ソーシャル・ジャスティス基金(SJF)アドボカシーカフェ第48回開催報告
●次回アドボカシーカフェのご案内
『「少年法18歳未満」から考える 大人ってなに? 子どもってなに?』
【ゲスト】丸山泰弘さん(立正大学法学部准教授/刑事政策・犯罪学)
須藤明さん(駒沢女子大学人文学部心理学科教授・臨床心理士)
【日時】2017年6月12日18:30-21:00
【場所】文京シビックセンター(東京都)
【詳細・お申込み】こちらから
障害や病気をもつ家族をケアする
子ども・若者たちに希望を
2017年3月29日、松﨑実穂さん(国際基督教大学ジェンダー研究センター研究所助手)と、井手大喜さん(草加市議会議員)をゲストにお迎えしたアドボカシーカフェを、SJFは東京都文京区にて開催しました。
松﨑さんと井手さんは、高校生や大学生から高齢者介護や障害者介護をした経験に根差し、若いケアラーがいる社会的背景や、若者本来の活動が極度に制限されるケア中や燃え尽きがちなケア後に「希望」を見出した糸口を具体的にお話しされました。
「聞いてほしい」。行政から主介護者として認められず、職業選択も認められず、社会から見えない存在になり、自分自身をも見失う若いケアラーであった時の思いです。話をした相手から「正論」だけを返されるとコミュニケーションは終わってしまう。多様な答え方が開かれるような問いを発してほしいとの話がありました。
「子どもの貧困」を手がかりに「ヤングケアラー」が見える存在になっていく可能性が示されました。介護が始まったことで貧困になるケースや、介護中は貧困に直接関わりがなくても学業やキャリア形成において不利になり貧困に陥っていくケースも考えられます。
社会的な認知が広がるためには、子どもや若者ケアラーの実態についての統計的調査が行われ、周知されることが必要であり、それによって子どもや若者に接している人たち、行政担当部局や福祉関係者が「この子は何か困っているのではないか」という目で見て、ケアラーの存在に気づいたら支援につなげていくことが大事だと会場から提言がありました。
若いケアラーの支援については、既存の若者支援制度と介護保険制度や障害者支援制度をつなげていくことや、ソーシャルワーカーや学校教職員が支援へのつなぎ役を果たせるような仕組みが提言されました。支援者は、子どもや若者のケアラーが自分の言葉で話せる環境づくりに心を寄せ、そこからその子どもや若者が本来どうしていきたいのか、自分自身の望みを口にでき、それについて一緒に考えてくれる人のいる場づくりが大切であるという趣旨の発表が会場からありました。
※コーディネータは、樋口蓉子(SJF運営副委員長)
――松﨑実穂さんの講演――
まず自分自身の介護体験歴を簡単にお話します。ちょうど19歳になった1994年から25歳になる2000年にかけて、この間ずっと学生でしたが、認知症の80代の祖父を介護していました。2000年に介護保険制度がまさに始まる3週間前に祖父が亡くなったことで、私の最初の介護体験は終わりを迎えました。
25歳まで学生をやっていたことに疑問を感じる方もいると思いますが、私が大学3年生になった頃にちょうど祖父の認知症が重くなったために、就職活動を途中でやめてしまい、なし崩し的に大学院に進学してしまいました。
そもそも大学院に進学して何をしようと思っていたかと言うと、高齢者介護の研究でした。まさに自分の家の中で起こっていたことについて、社会的な観点から研究しようと思ったことが大義名分です。大学院の修士課程にいたときに、祖父が亡くなりましたが、その後も研究を続けようと大学院に在籍してはいました。
2004年ごろ、そんな生活が3年ほど続き28歳になっていまして、そろそろ働いた方がいいと思い、働き始めました。
その後33歳から35歳にかけて、今度は祖母が入院手術をし、その退院後の見守りがありました。要介護2までいったのですが、94歳になる今も元気で在宅生活を送っているという体力の持ち主で、今は要支援1まで戻ってきている事態になっています。
じつは2012年に研究フィールドに戻っています。28歳で研究をあきらめてから結構な間が空いていて、ありえないようなUターンですけれども詳しくは後述します。
なお、祖父母と私が同居したことは0歳から3歳までありますが、父の転勤等にともない、その後19歳までは一緒に暮らしていませんでした。ですが、進学し通学のために、私だけ祖父母と同居することになったのです。その段階で祖父はすでに認知症の徴候はあったのですが、いちおう自立した生活は送っていました。祖母は70代で元気でしたけれども膝が変形関節症で痛んでいて、家事と祖父の世話を一手に担っていましたが、そんな祖母を心配しながら見守っているうちに祖父の症状が悪化していきました。
大学生で介護、決める権利が無い
では祖父の介護を通じて、私の中に起こったことは何だったのか。
正直、自分の中では、最初は家族の中の問題だと思っていました。でも、両親とは離れて暮らしていましたから、両親にどこまで言っていいか分からず、板挟みになりました。言いたいことが、一緒にいる祖父母にも正直には言えないまま、祖父のケアはこのままでいいのか悩んでいました。いろいろ思って混乱するのですが、身体介助が大して必要ではないが認知症で見守りが始終必要な祖父について、どんな外部からのケアが必要なのか?また可能なのか? という点について、当時は家族内で話し合ったり、意見の一致をみたりするのが難しかったのです。
その時、学生であった私は、何かを決める権利が無いのです。状況を解決できず、無力感を覚えました。あくまで「主介護者」は祖母で、自分自身にも介護をしているという認識はありませんでした。
誰にも相談できない
では学校に行ったらどうだったか。大学で、友達や先生に自分の状況を話すことが難しい。いまは多少時代が違っているかもしれませんが、1990年代後半のことです。思い切って話してみても、「なんか大変だねー」、「あなたがしなくてもいいんじゃない」と、だいたいこの2パターンの返事があるのですね。これらに対して、「それは、そうだけど」としか返せないわけです。こういうコミュニケーションが積み重なっていくと、だんだん話したくても話せない、という心理状況になっていくわけです。
進路選択はどうなったか。大学では最初、国際関係学を専攻していました。何か華々しいものを夢想していたのかもしれませんが、もう少し自分の身の周りで起こっていることについて学びたいと、社会学に変えました。当時の心の中を思い出してみると、「家の状況を何とかしたい!何とかしてよ!」だったと思います。
就職活動を途中でやめたと先ほどお話しましたが、この理由の一つには、私が就職したら祖父母はどうなってしまうのか、転勤したら祖父母はどうなるのかという思いがありました。もう一つには、祖父は戦前から戦後までずっとサラリーマンをして最後は自宅で中小企業診断士をしていましたが、認知症になった祖父を見ていて、仕事をして頑張っても年をとって衰えたら誰も面倒を見てくれないのかなという思いがありました。
最初は、家庭内の問題なのかな、おじいちゃん・おばあちゃんの事なのかな、親がどうにかすればいいのかな、と思っていましたが、さて自分が就職だとなった時に、自分の目の前の問題が解決していないのに、就職して頑張っていくという意義が全然見出せない。「この世間はなんなんだ、世間に対して腹が立つ」という心理状況にだんだんなっていきました。
そこで結局、進学を選択するのですけれども、この真の理由は何なのか。一つは、介護が理由で進学をしているということはありますが、それは自分自身の中でも、自分に対してごまかしている所があるし、誰にも言いません。親にも祖父母にも言いません。両親はちょっと疑問に思ったようなのですが、祖母は祖父の状態を両親に伝えることを躊躇しがちでしたので、両親は「何で進学するの? そんなに進学したいの?」と、とりあえず賛成はしてくれるものの、不思議そうでした。
もう一つの理由は、学生だったら時間が比較的自由になるというのがありました。しかし、誰にも相談せず一人で決めていますから、この決断で本当によかったのかなと、十数年近く悩むことになりました。
介護後、燃えつき
やがて祖父が亡くなり、そのようにやってきた私は、燃えつきた状態になりました。虚脱感を覚えました。祖父が死んでしまったことによって、それまでやってきた自分の人生、生活と大義名分を持ってやっていた研究も介護がテーマですから、それらの意義が失われたのです。
キャリア上の悩みに直面しました。介護をやってきたわけだから介護の路線に進むのか? それとも全く違う路線を行くのか? この辺はいろいろ悩んだ挙句、介護から全面的に離れることを選び、教育関係の仕事をしていきました。
そしてなぜ再び、研究者になったのか。やはり30代で祖母の介護を体験したからでしょう。このときは両親を巻き込んでやり、大喧嘩しながら3人で祖母の状況を見ていましたけれども、自分の仕事の仕方などいろいろ疑問を持つようになってきたころに、ちょうど大学時代の恩師との飲み会の機会がありました。恩師が創設した研究センターで働かないかと声をかけてもらい、2012年に研究業界にまさかのカムバックを果たしました。
今はいちおう介護経験を生かして研究をしていると言える状況になりましたが、当時は、そんな自分が信じられないという状態でした。
話を聞いてほしい、進路を相談したい
当時の心理状況についてお話します。
とにかく、世の中のすべてが許せませんでした。親に対して、何より自分自身の弱さ無力さに対して受け入れたり、許したりできませんでした。
なおかつ先述のように「あなたがしなくてもいいんじゃない」という言葉があったのです。この言葉の裏には、「若い人が介護などしているわけがない」、「していたとしたらおかしい」という先入観を感じてしまい、それを20代の前半にぶつけられると、つらいのです。
課題ポイント1です。その先入観自体はしょうがないけれども、それは正論なのですけれども、こちらはそれ以上話せなくなりがちです。まずは、自分自身も親も介護される祖父母も誰をも責めずに、黙って話を聞いてくれる人がいてほしかったです。
課題ポイント2です。結局、就職を止めたわけですが、その選択結果をずっと悩み続けたわけです。その進路選択の際に、もっと誰かと相談しながら決めていければ、もっと違ったのではないかなと思っています。
希望を保つ――介護のある人生にとらわれすぎない、心を少しでも開けておく
そんな私がどうやって「希望」を保っていたのか。介護を担った若者の一人として、何に直面したのか。とくに心理的な部分です。
「ほかの人と違う私の人生は、何かおかしいの?」という気持ちになったりする。周りに話すと「じゃあ、介護の仕事につけばいいじゃない」と、まあごく真っ当な答えが返ってくる。でも「あなたには介護しかない」と言われているように思えてしまい、私の場合はつらかったのです。
ただ、そのように言われても、自分自身の他の可能性を常に考えていました。その可能性を捨てないでおきました。介護のある人生にとらわれすぎないように、自己コントロールをしました。この辺は、一つの実践例として大事な部分になってくると思います。
それから、その時の心理状況として、周囲の大人、自分の家族もそうですし、介護している祖父母、学校の先生など、目上の人に対して、社会そのものに対して、どんどん不信感がたまっていきますので、心を閉ざすことはよくあることです。それはしょうがないことですが、心を完全にクローズしてしまうと、その後何かきっかけとか、分かってくれる人が出てきたときに、気づけない状況になってしまうと思います。私もそういう時期を過ごしてきたと思いますが、いつかは誰かが分かってくれたり話せる相手が見つかったりするかもしれない、それはもしかしたら齢をとってからかもしれないけれども、1ミリでも心のどこかは開けておけるといいなと思います。自分の中に隙間を保つ、という感じでしょうか。
そういったことを心がけてきて、先述のように、恩師から声をかけていただけるチャンスにつながっていったと思っています。
日本の若者ケアラーの実態――手が足りず、子ども・若者が動員されている介護現場
日本でケアや介護を担っている若者の実態は理解されているでしょうか。
公的なデータとしては、就業構造基本調査によって、最新のものは2014年になりますが、15歳から29歳の介護者が17万7600人と推計されています。5年に1度行われる調査で、次回は平成29年に行われますので確認しておくとよいと思います。一つ問題なのは、ざっくりと30歳以下で就業できる年齢でしかデータをとっていないので、14歳以下については分からず、子どものデータがない点です。
家族介護を担う子どもや若者に対して、日本国における公的な呼称はとくに定められていません。そこで一般社団法人日本ケアラー連盟が提案している定義を私は使用しております。家族介護を担う18歳未満の子どものことを「ヤングケアラー」、18歳以上おおむね30代までの若者であれば「若者ケアラー」と呼んでいて、イギリスの定義をもとに作ったものです。
若者ケアラーの年齢上限はざっくりしたもので、「若者って誰?」という明確な定義が日本にないところが、福祉政策上の問題となっています。
「ケアラー」とは、「無償で身近な人の日常生活をサポートしている人」となります。これは、イギリス英語です。アメリカ英語ですと、ケアギバーという言葉になります。ケアラーの定義には、日本語の「家族介護者」が含まれていますが、もっと広い範囲をカバーしており、友人介護者も含まれます。
子ども・若者による介護、「ヤングケアリング」とは何でしょうか。基本的には、「介護やケアが必要とされているところに、何らかの理由により手が足りていないために、子ども・若者が動員されている状況」です。先述のケアラーの定義はケアラー自身の観点から見たものですが、ヤングケアリングが存在している状況を外側から見るとこのようになります。ごく当たり前のようですが、ヤングケアラー・若者ケアラーへの支援を構築し、実際に支援を実現する際に、かかわる人間すべてが認識すべき重要な点だと思います。その理由は徐々にお話できればと思います。
日本では、若いケアラーへの注目は、2014年を境に高まりました。
それ以前も「若年介護者」という言葉が使われたり、若い年齢層の介護経験者について『AERA』に掲載されたりしてはいましたが、若いケアラーは知る人ぞ知る存在でした。しかし2000年代以降、若い人による介護体験がもとになった出版物もいくつか出ています。
2013年に初めて、「介護なんでも文化祭」という上智大学でのイベント内で、ヤングケアラー自身が公式に体験を語る企画が行われ、10代から自分のおばあちゃんをケアされた方が経験をお話しされました。翌14年2月に成蹊大学でヤングケアラーを研究されている澁谷智子先生が企画されたシンポジウムが行われました。このイベントには非常にたくさんの方が参加され、メディアの注目が集まり、当事者への取材内容が連続して新聞雑誌記事に取り上げられたり、同年6月にNHKの『クローズアップ現代』で報道されたりしました。この時に「もはや若いケアラーの問題は他人事でないよね」という認識が広まり始めたと思います。
子どもや若者が介護やケアを担っている背景を考慮した支援を
現状における課題についてお話します。
まず何より、認識が不足しています。
2014年以降のヤングケアラーや元経験者に対する取材は一時盛り上がりを見せましたが、現在は波が引いた感じがあります。ただ、今でもぽつぽつと取り上げられ続けてはいます。それに対して、世間での認識はどうなのでしょうか。
報道はやはり影響が大きい。それまでまったく福祉にタッチしたことのない方々にも、ヤングケアラー・若者ケアラーのことが伝わっていきました。そしてどういう反応が起きてくるかというと、ネットなどで私が実際に見かけたものを若干アレンジしてお伝えしますと「大変だよね」「えらいよね」「若者にケアさせるのはよくない!」「未成年による介護は法律で禁止しろ!」等がありました。いわゆる紋切型の反応と言えるかと思います。これって何なのか、後で考えてみたいと思います。
日本の社会構造的に考えて、もはや子どもや若者にとっても介護は人ごとではありません。しかし、従来の中高年による家族介護をモデルにつくられた制度においては、子どもや若者の介護者はマイノリティになってしまいます。日本社会のなかでも認知されていないし、福祉の中でさえもマイノリティです。
ですから一つ目の課題として、「子どもや若者が介護やケアをしている事実の受け入れ」が挙げられます。「介護しているんだ、いいよね」という意味ではなく、介護をしている事実を頭から否定しない。まず、それが認識を広めることにつながると思います。
ヤングケアリングはなぜ起こるか。介護やケアが必要とされているところに手が足りていないからです。それを、未成年の介護を法律で禁止したらどうなるのでしょうか。これは、介護を担っている子どもや若者がいちばん気になるところではないでしょうか。自分の手から介護やケアを取り上げられたら、嬉しい人もいるでしょうけれど、でも取り上げられたら自分の家族がどうなるか分からない、心配だという人もいるかもしれません。それなのに、ただ「可哀想だから」と一方的に取り上げたらどうなるのでしょうか。これは支援を考えていく時に大切なポイントになってくると思います。
二つ目に、介護制度の不備という課題があります。これまでの家族介護のイメージとは、中高年の方が家庭で高齢者の面倒をみる、というものです。介護は主に女性が担ってきたので、男性介護者はマイノリティになってしまうわけです。介護をめぐる全ての制度が、従来の介護のイメージを基に作られています。両立支援も高齢者を介護する中高年世代に焦点をあてて作られています。
そういった中では、子どもや若者が介護役割を果たしたとしても、介護サービスの利用等において決定権が無いことが考えられます。子どもや若者は、親など保護者に経済的に依存していますし、まず本人たち自身がケアを必要としています。そうしますと、介護制度に対して発言権がそもそも無い。介護をしていても、子どもや若者は介護制度にタッチできないわけです。
三つ目の課題として、子どもや若者にとっては教育制度が大事ですが、ここに大きな不備があると考えます。そもそも子どもや若者と、介護がイメージとして全くつながっていない。子どもや若者はケアされる側としてしか考えられていないので、教育制度もそれに則って作られている。学業とケア、介護との両立というのが、そもそも教育機関で想定されていませんので、ケアと教育の両立支援なんて無い。仕事との両立支援との大きな違いです。
しかし子どもや学生には、授業への出席以外にも、いろいろな義務があります。代替してもらえないという特徴があります。だから、学業に時間を割けないことによって、人生の形成に大きな支障が出てしまいます。
家族に問題をかかえる若者・子どもを支援できる制度を
日本における「支援」の現状について確認します。
「若者・子ども支援」と「介護者支援」は全然つながっていません。介護者支援は中高年と女性が中心です。今でも男性介護者とシングル等が何となく省かれてきている。だからこそ当事者活動が行われるわけです。若者をターゲットにした支援は日本にありますが、引きこもり・ニート・メンタルの問題など、本人の問題とみなされないと支援の対象となりません。
今後の支援のポイントは何か。
すでにある支援領域をどう使っていくか。介護領域の専門家や介護者への支援者たち、介護について詳しい方たちに、「子どもや若者という、介護を必要とはしていないけれども介護している人たちがいるかもしれない」と目を光らせてみませんか、という認識を広めていくことです。
いっぽう、若者を支援している人たちには、逆に高齢者や障害者に対しての理解や制度への知識が十分でないことがあります。障害を持っている若者など、当事者であればまだしも、その若者の家族に高齢者や障害者がいるケースになると支援のあり方が分かりにくいようです。
学校でヤングケアラーに気づいた先生方の連携と相談できる場を
もう一つ。教育機関でできることがあります。
子どもや若者が介護していることが見えてきている人たちが、とくに学校の先生方にいらっしゃいます。学校にいらっしゃるカウンセラーや、キャリア支援をしている方で、気づく人が今までもいて、相談を受けたこともあります。ただ、まだその気づきを生かせていません。例えば、大学などで、学生相談室の方が気づいても、個人レベルの対応にとどまってしまうことがありますが、本当は学校全体のスタッフが連携できるとよいと思います。
なおかつ、秘密を守ってくれて、本人の希望があったら他部署や教員と連携をとってくれるような仕組みが必要になると思います。なぜなら、介護をしていることが不利に扱われるケースが多いからです。介護をしながら仕事をしている場合にパワハラを受けてしまうことがあると思いますが、専門学校や大学・高校で、介護をしていて授業やゼミに参加できないため、先生の心象が悪くなって、退学や中退に追い込まれてしまった人たちの話を聞いたことがあります。
介護していると教員が知っていても、ゼロトレランスで、つまり一切寛容に扱わない、他の生徒や学生と「平等に」扱わなければいけないとして対応した場合、結果として「加害」が生じてしまう、アカデミックハラスメントが発生してしまうことがあります。教職員の側にも限界があり、先生個人のレベルで対応したとしてもこれでいいのだろうかと悩んでしまうこともあるでしょう。今後は、職務上個別に仕事をしていて、問題に最初に気づくことの多い教員自身が、そのことについて相談できる環境が、学校内には必要になってくるでしょう。
学生に、仕事と介護に関する制度を知る機会を
仕事をしている若いケアラーへの支援。仕事との両立支援の話に近くなりますが、若い場合、それこそ正社員や正職員は日本社会では恵まれている方だと思われやすいですが、新人などキャリアが浅い場合は、本人が介護保険制度や介護休業制度を知らなかったり、使用者側から「新人のあなたを他の社員と同様には扱えません」と言われてしまい最初から制度を使うことができなかったりという、法律的にはどうなんですかということが、事実起きています。また、キャリアが浅いうちは、がむしゃらに働きスキルを身につけることが要請されますから、介護との両立はかなり困難です。若者はこうした状況への対処が難しい。
本当に最初のステップとして、介護と労働に関する制度自体を学生のうちから知る機会が必要です。企業では、人事関係の部署等で、介護制度についての研修を設けているところはありますが、自営業や非正規労働者はそういった制度で守られていませんから、学生のうちから必要だと思います。
介護をしている子どもや若者が安心して相談できる場所づくり
これからを生きていく子ども・若者を支えるためにどうしたらよいでしょうか。
学業と介護、仕事と介護、就職を目指しながら介護をしている子どもや若者への支援をどうしたらよいか、遠い目標に見えるかもしれませんが考えておきたいと思います。
子どもや若者が所属しているところはどこでしょうか。介護者支援は、地域、コミュニティベースが重視されて成果を上げてきましたが、子どもや若者のコミュニティは学校や職場なわけです。そこが安心して相談できる場所なのか、という問題があります。守秘義務と権利の問題が、子どもや若者に対してきちんと保障されているかが大事です。なぜなら家族問題につながってきたりするからです。現状では、介護について安心できる相談先は、けっこう齢のいった大人であっても外部に相談せざるを得ない状況があります。しかし、子どもや若者は外部につながることは非常に難しいことですから、まずは学校、その次に職場や居場所でしょうか、とくに若い人たちを考えて、どういう場所を作っていくのかという視点が必要だと思います。
――井手大喜さんの講演――
ヤングケアラーの自分が見えたこと、感じたこと、そしてその時何を求めていたのかということをお話させていただければと思います。お話させていただくときに、今より無敵だった介護当時の自分に出会えることを楽しみにしています。
高校生、高齢者と障害者の介護を担う
始まりは16歳、高校生になるころです。介護と看護の区別もなく始まりました。父が脳梗塞で倒れて、3カ月のリハビリを病院で行って、退院したら、高校生であった自分は今までと同じような生活が来て、当然また学校に通えるし、お父さんは復帰したのだから仕事にも行けるしお金の面も問題ないだろうという簡単な気持ちでいました。
父はそのリハビリが終わって、在宅となって、一度は職場復帰しました。けれども、職場から帰って来る時、最寄りの駅から家まで帰ってこれない、お母さんのところに「どうやって帰るんだっけ」と電話がくる。また、「自転車で転んでしまったんだけれども、どうしたらいい」とお母さんのところに電話がくる。父親のことを思い出せば、男性一般的にそうなのかもしれませんけれども、世間体を気にして、倒れたままでいる姿はありえないのですが、そうしたことが起こり始めました。今思えば、脳梗塞から何か良くないことが起き始めていると気づくのでしょうけれども、当時は自宅には母と自分の2人がいましたが、お父さんに何か次にあるのではないかとはつながらなかった。
父は職場復帰して数ヶ月間は会社にいられたのでしたが、会社の同僚から電話があったのが決定的だったかもしれません。「復職してからおかしいですよ」という話を母が職場に行って聞いてきました。父はそのままでは仕事が続けられなくなり、職場からフェイドアウトしていったのです。最初から徘徊があったわけではないのですが、今思えば、言動がおかしい、認知症になりつつあったのかなと思っています。
そうして父との関係が変わりつつある中、父が背負っていたことを自分が担うことになっていきました。自分の姉が、中度の知的障害を負っていまして、自分はその当時16歳になるまでは、姉がそういう障害らしいことは両親の問題であって、弟である自分はあまり意識してこなかったのですが、父親がそうなってからは、姉の問題をお母さんと自分が考えなければいけなくなりました。
足りない知識とネットワーク、介護やケアを家庭内で抱え込み
ヤングケアラーの経験は、私の場合は就職前までの話が中心になります。
まず当時の私は、知識不足でした。先述のように父が退院したら以前と何も変わらないと思っていましたし、姉の存在によってこれからどういったことが起こるのかまったく想定できませんでした。
当時2002年、介護保険がはじまって2年経っていましたが、今とは比べようもないくらいデイサービスやショートステイという言葉は世間に出まわっていませんでした。高校生にとって市役所は縁遠いところでした。当時は「行政」という言葉、「行政的な支援」「行政サービス」といった言葉が出るたびに何を意味するのかと混乱しておりました。
姉は中度の知的障害で、知的障害というのは学校で特別学級の同級生はいましたけれども、自分の家がまさかそういう状況になるとは特に意識もしていませんでしたし、「成年後見」という制度についても、姉は自分で外に出ることはできるので化粧品の契約をしてきてしまって、職場でお金を借りてくるように仕向けられ借金をしていて、何の権限もない人だと解決できないということで、「成年後見」という制度を教えられて初めて知りました。その当時、高校生から大学生の自分には「?」だらけでした。
ネットワーク不足でもありました。介護を知っているのは、友達ではなく、友達の親世代なのです。大学の友達に「サークルとかに入らないで何やっているの?」と言われ、授業が終わって「一緒にどこか行こうよ」と誘われ、親父の状況を話して自分は外になかなか行けないと話すと、そういうことは父母が遠方にいる祖父母にしていると言われました。自分が話すべく相手は、友達の親世代なのかな、そこの世代に話せば共感や情報が得られるのかなと感じていました。
自分の父親がオムツをしている、徘徊している、夜外に出て行ってしまうとは、なかなか言えない。かっこよくはないですし、言っても仕方ないなと。
地域の人とのネットワークはどうだったのか。自分は社交的でないわけではなく、地域の方たちとよくお話はしていましたので閉ざされていたわけではありませんが、挨拶をして、その次に自分の家族がこういう問題を中でかかえているとつなげていくスキルはなかった。母親も同じように、家の中の状況を外で話さず、家の中でどんどん抱え込んでいく状況でした。
行政に認められない若い介護者
「主たる介護者」、「従たる介護者」という言葉があることも、その当時はわかりませんでした。
介護の時間配分は、母親がだいたい日中に介護をして、僕が夜に介護をする。だいたい若者が夜を見るのです。母親が寝てから、深夜帯は自分が見るわけです。よく12時間と12時間介護をやっていたなと思います。母親とどちらが「主たる介護者」か「従たる介護者」かは、実際は無いわけです。ほぼ母親と均等に介護をしていたつもりなので。
でも、自分は家の中ではお母さんと同じように介護していながら、市役所の窓口に行っても、お父さんが通っていたデイサービス事業所に行っても、ケアマネージャーさんに家に来ていただく場合も、また障害者手帳を取得して就労サービスを利用をする姉と一緒に施設に行っても、お父さんが入る施設に行っても、自分が求められていない。家の中ではお母さんと均等に介護をしているのに、外に行くと自分は全く相手にされない。「あなたではなく、お母さんと話をしたい」と言われて、でもお父さんやお姉さんについて自分も母親と同じように考えているんだけれども、と歯がゆい思いをしていました。
職業選択を認められないギャップ
ヤングケアラーとしては、職業を選べませんでした。
大学ではとくに留年もせず進んでいけましたが、他のみんなはだいたい大学3年生になると洋服をリクルートスーツに変えたりして大学のこれまでと違う建物に行っているなと気づき、それはキャリアセンターというらしいと後々気づきましたが、当時はそこで何が行われているかわかりませんでした。自分は授業が終われば一目散に家に帰りたいという気持ちもありましたし、就職という言葉は頭の中にはありませんでしたのでキャリアセンターには行きませんでした。
学校から1時間位で帰って夜6時ごろご飯を食べて、夜8時・9時位から母親から介護をバトンタッチというのが、自分が家庭を支える上で必須でしたので、朝9時から夕5時以外は外に出られないと思っていました。
「キャリアセンター」から徐々に「インターン」という言葉が友達から出てきたり、「内定をもらえた」という友達が出てきたり。自分は家と学校を行き来する人生なのに、友達は社会からハンコをもらい始めたんだな、認められ始めたんだなと感じました。でも自分は誰からも、先述のように自分が家庭の中で家族にやっていることを外で訴えても認められないし、自分が社会に出ていくことは今認められないんだなと、同級生とのギャップをすごく感じていました。
いつ終わるか分からない介護を抱えながら、職業を選ぶことをこの時点では手放しました。
お金の問題に戻りますけれども、お父さんが抱えていたことを自分がそのまま抱えることが当たり前になっていました。何ら疑問を当時は持てないまま、だるま落としのように、お父さんが負担していた問題が自分に落ちてきました。お母さんはそのまま姉のサポートをしていたと思いますが、自分が姉と一緒に障害者手帳の取得に行ったりするようになりました。これは父親の介護とは別にやっていたことで、障害者介護と高齢者介護の知識とは全く違いますし、おかれた状態や身体的状態も日々変わって、介護に追われていた日々でした。
選挙に21歳で立候補――在宅介護からの視点を外に訴える
そんな最中の2006年、なぜ選挙に出ようと思ったか。就職から遠ざかり、外の世界に出ることから遠ざかっていた自分を押し出す、何かきっかけがあったのか。
選挙前には選挙広報が配られます。そのころ介護がきつくなっていて、お父さんは特養(特別養護老人ホーム)に入らないといけないねという時もあり、「施設介護」という言葉もある一方、自分がお母さんとやっていることは「在宅介護」だと意識するようになっていました。
そんな中、選挙広報に掲げられていたのは「特養の整備を前進させます」でした。「あれ、特養の整備もそうだけれども、いま自分は在宅介護をしていて、在宅介護にこそ問題があるのではないか」と思ったので、そこの選挙に既に出ている方とは「自分の視点は違うんだな」と気づきました。
「では自分の視点を外に訴えていくためには、やはり自分がやらなければいけないのではないか」とぽっと出てきたことが、21歳の時、自分が選挙に出るきっかけとなりました。
でも何もない介護しかやっていなかったような人間が立候補することに「壁を感じなかったのか」とよく聞かれます。「立候補」「政治」「選挙」という言葉にとくに興味は無かったのです。在宅介護をしているという切り口だけでこの世界に突入することを考えましたので、当然、「自分の視点を外に出したい」とお話しさせていただきましたが、どういった場所なのか、選挙に出てどれくらいのリスクがあるのか、金銭的なリスクや、家が社会からどういうふうに見られるようになるのか、周囲の反応がどうあるのかとか、全く意識しなかった。今考えれば選挙に出ていないくらい怖いと思うかもしれませんが、まったく無知のまま出ました。
ヤングケアラー支援制度が横につながる行政、ヤングケアラーを含めた「地域」、見えない存在からのアピールをつかんで
市議会議員として7年ぐらい仕事をさせていただいている中で、ヤングケアラーがどうしてこういう問題になっているのか、気づいたことをお話しします。
縦割り行政の弊害が顕著にあるだろうと思っています。「高齢者を介護する若者」の担当課はありません。高齢者向けの施策を担当する課はあります。また、「障害者を支援する若者」を担当する課はありません。障害者の方を支援する担当課はありますけれども。自治体ごとによるとは思いますが、やはり問題に対して担当する課がまたがると、横のつながりがあると役所は答えるでしょうけれども、担当が違うと人も違い、そして問題の横にある問題にはなかなか気づこうとしません。
また、松﨑さんのお話にもありましたように、本人に問題がなければ、どの支援も当てはまらないのです。行政サービスが行き届かないところになります。スポットが当たらない。なので、自動的に社会から見えない存在になっているのではないかなと思います。
自分も介護をしていた当時、いろいろなサービス事業所の方や行政の担当職員の方から自分が見えない存在になっているなら外に出てみようと思ったので、とにかくアピールしました。今なら変だと思いますけれども、「この事業、この施策はどういう意味ですか」とわざわざ聞きに行ったり、逆に職員さんに自宅に来てもらうために、草加市の高齢者住宅改善整備資金の融資制度を利用しようとしたり。介護保険の住宅改修とは別にもっと在宅で介護できる環境を整備したいと思ったので。いよいよ職員さんが来てくれるという時に、自分のつらさをインフォーマルな会話のなかでいろいろアピールしました。でも、それを汲み取って何かにつなげるということはしていただけませんでした。
このように社会から見えない存在になっていただけでなく、自分からも見えない存在になっていました。介護が終わった時に、それまで閉ざされていた日々でも、明日からもまた生きなければならず、どうしますと選択を迫られるので、いつまでもヤングケアラーのままでいるわけにはいかず、次の人生のステップを踏み出します。次のステップを踏み出せば、もう過去の話をするような状況ではなくなりますので、いつまでも引きずっていられませんし、それでは生きていけないので、ヤングケアラーだったことを自分から脱ぎ捨てて社会に出ていく。ですから自らも見えない存在になってしまうのです。
メディアへの露出が増えた時に、ヤングケアラーに対して、「若いのに偉いね」「君が見なければならなかったの?」「自分も若いころ親の面倒を見たよ」といった言葉はいただいたのですが、こうした言葉ではなくて、 とにかく自分が介護をしたことによって「よーいドン」でスタートすることができなかったキャリアに関する相談を誰かにしたかった。キャリアが崩れているわけなので、とにかくそこに関するアドバイスがほしかった。
いま自分が仕事をしていて思うことですが、高齢者や障害者の施策に関しても、「地域」という言葉が頻出しています。これから注意して見なければいけないのは、その「地域」に「ヤングケアラー」が含まれているかどうかだと思います。そもそも「ヤングケアラー」という考えが無い中で、「地域」に福祉が移行したとしても、ヤングケアラーはこのまま社会から見えない存在になってしまうのではないかと危惧しています。
「子どもの貧困」を手がかりに「ヤングケアラー」を見える存在に
他の自治体でも行っていると思いますが、草加市で平成29年度から「子どもの貧困」に関するアンケート調査を始めます。ヤングケアラーと少し遠い話と思われるかもしれませんが、ヤングケアラーになった時に介護が始まったことによって貧困に陥るという、ケアが貧困の原因と考えられることもありますので、「子どもの貧困」というテーマで実体調査を行って、ヤングケアラーが見つかっていく――自然と見えなくなっているので「見つかる」という言葉を使わざるを得ないのですが――、見える存在になっていくのではないかと思っています。
「子どもの貧困」という問題は今どんどん進んでいるのに、「ヤングケアラー」という問題はあまり進んでいません。子どもの貧困という切り口だと世の中はこれだけ、メディアも含め、行政の施策化も含め、問題になるのに、なぜヤングケアラーは問題にならないのかと、疑問に思いながら活動を続けています。
樋口)高校生の時からそういう経験をなさって、家族のなかで若い人が「自分が担わなければ」という思いをいだき、それを超えられて、いま行政に対する市民側からの活動をしていらっしゃると思います。ありがとうございました。
――パネル対話――
樋口) 松﨑さんから見て、井手さんのお話はいかがでしたか。
松﨑さん) 違うところもありますが、ほんとうに共通点が大きいです。ただ私の介護対象は祖父母で、親御さんを介護するケースとはだいぶ事情が異なってくるところはあると思います。
とくに貧困との関連性については、これから長らく日本でも議論されていくことになると思いますが、祖父母を介護している親をサポートする人も、祖父母のどちらかを介護している祖父母のもう片方をサポートする人も、その場では貧困に直接つながっていないかもしれませんが、その後のキャリアが影響を受けるという点は共通ですから、そのヤングケアラーないしは若者ケアラー当人が貧困状況で不利になる可能性はすごくあると思いました。
井手さん) 「若者支援」は本人の問題とみなされないと支援対象とみなされないとのお話がありました。社会から見てもらえない存在が、社会から見てもらえるには何をすべきだったのかなと思いました。
松﨑さん) やはりそこなんですよね。ある日、家族のことを本人が勇気をふりしぼって言い出した時に、そこをつかまえることが若いケアラーを支援するポイントだと思います。当時、私も井手さんもいろいろな大人に接してはいるのです。ただ誰もそこをつかまえることができなかった。当時の時代状況を思えば無理もないことだとは思うのですが。そこにヒントがあると、私は20年前から常に思ってきましたが、まだ答えがないです。
――グループ発表とゲストのコメント――
~グループ対話を行い、それを会場全体で共有するために発表しあい、ゲストにコメントいただきました~
(参加者)「グループの4人がとても濃い体験をしていることが分かりました。ヤングケアラーとして当事者の方、地域で子どもさんから高齢者まで支援してきた方など。
本日のお二人のお話にとても共感するという声がありました。自分がヤングケアラーとして、人に言っても分かってもらえなかったこと、思っていたことを言葉にしてもらえたという話もありました。
ケアマネージャーが入るのだけれども、ケアマネージャーは『主たる介護者』が対象になっていて、ヤングケアラーの存在は落ちていってしまう。
お二人の話のなかでも、介護していくなかで自分のキャリアをなかなか築けないという話がありましたが、もっと働き方の在り方を多様に考えていく必要があるのではないか。若い人がキャリアを築けないこともつらく、特養は働けない問題を解決する一つではあるけれども、特養に預けなくても自宅で働けるような社会制度も必要ではないかという話もありました。
家族の問題はそれぞれ違うわけで、介護保険はほんとうに一部のサービスしかできないという話もありました。
お二人は自分の経験をキャリアにつなげられたのだと思います。ところがケアラーを実際に長くやったとしても、それを社会につなげないまま生きていっている人たちもたくさんいて、貧困に至ってしまうのではないか。そうした不安を抱えている人たちがいる。もっと多様な働き方が必要という話もありました。」
「私自身が今ヤングケアラーのような立ち位置にいます。4月から大学2年生です。まず18歳から20歳までの、子どもではないけれども成人の定義にも入らない辺りが一番見られていないのではないかという話が出ました。19歳と20歳の違いも出ました。19歳の私は、お二人の話にもありましたように、何も権限がないのです。親の意見が違うと思っていても、どこに行っても私は相手にされないのです。でも20歳になった瞬間に、親が何もしなければ、私に全ての責任が降ってくるというところが、大きな違いではないかという話が出ました。
子どもの貧困との関係がとても上手くつながってくるのではないかということで、例えば、一人親で、もしお母さんが病気になってしまったら、その子どもはどうやって生活していくのか、そこでまた貧困が生まれるのではないかという話がありました。
ケアラーの支援が最も重要ではないかという話も出ました。
なぜ子どものケアラーが増えているのかというところで、介護者不足。昔は、兄弟は7人・8人が当たり前でしたが、核家族化や少子化により一人しか子どもがいない等で子どもにしわ寄せがきているのではないかという話もありました。
どこまでが介護で、どこまでがお手伝いなのか、その線引きができないのではないかなという話が出ました。」
「2つの質問にまとめました。
まず、現実にここにヤングケアラーの方がいらしたとき、それを私たちが知った時に、いったいどういうことができるのか。病人だったら救急車を呼ぶとかできるのですが、本当にこの小さな子が、若い人が、現実に介護をしているのだ、学業などいろんなことに支障を来しているのだとわかった時、私たちは何ができるのでしょうか。
もう1点は、ヤングケアラーの方々自身がつながれる場所があるといいというお話がありましたが、日本や世界の中でどのくらいどのように形成されているのかうかがいたいと思います。」
「私は病院で勤めているソーシャルワーカーです。ほかにご自宅で介護をされていたり、議員さんがいたり、それぞれの立場でお話しました。
私の病院は重症児レスパイト事業もしていて、医療ケア児の兄弟は、未就学時の子どもも多く、子どもが子どもらしくいるためにどういうふうにしたらよいのか悩んでいた部分があります。また、緩和ケア病棟もあるので、看取っていく中のケアをもしかしたらそんなに担っていない若い世代の方についても、関わってきたことをどうやって認めてあげたらいいのかなと日々思っていました。また、未就学児や小学生のときから、兄弟の介護を見るというよりは、介護が必要な兄弟がいることで我慢することも多いのかな、という点を共有させていただきました。
私も支援をしている中で、10代の子どもがキーパーソンにならざるを得ない環境で、どういう退院支援をするのかという経験をしたこともあります。病院はどうしても医学モデルで結果を出していかなければいけない結果ありきのところですけれども、支援者は生活モデルというところでナラティブに聞いていくことがすごく大事、物語のように自分たちの言葉を話せる環境づくりに支援者は心を寄せなければいけないとお話しました。ソーシャルワーカーはどうしても退院ありきの支援が増えていますが、ケアラーが10代であろうが、20代であろうが、若い世代であろうが思っていることを支援者は聞くことがすごく大事だと考えています。
ケアマネージャーや、病院のソーシャルワーカーなど、病院で支援している方は、まずは思いを聞き、そこから一緒に判断できる方、伴走できる方をコーディネートしていくことが支援者として大事なのかなと、今日お話を聞いて思いました。
ケアラーに対して、あなたたちがいたことですごく助かっている、一助になっているということを、ケアラーを支援する者が声に出して認める、認識することが大事なのかなと思いました。支援者は伴走をバトンでつないでいかなければいけないかなと思いました。
就労できる支援体制という話が出ましたが、支援の施策をつくることも大事だと思いますが、語れる場と、そこから自分たちがどうしたいかがつながる場があるとすごくいいのかなという話が最後に出ました。」
「いるはずのケアラーが外に出てこないのはなぜか。
ケアラーという言葉自体を知らなかった。
中高年の女性の方対象の支援体制という話もあり、私も当事者なのですが、私のような中高年で独身女性を支援していただきたいなという思いもありまして、井手さんの思いは齢をとっていてもほんとうに同じで、制度の闇、解決できていないところなのではないかなと思いました。
ボランティアは暇な人が多くて、シニアな方がキャリア形成とかに寄り添うのは難しいのではないかという話も出ました。
高校生や大学生の現役でケアをしていらっしゃる方はいますけれども、自分の状況を身近なお友達に話せるような環境をみつけるのは本当に大変なのだろうなと思います。ナラティブということで、自分の思いをさらけ出せる場所に、もし身近なお友達がいらっしゃらなければ、そういった場所に来て声をあげられればいいなと思いました。
どう支援したらよいのか。医療と、介護と、障害など分かれて支援制度があるようですが、これからは、つながっていかないと本当の支援にならないのではないかと話し合いました。」
「お二人から出していただいた課題のなかで、なぜヤングケアラーが見えない存在でいるのか。
一つは、きちんとした統計的調査が行われていない。あくまで推計値でしかないこと。
日本ケアラー連盟ヤングケアラープロジェクトでは、2年前に新潟県南魚沼市で小中学校の先生たち対象に全数調査を行い、(回答者の)25%の先生がヤングケアラーと思われる子どもに出会ったことがあるということです。
また都市部というくくりで、神奈川県藤沢市では去年、全数調査をし、(回答者の)約半数の教員が出会ったことがあるという結果が出ています。このなかには、シングルマザーのお母さんが心を病んでしまっていて、子どもがお母さんを見ていて、お母さんが死にたいというので心配で学校を休んだケースがあります。また、外国につながる子どもが、言葉が十分でない親御さんの通訳をして病院や役所に行くときに学校を休んでいるというケースも。そういった実態を分析して、こういう実態があるという客観的なデータが出ていけば、社会的な認知の底上げになるのではないかという話をしました。
そういうことを通して、そういう存在がありえると、学校の先生や市役所の担当部局だったり、いろんな福祉に携わる人たちが認識していくと、あれっと思っていることの根っこにあることはこの問題なのではないかとつながっていくのではないか。
縦割り行政の弊害をどう乗り越えていくか。たとえば1つは、ソーシャルワーカーの役割は大きいのではないか。その方たちがつなぎ役をしていく。
学校や幼稚園・保育園の先生は子どもたちと最も接していると思います。学校の先生たちは非常に忙しいので気をつけないとまた新しい課題を背負うのと言われかねませんが、丸投げするというわけではなく、知識を持っていて気がついたり、この子は宿題をやってこないというとき、問題児ととらえるのではなくて、この子は何か問題を抱えているのではないか、何か困っているのではないかという目で見て、ケアラーの存在に気がついたら、そこから支援につないでいく。こうすればいいんだよということを、保育園や幼稚園、学校が気づいていくと、支援の流れは、今ある制度を生かしていく中でできることがあるのではないか、そんな話をしました。」
樋口)最初にわかりやすいところで、ヤングケアラーのネットワーク形成あたりのことについて、いかがでしょうか。
精神的な二次被害を受けずに話せる場を
松﨑さん) 今のところ、日本で唯一毎月の定例会を行っている当事者を含めた会は、横浜の元町で第4水曜日の夜7時から9時までやっている「横浜ヤングケアラーヘルプネット」という所があります。ヤングケアラーや若者ケアラーの経験者でなくても関心のある方は参加できるようですので、よろしければ行ってみてください。フェイスブックのページがあります。普段、認知症カフェをやっているところをお借りして、ケアマネさんも2人支えに回っている、そこが長く続けられるポイントのようです。2015年頃発足し、2年目に入ろうとしている会です。
先ほどお話した2013年の「介護なんでも文化祭」での企画が2014年には「ケアフェス」という名前に変わり、私も登壇させていただきました。2013年には「やっぱりこういう人たち、いたんだ!」というインパクトのある当事者同士の初めての出会いがあったそうです。2013年のイベントでは、私は残念ながらその場にいませんでしたが、その場にいた人が今日も来てくれています。そのケアフェスが定期的に行われる見通しがあやしくなっていますが、そんなふうに年1回でも集まれるといいなと思います。
最近では、ごくインフォーマルなネットワークで知り合った人同士がいろんなところで会ったりしています。ただ、会として発足しているのを、自分の地元で見つけるのが難しいとおっしゃる方はいます。逆に、地元で参加してしまうと、介護中であったりその後であったりしても、「ああ、あそこの家は」という顔で見られて家族に迷惑をかけるかもしれないとか、かつての同級生にそこで会うのがいやだとかで、遠隔地で開催されている会にわざわざ参加される方もいらっしゃいます。まだそういう環境であることをご承知おきいただきたいと思います。関西でもインフォーマルな集まりは少しあります。
ただここでの問題は、横浜みたいに定例会でオープンに行われていないと新規の方が来られないことです。新聞記事にとりあげられたことによって、それを見て「私って、もしかして、これなんじゃないかな。行ってみようかな」と来られた方がいらっしゃるわけだから、そういう場所を設けることはとても大事だと思います。
「安全に」――「精神的に二次被害を受けない」という意味での安全性を含めた上で――お話ができる、先ほどおっしゃった方がいらしたようにナラティブに話をすることが可能な場がこれから増えるといいなと思います。
世界での形勢については、研究に早く着手した国は、イギリス等になってきます。イギリス等では、20年位前から、最初は一部の自治体が数年間のモデル事業として、NPO法人的なヤングケアラーを支援する専門団体であるヤングケアラープロジェクトによる活動を支援し、今は各地で放課後ミーティングや年齢層を区切った子どもや若者たちのミーティングが毎週定期的に行われているということです。これは、自主的な当事者会というより、訓練された専門家やリーダーが必ずいるもので、このプロジェクトを卒業してリーダーになっていくケースもあります。
「第1回国際ヤングケアラー会議」がスウェーデンのマルメで今年5月の終わりごろに開かれるそうです。「第1回」ということで、特筆すべきイベントなのではないかなと思います。
樋口)井手さんの最後のお話でも「地域にヤングケアラーは含まれていますか?」という質問があり、松﨑さんがおっしゃったように離れた所の集まりがいいという部分もあるかもしれませんけれども、やはり地域のなかで見えてくるといいと思います。井手さん、ヤングケアラーの立場で地域とのつながりのご経験や、こうあったらいいということがあれば補足を。
井手さん)その当時だけを考えれば、地域でつながりたかったよりも、同様の経験をしている子と話題を共有するよりも、何より「自分はどうしたらいいんだ」というアドバイスが欲しかったかなと思っています。当然、孤立していたので、話題を共有したり、いろいろ悩んでいることを共有したいということもあったとは思いますが、「いま介護をしている自分は果たしてこの後の人生でフェアな立場にいるのか」、そこだけを一番悩んでいたように思います。
樋口)あと、ヤングケアラーがいることを知った時、どうすればよいのか、何をすればよいのかという点はどうでしょうね。
聞く――正論を返さず、多様な答えに開かれた問いかけを
松﨑さん)今日のキーワードの一つになってくる部分だと思いますけれども、井手さんのお話にもありましたように、「聞いてほしい」というケアラーの思いです。
この「聞いてほしい」という言葉は何なのか、自分の経験を振り返っても思うのですが、聞く側にけっこう準備が必要なのです。今でもそうですし、20年前でもそうですが、驚きが先に来て、「え、どうしよう」という当たり前の反応が出る。
やはりキャリアについて教えてほしいという気持ちもある。何らかの答えは欲しい部分もある。
でも、先に正論だけを言われてしまうと、話しをすることは無理になりますね。これは、イギリスに「ヤングケアラーが学校に望むことトップテン」というリストがあり、その中にもあるのですが、「私たちのケア責任というものが学業等に影響を与えることを知ってほしい、私たちが家庭でどういう状況なのかを先生の側から聞いてほしい、なぜかというと、私たちは恥ずかしくてそれを言えないことがあるから」とイギリスの子どもたちがまとめたものがあります。
これはどういうことかなと考えていくと、こういうことかなと思います。世間的に正しいとされる意見であっても、それをパッと言われてしまうと「私のこの状況あるいは私の家族が置かれている状況というのは、どうやら間違っていることとみなされてしまうらしい。ということは、詳しく話してしまうと、私の家族たちの恥というものが晒されてしまうことになるらしい。これは危険ではないだろうか。私も傷つくし」と防御反応が起こってしまう。
そういう反応を起こさないためには、「答えをいきなり言ってあげなくてもいい」という考え方が大事だと思います。すべてのヤングケアラーや若者ケアラーに、同じ経験や回答があるわけではないのです。たとえば井手さんはキャリアについて知りたいと思っていたけれども、私は「過去の経験を活かして、介護の仕事をしなよ」と言われるのが実はすごく嫌でした。「勝手に限定しないでくれ」と、とても思っていました。私は自分が介護に適性があるとは思っていません。自分の家族だからできたと思うけれども、人のケアは正直向いていないと思います。どちらかというと人前で話したり、そういう作業のほうが好きですし、探究するほうが向いていると思います。
ただ、最近になって、たくさんの方にお話をうかがっておりますと、自分の親御さんの病気をケアすることを通じて、この病気についての世間的な認知や治療法や、家族への接し方について、もっと世の中に伝えたくなって、そちらのスペシャリストの道に進まれた方もいらっしゃって、これは私とは考え方が違うけれども、この人にはこれが合っているキャリアだったのだろうなと思います。
一人ひとりが持っている答えは違うから「あ、この人は、ヤングケアラーかもしれない、若者ケアラーかもしれない」と思ったら、「それで、どういう状況なの? 今どういう気持ち? どう思っているの?」とまずオープンクエスチョンで聞いてあげるのが大事だと思います。
井手さん) 聞いてくれる人。では、まちのなかで、地域のなかで、誰がそれを担ってくれるのかな、というのは今後の課題だと思いました。
樋口) 聞いてあげる、というのが一つのポイントなんだなと分かりました。その上で、もう一歩何かできることはありますか。
松﨑さん) 「地域で」は、意外とヤングケアラー・若者ケアラーではハードルが高いなと思っています。地域でも最終的にできてくれば一番いいと思いますが、最初の一歩としては、子どもや若者に慣れている人たち、年齢の差があっても子どもや若者に接することができて、話を引き出すことが基本的にできる、あるいは理解しているという背景がある人たち。たとえば学校の先生や保育園の先生やほかに子どもに接している人たちが、それぞれの持ち場で「そういう話をしてもいいんだよ」と子どもや若者にアウトリーチする。「どんどん相談して」と言っても話しにくいかもしれないから、「こういうことも世の中にはあるよ」と課目の授業でなくてもオープンな場で扱ってみるだけでも雰囲気はずいぶん違ってくるかなと思います。
樋口) 新潟県南魚沼市や神奈川県藤沢市での先生への調査で、ケアラーと思われる子どもに出会っている先生の割合はすごい数字だなと思いました。
学校教員のヤングケアラーへの感受性が高まる 子どもの貧困問題との相関に注意しつつ
松﨑さん)日本ケアラー連盟にヤングケアラープロジェクトがあります。日本ケアラー連盟のウェブサイトに新潟県南魚沼市調査の報告書がアップされていますので、ご覧いただければと思います。藤沢市の調査についてもいま速報版が出ていて、このあと本報告がアップされますのでご覧いただければと思いますが、少し補足します。
南魚沼市での調査が、日本で最初に行われたヤングケアラーに関する体系的な調査と言えると思います。ヤングケアラー本人たちにはアクセスできていませんが、教員への認識調査です。南魚沼市における25%(回答者のうち)の教員が、いままでにヤングケアラーではないかと思われる児童生徒を担当したことがある、あるいは気づいたことがあるというふうにお答えになっています。その後の調査で、神奈川県藤沢市では50%(回答者のうち)に跳ね上がっているのは、あらかじめヤングケアラーという言葉をある程度知っている先生がいたり、自治体の背景の違いから、先生の感受性が上がっていたりすることがうかがえます。
それはいい点もあれば少し難しい点もあります。というのは、子どもの貧困のケースとの切り分けが難しくなってくるからです。病気や障害のケアが理由で、つまり介護が想定される事情だけでそういう子どもに気づいたのではなく、貧困が理由となっている――たとえばシングルマザーのお母さんに、保育園児の病気の子どもがいるけれども働きに行かなければいけなくて、その子どもの面倒を見るために、小学生のきょうだいが学校を休んでしまう――といったケースもあります。これをヤングケアラーと呼ぶのかは微妙です。「慢性的な疾患や障害、加齢による要介護状態などをケアしている」というのがヤングケアラーの本来の定義になっていますので、もし一時的な病児保育が利用できれば、きょうだいの子どもが学校を休む必要が無い、といったケースは、そのヤングケアラーの定義からは外れます。
でもそれを差し引いても、先生方の「子どもが、もしかして家族の面倒をみているのではないか」と気づく、という感受性が上がってきているという事実はあると思います。
来年度以降については、別の自治体で同様の調査がされることになっています。各地の先生方や自治体の方が関心を持っていただければ、それぞれで調査していただいて比較したり、ある程度推定することが必要になってくると思います。最終的には国勢調査のように、全数調査で数を出していくことが施策のためには大事だろうと思います。
樋口)この問題は、子どもの貧困とか、いろいろな側面とあわせながら出ているのではないかなと思います。この実態に対する私たちが感受性を高めて向き合っていくことが一つのポイントかなと思います。日本ケアラー連盟ががんばっていますけれども、そうした社会的な動きを、調査も含めてつくっていくということがこれからも大事だと思います。井手さんは自治体議員というところで、行政を相手にしながら、市民のなかで起こっていることについて制度のなかでできることをまた追求していっていただければと思います。
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