ソーシャル・ジャスティス基金(SJF)アドボカシーカフェ第44回開催報告
政治と放送
視聴者の信頼は
2016年6月17日、ゲストに吉岡忍さん(元BPO放送倫理検証委員会委員長代行・日本ペンクラブ専務理事)と、立山紘毅さん(山口大学経済学部教授/憲法・情報法専攻)と白石草さん(NPO法人OurPlanet-TV代表理事)をお迎えしたアドボカシーカフェを、SJFは文京シビックセンターにて開催しました。
「視聴者」という枠を飛び出して送り手側にまわろうという立山さんからの提言があり、実際に自分たちでメディアをつくりマスメディアからこぼれていることを配信している白石さんは、公共空間にいかに多くの人たちがアクセスして民主主義の土台となる言論をつくっていけるか、放送通信制度をどう市民のものにしていくかという目標を示しました。さらに吉岡さんは、日本の放送界の最大の問題として、多くの視聴者に自分の表現をしてみたいという創造性を引き出させないことを指摘しました。関連して白石さんから、公共放送に支払われている放送受信料はほんらい、地域の活性化や地域の中核を担っているコミュニティーメディアへも配分して、市民の発信をサポートすべきとの考えが示されました。グローバリゼーションにさらされてメディアが土着性を喪失することへの危惧を立山さんは指摘し、一人ひとりができることをやって行くことが大事だと話しました。
放送免許の認定や規制は、政策的判断や技術的判断を要し、独立した第三者機関に委ねることが適切かつ可能かどうかと立山さんは問いかけました。また国全体の放送制度や利益調整といった政策的判断と、個別の放送主体の運営判断とは区別するべきものだと指摘しました。そのなかでも、BPO(放送倫理・番組向上機構)の紛争解決機関としての第三者機関的活躍を評価し、司法権や行政権による統制を防ぐ意義を示しました。関連して吉岡さんは、公権力が直接関わらないところに市民社会が持つ自由な空間こそが第三者機関だとの見方を示し、法的な拘束性を持たせない機関の意義、何を信頼するかは私たちが決めるという成熟した民主主義について話しました。
いっぽう白石さんは、かつてマスメディアで放送電波の割り当て・放送免許の巨大権益ぶりを目の当たりにした経験を踏まえ、放送免許や規制を国家から独立した機関で行うことは、市民に開かれた公共的な電波制度のためにまずもって重要であると強調しました。また、放送局の下請けが乱立するなかで起きる不祥事を利用するかたちで、権力が放送に直接介入している構図も指摘しました。吉岡さんからは、国家が放送法を根拠に放送局を直に管理監督する国は、中国・北朝鮮・ロシア・ベトナムに並んで日本という異常さも指摘されました。
「放送法違反」と世のなかで言われる問題に放送法違反はなく、せいぜい「放送倫理違反」との考えを立山さんは示しました。吉岡さんは、「放送倫理」は「放送の使命」からしか生まれない、民主主義の健全な発展や文化の成熟といったことを放送人はいつも念頭において番組制作を判断してほしいと、多数のメディア不祥事を検証し意見書を作成してきた経験を踏まえて話しました。
情報の真偽をどう見分けるかと参加者から問われ、自分の身体を通じて事実を見聞していくこと、言論弾圧が始まるという流れ、情報がどのように捻じ曲げられてきたかという歴史を知ることが、その一歩になると吉岡さんはこたえました。白石さんからは、権力がすぐに放送に介入してくる他国で、市民メディアのグループが弾圧を繰り返されても逆にテコにして、市民が発信できるメディアセンターを全国の地域でつくっている事例から学びたいとの話がありました。
メディアというのは現実と斬り結ぶものであって、現実のなかでその最たる政治と切り結ばないメディアはもはやメディアではない、との立山さんの言葉から始まったアドボカシーカフェ。社会のありように大きな構造的な問題があるのではないかという参加者の意見とともに深く考えさせられる機会となりました。
※コーディネータ:寺中誠/SJF企画委員
――立山紘毅さんの講演――
私の専門は、法律、憲法です。法律というのは元来、保守的なものです。なぜか知りませんが憲法の話しになりますと、去年の安保法案の話しの時のように政府批判に傾くのは不可思議な現象でして、法律は元来保守的なものです。したがいまして、これからの説明のなかで、現状を説明する、弁護するという口調が混じるということは、どうか勘弁していただきたい。ただ一つだけ申しあげておきますと、現状がどうなっているかということをきちんと認識しないと議論がごちゃごちゃになる。これは釈迦に説法かもしれませんが、最初に申しあげておきたい。
政治とメディアの相互作用
さて、初めにいきなり挑発します。政治とメディアということで話題になっていますが、「政治に相手にされないメディアはもはやメディアではない」と最初に申しあげておきます。そういうメディアもないとは言えませんが、正直申しあげまして、それは伝統芸能とか、そういう世界のほうに行っていただきたい。メディアというのは現実と斬り結ぶものであって、現実のなかでその最たる政治と切り結ばないメディアはもはやメディアではない、と私は断言しておきます。
15年くらい前に政治学者の間で論争がありまして、現熊本県知事の蒲島郁夫さんと朝日新聞の石川真澄さんの間で、メディアが政治から影響がうけるのか、それとも政治がメディアから影響を受けるのかという論争があったのです。おもしろいことに、新聞記者の石川さんは「いつも政治から迷惑を受けている」と、蒲島さんは「いやじつは政治家はメディアをすごく気にしているんだ」ということを実証データから示したということがあって、これはどうも論争としては、蒲島さんのほうに分があったと私は思っています。しかしいずれにしても、メディアと政治とはそういう相互作用のなかにあるということです。その役割を失ったメディアはもはやメディアではないと私は思います。
情報が大好きな日本人
いわゆる既存メディア――新聞・テレビ・放送というあたりをイメージしていただきたいのですが――というのは、じつはそんなに落ちぶれていない、ということを申し上げておきたい。それはおそらく、今後かなり長い間にわたって相対的に我々の生活のなかで主役を演じるであろう、ということ考えています。私は20年前にも同じようなことを言っていたんですね。その頃は、新聞の宅配なんて無くなるよと言っていたのですが、20年たっても宅配は続いていますね。しかも若い人でも宅配をやってほしいというのが結構ある。
ことに数の問題ではなく、その質の問題となりますと、公益財団法人新聞通信調査会がこれまで8回にわたってメディアの信頼度というのを調査しています。このなかで、NHKのテレビ・新聞・民放のテレビ・ラジオ・インターネット・雑誌とこれだけ挙げているのですが、全世代にわたって、NHKテレビの信頼度はじつに75%近くに達しています。この8年間ほぼ変わっていない。わずかに40際代では僅差で新聞が上回っていますが、こと信頼度の点で新聞とNHKテレビが優位を占める現象は従前からあまり変わっていません。
国際比較してみましても、日本人が新聞大好きというのはかなり際立った傾向です。なぜか、といわれると説明に困るのですが、おもしろいのは、若い人でも似たような傾向があります。世のなかには、「日本はマスコミに洗脳されているから新聞やテレビをうのみにするんだ」という声が、とくにネットの世界にはけっこうあります。しかし逆に見ますと、インターネットは常に低位に沈んでいるんですね。逆に、ネットの情報をうのみにしていないということも言えるわけですから、これをどう理解するというかというのは大変難しい。これだけではなくて、ほかにもいろいろな情報があります。たしかに、テレビを見る時間、新聞を読む時間は下がる傾向にあり、とくに若い人では下がる傾向にありますが、激減というほどではありません。
ただ、インターネットという新しい手段が出てきたことによって、むしろメディアに接して情報を得ている時間というのはかなり増えている傾向さえあるのです。そうしますと、なんで日本人はそんなに情報が大好きなの?というのが正直なところです。おまけにまた、ほんとによくこんなに本も出ていますね。出版界には委託配本によって読者の目に触れる前にゴミ箱に行ってしまう本が5割近くあるというやっかいな問題もありますけれども、しかしそれにしても出版の数というのも大変なものですから、日本人は情報に疎いという話を今後は信じないでください。
公共放送をめぐる世界事情
日本の放送制度は、世界的に見たときに、そんなに異端ではありません。では、ありふれた制度かというと、そうでもありません。
簡単にいうと、日本の場合はNHKと民放がだいたい拮抗しています。もちろん民放の場合は全国ネットワークが5系列あって、これがNHKと張り合うという格好になっておりますけれども、世界中を探してこんな体制はありません。
アメリカの場合は、商業放送が圧倒的に大きいです。公共放送もあるにはあります。みなさんご存知のセサミストリートを作ったところも公共放送です。ただし、日本のEテレとはまるで比較になりません。
欧州の場合には、公共放送が圧倒的に大きいという特徴があります。たとえばドイツの場合には、民放は消滅寸前という状態です。同僚にドイツ人がいるのですが、彼に聞いてみますと、「ドイツ人は民放テレビを信用しない、娯楽だ」と。イギリスではBBCなのですが、ここもそうです。
日本は、公共放送と商業放送が並立している点がユニークなのですが、そんなに異端というわけでもない。
問題は、「公共放送」というのを明確に定義するのが大変困難だということです。
公共放送は国営ではない、というのははっきりしています。つまり、国の機関がやっている放送ではない。
それから、広告を主たる財源として商業的にやっているわけでもない。
ところが、これが公共放送といわれる一群の放送主体は、世界的に見た時に、その設立の根拠・財源・監督機関のありかたもまちまちです。たとえば、意外に思われるかもしれませんが、アメリカの公共放送は国からの補助金が3分の1以上あります。商業放送の国・自由放任主義の国だと思ったら大間違いでして、国からの財政資金があります。世のなかには、寄付金が大きい地位を占めているという人もいますが、これも違います。寄付金をしますと所得控除や税額控除がでます。これは簡単に言うと、国が取る分を放送局に直接流し込んでいるわけですから、間接的に国が補助金をやっていることとイコールになります。
ドイツに限らず欧州の公共放送は、広告を財源の一つとするところが大変多いです。ドイツの場合は割合としてはそんなに大きくないのですが、もともと分母が大きいものですから、ばかにならない。新聞の広告を奪っていくことで昔から問題になっている。BBCはいちおう国内放送ではやっていませんが、国際放送ではなんと日本からも広告を募集しています。BBC ワールドですね。思い出すんですが、大学院の頃、偉い先生が――もう亡くなったのですが――、私が「ドイツの公共放送は」と言ったとたんに、大きい声で「俺が見ていたドイツのテレビはCMがついていた。CMついとったテレビが、何が公共放送やねん!」と思いっきり怒られました。ドイツに限らずヨーロッパの公共放送の財源としては広告が大きな割合を占めますから、あっちあたりでは、「受信料と広告と国からの補助金は、公共放送を支える三本柱です」なんて言って舌を出している人もいるかもしれません。
政策的判断・技術的判断を要する放送免許認定、独立した第三者機関は適切か
この間のメディアをめぐるごたごたのなかで、「独立な第三者機関の設立」という声が大変強くなりました。寺中さんからも「メディアと人権というときに、第三者機関を持つということが、自由を保障する制度的な仕組みとして国際標準といえるのか」というご質問があって考え込みました。
第三者機関は万能ではありません。第三者機関には得手不得手があります。
電波で放送をやろうとする場合、少なくとも免許や認定などの前に、日本の法制では「計画」が3段階あります。周波数割当計画、基幹放送用周波数利用計画、基幹放送普及計画――いわゆるチャンネルプラン――。この3つをクリアしないと電波の割り当てができない。イメージとしまして、家を建てる時に、一種住専――第一種住居専用区域――という都市計画法に基づいて用途区分が行われて、これにしたがって建築許可が出るという例で考えましょう。この例でいうと、一種住専という用途区分が行われて、そのあと建築主事から建築許可が出ることが、放送免許が出ることに相当すると思ってください。
問題は、基幹放送普及計画というのは地域ごとにチャンネルをいくつとるかという計画で、地域経済の実情や放送事業の継続性といったものを考慮する政策的判断を意味するということです。
さらにやっかいなのは、この前の段階にある、周波数利用計画というもので、みなさん漠然と考える以上に恐ろしいものです。たとえば、ここにおいでになる時に地下鉄のなかで電子マネーをお使いになった方もいらっしゃるかもしれません。じつはこれも周波数利用計画のなかで割当があります。小はそういうところですが、大のところになりますと、私どもの大学では、32メートルと34メートルの電波望遠鏡を2つ持っています。KDDIがくれたのです。大学から自転車で20分くらいの所にあって、世界でこんなに便利な望遠鏡はないということです。ところが、便利なのが仇になるのです。使っている周波数が車の自動ブレーキのセンサーの周波数領域と重なる――干渉する可能性がある――ものですから、研究している人も「自分だって歳を取っていずれお世話にならないといけないかもしれないから、あんまり文句を言えないんだけれどね」と。
そういうことを全部区分けしていかなければいけないのです。ここに第三者機関というのが介在するとしても向いているかどうか。
アメリカの連邦通信委員会(FCC)はこれをやっています。ただし、それによってどういうことが起こるかと言いますと、結局、第三者機関に委ねてもその事務局――官僚集団――が実権を握ってしまいます。おまけに、アメリカはいま大統領選挙をやっていますけれども、大統領選挙をやりますと大統領府の人事がぐるっと変わるのです。したがいましてFCCの幹部も挿げ替えられるのです。そういった制度もありまして、アメリカの場合、独立の第三者委員会がそういう放送制度や通信制度に権限を持つというのが教科書的説明ですが、実際には事務局が握っているということと、もう一つは、大統領の意向に左右されやすいというところがあります。
第三者機関、個別の放送主体の運営判断とは区別
それからもう一つ。注意していただきたいのですが、NHKのごたごたをめぐって、独立した第三者機関が無いから悪いんだという言い方がなされます。一方、かつて1950年に現在の放送法・電波法がつくられた時に、それを運用する主体として電波監理委員会という、ちょうど独占禁止法を運用する公正取引委員会のようなアメリカ型の独立した第三者委員会が設けられるということがありましたが、占領明けと同時に吉田内閣によってつぶされました。これを復活させるという議論や、現在にマッチするよう放送委員会をつくろうという意見がありますが、前者と後者とを混同してはいけません。
電波監理委員会の復活や、放送委員会の新設というのは、国の放送制度全体を規律する性質のものです。つまり国の放送制度をどうするか、これからどういう方向に発展させるのか、どういう利益を大事にするのか。そういう政策的判断とそれを実現するための権限を持つものであって、個別の放送主体に対して口を出すものであってはならないのです。
もし電波監理委員会や放送委員会が個別の放送主体に対して口を出すとしますと、NHKや民放が国家行政組織法のもとでつくられている第三者性をもつ独立委員会の統制に服するとしたら、いくら第三者機関だとしてもこれは到底容認できない。その意味では、NHKの経営委員会をめぐるごたごたというのは、各放送主体をどう切り回ししていくか、という問題として理解しなければいけません。
紛争解決の場で活躍するBPO、司法権による統制とならないために
ですから第三者機関というものが適切かどうかは、任務ごとに細かく考えていく必要があります。
私は、第三者委員会ではどうにもならないと言うつもりはありません。おそらく現状で最も適切なのは紛争解決機関だと思います。ただ、紛争解決機関といっても、放送事業者の免許認定まで管轄できるかというと、これは相当厳しいなという気がします。アメリカのFCCでやっているからいいじゃないか、というのは先ほど申しあげたように限界がある。
それに放送免許をめぐってこれまで訴訟になった事案は二つしかありません。東京12チャンネル事件と、FM東海事件のみです。
むしろ紛争と言う場合、現在一番問題になりますのはいわゆる名誉・プライバシーの侵害という事案でありまして、ここは正にBPOが活躍している場所なのです。すでに12年になりますかね。
吉岡さん)はい。
立山さん)なかなかユニークな機関です。
放送法にもとづく訂正放送というのは3カ月・6カ月という期間です。
いっぽう、真実でない放送で名誉を侵害されたという人は民放の709条と710条にしたがって訴訟を起こすことができ、この時効は10年です。しかし訴訟を起こすのは大変です。その間を埋めるものとして、訂正放送を求めていることを条件にして何とかしろというBPOへの訴えに応えるというのが、BPOの放送人権委員会の役割です。ここの大変ユニークな点は、簡易・迅速・安価。どうでしょう。紛争が起きたときは、早くないと困りますね。それからお金が高いのも困る。
それからもう一つは、第三者というのは非常に厳格に守られていまして、現在なかなか委員のなり手を探すのが大変だということが出てきています。ノー・リターン・ルールといいまして、一回委員になった人が出戻りしてはいかんというルールをつくったものですから、なかなか大変だと。
その代わり、こういうことを積み上げてきた結果として、BPOの判断について『判断ガイド』という大変立派な本がありまして、500ページくらいの分厚い本にまとめられていますし、BPOのホームページを見ますと全文が出ています。これらに見られるように、名誉・プライバシーの侵害、名誉棄損ということについて、裁判例が積み上げてきた判断例をきっちり守ってきた結果、いってみれば、BPOは放送事業者にとってもどうも重たいと思われている。
しかしこういう判断、こういう紛争解決を最終的に正しいとするのは、やはり地道な取り組みしかないんですよ。もしこれを、国家権力の手で、裁判の手で、有無を言わさずこうだ・ああだとやってしまったら、司法権による統制となりかねない。むろんこれは、放送法にも引っかかる可能性があります。
第三者機関には、得手不得手があるということを、じゅうぶんご理解いただきたいと思います。
基幹放送は生活に必要不可欠の情報を提供、ビジネスの自由のみでなく
さて、放送免許は現行かなり複雑怪奇なことになっています。
総務省の衛星放送の現状を見てみましょう。現在の放送には、基幹放送と一般放送の区分しかない。他にも若干ありますがここでは省略します。いまは「衛星」をどけて考えてください。
一般放送というのは通信衛星を使いまして、一番イメージしやすいのはスカパー!プレミアム。
基幹放送は、無線局を運用する主体と、放送番組を運用する主体の二つに分かれていまして、放送番組制作・編集の主体から無線局運用主体に送って放送するというやり方です。
なぜ衛星放送で説明したかと言うと、衛星の場合は、自前で衛星をもつのは大変なコストです。一発で300億くらいしますから。おまけに中継器は40本から50本近く持ちますから、これを独占するというのは合理的ではなく、番組制作・編集の主体と送信の主体とを分ける方が合理的です。しかし、地上波の場合にはこの二つを一体で運用する。これを特定基幹放送事業者といいますが、分けても一体でもどちらを選択してもよい。ついこの5月までは、茨城放送はこの二つを分ける体制をとっていましたが、6月に経営が合体して特定基幹、つまり一体の事業者に戻りました。
そしてご存知のとおり、BPOはNHKと特定基幹放送事業者が会員になっています。
ここの「基幹放送」をどう理解するか。法律上の定義を見ましてもよくわかりません。「基幹放送普及計画にかかるものを基幹放送という」といわれましても「日本猿は猿である」と言われているようなものです。
総務省の当局者はおもしろいことを言っています。「基幹放送」の任務は、「民主主義の健全な発達に貢献するという任務」。もう一つは、「社会生活にとって必要不可欠な情報を提供するという任務」があるという言い方をしています。この二つは放送の役割として、しばしば最大公約数的に取り上げられるところではあるのですけれども、だれしも否定できないのではないかと思います。
その結果、基幹放送局提供事業者や、基幹放送事業者には、たとえば集中排除といいまして、独占が禁止されています。それから、外国人が株式を持つことについて3分の1・5分の1という規制があります。これも問題は抱えているのですが、いずれにしても一つだけここでまた理解していただきたいのは、なんぼ自由放任といっても、一国の電気通信を完全に開放するというのは世界的にほとんど例がありません。私の知る限りでは、ニュージーランドだけです。そのかわり、それをやりますと何が起きるかと言うと、ルパート・マードックのような独占者が世界を覆ってしまうということであって、これを市民的なレベルで容認できるか。ここを考えなければいけない。
まとめとして、制度論から出発しますと、一つめとして、現在の日本の法制では、放送事業を行おうとする時に無線局はかならずしも必要ではありません。番組をつくる、それから送り出す、両者を分離してもよい。その意味では、インターネットに似ているかもしれません。インターネット・テレビをやる時には、インターネットの回線を全部準備する必要はありません。ラスト・1マイルといわれる近くのアクセスポイントと自分のところだけを考えればよい。最近はそれもクラウドといって、データセンターに持っていけばよいわけですから、そこも必要ないわけですが、ちょっとそれに似ています。
むしろ逆に、ハードを持つと経営的に厳しくなります。放送は全国、それから東京でいえば関東広域圏、都道府県、市町村という単位でサービスエリアが区切られていますが、大変注目すべき活動を20年にわたって続けてきた神戸市長田区の「エフエムわぃわぃ」は、この3月で免許を返上しました。ついに持ちこたえられなくなりました。一時10か国語に及ぶ多国語の放送をやっているという注目すべき活動をしていたのですが、送信機等々の維持、なんといっても運営するスタッフの費用に堪えかねたということです。最後のメッセージは悲痛といってもいいようなものでして、補助金もなく、いざという時には、基幹放送ということで災害の時に逃げることも許されないのかと悲鳴が聞こえてきた。これをどうしたらいいのか、正直私も解答がないのです。
二つめに、独立な第三者機関はどこに向けるのか。先ほど言ったように、得手不得手があります。国全体の放送制度のお目付けなのか、それともたとえばNHKの経営・管理に携わるのか、という部分です。
三つめに、権利論から見たときに、放送の自由というと、表現の自由ということで議論することが多いのですが、はたしてそれだけで切れるんだろうかという点です。一方で、ビジネスの自由だけであっていいわけもない。
公平と多様性の確保、基幹放送と一般放送、放送局全体で
放送における「公平」、これもまた問題になります。放送法にもあります。ただ、「公平」ということを頭からやりますと、哲学の問題になりますからぜんぜん先に進みません。
メディアをやる人間は、いろんな要素がバランスをとっていて、いろんな要素がたくさんあることが大事だという考え方をします。
そうしますと基幹放送と一般放送という建てつけは案外悪いものではなくて、基幹放送は生活に不可欠の情報だからある程度規制を受けながら独占も許さないでやりましょうね、それに対して一般放送はオプションだからまあ好きにやりましょうねということになるのではないかと思います。
現にスカパー!プレミアムに関係する放送事業者の出入りを見ておりますと、わりに融通無碍に出入りしています。むろん、中には問題のある「事業者」もいて、かつて「日本文化チャンネル桜」という在特会と強い関係をもつチャンネルも存在しました。したがって、一般放送事業の枠であれば、桜チャンネルがあれば、赤チャンネル、黒チャンネルがあって、何が悪いの?、ということになりましょう。現にインターネットの世界では2チャンネルがさんざんやっていますから、なぜそれで悪いの?これを学生に聞いてみますと、「いやあ、やっぱり放送の世界はそれじゃ困るんじゃないの」と。「どうして?」ときくと、「やっぱり、なんとなく」と。いかがですかね。
吉岡さん)宗教チャンネルもありますよね。
立山さん)宗教チャンネルは実例があります。コミュニティー放送でいいますと京都三条ラジオカフェがやっていまして、これはタイムを買うという形ですが、京都のお寺で「ボンズカフェ」というのをやっていました。ですからチャンネルではなくてタイムを買うというやり方もあります。それでじゃんじゃんやりあう、というのはどうでしょう。だって2チャンネルも本屋さんもさんざんやっているじゃないですか。じゃあテレビではなんで悪いの?
ちょっと曰く言い難く、抵抗がありますよね。
そうしてみると、この建てつけでわりとバランスがとれるのかなという気がします。
基幹放送における均衡というのを考えますと、しばしば問題になっている「番組のなかで公平や均衡を取る必要があるのか、放送局全体でとる必要があるのか」ということです。
総務省の国会答弁や政府答弁も揺れておりますが、若干誤解がありまして、「番組」という言葉を放送法のなかで使う場合は、みなさんが見るたとえば「7時のNHKニュース番組」といった意味ではなく、1日や1週間、一般には3か月の単位で「番組」を編集するというのが法制上の考え方です。
後者の長い期間のものを「編成」と一般には呼んでいますが、そのなかで均衡をとればよろしいと理解することもできるわけで、そうすることでおもしろいチャンネルもできるという考え方も十分に成り立つ。一つの番組のなかで、NHKの国会討論会のようにストップウォッチを見ながらきっちり討論者の話す時間を同じにするといったやり方ではなく、こっちではこれをやりつつ、あっちでは別のことをやりつつ、かといって何かやり合うわけではなく、それぞれいろんな目で見て、チャンネル全体でバランスを取っていくというやり方があります。
日本の場合は、最初に言いましたが、公共放送と商業放送が並立しています。じつはこれに一般放送を含めますと、ざっと250チャンネルほどになります。なかには朝から夜中まで競馬ばかり中継しているところもあります。数が多くなければ多様性は確保できないのですが、じゃあ250チャンネルが同じことばかりやっていてもどうなのかと。
しかし、では「多様性」とは何が確保しているのか、これまた大変難しい議論です。
自律――放送と国家との間で、視聴者と放送の間で、放送制作者どうしで
一方、放送の世界では、この間、「自律」というのが大変問題になっています。
制度上、自律を前提としている規定というのがずいぶんあります。たとえば放送番組には「編成基準」というのがありますが、これは各放送事業者で決めてくださいね、と。さらに「番組審議委員会」が各放送事業者に置かれることになっていますが、これをどのように組織するのか、番組審議委員会が審議した結果をどのように反映させるかどうかは、いちおう総務省への報告義務があるとはいえ、放送事業者の判断に委ねられる。これをお手盛りと批判することは簡単ですが、ではそれらを法で義務づけたとすればどうなるか。番組審議委員会を通じて国の統制が始まり、自律が歪められることになりかねない。
「自律」という時に、いわゆる国家との間で独立を保ち自律的な関係を持てということはよく言われます。しかし考えてみてください。我々がテレビを見て、新聞を読んで、このメディアと我々との関係は、自律を考えなくてよいのでしょうか。
また一方で、メディアにおける表現行為は、芸術家が絵を描くこととも違って組織・集団的な行為です。したがってチームワークというのが重要になるのですが、「メディア内部にさまざまな議論がなければいけないじゃないか」、「だが、ほかならぬメディア内部に自律的で自由な空間をつくっておかなければいけないではないか」と。これがいわゆる「内部的自由」というものです。
知る権利――送り手の自発的意思の重視、電波使用の交通整理など多くの切り口
ここまでは、送り手側の話しをしてきました。
では、我々の「知る権利」はどうなるの?という話しをします。これまた大変扱いが難しい。
憲法上、知る権利は13条――幸福追求の権利――に基礎を持つというのが通説です。
ただ、昨今問題になっている芸能人の不倫問題等を見ていますと「私たちは知る権利のためにこれをやっているんですよ」というのがよくありますが、これは知る権利なんでしょうか。情報公開法でしたら、法律上の定義は非常に明確です。つまり政府が持っている情報に請求によって開示をもとめる権利で、知る権利というのがきっちり出てきますし、それによって法制度をつくることができます。ところが先のような「知る権利」は「知りたがること」とどう違うのでしょうか。
「知る権利に奉仕する自由が放送の自由の本質である」というのはドイツでよく使われるのですが、そうすると送り手側というのは「ハイハイどうぞ見てください、聞いてください」と。これでもって送り手としてやっていけるのか。どうでしょう書き手として。私は絶対にこれを書きたいんだというのがあるから、やっていけるのではないでしょうか。おまけに面倒くさいのは、ドイツ流の議論を突き詰めますと、メディアは放送やメディア制度のなかでそれぞれに役割が憲法・法律でもって割り当てられて、その割り当てられた任務を果たす責任や義務があるという話になる。いつのまにか権利が義務にひっくり返ってしまう。そうすると、先述のように送り手のなかでさまざまな議論をして、さあこれで行こうという話も、じつはメディアの役割やパフォーマンスを維持するために、それらの番人として個々のジャーナリストも活動すべきだという議論になっていってしまう。ちょっと待て、という感じではないでしょうか。
このように、知る権利からのアプローチというのは、大変結構なようで、大変怖いところがあります。
権利論から出発しますと、放送における自由というのは、表現の自由だとか、それへの侵害はだめだとか、検閲の禁止だとか言っているのですが、意外と難物です。簡単に一つの切り口からはやっていけない。
受け手の知る権利も考えなければいけないし、送り手の自発的な意思も重視しなければいけない。それぞれに憲法上の根拠がある。国家全体、社会全体のなかで、精神生活にどういう位置を占めるかということでもって調整もしていかなければいけないし、電波を使う場合にそれなりの交通整理も必要です。
規制緩和だといって、決して自由になっていないわけです。好き放題にやる人が増えてかえって乱雑になっただけというのは肌で実感していらっしゃると思います。自由か規制かだけでは済まないわけです。
「視聴者」という枠から飛び出す、複眼の思考と正確な知識とともに
ここで、市民からのアプローチを考えてみたい。
いま申しあげましたように、権利から出発しましてもどうも一つの切り口だけではすっきりしない。複眼の思考といいますか、さまざまなところからやっていくことが必要になると思います。そのなかで差しあたり三つは考えられると思います。
一つは、送り手側に回る。白石さんはかなりやっていらっしゃることと思います。これはかなり難儀ですね。じつは、私は大学で「自ら送り手側に回ることが大切」と言った手前、後に引けなくなりまして、地元のケーブルテレビで番組をつくったことがありますが死にそうでした。コンテンツ制作の継続が大変です。最近「市民ジャーナリズム」とかいうことで番組作りをする催しがいろいろされていますが、これらの致命的な問題は「編成」、つまり1年なら1年の期間でどういう番組をそろえていくか、という発想が全くないことです。
もう一つは、送り手の内部に協力者を求めていくことです。かつて、日本民間放送労働組合連盟(民放労連)ですとか、新聞労連あたりはかなり積極的に取り組んでいたのですが、最近どうもあまり聞こえてこないんですね。日本だけかなとおもっていたら、あちらのほうでもあまり活発でないようです。要するに、日本はまだ日本語の壁がないせいか先のルパート・マードックのようなものが入ってこられないのですが、欧米の方ではそういったのがどんどん入ってくるものですから、それを食いとどめるのに必死で、内部的自由や市民の交流を行っている余裕がない。
もう一つ。政策提言能力を持ちましょう。今日は、法律という切り口からお話しましたが、それをまず正確に理解しましょう。わかりにくいです。迷い道もたくさんありますが、それを正確に理解して、バランスのとれた、説得力ある政策提言能力を持つ。
そういうことを通じて、「視聴者」という枠から飛び出して、メディアという得体のしれない相手の一つのアクターから飛び出していくという道は、複数の攻め口からやっていく必要があるのではないかと思います。そこにおいては、正確な知識と思考が最大の武器だと私は思っています。
世のなかには、さまざまな議論がありまして、今日の時間では話しができませんでしたが、NHKの受信料の問題とか、お金が絡むときりきりした問題になりますが、たいへんな間違いがずいぶんあります。
そもそも、何かありますと「放送法違反だ!」とわっと言われるのですが、私に言わせると、世のなかで放送法違反といわれる問題に放送法違反はありません。せいぜい「放送倫理違反」。
やっかいなのは、みんなが誤解しているところでも、民主主義ですから、それにしたがって世のなかが動いていってしまうことです。そういう時には調べ、知恵という程ではないですが、私などでも、日頃勉強している知識や考え方を出しましょうねということはできるかもしれませんので、お声がけいただければと思います。
――吉岡忍さんの講演――
私はたまたまBPOの委員を任せられたことなどがありましたから、その体験をお話しして、後の議論につなげていければと思っています。
BPOには3つの委員会があります。立山さんが話された人権問題を扱う委員会と、子どもとメディアの関係を追究している青少年委員会、そして、私が委員だった放送倫理検証委員会です。この3つの総称として、BPO、「放送倫理・番組向上機構」といっているわけです。
それぞれの委員会ができた経緯というのは、だいたいはどこかの放送局が不祥事を起こした――ラジオというよりテレビですけれども――、それを放送界全体の教訓にしよう、という動きのなかからできてきたものです。その段階ではたいてい、政府が不祥事を口実に何とか放送界をコントロールしようと動きますから、それをさせないために、まず自主的に動く、そのカタチが委員会になるという流れです。たとえば放送倫理検証委員会は、関西テレビの「あるある大事典」が「納豆で痩せる」という番組をつくった時に捏造をしたということがあって、それをきっかけにできた委員会です。
なぜそういう委員をちょっとやってよと言われたかを少しお話ししたい。
メディアは、必ず問題を起こします。切羽詰まった締め切り時間のなかでやっている。いろんな人が出入りして、仕組み自体が流動的。その上、何かを取材したり、番組を作ったりする仕事は人間がやることですから、いいときは個性的・独創的になりますが、ポカやヌケも少なくない。ですから、問題を起こさないメディアはありません。とにかく問題だらけです。私はBPOに関わる以前に何をやっていたか、順不同で申します。
メディア不祥事の検証を重ね、見えてきた現場の問題
NHKの制作者が制作費の私的流用をしたという事件がありました。視聴者が「そんないい加減なことをしているなら、受信料なんか払いたくない」と言いだして、2006・7年に大きな問題となりました。ちょうどアナログ放送からデジタル放送への切り替えということで、放送界挙げてその準備をしていた時期です。
NHKは当時、非常に困りました。そこで、NHKはこれからどうあるべきかと、1年かけて外部の第三者に検討を委嘱した。これが「デジタル時代のNHK懇談会」という委員会でした。30人ぐらいの委員がいて、そこには放送の専門家もいれば、憲法学者の長谷部さんのような学者もいらした。私はノンフィクションを書いていて、取材をして本を書くということをやっていたものですから、違う分野からテレビのほうを見てくださいと言わて、委員になったわけです。私は放送の専門家ではありませんから端っこにいればいいだろうと思って、毎回静かにしていました。
議論したテーマはさまざまです。技術の問題、お金の使い方の問題、受信料とは何なのか、NHKはそもそもどうやって始まったのかといった歴史の問題など、多方面から議論する。そういうことを1年間やって、こういう委員会ですから報告書をきちんと書かなくてはいけません。だれか書くだろうと思っていたら、座長から「吉岡、おまえ書け」といきなり指名されました。座長の辻井さんはセキュリティーの専門家です。それで、あわてて勉強し直したということもありました。
この報告書で何を言ったかというと、「放送人としての仕事とはいったい何なんだ」、「公共放送の役割をNHKの人たちはもっと考えてほしい」と。それから当時、NHKのETV特集で放送した戦時性暴力の番組をめぐって裁判が続いていて――それについて直接は何も言いませんでしたけれども――、「放送と政治との関係、その距離感をどうとるのか」という問題提起もしています。そういったさまざまなことを意見書としてまとめました。これをやったのが一つでした。
もう一つ、やったことがありました。
2007年5月、講談社が、『僕はパパを殺すことに決めた』という本を出しました。関西のある町で少年が自宅に放火し、家族が亡くなった事件です。警察が逮捕した少年の調書を取りますね。調書は、警察官が少年の話を聞き、作文をしたものです。ふつう表に出ないものですが、精神鑑定が行われることになり、鑑定人は事件概要を知るために調書を読まないとなりませんから、調書一式が鑑定人――民間の精神科医ですけれども――に渡されました。で、その本の著者と編集者、カメラマンがその鑑定人の取材をした際、鑑定人が仕事で留守にした部屋で調書のほとんどを写真に撮った。その結果、本のほぼ3分の2は調書をそのまま引用した本が出版されることになったんですね。実際は、著者が書くというより、編集者がほとんどを書いたようでした。
出版後、調書が流出したということで問題になりました。少年の家族親族・警察・裁判所も問題視し、やがて本のつくり方に相当の問題があったのではないかと社会問題になって、講談社が第三者委員会をつくることになりました。奥平康弘、清水英夫さんなど憲法や放送や法律の専門家と私が委員に委嘱され、関係者のヒアリングなどをして、意見書を書いたことがあります。
放送の話に戻しますと、この『僕パパ…』の半年ほど前、2007年の初め、関西テレビ「あるある大事典」の問題が起きます。このときも、私は第三者委員会の委員を頼まれました。委員長は、いまプロ野球のコミッショナーをやっている熊崎さん、ヤメ検(検事を辞めた人)大物ですね。そこにテレビの制作者――お亡くなりになりましたけれども村木良彦さん――とか、私など数人が委員となり、その下に、やはりヤメ検の17・8人の弁護士たちで構成する小委員会を置いて、調査に当たりました。
この番組のテーマは「納豆で痩せる」です。制作は関西テレビですが、実際に制作したのは下請けの弱小プロダクションでした。納豆のある成分が抑制効果となって太るのを防いでくれる、という内容です。放送日は1月第1週、つまりクリスマス・大晦日・正月と、多くの人が「食べ過ぎたかな」と思うような時期と決められ、けっこう慌ただしい制作日程だった。しかも、その研究をし、テレビカメラの前でしゃべってもいいよ、という研究者はアメリカ人で、アメリカに住んでいる。
日本の研究者なら、多少無理があっても、日本の放送事情を知っていますから、けっこういい加減なコメントをしてくれるんですが、せっかく訪ねても、外国人研究者はなかなか思うようなコメントをしてくれない。その研究者も「ホルモンのバランスが崩れるから、大量摂取は危険だ」とか、「ネズミでは実験したけれど、人間での実験はまだ十分ではない」などと、制作者が期待したようなコメントをしてくれませんでした。
それで、その制作者は、時間も迫っている、これ以上、都合のいいコメントをしゃべってくれる人もいないというので、英語でしゃべっているところに、「みなさん、納豆をたくさん食べてください」という日本語の吹き替えコメントをつけてしまったんですね。明らかな捏造です。
調査の過程で、私はアメリカに行き、彼に会おうとしたんですが、ことによっては裁判を考えている、というので、ヒアリングはできませんでした。コーディネーターには会って、取材当時の話を聞きましたが、捏造はやはりはっきりしていました。
ただ、ここは誤解してほしくないのですが、ある意味で制作者は優秀でした。視聴者が期待していること、それに沿った中身の番組を作ることにかけては、じつに長けた人だった。だから、ついわかりやすく、ためになる番組を作ろうとしてしまったんですね。しかし、たとえそうであっても、番組のおかしなところを見抜く人がいなくてはならない。残念ながら、何度もプレビューを行いながら、たとえば日本語の台詞と英語コメントの原文を照らし合わせてみよう、という人はいませんでした。
こういう調査経験を積んだおかげで、まったく放送のことを知らない私にも、番組がどのように作られているか、放送局がどういう職場環境なのかがだんだんわかってきました。
放送局は、ほんとうに異常な職場です。何が異常かと言うと、みなさん会社勤めをしているとよくわかると思いますが、いま派遣の人が増えたとはいえ、正社員は半分以上はいるでしょう。ところが、テレビの場合、3分の1いれば多い方ですから。だいたいプロデューサーとディレクターの2・3人が社員で、あとは全員が制作会社、外部の人というケースがほとんどです。毎日やっているワイドショーなら、プロデューサーとメインのディレクターが1人ずつ、あと曜日毎のディレクターがいたりしますが、その下には制作会社が、これまた曜日毎に代わって、ついています。曜日が違えば、互いのコミュニケーションが全くとれていない。
そういう隙間で、多くのミステイク、不祥事が起きている。そういうことがだんだんわかってきました。
BPO(放送倫理・番組向上機構)の意見書、「私たち」が主語
こうして、BPO放送倫理検証委員会が「あるある大辞典」問題をきっかけにして生まれたとき、委員に指名されました。
検証委員会には委員長以下、10人ほどの委員がいます。それから「調査役」という人がいて、だいたい各局のOBや出向者で、一つの委員会に数人ずついます。
人権委員会は、立山さんがおっしゃったように、「放送によって私の人権が侵害されました、名誉を棄損されました」という場合で、当事者の「申し立て制」をとっています。
放送倫理検証委員会は「申し立て制」をとっていないので、我々が、ここに問題がありそうだな、と思ったときに審議に入ります。BPOにも年に数万件の視聴者意見が寄せられますから、それを見ながら、この番組はきちんと調べたほうがいいね、といって決めることもあります。調査役は放送局OBだから、内輪で甘くやっているんじゃないの、と思われるかもしれませんが、それはないです。なぜかみんな自分の出身局に一番厳しい。私なんか、「そこまで厳しく言うことはないんじゃないの」とはらはらするくらいです。
問題となった番組をどうやって検証して行くか。
最初に検証したのはTBSの「朝ズバッ」、みのもんたさんがやっていた番組でした。不二家が、売れ残ったチョコレートを回収し、工場でもう一回溶かしてお菓子を作っていると、かつてそこに勤めていた従業員から内部情報があって、それをもとに番組を制作・放送したところ、不二家から猛烈な抗議がきた。委員会は、この放送に正当性があったのかどうかを調べました。
検証委員会の初めての案件だったので、手探り状態です。制作関係者のヒアリングも、放送テープと文字起こしの照合も、制作システムの調査も、委員のわれわれが全部やる。テープ照合やヒアリングのときは、関係者以外は立ち入り禁止。そうやって、ひとつひとつを調べていく。もちろん意見書の原稿も事務局に任せず、われわれが書く。
この意見書を含め、すべての意見書の全文がBPOのホームページからダウンロードできるようになっていますから、ぜひ読んでください。「朝ズバッ」の意見書の結論は、「もっと取材を丁寧にやるべきだったし、内部情報の扱いにも瑕疵があったけれども、放送時点において、大きな放送倫理違反はない」という内容です。
こういうふうにして、私は3年ぐらい前まで委員をやっていました。
在任中、1件以外は私がすべて意見書を書いています。もちろん私が意見を書くわけではありません。委員がいろんな議論をし、それを事務局がぜんぶ速記をとりますから、それを見て意見を集約し案文をつくり、各委員に回します。これまた一家言ある委員ばかりですから、俺が言ったこと、私が言ったことがどこに入っている? とまず案文を見ますからね。必ずどこかに――他の人が見ても分かりませんが、本人が見れば分かるように――入っています。
先ほどの「公平」じゃないけれども、そういうふうに「さりげなく公平にする」のって、ものすごく大変なのです。私は物書きをやってきましたから、普通は「私」を主語にした文章を書きます。でも、検証委員会の意見書は、みんなの意見を書かなければいけない、つまり主語は「私たち」なのです。
「私たち」の意見を言うのは難しい。これは私が辞めた後も誰かがやっているわけですが、みんな悩みます。 法律の文章に主語はないですよね。立山さんは論文を書くとき、「私」という主語を使う?
立山さん)なるべく避けますね。ただし、まとめとか結論に持っていく時にはですね、それまでの推論や論理を基にして、過去にこういうのはあったけれども、そしてこれもあった、しかしそれぞれ不十分だから「私は」こうだと。
吉岡さん)というふうに書くわけですね。それは論者の意見・主張として書くわけですね。
ところが、意見書は、自分だけの意見ではなく、みんなの意見を採り入れ、これを構造として組み立てなければならない。何の主語も使わないで書くのはあり得る。新聞記事はそうですね。新聞記事のように書くのは、そういう文体がすでに日本語の文体としてある。でも、「私たち」を主語にした意見書は、日本語で書きやすいようでいて、非常に書きにくいのです。
語り手・書き手の思いや勢いが拡散してしまうんです。
立山さん)労働組合の意見書は「私たち」が多いです。私、それずいぶん起案しましたから。
吉岡さん)どういうところがむずかしいかというと、パッション(情熱)の伝え方なんです。新聞記事にはパッションは要りません。だから、5W1Hで、簡単に書ける。でも、私は意見書の中身を現場に届けたい、誰よりもその番組を作った制作者に読んでもらいたい、と思って書くんです。もちろん局の幹部にも読んでほしいし、視聴者にも読んでほしいとは思うのですが、とにかくいちばん読んでほしいのは現場で番組を作っている何とかプロダクションの何とか君や何とかさんなんです。それを、「私は」と書かないで、「私たちは」という文体で届けられるかどうか。どういう構造や文脈にすればよいのか、いつも悩みました。
第三者委員会――権力に直接関わらない、社会の成熟が問われる空間
第三者機関というものについて、一つお話しをしておきたい。
法的に決めたいという意見があります。でも、第三者を法的に決めたら第三者でないだろう、と思うんですね。BPOは非常に不安定な――NHKと民放連がお金を出し合って必要経費を払っている――のです。それで事務所を借り、調査役の給料も出している。これは法律で決まっているわけではなく、放送界の業界的な取り決めでそうなっている。
この私的な機関であることの重要性を、私はBPOをやった6年間で感じました。
三権がある。立法・行政・司法がある。民主主義の三権分立は、絶対に必要なものなのです。でも、われわれが日常生活を送るとき、こうした権力とは、むき出しではつきあいません。権力がむき出しになった国は、後進国でしょう。民主主義の先進国では、三権というものがむき出しではなくて、だからこそ法律やさまざまな権力に縛られることなく、われわれは自由にいろいろな意見も言うし、いろいろな工夫もするし、いろいろな企業活動もするしということなのです。権力というものはなるたけ、司法だろうが行政だろうが立法だろうが、奥に引っ込んでいてくれた方が、民主主義の成熟という意味では望ましいわけです。
第三者委員会というのは、まさにこれなのです。つまり「権力に直接関わらないというところに、自由な空間をどれだけ持ちうるか」ということ。これこそが、社会の成熟度に関わっている。何の法的な裏付けがないからこそ逆に言うと、いろんなことが言えるし、言わなければいけない。そういう非常にあいまいな、非常に微妙なところにあるものが、第三者委員会。私はいくつか第三者委員会を渡り歩いてきて、そのことを骨身にしみて感じます。
私たちが書いた意見書に、ある権威を持たせるとか、法律的な拘束性を持たせるとかいうふうになったら、まさに公権力の行使そのものになってしまう。それは放送とか、言論とか、表現とかにもっとも望ましくない。ここはきちんと押さえておかなければいけないなと、仕事をやりながら考えるようになりました。
「放送の使命」から生まれる放送倫理
「放送倫理」というのはどういうことか。たとえば子どもが廊下を走らないとか、ご飯を食べる前に手を洗いましょうとか標語ありますよね、ああいうものとして考えてはいけない。捏造はいけませんよとか、やらせはだめよとかいうふうに書いても何の意味もない。
じゃあ、どうするか。最初私は、放送倫理とは「視聴者を裏切らないこと」と思っていました。ここから、だから捏造やヤラセはダメなんだよ、という論理を引き出せるということですね。しかし、これは同時に、視聴者が期待し、喜ぶような番組ばかりを放送する、ということにもなって、あっという間に迎合主義、ポピュリズムに転落していく論理にもなる。
私は2期6年間、BPO放送倫理検証委員会の委員をやってきて、最初の3年間くらいは、視聴者を裏切らない論で意見書を書いてきましたが、途中から、これはちょっと違うかもしれない、と考えるようになりました。放送には、視聴者に好まれようが、嫌われようが、伝えなければならないことがあるんじゃないか。つまり、「放送の使命」ですね。
では、放送の使命とは何か。これはそんなに難しくない。放送法にも、放送界の倫理綱領にも、各局の放送基準などにも書いてありますが、「民主主義の健全な発展」とか、「文化の成熟」、「福祉の充実」等々と掲げられている、あれです。たいてい読み飛ばされているタテマエですが、それこそが放送の使命であり、放送倫理の源泉だ、と考えるようになったんです。
言い換えれば、放送の使命を実行していない番組は全部、放送倫理違反なのです。制作者はそのくらいの気持ちで、ちゃんと民主主義の健全な発展、文化の成熟に寄与するような番組を作ってほしい。とすれば、どんな番組を作らなければいけないのか、どういう手法が正しいのか間違っているのかという判断も、そこからしか生まれないことがわかるだろう。
ですから、「隠し撮り」だって、場合によってはやらなければならないかもしれない。隠し撮りがいいか悪いか、という一般的な議論には、意味がありません。
ぎりぎりの選択で、これは民主主義や文化の成熟のために、やらなければならない場合がある。そのときは全部の責任を自分が取るつもりで、やったらいい。私はそう考えるようになりました。膨大な調査をし、たくさんの意見書を書いたあとで、少しずつ考えが変わってきたんですね。
――パネル対話――
寺中)いまのお話のなかで少し気になっている点として、BPOは第三者機関とみなしていいのでしょうか? 白石さん最初にどうでしょう。
白石さん)その話の前に、いいですか。
放送免許の認定規制、国が直接行うのではなく独立機関で――市民に開かれた公共的な電波制度を
「日本の放送制度は異端じゃない」と最初にプレゼンしていただいたのですが、私は「すごく異端だ」と思っています。規制機関・免許機関について、日本の場合は総務省が直接、放送免許を出しているという点で、日本はやはり異端だと思うのです。
放送に関して政府が直接口を出さないということを考えれば、先ほどお話が出たアメリカであればFCCだとか、イギリスだったらオフコムだとか、独立した機関があるというのが民主主義の国の基本です。これを、サンフランシスコ講和条約を日本が施行した直後に、国会のなかで強行採決をして戦前の制度に戻して、国が直接免許を出す・放送行政をやるシステムに戻したということを基本的に留意しないといけないと思うのです。
そのなかで、BPOは第三者機関かというと、自主的な、自分たちでお金を出していて、非常に良心的なとてもよい機関だとは思うのですが、第三者と言えるかは微妙なうえに、こういう機関は少しガラパゴス的だと思います。
よく「ガラケー」と言いますよね、ガラパゴス携帯。なんでガラケーなんだろう。じつは放送分野・通信分野がすごく特殊な状況になっていて、既得権益なわけです。この既得権益の免許を国が出すと。そこで、事業者と総務省――むかしは郵政省――が持ちつ持たれつという、経済的利益を双方がうまい形で相補的に利用し合ってきたというところに、いまの放送制度も通信制度もあるのです。
たとえば、この6月末にNOTTVというチャンネル――2011年に地上アナログテレビ放送が停波した際のVHF-Highという空き領域を使った新しい放送局――がNTTドコモを中心に全地上波テレビ局が参加して携帯動画を流すということでスタートしたわけですが、わずか5年もたたずに終了してしまうわけです。
こういう電波の割り当てとか、公共的な電波をどういう制度で持つのかといったことは、極めてクローズ。市民に開かれていない。この意味では、他国の独立機関のようなのが日本には無い。じつは民主党政権ができたときのマニフェストに、独立機関をつくると掲げていたのですが、読売新聞が政権発足2日後くらいに1面トップでこれを批判して、ほどなくつぶされてしまったのです。これが戦後ずっと続いてきて、日本の放送通信システムはガラパゴスというか、かなり特殊なところにあって。
とくに電波の割り当て、および免許を出していくというところをよりクリアにした上で、規制の放送法第4条だとか、吉岡さんがなさってきたような仕事を、どういう形でしていくのか。私としては最小限にするべきだと思いますが。
けっきょく、放送局の下請けが乱立するなかで起きた不祥事みたいなものを利用されて、権力が放送に直接介入するのが、戦後許されてきてしまったかなと思うのです。
先にお話された番組審議会も、田中角栄が突然国会中に放送法を改正するという形でできたものです。
前提としてまず、免許は独立。そのうえで、放送法をどういうふうにするか、公平原則をどうするかというのは、またその次の段階として考えなければいけないのではないかと思います。
そのうえで、でもBPOにはある程度は頑張り感があると思って いるのですが、BPOもいざ電波の割り当ての問題になると、途端に保守的になって、水平分離の問題とか、いろいろ放送法をめぐる問題となってくると、放送業界の護送船団みたいになってしまって。そういう意味では、いまの形というのを60年間続けてきているわけですけれども、高市大臣があれほどはっきりと「電波停止」とか刺激的なことを言ってくれているタイミングで、「あっ、なぜ日本は国が直接、放送免許を出しているのかしら」ということを、みんなで振り返って考えるといいと思います。
私は、吉岡さんが触れられた村木良彦さん、元TBSにいらした方で、彼の元で、MXTVで働いていました。やはりその時に、ほんとに電波免許は強大で、大変な権益だなということを目の前で体験しているわけです。そのことを、来月発売の『現代思想』に書きましたのでお読みいただければと思います。
規制をどう見るか、政府との関係をどういうふうに持っていくかということは、せっかくのタイミングなので、一回は2009年に民主党政権の時に頓挫しているのですが、私はあらためて考えるべきことなのではないかなと思っています。
寺中)まず免許は独立とお話がありましたが、先の立山さんの話でいけば、免許の前に電波を割り当てる3段階――基幹放送普及計画・基幹放送用周波数利用計画・周波数割当計画――があり、きちんと区分けしていかなければいけないなかで簡単に第三者機関が介在できるかという議論がありました。それを前提の上でおうかがいします。吉岡さんは、BPOはどういう組織として認識されていらっしゃいますか?
公権力の行使とならない第三者機関、何を信頼するか決めるのは私たち
吉岡さん)すべてにおいて第三者機関というのは、あいまいなものだと思います。たとえば舛添都知事の政治資金の不適切使用問題が起きたとき、彼自身が「第三者に依頼して調査してもらう」と言いましたね。でも、それは彼が知っている人に頼んだわけですね。純粋に独立した第三者ではない。BPOもNHKと民放連が設立し、その評議員が委員を選んでいる、という意味では、その構造は一緒です。それ以外の第三者は、いままで無いのでは。
そこで第三者性を保証するのは、「実体」です。委員会が、一人ひとりの委員が、どれだけピュアに第三者性を貫き、きちんと調査し、報告書を書くか、です。そこに、放送関係者だけでなく、視聴者も納得されるような「実体」がなければ、たとえBPOであろうと、信用はされません。
もし100%ピュアな第三者機関を作るとすれば、その権限や信頼性は何によって保障されるのか。それを法律によって保障していったら、公権力の行使になりますから、いま言っている第三者では無くなってくる。第三者は非常にあいまいな存在なのです。だから私は、こういうのは詰めないほうがいいと言っているんです。あいまいなままのほうが逆に信用性、信頼性が高いのです。なんでもきちんと決めなければいけないというのは潔癖症というか、視野狭窄というか、病気です。
成熟した民主主義社会では、何を信用するかというのはわれわれ市民が決めることです。
寺中)いわゆる人権機関にずっとかかわっている立場からすると、第三者機関はとてもとても重要な概念なのですが、いまのお話のなかでいろいろとおもしろい視点がありました。すでに白石さんのほうで、重要な要素である「独立した」というのが最初に出てきました。第三者機関には「独立した」という言葉がつかなければいけないのに、「独立」がつかない第三者機関が結構ある。
吉岡さん)やはり重要なのは、制度論の問題ではなく、「実体」論だと思います。たとえば意見書を読んでいただければ分かると思いますが、相当厳しいことを局や番組制作者に対して言っています。制度論で考えると、立山さんがおっしゃったように、どんどん矛盾のなかに入っていくと思います。
第三者機関の独立性には、社会で同一な基準が必要
寺中)それからあと第三者機関に必要なのは、技術的なあるいは基準的な同一性。内部の技術が分からないと第三者はできません。専門性が必要です。その部分が担保されるためによく使われるのが、同じ基準を使っていること。会計基準があるから監査ができるわけですよね。監査でいえば同じ会計という言語や基準がある、そこに限定した独立性・第三者生は担保できるけれども、放送という世界には、どうもそういう感じにきちんと整備されていないのではないかという気がします。
このいわゆる独立機関性、制度の設計の3段階、基幹放送の重要性、そういったことを含めて、立山さんはいかがですか。
メディアの土着性を重視
立山さん)困ったことに、お二方どちらにも反論する部分があります。
BPOは第三者かというと、任務を限定したうえで、第三者だと思います。とくに人権委員会ですね。これはいわば紛争解決機関ということで、任務を限定すれば第三者。いっぽう、放送倫理検証委員会ですね、これはいろいろ問題があります。それから青少年委員会は一番問題がある。
こんどは白石さんに対して申しあげたいのは、先に「ガラパゴス」とおっしゃいました。世界中にガラパゴス以外はありません。あるのはグローバリゼーションという化け物だけですが、それでいいのかということです。
グローバリゼーションに洗われた国というのは悲惨なものです。とくにメディアです。「ガラパゴスは日本人が大好きな世界遺産第一号です。なぜそれを尊重しないのですか」と、よく嫌味を私は言うのですが。
メディアの世界はたいへん泥臭いものだと思います。その分たいへん土着なものがいっぱい出てくる。日本はなんでこんなに情報が好きなんだろうとか、ドイツはなんでエリートくさいんだろうとか。
第三者性ということ言えば、どこの国も、政治はメディアに口を出したがります。ただ日本の場合、それがすべて露骨すぎるというだけです。たとえばフランスの場合は、ある特定の名門校の出身者のたらい回しです。ざっと2000人ぐらいで、その一人がカルロス・ゴーンです。アメリカの場合は、先ほど連邦通信委員会(FCC)と言いましたが、これはバラ色のものでは全くありません。簡単に言えば、政・官・財・学でたらい回しをやります。民主党から共和党に変われば人事がひっくりかえる。その都度、誰がやったかが話題になります。ドイツの場合はもうちょっと騙し方がうまい。社会の重要な諸勢力といって、既得権益がわーっと出て来る。したがって監督機関が80人ぐらいいる。先ほどのヤメ検が10数人というどころの騒ぎではない。そこにとうとう連邦憲法裁判所が出てきて、それを何とかしろと違憲判決をつきつけるのですが、連邦憲法裁判所とはエリート中のエリートの裁判官が構成する組織です。
ですから、ガラパゴス以外に何があるの?あるのはのっぺりとしたグローバリズムだけで、それでいいんですか、と私は申しあげたい。
吉岡さん)先ほどの「朝ズバッ」のBPOの最初の意見書にも書いていますが――「ガラパゴス」という言葉は使っていませんが――、少なくとも、放送法を根拠に、政府が――具体的には総務省ですが――放送局を直に管理監督するのは、非常に日本独特なのです。日本だけではありません。中国がそうです。北朝鮮がそうです。ロシアがそうです。ベトナムもそうです。つまり、国家権力が直にコントロールするのは、そういう国と並んで、日本なんです。これは、異常だと思います。この異常さを、放送界にも知らない人がたくさんいた。世界はみんなそうだと思っていた。視聴者・受信者の多くはいまも世界中そうだろうと思っている。あの意見書を公表して以来、ようやくこの異常性に目が向くようになったんです。
この特異性を際立たせるために、「ガラパゴス」と白石さんはおっしゃったのだろうと思います。極めて異常です、このことは。電波の割り当てはアメリカではFCCがやっていますけれども、基本的には技術中立的にやってますね。だけど、それを日本は総務省が、放送法と電波法の両方を使い、放送内容にまで踏み込み、停波等の行政処分をちらつかせながらやろうとしている。この異常さを、われわれは十分知っておくべきだろうと思います。
寺中)現在、その停波の問題は、インターネット上でも、インターネットの接続を切るとかいったような形で、割り当ての問題がいろいろなところで発生していて、わりあいと一般的な議論になっていて、国連でも総会の決議に上がっているという話だと思います。ですから、今の議論というのは問題を社会構造的にとらえるための議論だと、こちらとしてはデザインしていました。
停波は国民の選択? 立法権を通じて起きた議論
立山さん)じつは停波の議論は、聞いていて私は冷や冷やしてしょうがないのです。というのは、あの議論が表面化したのは、テレビ朝日の「椿発言」がきっかけなのですね。要するに「与野党の逆転が我々の使命」だと。これが表に出た経緯というのは「非常に奇怪な経緯がある」とおっしゃっていた先生がおられました。しかも産経新聞の出し方がずるかった。
ただ注意していただきたいのは、議会、民主主義というルートでもって、免許を取り消せという議論が一斉に起きたことです。これ私、論文を書きました。立法権を通じて、国政調査権を通じれば、免許の取り消しも、参考人招致も、なんでもO.K.になるのかと。ですから言ってみれば、これは、国民の選択ではなかったのか、ということです。
もう一つ。インターネットの世界は、たしかに更地にできた天国のように見えました。しかし実際にできたのは何であったかと言えば、日本人の偏見や狭あいな国粋主義、そういう澱のように沈んでいたものが浮かび上がってきただけじゃないのかという苦い思いがします。
自分たちでメディアをつくる、こぼれていることを配信
吉岡さん)白石さんに、もっと率直にききたい。いまのテレビの世界にあまり期待をしないと。自分たちでやろうよ、とメディアをつくってしまう。ここ、大事なところだと思うのです。その想いをうかがいたい。
白石さん)もともと私はそれこそ椿さんのいるテレ朝を経験して、そのあと村木良彦さんのいるMXテレビを経験して、両方ともやはり電波と利権と政府のせめぎ合いを見ながら、そうは言ってもインターネットが登場して。でたまたま私は最後の最後、地デジの担当――子どもを産んだということもあって、報道現場からデジタル推進室というところに異動――になって。そこの段階で、新しいメディアとしてのインターネットメディアと出会って。
ここで新しい動画を配信できるなということで、2001年、9.11の直後にオルタナティブ・メディアのNPOを立ちあげて、もう15年になるのですけれども。いまここ、ストレスはなくて。多少の経済的苦労はありますが、放送局にいた時のような怪文書が飛び交うといったストレスはありません。MXテレビの時には郵政省から天下りしていた官僚が自殺未遂をするという大変な事件などがあったりしたものですから。
MXテレビというのは150社近くの150億の資本金でスタートした放送局だったのです。東京で最後にできる放送局なので、みんなここに魅力を感じて、どこの企業もここの株主になりたかった。影響を及ぼしたかった。最終的に、鹿島建設・ソニー・東京都・東京新聞、この4社が筆頭株主になりました。
そういうなかで社内を見ながら、大変な構造だと。村木さん――テレビ世界では偉大なプロデューサーだった――がおられたのですが、なかなか上手くいかず、最終的に、編成権といわれる正に編集部分を握れずに任期満たず1年半で退任する。その後に、番組審議委員が全員退任するという事件があったりしたストレスもあって。
いまそれに比べたら1000分の1か、ちっちゃい規模のメディアをやっていて。
私たち自身の「知る権利」という点で、送り手側・つくり手側の視点で、ちっちゃいメディアですから、メインストリームのメディアからこぼれているような部分をとりあげて中心的に配信しているという点では、非常に幸せです。いろいろ大変ですけれども。
電波の割り当て・放送通信の世界、自分たちがつくる公共空間
ただしメディアの問題で言うと、電波とか公共性、道路とか公共的な空間も、私はすごく常に考えています。こういう部分にどういうふうに人々がアクセスしやすくて、民主的であるのか、ということを確保するということも私たちの活動の目標であるのです。
公共空間、道路や公園、あるいは公共施設で、いかに多くの人たちが表現の自由とか、アクセスをして、きちんと民主主義の土台となる言論をつくっていけるか。ということと共に、電波・通信という世界のなかで、いかにコミュニケーションの権利といわれる概念を、この国のなかで形成できるかということも、私たちNPO法人のアドボカシー活動のひとつの大きな目標なのです。
郵政省/総務省の放送行政局の方々ともいろいろお話たり、先ほどお話に出てきたコミュニティーFMの問題についても、もう少し規制の部分でいろいろ配慮できないかと相談したりしている立場からやはり思うのは、最後は、電波の割り当ての部分、あるいは放送通信をどういうふうに市民のものにしていくかということを、どうやって市民たちの手でつくっていくか。
放送制度・通信制度を一事業者、わずかな事業者のみ――地婦連と主婦連は必ず審議会などに参加してはいるのですが――でなく、市民たちがどういうふうにつくっていくかということのなかに、やはり最終的に目標として、そういう独立的なやり方があるかなと。それがどういうふうあるかというのは研究の余地があって、世界中うまくいっているところがあるとは思いませんが、ただいまのやり方でいいとは思わないなと。せっかくみんなが最近、関心を持ってくれているのであれば、こういう時こそ声を大にして、自分たちがそういう場所にアクセスできるんだよね、ということを共有したいなと思っています。
自分の表現をしてみたくなる番組を
吉岡さん)日本の放送界の最大の問題は、視聴者に、自分たちが何か発信したいと思わせない点です。つまり一方的に送っているわけです。いいニュースもあれば、いいドキュメンタリーもあります。おもしろい娯楽番組もあります。すべていろんなことをやっているけれど、ひとつ欠けているのは、多くの視聴者に、こういう表現をしてみたいという思いを起こさせないこと。クリエイティブな感情を起こさせない。いまの日本のすべてのテレビが――商業主義とかいろいろなことはあるけれど――そこの実践をやってみようという気を起こさせないことは、最大の問題だと思っています。
ニューヨークのダウンタウン・コミュニティ・テレビジョン(DCTV)をやっている知り合いがいます。20年以上前に、ニューヨーク市の非行対策費の補助金を得て、地域の子どもたちにカメラやマイクの使い方、番組の作り方を教えたのが始まりです。
そうやっているうち、たまたまその地域で、パトロール中の警察官に仲間の黒人少年が射殺されるという事件が起きました。子どもたちは「ここには人種差別がある」と直感し、その地域や法廷でカメラを回し、ドキュメンタリー番組を作った。そのとき、みんな学んだわけですね。機材の使い方だけでなく、質問はどうすればよいかから、この問題自体、どう考えればいいのかまで。
彼らは受信者から発信者に変わっていったんです。そして、そういう経験を積んだ子どもたちがテレビ局に入り、今度は教育者となって戻ってきた。その循環がうまくいっています。
日本では、200以上の民放があり、NHKもすべての都道府県に支局を構えていながら、地元の人たちに番組の作り方ひとつ教えていません。視聴者もスマホを持って、写真が撮れます、動画もいけます、と言いながら、だれも自分たちの意見を言うためのツールとして使っていない。そういうツールがこれだけあふれている社会、日本はおそらく世界最高ですよ。だけど、それを自分の意見を形成し、ちゃんと編集をして伝えるために使うというノウハウをどこも教えてくれていない。こうやって使えるんだよと励ましてすらいない。
投稿とかやっていますよ、知っています。わが子やペットの動画とか、家族アルバムみたいな、つまらない番組ですね。あるいは交通事故とか火事が起きましたといって、すぐ動画を撮って、テレビ局に持ち込む。そういうこともやっていますよ。
でも、自分の意見、自分の考え、自分の世界を表現するというツールとして全然使っていない。これを励まさないで、マスメディアはこれから優秀なクリエーターをどうやって確保するのか、と私は思います。
寺中)この場には、じっさい自分でも伝えていらっしゃる方もおられるのではないかなと思います。各テーブルでお話ししていただいて、疑問点やご意見などを発表いただければと思います。
――グループ発表とゲストのコメント――
~グループ対話を行い、それを会場全体で共有し、ゲストにコメントいただきました~
(参加者)「受け手側の関わりを、あるマーク、ある内容に収めてしまっている。受けて側の関わりが発展していってしまわないような関わりに抑えられてしまっている。そういうことがないように、現在のメディアが工夫してほしい。」
「立山さんにおうかがいしたいです。既存メディアはそんなに落ちぶれていないとご指摘がありました。また信頼度というものを挙げておられました。いっぽうで、信頼が高ければ必ずしも落ちぶれていないということではないと思うのですけれども、どうお考えでしょうか。」
「若者というのは――ぼくたち大学生なのですけれども――、若者の視点に立って、最近TwitterやFacebookなどで情報を発信していると思いますが、情報の真偽を見分けられていないと感じています。若者たちはどうしたら真偽を見分けられるか、若者たちに情報の真偽というものを考えさせるにはメディアの立場からどうしていけばよいか、ということをお聞きしたいです。」
「個人的なことですが、成熟した民主主義は三権分立があいまいなほうがいい、という考え方が示されました。はたしてそうでしょうか。
もうひとつは、第三者というのは、常にアンチテーゼだと考えるのが大事で、それ以外は第三者といえないのではないか。弁証法的にいえばそういうふうに考えられると私は思います。」
「いくつか話が分かれました。
『エフエムわぃわぃ』みたいなコミュニティーメディアを発展させ、我々がつくる社会、我々がつくっていくグローバルな社会でのメディアというのをどうつくっていけるかと。
あと、参院選のヒントにならないかと。
それから、メディアに関して企業からの圧力があって、そういうなかでの政治があって、高市さんが言っているような政治的な電波の取り上げ方、逆らうと取り上げてしまような時代になっているのではないか。それでマスコミの自主規制が生じているのではないか、というような話しがなされました。」
「舛添事件は、なぜ日本のメディアはそれ一色なのか、それが怖いという話になりました。日本の空気を読むといった部分なのでしょうか。そうしないと視聴率がとれないからなのでしょうか。
高市発言のあの自信たっぷりの根拠は何なのか、教えていただければと思います。
もう一つは、NHKの信頼度があれほど高いというのは、とってもびっくりだったので、なぜそうなのか、どのように分析していらっしゃるのかおうかがいしたいです。」
「現政権において今まで以上にメディアが非常に委縮していると。異常な状態ではないかと。メディアであれば、もっと政府に対してその圧力に対してもっと抗える力があるはずなのに、それが全くできないというのは、構造的な問題があるのではないかと。
立山さんが最初からおっしゃっていた、擁護されるような部分。いい面もあるとは思うのですが、逆に、日本独自の文化、社会体制やいまの経済も含めた社会のありようのなかに、大きな構造的な問題があるのではないか。それについてどのようにお考えになっているか、あるいは、それを突破していくためには市民の側にどういう視点が必要か、教えていただければと思います。」
寺中)事実関係や構造的な問題については、まず立山さんにお答えいただいて、それに対して吉岡さんと白石さんからコメントいただいて、さらにそれを補足する形で進めたいと思います。
立山さん) 市民からどう切り結ぶかという時に、一つの方程式はない。出来ることからやりましょう。そのために、こんな知恵があるよ、あんな知恵があるよと出し合うのが大事だと思います。一振りすれば万事解決、といった魔法の杖はないと、常々思っています。
そのなかで、日本社会のありかたというのはいろいろあると思います。
弁証法的に見れば、第三者はアンチテーゼだというのは、私にはよくわかりません。
信頼度についていえば、正直申しあげまして、私よくわかりません。ただ、昨日も、函館で地震がありました。あの時に真っ先にどこをみたかと聞けば、NHKと答える人が大半だと思います。現に、このあいだ熊本で余震があったのですが、携帯の警報がなったのでNHKに切り替えてみたら、「地震が来ます」と言っていました。「地震がありました」ではなく。それだけの技術的な基礎はあると思いますし、そのための体制を持っているということです。おそらく重みをもっているのは、その積み上げだろうと思います。後で学生に何を見たかと聞いたら、あらかたNHKと言っていました。
ですから、BPOが出す意見書が重みを持っているのは、その積み上げだと思います。よく言われるのですが、信頼をつくるには10年かかるけれども、崩すのは一瞬。それだと思います。
それから、情報の真偽をどうやって見分けるか。正直、これもわかりません。ただ一つ言えるのは、たくさん経験を積むしかない。正直言って、私らもこれまでもいろんなことをやっていますけれども、試行錯誤の積み上げです。
じつは、Twitterというのはかなり危ういと私は考えています。140字といった文字数の制限があります。これ、新聞の世界ではどれくらいの分量だかわかりますか。これ、ベタ記事といわれるものです。新聞記者に言われると、あれが一番難しいそうです。そのなかに、5つのW――いつ(when)、どこで(where)、誰が(who)、何を(what)、なぜ(why)――と、1つのH――どうやって(how)――を入れていかなければいけないからなのだそうです。しかも、ベタ記事を追いかけますと、世のなかの動きがかなり先読みできます。ですから、Twitterがそういうトレーニングを受けていない人々がいまこれだけ使うというのは、かなり危ういと思っています。
その前提として、真偽をどうわきまえるかは、はっきり申しあげますと、一つのことに耽ってのめりこまない。ウルトラ・ワイドレンジでやらなければいけない。幸い、若い人は元気で時間があります。ぜひそれを努めていただければと思います。
コミュニティーメディアの発展ということを言えば、私はとても大事だと思います。ただし、いまの制度がそれに適合していると決して思えない。じゃあ、インターネットラジオに入ればよいかというと、そうとも言いにくい。というのは、読売新聞の1月9日の地域版があるのですが、「エフエムわぃわぃ」が去年の秋に送信機が故障して3日間止まってしまったのです。放送事故です。その時に、お金がない。インターネットで呼びかけたのですがお金が集まらず、思い余って「エフエムわぃわぃ」で呼びかけたら3日で集まった。
どうしてでしょうね、放送というのは。単に、放送という権威があるという話ではないと思います。それが「信頼度」に関係してくる社会のありかたのような気がします。その意味で、信頼度という点で新聞も放送もまだ高い水準を保っているけれども、おそらく、これから主役の座を少しずつ譲っていくかもしれない。だけどそれは悲しいことではない。それだけ、みんなが使える選択肢が増えることだから、それはそれで喜ぼう。ただし、使い方は、先に言ったように、怖いところがあるから気をつけようと。
そういう秩序を「公園」と、さっき白石さんがおっしゃったのは実に言い得て妙――私が周波数の割り当てと先に言ってしまったので反省しているのですが――とてもいい表現だと思います。ただ、公園の作り方はある。どうでしょう。最近、都心部再開発ということで更地にしてということがありますね。さて更地にした後で、有象無象のオブジェが堂々と顔を出してきて、そこら辺に何とかしがみついてきたホームレスの人やマイノリティの人がアートと称されるベンチで寝転がることも許されず排除される。
そういう未来図が語られていいのか。それがグローバリゼーションという言葉で飾られてよいのか、ということを考えます。
そうしますと私は、迷路のようで建てつけが悪くてもですね、一足飛びではやっていけないから、じりじりできるところからやっていけばよいのではないかと考えます。そのなかのひとつとして、コミュニティーメディア、インターネットメディアもある。それから、それを受けとめる人、そして吉岡さんがおっしゃったそれを育てる人が、それぞれできることをやっていくことが大事だと思います。
高市発言の根拠はわかりません。ただ、さっき椿発言の問題でお話をしましたが、決してこれまでの総務省電波管理当局の見解とぶれたものではないということです。公平に関する答弁、それから停波の根拠ですね。法律的にいえば、正確でない部分がありますが、これまでの総務省の見解とぶれる部分はありません。それはたとえば、ここに持ってきていますが、かつて総務省の事務次官をやっていた人が書いた本にもはっきりと書いてあります。放送法4条の例の、できるだけ多くの角度からとか、不偏不党とか、こういう部分が停波の根拠になるというのは総務省/郵政省が一貫してとってきた態度です。
しばしば諸外国でもこういう理由で統制は起こります。
吉岡さん) 高市発言の論理はまったく前と同じですよ。べつに高市さんが特別おかしなことを言い始めたということはなくて、総務省/郵政省の時代からずっとあの論理は使われていて、それに有効に対抗して来られなかった放送界が、いまだに対抗できていないということだと思っています。
しかし、そういうふうにきちんと批判できなかったメディアが、舛添報道で一気に吹きだしているのだと思います。いいことではないのですが、ずっと総務省や高市発言にやられてきたメディアのうっぷん晴らしが、一気に舛添さんに向いたのだと思います。いってみれば、これは自民党批判ですからね。あまり健全ではありませんが、それが来ていると。あの発言の意趣返しをいまされているなと思っている政治家はいると思います。
テレビと受け手との関わりを工夫してほしいということは、そうだとは思います。みなさん誤解しているのは、制作者は視聴者のことを全く知らないんですよ。数字では視聴者の姿をとらえることができますが、制作者という人は視聴者という人と会ったことのない人たちです。たとえば地方テレビで秀作のドキュメンタリーがあったとき、制作者を呼んでドキュメンタリーを見る会というのを2・3年続けてやったことがあります。制作者がみんな喜んで来てくれたのは、初めてそこで視聴者と会うことができ、自分が作った番組についていろんな意見を聞くことができたからです。
ですから、関わりを何とかしてほしいというのは、おっしゃる通りなのですが、でもそれは、「あなたの作品が見たいから上映会をやってよ」と一人ひとりが言っていくしかないと思います。そうやって変わっていくしかないだろうと思います。
情報の真偽を見分ける一歩――自ら事実を見聞きする・言論弾圧が始まる歴史を知る
情報の真偽をどう見分けるか。情報によって情報の真偽は見分けられません。いくら違う情報を集めたって、どれが真偽か分からないですよ。情報は必ず、自分の身体でしかわかりません。ですから、同じテーマでなくてもいいから、他のことでもいいから、いろんなことが飛び交っているなかで、関係者なり自分の近くにいる人から話を聞くという経験を視聴者も持たないといけない。そこから自分の体を通じて事実を見ていくということをしないと、情報によって情報は相対化されません。
「情報はどのように捻じ曲げられてきたか」という歴史を知ることはできると思います。すべての国がそうですけれども、近代化を始めたとき、すべての国家権力がメディアを弾圧し、言論統制をする法律をつくっています。日本でも、明治新政府は成立数年後、新聞紙条例を敷いた。当初、これは自由民権運動を弾圧するために使われ、その後の変遷を経て、1945年の敗戦のときまで、言論弾圧に使われました。
石川達三が書いた『生きてゐる兵隊』(中央公論文庫)という小説があります。これは、満州事変後、日本が中国を侵略し、日中戦争に突入していきますが、そのとき中国側の首都・南京で起きた多くの虐殺事件を描いた小説です。雑誌に掲載されたのですが、残虐なシーンがいっぱいあります。出版社は政府に配慮し、伏せ字だらけで発行した。戦後、その伏せ字をもう一回起こして、単行本で出版され、いまは文庫で読むことができます。
ここを見誤らないでほしいのですけれども、残酷なシーンはそんなに削られていません。削られていても、前後関係から、読者が「×××」などという文字を想像することができる。もっとも削られたのは、最終章です。ここは数ページ、全文削除です。この場面は、戦争に駆り出され、血みどろの戦場を生き抜いてきた一等兵――若い医学生です――が、真っ暗な料亭で酒をあおりながら、「ああ、また女を殺したくなってきた」と叫ぶところです。
つまり、もう人間が壊れているんです。生きている人間も壊れている。戦争というのは、残酷に人を殺すだけではなく、生きている人間も狂わせ、壊してしまうということ。当時の政府・軍部は、こういうことをもっとも隠したかった。
これを見ると、こうやって言論弾圧は始まるということが分かります。生きている人間に影響を与えるのはダメなんです。見せたくないんです。読ませたくなんです。
そうやって言論弾圧が始まるという一通りの流れをつかんでおくと、いまの情報の真偽を見分ける力量をつける第一歩になると思います。
三権分立はものすごく大事です。三権分立を前提にして、三権がお互いけん制し合う状況をつくった上で、なおかつ、第三者機関はあいまいにしたほうがいい、というのが私の意見です。
白石さん) 一番の専門領域であるコミュニティーメディアのお話をしたいと思います。先ほど来、グローバルな世界でのメディアの話が出ていますが、海外はダブルスタンダードなところがあります。一つの大きなメディア・コングロマリットのようなものがありつつ、コミュニティーメディアをどう育てるかをいろいろなシステムで試みています。
アメリカだったら、たとえばパブリックアクセスという方法は、ケーブルチャンネルを開放する。ケーブルテレビ局がその費用を負担する。地域に貢献するということでタイムワーナーのようなところがお金をだす。お金は出すけれど、ただし口は出さない。日本はお金を出すと口を出すことが必ずついてくるところがかなりあるのですけれども。
ドイツでしたら、たとえば受信料の一部分2%をインディペンデントな映画監督に出して、そこからオープン・チャンネルを形づくって地域ごとに置いたりしています。
うんと遅れている韓国。韓国は公共放送も一部を広告で担っているので、広告を積み立てて独立映画基金というのをつくっていて、それで市民のメディアセンターを運用している。韓国は2000年に放送法を改正して、金大中になった時に放送制度を大きく変えているのですが、あの国は大統領が変わるごとに放送の制度を変えるは社長を変えるは、めちゃくちゃな国ですが、市民のほうが強かです。
メディアアクトという市民メディアのグループが全国のまちごとにメディアセンターをつくっていて、すごい数です。みんなそこで機材を使って発信できるワークショップをやっているのです。このわずか数年、5年くらいです。弾圧されても弾圧されても、それを必ずテコにして、いつのまにか全国でネットワークみたいになっている。
韓国はある意味で日本と近い。権力がすぐに放送に介入してくる。韓国のほうがむしろひどいのですけれども、労働者階級が社会で労働運動をしたり、あるいは市民のメディアセンターを地域につくったりするところは学びたいなというところがあります。
放送受信料をどう配分? 地域を活性化する市民の発信のサポートへ
私たちが普遍だと思っている受信料も。ほんらい受信料は10%値下げするはずだったのですけれども、3%しか値下げしていないから、7%余っている。ほんとうはその7%を、いろんな独立系のクリエーターとか、コミュニティーFMとか、あるいは東北の被災地でできた臨時災害FM――みんなもう放送をやめていますけれども――、そういう地域の活性化や地域の中核を担っているところに配分されるべきだと感じています。
NHKは、じつはコミュニティーFMと協定を結んでいて、何か災害があった時には情報をもらうことになっているのですけれども、普段何も貢献していないのです。ほんとうなら受信料は、そういったコミュニティーメディアに一定程度は配分されて、地域ごとの市民の発信をサポートすべきと私は感じています。
寺中) 放送受信料の制度というのは、単にNHKの受信料を払っているのではないのですよ。あれは放送受信料という形で使っている人たちから受け取っているけれども、これをどうやって配分するかというのは、実は、もう一回判断が入る話なのです。ですからそれをコミュニティーメディアなどのほうに配分するのは、十分ありえる選択なのですけれども、いまそういう形になっていない。
NHKが、はっきりいえば、独占している。独占している理由は、NHKは公共放送だからです。ですから公共性がなければダメなんです。あれは国営放送ではなく公共放送だからもっているのです。では、公共性とは何か、という大きなテーマがあります。だからこそ、NHK受信料は払うべきかどうかという話も、みんなで話し合えばおもしろかったとおもいます。じつは、放送受信料の性格をみんなわからないでこの議論をしているところが問題かもしれません。
★今後の企画ご案内
『ソーシャルジャスティス・ダイアローグ2016』
【パネリスト/第1部】
後藤 寛勝さん(NPO法人 僕らの一歩が日本を変える。代表理事)
阿部 恭子さん(NPO法人WorldOpenHeart理事長)
白石 草さん(NPO法人OurPlanet-TV 代表理事)
【話題提供/第2部】尾藤 廣喜 弁護士(生活保護問題対策全国会議 代表幹事/元厚生省)
【日時】16年 8月8日(月) 18:30~21:00
【会場】新宿区若松地域センター
★詳細・お申込み http://socialjustice.jp/p/20160808/
*** この2016年6月17日の企画ご案内状はこちらから(ご参考)***