。なぜこのようなことをしたのか、自分の心で答えなければいけない。傷をえぐられる作業。それでも、少年院に入れられる人の年齢の幅が増えてくれればと思います」と語りました。
罪を犯したことを子どもが反省するには、その加害のなかにある被害者意識をきちんと扱うことが必要だと須藤さんは強調しました。非行動機の多面的な検討のためには、子どもが自分で意味づけた生活歴を語れるようになることが大切ですが、それは子どもが人や社会環境を信頼できることが必要であり、調査においては、傾聴と共感を大切にしているそうです。
思春期に信頼できる大人と出会い、更生のチャンスの芽を増やすことの重要性が須藤さんから強調されました。暴力で育てられ、何を言ってもダメなんだと身構え、いじめループのなかで殺害に至った事例もありました。
加害者側のことを知り事件の本質をとらえることは、重大事件への不安からくる厳罰化の流れを再考する元になるとの考えが共有されました。厳罰化による再犯防止の効果は、世界的に見ても乏しいことが示されました。再犯の少ない国は、犯罪の原因を我が事として見られるよう、国民を巻き込んだ議論からだと、丸山さんは強調しました。
※コーディネータは、寺中誠さん(SJF企画委員)
――丸山泰弘さんの講演――
刑事政策と犯罪学を教えています。僕らは、絶滅危惧種になっています。社会のなかでは、犯罪の問題についてのニーズは高いと思うのですが、大学でのニーズがなくなってきています。2000年ごろから、司法試験から刑事政策の分野が外れたあおりを受けて、法学部に刑事政策の専門の先生がいなくなってきて、そのかわり刑法の先生が増える傾向にあります。そのようにポストがないので大学院生が育たないという暗黒の時代をすごしています。今後どうなっていくのでしょうか。
僕もいろいろ市民の集まりの裏方も話す方もやるんですが、アドボカシーカフェの取り組みは面白いですね。みなさん対話型に机をつくって、いろんな知識を深めたり話しあったり、斬新だなと机を配置するのを見ていました。
刑事政策の視点から、「少年法18歳未満」を考えてみたいと思います。
朝日新聞の2016年6月17日の記事が、僕らに衝撃を与えました。死刑を言い渡された裁判員裁判についての記事です。その裁判では、成育歴などを示した資料を読み上げる時間が約30分しかなかったこともそうなんですが、ポイントは、ある裁判員が「人の命を奪った罪には、大人と同じ刑で判断すべきだと心がけた」と判決後に語ったところです。
少年事件と成人事件を一緒に考えてしまっては、ダメ。
「少年法」は何のためにあるのか。
そこのところを、お話ししていければと思います。
犯罪白書に掲載されている非行少年に対する手続きの流れを見てみましょう。
少年の流れは、成人の流れより、かなり複雑です。
大人の場合は、犯罪と思われるものがあると、警察に検挙されて、検察庁に移って、裁判にかかって、略式手続か公判手続に流れて、無罪だったら放免となり、実刑だったら刑事施設に行き、執行猶予だったら保護観察所に行くという一連の流れになっています。
少年の手続きは、これにプラス、家庭裁判所を必ず通る流れがあり、入口がいろいろあります。こういうところを順番に見ていきます。
少年法 非行少年の育て直し
まず、少年司法の意義と特徴についてお話します。
少年法は「20歳」未満で刑罰法令に違反した、もしくは違反する可能性がある行為を行った子どもを「非行少年」として、刑事司法において特別な取り扱いをするための手続きを定めた法律です。これを「18歳」未満に引き下げようかという議論がでてきているところです。
少年法は、非行少年を健全に育成していくこと、つまり非行少年を発見して、国家が強制的に再教育を行うことで、将来犯罪者にしないことを目的にしています。
役割としては、犯罪を行った人に対する国家による制裁であるという点では「刑事司法」であり、犯罪や虞犯といった非行を契機に国家が強制的再教育を行うという点では「教育法」であり、国家が子どもの最善の利益や社会の利益を考えて介入するという点では「福祉法」でもあります。少年法は、刑事・教育・福祉という三位一体が特徴の法制度です。
大人に対しては、やった事実に対して罰を与えるというような単純な流れできますが、非行少年に対しては、やった事実だけではなく、将来に犯罪を履行しないよう再教育して育て直すという意味もこめられていて、やったことに対する罰だけではありません。このあたりが成人と少年に対する見方を変えていかなければいけない点のひとつです。
虞犯少年 将来に再非行や再犯をしないように教育をして育てていく
少年法が対象にしている少年には、「犯罪少年」・「触法少年」・「虞犯少年」の3つがあります。
まず、20歳未満を対象にしていますが、刑法は14歳以上に刑事責任能力を認めています。何を犯罪として見ているかというと、基本的には「構成要件に該当して」「違法で」「有責な」行為です。日本の刑法の土台はドイツ系から来ています。
世の中には、いろいろ悪いと思う行為があるでしょうが、どれを犯罪とみなすか。
まず、「構成要件」に該当するかどうか。これは、六法など法律上にある「こういう行為をしたらこうなりますよ」という枠に当てはまるかどうかです。たとえば、中学生ぐらいによくある揉め事かもしれませんが、人の悪口を言うのは有罪というのは六法にないので該当しませんし、ずっと好きだと表明していたのに他人が勝手に一緒に帰る行為罪はないので該当しません。が、人を叩いたとか、人のお金を財布から取ったとかは、刑法にある行為に該当するので、犯罪になる可能性があります。
構成要件に該当したものは、つぎに違法や有責かどうかが問われます。たとえば、人のお腹を切っていても、医者が手術をしていたら、構成要件には当てはまっても違法や有責ではありません。構成要件に該当しても、正当防衛や緊急避難とみなされて、違法とみなされないケースもあります。
最後、責任能力があるかが問われます。高速道路に人を押して車にひかせたとしても、6歳のお兄ちゃんが3歳の弟に対して行ったとしたら、責任が問えないので、けっきょく犯罪になりません。「構成要件に該当して」「違法で」「有責な」という3つのハードルを越えなければ「犯罪少年」になりません。
刑法は、14歳以上を刑事責任が問えるとみなしています。少年法は20歳未満を見ているので、「犯罪少年」は、20歳未満で14歳以上の罪を犯した少年となります。
「触法少年」とは、14歳に満たないで刑罰法令に触れる行為をした少年です。2・3年前、京都で、大麻を吸ってしまったと学校の先生に相談しに行って通報されたのですが、12歳だったので刑事法上は責任が問われず「触法少年」となり、同じ行為をしていた16歳のお兄さんは捕まるという事例がありました。
「虞犯事由」というのがありまして、「保護者の正当な監督に服しない性癖のあること」、「正当な理由なく家庭に寄り付かないこと」、「犯罪性のある人もしくは不道徳な人と交際して、またはいかがわしい場所に出入りすること」、「自己または他人の特性を害する行為をする性癖のあること」です。
「虞犯少年」として、虞犯事由のいずれかの事由があって、その性格または環境に照らして、将来、犯罪を犯し、または刑罰法令に触れる行為をする虞(おそれ)のある少年を調査・審判の対象とします。
虞犯少年は、犯罪少年や触法少年とは明確に異なります。後ろの二つは、じっさい刑罰法令に触れる行為をやって、大人であれば過去にやった行為の責任をとってもらうという刑罰の流れにのっていきます。一方、虞犯少年は、虞犯事由があるから将来の虞をもとに少年に介入するものです。過去の責任をとらされるのならわかるけど、これから何かしそうと捕まるというのは、「えー、なんで?」と見方によっては思うかもしれません。
これは、少年法は、過去にやった行為の責任だけをとらす大人の裁判とは違って、教育でもあり、福祉でもある法制度であり、将来に再非行や再犯をしないように教育をして育てていくという理念があるからです。
国家が親に代わって子どもの成長発達件を保障するために、少年の虞犯に介入
少年法の元となる考え方は何か。
保護主義があります。
少年法は、すべての問題行動を起こした少年に介入するわけではありません。基本的には、狭い意味での少年法として、犯罪という他人の権利侵害が行われた時に介入します。それと同時に、「犯罪」と法律上は評価されない「触法行為」にも関わっていくし、将来の犯罪を行う危険性が高いとされる「虞犯少年」にも関わっていきます。
ここでみなさんに考えていただきたいのは、虞犯行為も、警察の補導の対象になるということです。成人なら国家権力からの介入がない不良行為をやっても、少年なら将来の危険性を理由に介入することが起こりえます。
虞犯である場合、直接的な権利侵害は存在しないわけですが、どういう根拠で国家権力が介入するのか。
それは、本人の判断能力の未熟さゆえに、適切な判断を行うことができずに、自らの利益を侵害する場合が考えられるからです。この介入の根拠を一般的に「パターナリズム」と呼んでいます。「あなたのためなんだよ」と。いい面もありますが、悪い面では「もうお節介だ」ということもあり、線引きが難しいところです。
少年法においては、このパターナリズムが、国家が親に代わって子どもの成長発達権を保障するという形で行われるために、国親思想(パレンス・パトリエ)に基づいて正当化されることになります。
どういう場合に、人の「自由」を侵害してよいかと考えてみましょう。
究極的に行きつく先は、ジョン・スチュアート・ミルが自由論で言っていた侵害原理と、デブリンとハートが論争していたモラリズムと、パターナリズムでしょう。
自分がどういう心情の人間かを考えるときに、僕がよく授業で出す事例を紹介します。ピクニックに行って、「この橋、ぜったい壊れている。渡ったら死ぬ」と思ったが、後ろからルンルンと歩いてくる人がいた時、どうするか。「この橋、壊れてますよ」と言うか。言ったとしても「別に壊れていてもいいよ」といって、渡ろうとする人の「自由」を、はがい締めして止めるか。その人が子どもだったら、止める人が多そうですね。とりあえず渡らせるけど、下に落ちないように網を張るという考え方をする人もいるでしょう。
少年の保護が優先 全ての事件が家庭裁判所に送られる
大人の刑事裁判では、犯罪事実が認定されれば、それに対する制裁として刑罰を科すことが基本となります。それに対して、少年事件に関しては、家庭裁判所の審判を経て、「要保護性」と、大人でいうところの犯罪事実である「非行事実」とが認定されれば、刑罰ではなく「保護処分」を課すことが優先されます。
要保護性を見ていくことについては、この後、須藤さんがお話しなさる家庭調査官の仕事になりますので、そちらのお話にお任せします。
保護処分は、少年に行為の意味を理解させ、反省させるとともに、今後、犯罪や非行を行わないために、どのようなことが必要なのかを考えさせます。罰ではなくて、将来のために再教育と福祉を考えながら、保護がまず優先されるという「保護処分優先主義」が、少年法の理念です。
全事件を保護すればいいというわけではありません。刑事処分が相当だと家庭裁判所が判断する場合には、事件を検察官に送ることができます。この事件は、公訴を提起するに足りる犯罪の嫌疑がある場合には、検察官は事件を地方裁判所に起訴しなければならないことになっています。
少年の場合には、犯罪事実だけでなく「要保護性」をみなければいけないので、犯罪少年でも、触法少年や虞犯少年でも、全件が家庭裁判所を通ることになります。「全件送致主義」といいます。ただし、家庭裁判所で刑事処分相当だと判断された時には、検察庁に逆送されます。これは検察官送致ともいわれます。
この全ていったん家庭裁判所を通るというところに、2000年の少年法改正がどういうふうに影響を与えていったか。
改正少年法によって、検察官送致(逆送)できる年齢が、16歳以上から14歳以上に引き下げられたことが一つ。あと、16歳以上で、故意に人を死亡させる事件を起こした場合、原則として逆送することになってしまいました。それまで、刑事処分相当だという時だけ逆送されていたのだけれども、例外と原則が逆転してしまって、原則大人と同じく刑事裁判にかかってしまうことが起こるようになりました。
近時の法改正では、少年に関しては厳罰化の方向に流れています。先述の二つのほかに、無期刑で処遇すべき場合の定期刑への移行が必要から任意に変わったり、少年院収容年齢が14歳以上からおおむね12歳以上となったりしました。
少年審判のなかでの司法化も進みました。事実認定への検察官関与について、2000年には一定の重大事件に限定していたのが、2014年には軽微な事件にも拡大されました。また、検察官関与とバーターで国選の弁護人の付添人がつくようになりました。これは、いい面と悪い面があります。少年審判に、検察官が関与して、さらに付添い人だという弁護人が関与してきたら、大人の刑事裁判と同じような形態で進んでしまうという批判はあります。が逆に、要保護性だけを重視していった結果、適正手続きがとられないという問題も外国では起きているので、事実認定だけは検察官と弁護人が関与した方がよいのではないかという考え方もあって、一概に言えないのですが、少年審判が大人の裁判のような形式に変わるようなことが法改正で行われています。
18歳・19歳の女子少年院入院者 覚せい剤取締法違反が最多 福祉と再教育は
少年による刑法犯の検挙人員は、激減しています(昭和41年から平成27年)。14歳・15歳が「年少少年」、16・17歳が「中年少年」、18・19歳が「年長少年」と呼ばれます。少年法の適用年齢が18歳未満に引き下げられたら、ストレートに打撃を与えられるのが、年長少年になります。この18・19歳を、成人の問題として扱うのか、少年の問題として扱うのかというところに影響を与えてくるという話になります。
終局時に年長少年であった人の事件の審判(2015年)を見てみましょう。少年審判は、全件送致主義となっているので、家庭裁判所に送られてきたけれども、調べてみたところ処分がいらないのではないかと「審判不開始」や「不処分」となった事件が過半数を超えています。これらは、その約84%が保護的措置――ケースワークを通した教育的働きかけ――で要保護性が解消したことによるものです。個別な対応がとられることで、少年院送致等に深入りしなくても、これらのなかで終えられることがわかります。
少年院入院者の非行名別構成比(2015年)を見てみましょう。男子と女子で明らかな違いが出ています。
男子は、窃盗が30%を超え、傷害・暴行、詐欺と続きます。
女子はとくに18歳・19歳(年長少年)で、圧倒的大多数が覚せい剤取締法違反です。男子に「なんで、覚せい剤をやらないの?」と聞いたことがあって、「高いし、体に悪いじゃないですか」と。
ではなぜ、女子少年院のなかで、覚せい剤がこんなに高く占めているのか。お金をたくさんもっているのでしょうか。別にそういったわけではないようです。基本的には、虞犯に関わってくるのですが、家出をするとか、家に寄りつかなくなった果てに、怖いお兄さんにつながり、怖いお兄さんに薬をやらされながら色んなことをやらされ、怖いお兄さんが捕まった時に芋づる式に捕まるわけです。
「虞犯少年」への介入のいいところは、将来犯罪非行につながる人には介入して、刑罰だけでなく、福祉や再教育を提供することだとお話しました。少年法の適用年齢を18歳未満に引き下げると、覚せい剤取締法違反のような虞犯に関わりやすい18歳・19歳を、虞犯少年として少年法で見ないことになってしまいます。「大人」だと夜間徘徊していても補導されたりしません。覚せい剤は大人だと起訴率が高くて執行猶予が多いから、裁判にかかるけれどもいろいろなプログラムをつけずに「さようなら」というケースが初犯だと圧倒的に多くなるでしょう。従来なら女子少年院の年長少年(18歳・19歳)に属していたような人たちが、より放ったらかされることになります。
少年法適用年齢18歳未満へ引き下げ 社会調査による罪の個別化を受けられなくなる18歳・19歳
少年法適用年齢の引き下げに伴い、その保護処分に相当する措置を若年成人にもとることができる制度が検討されていますが、どう見ますか。
年齢を引き下げて、ただ単に罰をできる範囲を広げるだけではなく、それとバーターで、18歳から25歳くらいまでの枠をとって、刑罰の中身をいままで「少年」にやっていたような手厚い福祉的なことを提供するものにすれば、適用年齢を引き下げつつ、「18歳・19歳を無視するのか」という問題を解決できるだろうといった政策提言がなされています。
本音を言うと、年齢を引き下げる意味がわからない。
まず、自民党政務調査会の「成年年齢に関する提言」(2015年9月17日)では、国法上の統一性や分かりやすさの観点から、(選挙権が18歳以上となったことに伴う)少年法の適用年齢引き下げが打ち出されています。しかし、そのような必要性は全くありません。そもそも、必要性を説く自民党の提言じたいが、飲酒や喫煙の禁止年齢も18歳未満と引き下げることについては結果を保留しています。医学的にも考えて20歳を維持した方がよいのではないかということで。一律統一しなければいけないと言いながら、いっぽうで成人年齢は各問題領域で実質的に検討すべきであると言っているようなもので、矛盾している点があるわけです。
次に、立法事実がありません。先述のように、少年による刑法犯は激減してきていますし、軽微事案は起訴猶予となり何ら保護的働きかけを受けることなく放免されることになります。そもそも、少年法の厳罰化の対象となるような重大事件を何とかしたいと思っているのでしょうけれども、起訴相当の事案のうち、故意犯罪で被害者を死亡させるような重大事案はすでに原則逆送となっています。
最後に、保護処分に相当する措置をとれる年齢を引き上げることは理解できても、下げる意味はありません。社会復帰を念頭においた処遇を行うということならば、その人にどんな処遇が必要なのか詳しく調べてどんな罰を与えるか見ていかなければいけません。けれども大人の裁判をやっていけばいくほど、犯罪事実だけを見て過去の行為に罰を与えるだけです。その人にあった罰を個別化しようとするならば、事実プラス要保護性をどう見るのかを考えた立ち入った情報の調査が必要となり、つまり、家裁調査官の社会調査の仕事がより必要になってきます。
今の日本は「再犯防止」の主体が誰なのかで迷走しています。より福祉的で、より医療的だというような運用をしようとしているけれども、そもそも誰のための「再犯防止」を考えているのか。子どもが成長発達していくこととか、本人にとっていい生活を送れるような再犯防止という手立てなら有意義なのだけれども、社会安全のために再犯防止しようとすると、この運用は違うところにいってしまうでしょう。この問題は後の議論に回したいと思います。
寺中さん)犯罪を心理面から見たらどうか、須藤さんからお話を伺えればと思います。
――須藤明さんの講演――
元家裁(家庭裁判所)調査官です。いまは大学教員の傍ら、逆送(検察官送致)された少年の刑事事件や、おもに若年成人の刑事事件に関して、情状鑑定――いわゆる心理鑑定をイメージしていただければいいのですが、厳密にいうと少し違う――を、年に数件担当させていただいております。裁判所からの依頼の場合と、弁護士からの依頼の場合と2種類があります。
今日は、家裁のお仕事、特に家裁調査官を中心にお話ししたいと考えています。そのなかでもとくに「反省させることがいかに難しいか」ということを私が担当した鑑定事例にも触れながらお話しして、最後に「少年法適用年齢引き下げ論」について若干コメントしたいと思います。
再犯の危険性と、更生のための手当てを社会調査で明らかにする家裁調査官
「要保護性」というお話が丸山さんからありました。「要保護性」には大きく3つの要素があると考えられています。1つ目は、「再犯の危険性」。2番目が、「矯正の可能性」。3番目が、「保護処分にする相当性」です。とくに、前2つが、家裁調査官が調査のなかで明らかにしていくことになります。「矯正の可能性」は、どのような手当てをしていけば、当該少年が更生、立ち直っていくのかというところを、心理学の言葉でいえば、アセスメントをきちっとしていくことになります。
少年が社会のなかで更生のチャンスをあたえる試験観察
「全件送致主義」という言葉が先ほど出ました。大人の刑事裁判ですと、検察官が起訴しないと裁判になりません。ところが少年事件の場合には、必ず検察官が家裁に送致しなければならないので、すべての事件が家裁の手続を通ります。
家裁に係属しますと、多くの在宅事件は、自宅から通って調査や審判を受けることになります。ところが、ある程度の重大事件になりますと、警察で逮捕されて、身柄付のまま検察庁に送られ、そして家裁に送られてくる。家裁では調査を進めるにあたって、観護措置――少年鑑別所で一定期間、身柄を確保して行われる専門のスタッフによる面接・心理テスト・行動観察を柱とした心身鑑別――を行って、鑑別所からも行動科学的な所見が出てくることになります。ですから、在宅事件の多くは調査官調査を通るだけなのですが、重大事件では必ず、少年鑑別所のほうで行った心身鑑別によって問題点の分析と今後の処遇指針が示されることになります。
審判では、調査官による社会調査だけでなく鑑別結果通知書も参考にして最終処分、つまり、少年院送致や保護観察といった保護処分や、場合によっては特に処分はしない不処分などの決定が言い渡されるという流れです。なかには、審判まで行かずに、調査段階での教育指導だけで十分だとの理由で審判不開始で終わりになる場合もあります。また、検察官送致となって、成人と同様の刑事裁判になる場合もあります。
その他、家裁の独特の制度として「試験観察」があります。試験観察とは、処分を保留にして、一定程度、社会に戻して、社会の中での様子を観察し――単なる観察ではなく、調査官が定期的に面接したりします――、社会のなかで更生できるかの可能性をさぐります。チャンスを与えるわけです。期間は、3・4か月とされていますが、そこは柔軟にやっていたように思います。私の経験では、半年以上の試験観察をしたこともあります。このように試験観察をして、再度審判をして、最終的な処分を決める場合があるのです。この試験観察もたぶん少年法適用年齢引き下げによって、大きく影響を受けると考えます。
では、調査官調査とはいったい何なのか。調査官調査について、あまり知られていないため、、一般の国民の側からみると家裁のなかでどんなことが行われているのか分かりにくいのではないかと以前から思っています。今日は、家裁のなかで調査官調査の一端を紹介して、みなさんのディスカッションの一つ材料にしていただければと思います。
調査の主たる方法は、面接です。面接も、本人だけでなく、必ず保護者にも行います。今日の話は、どちらかというと、少年との面接に焦点を絞ったものです。面接では、必要によって心理テストを行います。その他、家庭訪問や書面照会もします。書面照会とは、学校照会や職業照会です。学校照会は、中学校時代や小学校時代の成績や行動などについて、書面で照会するものです。
調査の内容は、項目としては、非行に至る経緯や動機、本件後の態度――本人がよく反省している・表面的な反省・反省どころではないといったところ――、本人の生活史、家庭状況、性格・行動傾向、学業や職業関係、利用できる社会資源、そして処遇意見となります。
この「非行にいたる経緯」から「利用できる社会資源」までをふまえて、最終的なケース理解、とくに要保護性を判断、そこから導かれる「処遇意見」を書くのが調査官の仕事となります。それらをまとめた書面が「少年調査票」と呼ばれるもので、少年調査票にはいくつか種類がありまして、詳細が書けるような書式から比較的簡易な書式まであります。
家裁調査官 子ども本人によって意味づけられた生活歴を語ってもらう 動機の多面的な検討
調査官の仕事はたしかに調査ですが、調査官は「調査屋」つまり単に調査する人ではないと考えています。また、調査イコール取り調べでもありません。たしかに、家裁に送られてきた少年たちは、我々が「調査は取り調べじゃないよ」と思っていても、当初は取り調べの延長だと思って来ているのではないでしょうか。そこから調査というか面接が始まるわけです。
先述の調査項目は、こちらが質問すれば明らかになるという単純なものではありません。たとえば生活史ひとつとっても、何年にどこ小学校に入学し卒業しましたという歴史的事実は比較的容易に聴取できても、本人が自分の生きてきた生活歴(人生)をどのように意味づけているかという点、つまり、本人が主観的にどのような体験をしているかということは容易ではないし、とても大事になります。
必ず我々はいろいろな出来事・体験に対して意味づけをしています。それは、子どもたちも同様です。とくに後でお話しする、虐待をされたり、過酷な生活歴を持ったりしている子どもは、非常に被害的な意味づけをした成育歴を語ることになります。そういった人生の物語がどのように語られるのかに注目するわけです。
繰り返しになりますが、単に歴史的な事実をとらえるだけなら簡単かもしれないけれども、それを本人たちがどのように意味づけしているかをとらえることは、とても難しく、それなりの専門性が求められるわけです。
また、動機ひとつとっても、「動機は何ですか」と質問して「はいはい、これでございます」としゃべったことが、イコール動機なのかといえば、そんなことはありません。非行動機には、直接的な動機もあるし、そこに影響を及ぼしているような間接的な動機もあるし、意識に上っている動機もあるし、意識にあまり上っていない無意識的と呼べる動機もある。このように、動機は多面的に検討されるべきものと考えています。
調査官の調査は究極的に「要保護性」の判断のために行うのですから、そのためには動機ひとつとってもいろいろな視点で検討しなければならず、そのためには、本人がきちんと語ってくれることが大事になっています。
私が駆け出しの調査官だったころ(30年前)、「いいか、俺たちは、調査屋じゃないんだ」と熱く語った先輩調査官がいました。私の指導官がよく「俺たちが少年を守らなくて、誰が守るんだ」なんてことを言っていたような時代でした。多くの先輩は、裁判官と対等なんだという意識で、プライドをもって仕事をやっていたと思います。私は裁判所内のいろいろな変化を体験してきましたが、、そういう昔の先輩のスピリットから刺激をうけていた世代です。最近そのあたりは変わってきているかと思います。
話を動機に戻しますと、例として、「動機から見た万引きの類型」を見てみます。このスライドでは,5つの類型を示しています。功利型は「お金を払うのがもったいない」などが典型で、同調型は「友人に誘われて」というものです。代償型は、比較的小学校低学年にみられるのですが、親からの愛情不足の埋め合わせとして菓子類等の万引きをするもの、関心喚起型は「親や教師の関心を惹きたい」というもの、情緒表現型は「むしゃくしゃして」など、いじめや受験等にともなうストレスの発散や行き場のない怒りの表現などが相当します。
つまり、一見単純な万引きという行為でも、その背景にはいろんな要素があって、それを必要な時に適切に扱っていかないと、後で反作用という形でいろいろな問題行動を引き起こすのです。風邪は万病の元といわれますけど、万引きも甘く見ると風邪が肺炎になるかのごとく、非行が進んでいくことになります。
子どもの主体的な語り 社会環境への信頼が土台 傾聴と共感から
調査で大切にしていることは何か。
これまで述べてきたように、少年の主体的な語りがとても大事になります。主体的な語りができるためには、面接する側――家裁の調査官や、鑑別所の鑑別官――との信頼関係が必要です。それは単に人との信頼関係だけでなく、その人をふくめた環境に対する信頼関係がなければ語れません。
私が鑑定をした事例のなかには、過酷な虐待を受けてきた人たちがいます。ある20代前半の青年は、初回面接で、私が「どう、ここの生活は」ときいたら、「安心します。こんなこと言うと変なんですけれど、なんかほっとするんですよね」と答えました。つまり、社会にいるより、拘置所という守られた環境に安心しているのですね。これは、裏返せば非常に不幸な話ですよね。本来、我々は社会のなかで守られて、ときには不安になることもあっても、そのなかで耐えながら自己実現していくという存在なのだけれども、彼の場合には、そのような環境が提供されてこなかったのです。
虐待や不適切な養育その他によって、守られた体験が乏しく、安心できる環境が提供されてこなかった少年ほど、社会生活の危機場面において暴力などの不適切な防衛行動――相手がこうやってきたから、やれる場合にはやってやろうとか――や被害的認知が生じやすいのです。
ですから、調査官の調査で、おそらく皆が共通に心がけることは、まず傾聴です。それから、彼ら彼女らの気持ちにそった共感です。
ただし、そのようなアプローチをしているからといって、少年に対し「全面的に信頼してくれ」なんて大それたことは考えていません。「いままでいろんな人と会ってきたなかで、この人はちょっとマシかな。この人は、ちょっとくらい信頼してもいいかな」までなんとかたどりついて、つながっていこうという意識で調査をしていたと思います。
家裁で扱うケースは、非常に深刻なケースから、調査で呼び出しをした時にはすでに保護者が適切に指導し本人もきちっと反省していて、特別な指導も必要がないケースもあります。そのようなケースは、本人の取り組みや保護者の関わりの適切さを十分取り上げた上で、審判不開始で終局するわけです。
ただ、このような家裁の取り組みを表層的にとらえ、「甘いんじゃないの」とか、「犯罪したのだから厳しくやれ」とか、わりと単純化した議論が起きやすいですが、じつは、そうではなく、逆だということを次にお話しします。
「刑務所より少年院のほうが圧倒的に厳しかった」 自分と向き合う作業
今日のタイトルを「非行や犯罪とどう向き合うか」としたのは、いくつかの意味があります。
当該少年が、自分自身にどう向き合うか。それから、家族とどう向き合うか、さらには、社会つまり我々が、そういう少年非行に対してどう向き合うのか。それらの意味を込めてこのタイトルをつけました。
自分自身の過去に向きあって、自分を語り、そこから新しい人生の物語を紡いでいく。一言でいうと、これが、更生の流れだと思うのです。それって、かなりしんどい作業もあり、決して甘やかしではありません。
以前、横浜の弁護士会でシンポジウムに参加した時の話ですが、シンポジストだった少年院と刑務所の経験者たちが等しく言っていたのは、「刑務所よりも少年院のほうが圧倒的に厳しかったです」ということでした。
少年院は24時間の生活そのものが教育の場ですし、その中で、自分の問題にきちっと向き合っていく作業はとてもしんどいのです。その向き合わせ方は、とても専門的な力が必要なところだと思います。ただ単に向き合わせるだけでは、本人が耐えかねたり、むしろ自分自身のネガティブな自己像が強まることにもつながりかねない。そういう意味での専門性が必要なのですが、その点で少年院は、刑務所に比べて、断然、そのような専門性が高いと思っています。
調査の過程でも、保護的措置といわれるさまざまな教育的働きかけも行われます。その方法にはいろいろあり、カウンセリングや心理療法の諸理論が援用されています。
反省させる 加害者のなかにある被害者意識をきちんと扱う
反省させることには落とし穴があるということをお話しします。
まずは、厳罰の効果に関するエビデンスはありません。
アメリカのOJJDP ( Office of Juvenile Justice and Delinquency Prevention )のウェブサイトにのっていることを紹介します。過去に少年審判手続きと刑事裁判手続きと、どちらに処遇効果があるのかという研究が6つ紹介されており、たとえば1996年に行われた研究ですと、ニューヨークとニュージャージーを比較しています。ニューヨークは16歳から刑事裁判手続きに入ってしまうのに対し、ニュージャージーは17歳まで少年審判手続きですから、同じような犯罪をした16歳~17歳の少年の再犯率を比較してその効果を調べたわけです。もう察しがつくと思いますが、少年審判手続きのほうが再犯率は低かったわけです。この研究も含めて1996年から2000年代の初めにかけて比較研究が行われていますが、同様の結果となっています。
反省させると、「悪かったな」という罪悪感が起こります。このときの罪悪感には2種類あると、精神分析家の小此木圭吾(故人)が言っていました。ひとつは「処罰恐れ型(押し付けられ型)罪悪感」、もうひとつは「許され償い型罪悪感」です。大事なのは、「許され償い型罪悪感」でないと、自分自身を悔いていくという本当の罪悪感が生まれてこないということを言っている点です。小此木は、精神分析の立場から述べていますが、とても示唆に富む指摘だと思い、ご紹介しました。
良好な親子関係に起因する人間関係の基盤がある子どもは、叱られても素直にそこを受け止める力があります。そのような関係の基盤がない子どもは、むしろ内在している被害者意識が反省を邪魔してしまうことがあります。一例を挙げましょう。
母親が被害者で、彼が加害者という事件で鑑定面接をしたことがありました。彼はしきりに「納得できないんだ」と私に訴えるのです。彼は、ずっと子どものころから母親に虐待されてきた。そのなかで、母親の自分に対する愛情はどうなんだろうと確認しつつ、それを否定されてきたという歴史を持っています。虐待されてきたといっても24時間虐待されていたわけではなく、時には機嫌がいい母親に「こっちにおいで」と言われることもある。でも、そんな関係は長くは続かない。つまり、時に期待しては裏切られるという体験をさんざん繰り返してきたのです。彼は繰り返し訴えるわけです。「被害者は俺なんじゃないの」、「今回の件に限れば、加害者はたしかに俺だけだけど、母親に被害者面されるのは絶対に納得いかない」と。
ですから、犯罪という点では加害者なのは確かですが、反省を求めるときに、その人のなかにある被害者意識(被害者性)をきちんと扱っていかないと、反省どころか、むしろ被害者意識を強めるだけで逆効果になります。反省させるのは難しいことです。「反省させると犯罪者になります」という本もありますけど、反省ということの意味をもっと考えていく必要があるでしょう。
暴力で育てられ、何を言ってもダメなんだと身構え、いじめループのなかで殺害
川崎中1殺害事件の情状鑑定(心理鑑定)は私が担当しました。差しさわりのない、すでにマスコミで報道されている範囲で、私が公判で指摘したことを紹介します。
彼は、面接当初から、非常に大人への不信感がありました。当然というか私に対しても、防衛的で硬い殻の衣服を身に着けているようでした。彼は当時19歳、すでに検送(検察官送致)になっていました。あそこまで防衛的だった人というのは、いままで経験したことがないぐらいでした。ただ、一方で私がその時に思ったのは、なぜそこまで頑ななまでの態度をとり続けるのか、それは、きっとそうせざるを得なかった彼の歴史があるだろうというところです。そこを一つの手がかりにして、彼との面接を重ねていったわけです。
その後わかってきた背景のひとつには、親から不適切に身体的な暴力を受けていたことがあります。さらに彼にとって不幸だったのは、彼の話を聴いてくれる大人との出会いが圧倒的に少なかったことです。たとえば、小学校の時に親のことを馬鹿にした同級生を殴ったことがあったのですが、教師に事情を訊かれても一切口をつぐんでしまいます。そのために、業を煮やした教師には殴ったという行為を叱られ、その後、家に帰ってからは親からは体罰をともなう強い叱責を受けるわけです。そんな悪循環といってよい体験の繰り返しが、信頼できる大人に相談するとか、自分の言い分を伝えるといったことをせず、大人は信用できない、何を言っても無駄という構えを強くしていったのです。
また、今回の事件の背景には、中学時代にいじめを受けていてグループに本件直前まで追われていたという事情があります。そのような恐怖心が被害者への攻撃的な行動に転嫁されていったというプロセスもあったのです。暴力を受けて育った人は、暴力が問題解決の手段として学習される傾向があり、彼も例外ではありませんでした。そのようないくつかの要因が重なり、結果的には悲惨で不幸な事件を招いてしまったということです。
大人との出会い 更生のチャンスの芽をふやす
思春期以降の大人との出会いの重要性を、いろんなケースを見てきて強く感じます。たとえば、中学・高校時代についていろんな話を聞くなかで、いろいろ問題を起こしながらも「こんな先生がいたよ」と良き先生との出会いといったポジティブな話ができる人と、全くできない人とでは、予後が全然違ってきます。「あの時は親父の言ったことが分からなかったけど、今になって分かってきた」とかよく聞きますよね。その時は生かされていなくても、後で生かされるようなことがありますので、すごく大事です。
ですから、不遇な生育歴や家庭環境を背景に持つ人であればあるほど、周囲の大人たちとつながっていくことが必要ですし、関係機関との連携もしかりです。それぞれの関わりが、短期的には「点」であっても、どこかで「線」につながっていくことを意識しておくことが必要です。家裁調査官もそういった意識をもって仕事をやっていますということを申し上げておきたい。
短期的な結果だけではなくて、むしろ更生のチャンスの芽を増やす、育てることが非常に大切であると思います。
少年法適用年齢の引き下げ 教育的アプローチを崩壊
最後に、少年法適用年齢の引き下げに関してお話しします。
年齢が引き下げられれば成熟が促進されると、どこか勘違いしている人が一部いるのではないでしょうか。「甘やかすから、いつまでも子どもだ。厳しくせい」と言います。でもご存知の方も多いと思いますけれども、最近の脳科学の進歩は目覚ましく、前頭葉の機能が成熟するのはだいたい25歳くらいだということが明らかになっていまして、これは全世界的な常識になっています。たとえばアメリカでも、1980年以降ずっと厳罰化にシフトしましたけれども、2000年以降、そういう脳科学の視点をふまえて、単なる厳罰ではダメだということで、いろいろなことが取り組まれています。
少年法適用年齢が20歳未満から18歳未満に引き下げられると、18歳・19歳、ここの教育的アプローチは、法制審議会で議論している青年層構想など、どんな対策をとられても、検察官先議である限り、後退していくのは明らかだと思っています。また、試験観察について言いますと、試験観察は今だと20歳になる前まで可能ですが、引き下げによって、18歳に近い17歳の少年には行われなくなっていくと予想されます。たとえば19歳11カ月の少年には試験観察をしないでしょう。19歳10カ月も同様かと思います。試験観察が減るというのは、社会で更生するチャンスも与えられなくなっていくということを意味するわけです。
試験観察はプロベーションという英語訳になります。そのため、家裁調査官は、ファミリー・コート・プロベーション・オフィサー(family court probation officer)という英訳がなされてきました。でも最近では、ファミリー・コート・インベスティゲイター(family court investigator)となったと聞いて、とってもがっかりしています。家裁調査官は家事係も担当するので、双方の仕事を表す英訳としては、なかなか外国の人に説明しにくいという背景があるそうですが、試験観察のますますの後退に結び付かないか懸念しているところです。
家裁に対するいくつかの批判があることは承知していますが、現状のシステムに対する冷静な評価と年齢引き下げの必要性を十分考えていくべきだと考えています。
最後に、私たちは身体と同様に心も栄養素が必要であり、それは「認められる」、「褒められる」、「励まされる」、「理想化対象と出会う」、「慰められる」といったものであると強調して終わりにしたいと思います。
寺中さん)少年法の枠組みの基本的な理解を丸山さんにお話いただき、その実質面――どんなふうに人と話しているのか――を須藤さんにお話いただきました。ぜひ、みなさんには、少年法の適用年齢を18歳未満に引き下げることがどういう意味を持つのか、本質部分に迫っていただきたいと思います。
――パネル対話――
寺中さん)須藤さんのお話を聞いて丸山さん、いかがでしたか。
厳罰化のなかで調査書作成の葛藤 裁判員裁判の導入による調査書への影響
丸山さん)少年法の2000年改正以降、家裁調査官の意味づけを、現場でどうとらえているのか。家裁調査官を辞めた今だから、「家裁調査官、負けんな」みたいな思いがあったら聞きたいと思います。厳罰化に変わっていく中で、家裁調査官は憧れの職業のひとつでもあったから。社会調査もして、裁判官にどんな処遇が相当か意見することもふくめて。「俺が少年を守らなくて、誰が守るんだ」という意識でやる立場の人だと思っていたから。それが、厳罰化の流れの中で、しかも検察官送致しなければいけないとか法改正されて、今後どうとらえていくのか、お話しいただけますか。
須藤さん)少年法20条2項が、原則、検察官送致が規定されている条文です。法改正をうけたときに、私は家裁調査官の現職でした。当時の私も含めて、多くの家裁調査官は、原則は原則として、調査をした結果、保護処分のほうがふさわしい場合には、その旨の調査官意見を書いていこう、そのためには、これまで以上によりしっかりした調査をして行こうという機運があったように思います。実際の審判でも、検送処分と保護処分のどちらが効果的なのかという観点から保護処分となる決定が出ていました。
ところが、原則検送にしたわりには、検送の件数が意外と増えなかったという背景もあったのでしょう、このままだと5年後の見直しのときに、「原則」そのものも外されてしまうのではないか、つまり例外が一切認められない検送になってしまうのではないか、という危機感も一部の議論にあって、検送率を上げなければいけないという議論がでてきました。
その後、北村論文や司法研究(司法研修所の研究結果)などによって、狭義の犯情、つまり犯行態様や結果など外形的な事実によって保護処分の相当性が否定されているのが少年法20条2項事件であり、保護処分にするのはごくごく例外にすぎないのだ、ということが徹底されるようになってきたのです。虐待や発達障害などが背景にあっても、それは保護処分を選択する理由にはならないということなのです。
そうすると、じゃあ、我々は何のために詳細な社会調査をやるのかということになります。そのような葛藤のなかで、もがき苦しみながら仕事をしていた記憶があります。結局、その点は現在でも解決されていないんですね。調査官の意見欄を読むと、詳細な調査と分析が書かれていても、最後には、「少年法20条2項相当事件だから検察官送致相当」という結論になっていくわけです。なかなかピシッと論理性が出てこないのです。
もう一つは、裁判員裁判の影響です。裁判員裁判は、「見て聞いて分かる」をモットーにしていますから、従来のように要請があれば少年調査票を地裁に送って証拠として扱ってもらうという形をとりにくくなったのです。少年法20条2項の事件の少年調査票は、40~50ページに及ぶものが珍しくなかった。とてもじゃないけど、裁判員が読むのはできない。
そこで、当時、いろいろな議論がありました。調査官が証人として法廷に立つのか、それは最高裁が明確に否定しました。
結局、少年調査票をもう少しスリム化しましょうとなりました。私は少年調査票の検討プロジェクトのメンバーでしたから、多くの少年調査票を読む機会があったのですが、確かに冗長すぎる調査票もあって、ある程度のスリム化は可能だろうと思いました。
しかしながら、その後の流れのなかで、先に述べた少年法20条2項の事件はなんのために調査するのかというところが定まらないでいたことと、調査票のスリム化という二つの影響からか、一部の現象として、非常に物足りない少年調査票が散見されるようになってきたのです。そこは葛藤を抱えながらも頑張っていかなければいけないところで、弁護士から批判を受けているところなのです。このあたり、家裁調査官はいろいろな葛藤を抱えているのです。
――グループ発表とゲストのコメント――
~グループ対話を行い、それを会場全体で共有するために発表しあい、ゲストにコメントいただきました~
(参加者)「私は調査官をやっています。この班は、弁護士、BBS(Big Brothers and Sisters movement)と、少年院でどう子どもたちを更生するのだろうかと関心のある方の4人でお話ししました。少年院で、矯正教育をどうしているのか、普段見えないところに興味があるんだなと思いました。BBSでどんなことやっているかも話しました。
私、調査官という立場から、一言いわせていただきますと、年齢引き下げの話は、どうしても重大事件が念頭におかれて『けしからん』という話になっていますけれども、調査官が接するほとんどの子は、ほんとにそんなことないのです。
たとえば、18歳の高校生が、同じ学年でまだ誕生日を迎えていない17歳の女の子を、今日は告白しようとカラオケに誘ったのですね。なかなか告白するタイミングを失ってしまって、知らない間に夜の12時・1時になってしまったのですね、家の前で。そこに警察官が回ってくると、『君はいくつだ』『18歳です』、『あなたはいくつだ』『17歳です』。ということになると、条例違反で事件になってしまう。そういう子が、家裁に送られてきたりするのです。確かにとくに問題のない子なので、処分しなければいけないということもないのです。
でも、警察で取り調べを受けたということだけで、自尊心がガタガタになっている子がいるのです。そういう、裁判所にくるまでに傷ついている子をどう回復させるかも我々の仕事だと思っています。
何を甘やかしてという話につながりがちですが、再犯防止という観点でいうと、そういう視点もなければいけないだろうな、と個人的に訴えさせていただきました。」
「議員の秘書さんが二人、議員さんと、保護司さん、当事者の僕です。僕の発言を優先させてくれてとても嬉しいです。当事者ぬきで当事者のことは決めないというのは、あらゆる世界で大前提ですし。
少年院と刑務所の両方を経験して更生した人たちに聞くと、少年院のほうがきつかったと言っているわけです。これ、なんでか。刑務所は何をするところか。受刑生活は懲役刑、作業していれば時間をつぶせる。でも少年院は、教育がきついです。なんでこんなことをしたのか、自分の心で答えなければいけない。はっきり言って、セカンドレイプ。傷をえぐられる作業です。それでも僕は、少年院の教育刑が適用される人の幅が増えてくれればと思います。
あと、少年院を出た後に世話になる保護司さんが地域住民に危険じゃないかと思われてしまう、という話がこのテーブルで出ました。保護司をやっていること自体によって地域から排除されてしまうのです。僕自身が最近、法律事務所で出会ったケースですが、更生保護施設を立ち上げようとした志ある方がいたのです。4000万円で物件を買ったはいいが、地域住民に、地域協定に反するといわれて、非難の声を浴びせられた。結婚していないから信用できないとか、もし殺人犯の子どもが来たら地域の治安が乱れるとか。
誰から見た『再犯防止』か、と丸山さんからお話がありました。地域でリスクを担う覚悟があるのかどうか。その覚悟がなければ、社会は監視カメラばっか増えていきます。監視社会は嫌だなと思います。」
「この班には、非行と向きあう親たちの会の方、自治体の議員、社会人学生がいて、自分たちの経験談などを話し合いました。
そのなかで、厳罰化ではなにも解決できないのではないかということで、犯罪の現象面だけではなくて、原因を見ていく社会。今どんどん厳罰化するなかで、幅が狭くなっていって、もっと苦しくなって、はみ出していく人が増えていくのだから、管理というより、逆にもう少し笑えるような社会をつくっていくことが大切なのではないか。
加害者か被害者かどこにも線を引けないわけだから、みんなで、多様な価値観とか、多様な思いとか、受けとめられる社会に、厳罰化とは真逆の方向の社会がいくことが必要なのではないかということを話し合いました。」
「この班は、現役の家裁調査官の方、新聞記者の方、私をふくむ学生がいました。少年犯罪は実際には増えていないけれども、甘やかしているのではないかという思想がなぜあるのかと考えてみました。
さっき話された川崎中1殺害事件のように、被害者のことばかり報道されてしまうと、被害者感情がどんどん高まってしまう一方、加害者のことについてはそんなに報道されていなくて、実際に加害者がどういう環境で育ったかとか、いじめられていたとかが報道されていないから、『こういう悪い子たちが育てられてしまって、厳罰化したほうがいい』という思想がどんどん出てきたのではないかと話しました。
新聞記者の方がおっしゃったのは、実際に加害者のことを報道するのは難しいとのことでした。私たちは、今ここで、加害者がなぜそういう行為に陥ってしまったのかが分かったから、厳罰化はダメだとわかるけれども、一般の人はわからないから、厳罰化にいってしまうのではないか。
少年法を学ぶことは大学に入ってからでないとできません。だから、小学校・中学校・高校で、こういう法律のことが学べれば、もっと正しい判断ができるのではないかと、私たちは結論づけました。」
「この班は、加害者家族支援をしている先生と、鑑別所の職員の方たちと僕でした。
少年法適用年齢の引き下げという空気に今なっているなかで、どういうふうに行動できるのかというところで、難しい現状が話されました。
鑑定をうけて、再犯率はどう変化するかという話がありまして、鑑定を受けたほうが、再犯率は低下するという話がありました。須藤先生のお話にもあったと思いますが、ナラティブに語ることはひとつ自分を見つめ直すことにつながるのではないかと。
少年院のなかでも、自分を振り返って、どういうふうに自分の問題だったんだろう、今後どうしていったらよいかと考えることがとても重要なのかなと考えました。
20歳を超えてから非行したのはどう拾うのだろう、18歳に引き下げられたとしたら、18歳を超えてから非行した時にどう拾っていくのだろう。
もし、教育的な施策が出てきたとして、教育刑という形で少年院または他の施設で受けるとして、それは本人にとって、どういう意味があるのだろうかという話もされました。」
「この班は、職業的な専門家はいませんでしたが、その周辺のNGO等で活動している方たちがいました。法廷外の活動もすごく重要な位置を占めているんだなと感じました。
厳罰化に向かう、その理由を考えたときに、更生をするんだとか、矯正していけるんだということへの、信頼感があまりないのではないかと思います。その厳しさが認められていない。自分を掘り返すという作業は、本当に厳しい作業だということ想像できるのですが、ほんとうにそれで矯正ができていくのか、そこへの社会的な信頼感や合意を醸成していくアドボカシーというかアピールをして、社会的合意形成をしていかないといけないのではないかと思います。
いろいろな犯罪情報が回ってくる時代ですので、空気としては危ないぞという感覚が強まっていると思います。でもデータとしては、犯罪率は下がっている。そこの矛盾をどう解消していけるのかなと感じました。」
「この班は、現役の法学部の学生さんと、子ども支援をしているNGOの方と、私は大学院で刑事施策等を研究しているというメンバーです。
BBSの活動で普段どういうふうに少年と関わっているかという実情をうかがいました。
また、少年の再犯防止を考えるにあたっては、子どもの育て直しという意味での矯正教育について話しました。
審判不開始の割合が大きいという先生のお話があったと思いますが、そこに誰がどういう主体で関わることによって、信頼できる大人につなげることができるのかということを中心に話しました。
一概に『子ども』とか『大人』とか線引きは難しいというのが我々の共通認識でした。
また、社会的な年齢構成の問題にも関わることかと思いますが、いかに早期の段階で信頼できる親や大人が育て直しするということに関して、みんなでやればいいんだよね、という意見がでました。第三者のような機関、もしくはそのような主体ができて、社会のなかでどういう矯正教育をしていくことができるのかが、今後の課題としてあがりました。再犯防止の推進計画であったり。
一方で、被害者の支援ということに関して、矯正教育とどうつなげて、効果が得られるのか。みんなが育っていって、みんなが幸せな社会が理想だというのが、私たちの話の内容でした。」
「こちらのグループは、今まさに法律を学ばれている学生さんから、かつて学ばれていた方、少年院の現場で面接をしておられた方、子ども権利条約の普及活動をしておられる方もいらっしゃいました。
年齢じゃないのではないか、個々の課題にどう対応するかが大事なのではないかという切り口でお話しされている方がいて、本質だなと思いました。 裁判員制度が始まったにもかかわらず、厳罰化が進むという矛盾は何なのかという話題から、そもそも仕組み自体に問題があるのだろうということになりました。何が課題かが多岐にわたっていて、少年事件の詳細が一般社会に知られにくくなっていて、個人情報保護の問題もあるのではないかとか、報道の仕方が問題なのではないかとか、日本の国民性――争わない姿勢など美徳ではあるが――の課題でもあるねといった広い話になりました。
私は都内の児童養護施設で職員をしています。ケースは少ないですが、やはり審判に関わるケースが常にあります。保護なのか更生なのか、判断がすごく難しいというケースもあります。まさにタイムリーで、施設内で暴力を起こしてしまって、いま鑑別にいてこれから少年院送致になるだろうというケースがあります。福祉と司法となると、仮に少年院に行った場合、私たち施設職員はどこまで関われるのかが課題としてあがっています。じっさい家裁調査官はうちには調査に来られていないのです。というのは、半年しかその子がうちの施設にいなかったということがあって、その後、家庭と施設を行ったり来たりと転々としていて、うちに調査が入らないのは当然なのかなと思いながらも、歯がゆい思いもしています。今後の関わりをどうしたらよいのか、お聞きしたいと思います。」
寺中さん)今のご質問は、タイムリーでもありますし、まずは、それへのご回答から。
須藤さん)今日来てよかったなと思いながら、みなさんのお話を聞いていました。非常に刺激的なお話をありがとうございました。
いま鑑別所に入っているということで、調査官からコンタクトが全然なかったというのは、ほんとうに残念ですね。今後、何らかの形で接触があってもよいと思いますし、(参加者の少年鑑別所職員に向かって)たぶん養護施設職員の方は面会はできるのですよね。
(参加者)家庭裁判所を通して許可を得れば基本的には面会は可能な場合が多いです。鑑別所にその旨を言っていただいて。
須藤さん)大事なのは、つながっていくことです。私いま、さいたま市スクールカウンセラーのスーパーバイザーとして教育関係の職務に携わっているのですが、中学生が鑑別所に入っている間、学校の先生が一度も面会に行かないという学校があったりして、それは一番よくないですね。やはり、鑑別所にいるあいだ面会に行っていただいて、つながりを持っておく。もし少年院に送られるにしても、「そこで頑張っておいで」という形で。今、ご質問いただいた養護施設の方も同様かと思いますが、(参加者の少年鑑別所職員に向かって)少年院に行った後は、面会はなかなか難しくなりますか?
(参加者)できるでしょう。
須藤さん)あと、少年院に入った場合でも、手紙のやり取りをするなど、いくつかの方法があるかと思います。途切れないようにつながりをつくっていただくことが重要で、そういう大人との出会いは、ぜんぶ彼らの財産になると思うので、ぜひ大切にしていただきたいと思います。家裁調査官頼みではなくて、むしろそちらが主体になって、調査官に連絡をとっていただいたらどうでしょうか。、面会に行きたいんだということであれば調査官はとうぜん協力してくれると思います。
また、取り調べの過程で少年が傷ついたというお話、確かにそうだなと思います。
それは、親御さんはも同様ですね。たとえば中学校在学中であれば、何か問題があると、すぐ親に連絡が入り、親が謝ることになる。そんなことの繰り返しで、親御さんが疲弊し、無力感に陥り、自信を失うということがよくあるのです。そういう親御さんともう一度少年の立ち直りに向けて一緒に考えていく。そして、これまでの関わりのなかでも、とてもよくて、これからも継続していただきたいところもたくさんあるので、それらも取り上げながら、持っている力をより発揮してもらうような関わりが大切になると思います。
今日のキーワードで「パターナリズム」が出ていました。専門家が上から「こーだよ、あーだよ」と助言するのではなく、じつは解決のカギはそのご家庭や本人の中にあるという「脱パターナリズム」。これはいま心理療法の世界でもそのような流れになっています。
重大事件への不安からくる厳罰化 加害者側のことも知り事件の本質を
社会的信頼感というお話もいただきました。なぜ「引き下げ」なのかというところで言うと、我々は、大きな事件があると、不安になりますよね。その不安を何らかの形で減らそうという動きになり、それが厳罰化に結び付くと考えられます。
大事なのは、情報を出していくことです。
適用年齢の引下げ論は、川崎中1殺害事件で、稲田法務大臣(当時)が「引き下げ論」を言い始めたことが、一つのきっかけになったと思います。でも、私は実際に鑑定をした立場で言うと、あれこそ正に少年事件の本質的なところがあると思いました。そのため、情状鑑定についてきちんと報道してもらうことが重要だと考え、できる限りマスコミの取材に応じたのです。
あの事件を担当した裁判員が判決後の取材で、加害者の背景を知ることで、加害者と被害者との狭間でどのように考えていけばよいのか苦しくなったという趣旨の発言をされていましたが、これはとても大切なことを伝えていると思います。
プロベーションについて。辞書には、執行猶予等と訳されますけれども、試験という訳もあります。プロベーションは、昔ある被告人を裁判所から靴屋さんが引き取って更生させたため、それによって処分が無くなったということが起源にあります。つまり、チャンスを与えてその結果を処分に反映させたということで、これが、現在の試験観察につながってきているわけです。今日のお話で、調査官は単なる調査屋ではないというのは、そのような理念を柱としてきた故であります。家裁調査官の英訳からプロベーションが消えてしまったことが、プロベーション機能の低下につながらなければよいなと懸念しています。
寺中さん)プロベーションは、試用期間という意味もあります。世間でも試用期間が終わると大概そのまま続くので、試用期間に入る・プロベーションに付されるということは、そのまま上手くいくはずなのです、そういう意味合いもあると思います。
丸山さん)年齢引き下げのことについて。結局、事件のことや、刑事司法のこと、本人のことを知らなすぎて、モンスターのような幻想をつくってしまって、一方的に厳罰化に向かっていくということが問題なのだなと、みなさんのお話を聞いていて思いました。
僕は研究者なので、理想しか語りませんけれども、理想を語らない研究者に存在価値がないと思いますので、理想を語らせてもらいます。
再犯の少ない国 犯罪の原因を我が事として見る 国民を巻き込んだ議論から
犯罪者に優しい国は、ノルウェーなど北欧の国です。再犯が少ないです。いちばん力を入れているのは、参審員としての市民の参加です。たとえば8・9年ほど前、NHKのドキュメントでノルウェーの参審員として裁判に参加しているという人のコメントが紹介されていました。移民が薬局で薬を窃盗して捕まって、検察官は罪を追及する立場なので「犯罪をするためにノルウェーに来たようなものではないか」と言うのですが、参加している市民は「自分が家族を連れて行って、言葉も通じないなか、仕事もなくて、子どもが病気になったら、そりゃ薬を盗りますよ」と。
犯罪はこういうことで起こるんだなと、目の前のことを自分のこととして置き換えて見られるかどうかだと思います。
ノルウェーのすごいところは、刑務所のなかで、無期懲役受刑者と現役法務大臣と与党と野党の人が机を並べて、刑務所の在り方を議論して、ゴールデンタイムに放送する。とんでもない国と思うかもしれませんが、市民、国民の義務として、裁判に入って、量刑を決めるということなのです。むしろ陪審員裁判のほうが楽で、検察と弁護人がやっていること――有罪か無罪か――のどっちが正しいかを決めればいいだけです。
けれど量刑を決めるとなると、有罪だったら保護観察をするというときに、じゃあ保護観察は何をやっているのとか、少年院は何をやっているのとか、刑務所は何をやっているのとか、5年・10年・20年の刑の何が違うのかわからなければ決められないのです。結局、国民を巻き込んで、議論していくしかないのです。だからゴールデンタイムでそういう巻き込んだ議論をしているのは、「犯罪」とその周辺を理解するには大事かなと思います。
再犯防止 本人が立ち直るためか 監視社会か
再犯防止について補足します。
再犯防止は目的であって、手段は何をとるかいろいろあり得ます。両極端な話をすると、電子チップ埋め込んで365日24時間監視して禁止箇所に入ったらアラームを鳴らすのか、真逆に、その人の生活が安定するように、時間もお金も人手もかかって大変だけれども、サポートしつつ、仕事や人間関係がうまくいくようになって家族とも話せるようになってきたんだねとなって、振り返って5年・10年、再犯が無かったねという再犯防止もあります。
いま日本が「再犯防止」というとき、主体は誰なのか。どこに視点を置くのか。
リスク要因として、社会でこの人危険だから、私たちに影響を与えないように監視し続けてくれという「再犯防止」と、本人が立ち直るための「再犯防止」とではぜんぜん意味が違います。今、再犯率を下げる目標率を立てていますけれども、数字だけを掲げて、今の日本がどちらに進むかといったら、監視をして、社会安全のための再犯防止です。そのやり方では、どんなに本人のためにいい制度ですよと言っても、刑事司法のなかにあっては限界があって、迷走しているなか、いろいろな問題が起きるだろうなと危惧しています。
寺中さん)これだけ多岐にわたる分野の専門の方々や、関心のある方々に集まっていただいて、それだけ問題が広がっているのだろうなと実感できる素晴らしい場となりました。ご協力に感謝いたします。
丸山さんと須藤さんには、非常に適切な角度からこの問題に切り込んでいただきまして、我々の知らないことも教わりまして、ありがとうございました。
●次回アドボカシーカフェご案内
『経済開発と格差 日本のミャンマー支援と現地の人々』
【登壇者】黒田かをりさん(一般財団法人CSOネットワーク事務局長/理事)
木口由香さん(NPO法人メコン・ウォッチ事務局長/理事)
上村英明(コーディネータ/SJF運営委員長)
【日時】 2017年9月21日 18時30分から21時(開場18時)
【場所】 新宿区・若松地域センター
【詳細】こちらからご覧ください。
*** 今回の2017年6月12日の企画ご案内状はこちら(ご参考)***