ソーシャル・ジャスティス基金(SJF)アドボカシーカフェ28回 報告
◆ 次回のアドボカシーカフェ ◆
『多民族・多文化と共に生きる―外国人労働者受入れ制度を問う』
*詳細はこちらから。
【日時】8月4日(月)18:30~21:00
【会場】文京シビックセンター4階シルバーホール
【ゲスト】寺中誠さん × 大曲由起子さん
『子どもの貧困―保育と当事者の視点から』
2014年6月15日、SJFは第28回アドボカシーカフェを東京都文京区の見樹院にて開催しました。困難な生活を乳児期から背負ってきた子どもたち、教育の機会を等しく与えられなかった子どもたち、未来を担っていく全ての子どもたちに、健やかに育成される環境を整備することを、「子どもの貧困対策法」(2014年1月施行)から有効な施策として実現できるのか―。7月にも予定されている対策法の大綱に向けて、保育の現場から、貧困当事者の学生の立場から、そして支援する立場から等、多様な視点から、子どもの育ちや学びを社会全体で支えていくということの重要性について具体的に考え、意見をつくりあげる貴重な会となりました。
◆ 主なプログラム ◆
◇ 講演:
山野良一さん(千葉明徳短大教授/「なくそう!子どもの貧困」全国ネットワーク世話人)
平松知子さん(けやきの木保育園園長)
岩井佑樹さん(法政大学社会学部生)
◇ グループディスカッション
◇ 講演者との対話
◆ モデレーター:大河内秀人(江戸川子どもおんぶず代表/パレスチナ子どものキャンペーン常務理事ほか)
◆ 概要 ◆ (敬称略)
― 自分が生きていると、これだけお金がかかるのか、生きていいのだろうかと思った(岩井)
◇ 大学生の今は、病気で失職した父親の介護、祖母の入院の世話、学費稼ぎのためのアルバイト、そして学業の日々。
高校の時、それまで生計を支えてくれていた母親が家を出て行ったが、母親の苦労を思うと、「しょうがないかな」と子どもとして理解した。しかし、学費以前に、生活が成り立つのか心配におそわれ、生きていていいのかと思いつめた。
湯浅誠さんの『反貧困』(岩波新書)を勧められて読む機会があり、自分だけでなく、これほど日本に貧困が広がっているのかと気付いた。そして、「学びたい」ため、行けるところまで行ってみようと、奨学金やアルバイトで学費や生活費をまかない始めた。そこで感じた最大の問題点は、「情報が遮断されていること」だ。奨学金は申請制度であり、特に返済不要の給付型奨学金は、その情報は、掲示されているだけで個別に通知が届くわけではない。自分は「なくそう!子どもの貧困」全国ネットワークの集会に参加して情報を知ることができた。
日本の大学は国立文系ですら初年度80万円近くかかるような高学費である一方、学生支援機構の奨学金は、枠が増やされたのは有利子であり75%を占めている。日本は、2012年、国際規約(社会権規約)第13条2(b)と(c)の留保を撤回した=「特に、無償教育の漸進的な導入により」に拘束されることとなった。今後は、未来を担っていく子どものため、学費が無償化されるとよいと思っている。
私たちの世代は、新自由主義の中で育ちながら違和感を覚えている。「たすけて」と言えない状況がある。声をあげられるよう、安心して言える場をつくりだしていかなければいけないと思い、「学生ユニオン」を立ち上げて活動している。(岩井)
◇ 子どもは、「社会の子ども」という感覚でとらえられていないのではないか。(参加者)
◇ 『ルポ虐待』を著した杉山春さんは、社会のベースにある「子どもは親が育てるもの」という意識が母親を追い詰め虐待を引き起こしたという趣旨のことを述べている。「社会が子どもを育てるもの」という意識が広まるとよいと思う。(岩井)
◇ 大学生にとって、あったらいいな、という窓口は(参加者)
◇ 何か声を発した時に、学生の関心事に応えてくれる身近な大人、支えてくれる大人の存在が大事だと思う。無力感にさらされている若者は、社会に問題があると思っても、自分たちにとってはどうしようもないことと思ってしまうが、支えてくれる人がいて、声をあげていいと言ってくれる人がいることも一つの声をあげる回路となると思う。(岩井)
―大切にされている子どもは、やがて人を大切にする人になる(平松)
◇ 園長をしている「けやきの木保育園」は、公立保育園の廃園民営化の時期に、受託して私たちも良い保育をしようと誕生した。
必死で生きている親たち、そのゆとりのない生活のなかで、底なしの不安感を抱えている子どもたちは、“荒れる”“すねる”ことでしか表現できないしんどさを背負っている。「どうせ、おれのこと、きらいなんだろ」と。運動会のリレーを練習していた時、バトンタッチがうまくいかず放棄した子どもも、そんなしんどさを背負っていた。それでも、職員と子ども仲間が支え続け、運動会当日はリレーを完走できた。そして、その絵を描く時、その子は集中時間が短いながら朝からがんばって少しずつ仕上げたにもかかわらず、バトンタッチのところに差しかかったところ、上手く描けずビリビリに破いてしまった。この瞬発的な怒りの衝動は、その子のお父さんから、まさに同じものを受け継いでしまっていたかのように感じた。このお父さんは、リストラされた当日、保育園の職員に怒りの衝動をぶつけていた。
でもその子は、「おれ、パズル得意、セロテープも使える」と、破いた絵をつなぎ始めた。そして、「園長先生、手伝って」と、バトンタッチのところも描き始めた。この、修復しようとするところ、それを支えてとSOSを発信できるところ、支える大人がいて、すごいと言ってくれる子ども仲間がいるところが、彼のお父さんとは違うところだった。もし、お父さんも、つらいと愚痴が言えて、がんばっているなと言ってくれる人が近くにいたらと思う。
保育園は、自立を支えるところ、それは、違いがある他者と生きることを学ぶところだ。暴れている子を見て、「あの子、きっと困っているから助けてあげて」と言う子どもがいた。自分の気持ちを言ったら何とかなった、という気持ちを積み重ねれば、大事にされているという安心感が育まれ、やがて人を大切にする人になる。
子どもたちの豊かな育ちが阻まれている。甘えたい時に我慢してきた子どもたちがいる。0歳児でも親を見て泣くのを我慢する子、お迎え時間が遅れるほど仕事をせざるを得ない親のがんばりを感じて我慢して待つ子がいる。遠足やクッキングなどお楽しみ行事の前に荒れるのは、お弁当やエプロンを持って来られないことが分かっている子どもだ。虐待のある家庭や生活が困難な家庭では、持ち物に油性ペンで名前を書いてもらった経験が親自身にない等、大人になっても虐待を受けているに等しい親の子どもたちは、当たり前にしてもらえるはずの日常の世話を、子どもが背負っていかざるを得ない。
公立保育園は、全国的に全廃の方向だ。しかし、公的保育が担ってきた役割は、保育園内にかぎらず、ネグレクトの子どもを家まで迎えに行く保育園職員がいる例のように、家庭全体を支援してきたことだ。保育や教育は、新自由主義によりコストカットや効率化してはいけないところだ。公的保育は、大人の職業や積まれるお金によって子どもの扱いを変えない。それに対し、2015年4月から施行される「子ども・子育て支援新制度」は、規制緩和により企業も保育に参入できるが、大人に便利な保育をお金さえ積めば受けられるという形での母親の就労支援だ。(平松)
◇ 子ども・子育て支援新制度に不安を覚える。専門職が半分でいいとなったら、安全は守られるのか?(参加者)
◇ 守られないでしょう。死亡事故は過去6年間で、認可保育園で19件、認可外では33件起きている。行政には、保育はお守だという意識があるようだ。自治体の待機児童の解消を手近な非専門職に委ねる行政者の意見をきいたことがあるが、保育の本旨を理解していない。専門の資格者は、子どもの発達を科学的に学んでいる。だれでも目の前の子どもの起こしたことに反応はできるかもしれないが、専門職は、子どもがそうせざるを得ない「思い」にも到達した発育支援ができる。無資格者に日替わりで接せられるような環境では子どものゆたかな育ちは望めない。支援新制度は、保育を単なる託児に貶めている。(平松)
◇ 保育園などの公的な枠組に入ってこない子どもをいかにカバーするのか?(参加者)
◇ 子育て支援センターを併設しており、保育園に入っていない子たちも来られる部屋がある。保育園児のお母さんたちも、その子たちのお母さんにも声をかけてくれ、つながっていく場所になっている。(平松)
◇ 今の子どもたちにある「底なしの不安感」の背景は?(参加者)
◇ 根底には、「こんな私でも愛してくれる?」という叫びがある。貧困な子どもたちは、父親に殴られないか、母親が荒れないか、ご飯を食べられるのだろうかといった不安を、また裕福な子どもたちは、誰に勝てば・誰より早くできれば母親に褒められるのかといった不安を抱えている。スマホ文化の中で子どもたちは、スマホ画面ではなく、目を見て「なあに?」だけでも言ってもらいたいと思っている。(平松)
◇ 子どもの持ち物に「名前を書けない」ことと貧困との結びつきは?(参加者)
◇ 自著のタイトルの通り『保育は人、保育は文化』だと思う。「おはよう」と言う、「いただきます・ごちそうさま」を言う、同じ食卓を囲む、残したら怒られる、これらは子育ての文化だ。貧困の子どもたちの文化には、寄せ鍋を家族で囲むという文化はなく、保育園で寄せ鍋を提供したことがある。消えない油性ペンで名前を書いてもらって落としても戻ってくる自分の持ち物があるという文化も、子どものケアが十分にできない貧困家庭にはない。(平松)
◇ 親の心配や要求を、「子ども・子育て支援新制度」はどのように反映させられるのか。都内のある自治体の条例づくりの話し合いはごく一般的な内容に留まっている。(参加者)
◇ 支援新制度では、各自治体が独自の条例を策定することになっているが、ゆたかな内容の条例にするために住民がかかわれる点はあると思う。保育の国基準にくわえる自治体単独の上乗せ補助金をいかに付与させていくかが争点となるだろう。自治体の財政規模と比較した補助金の妥当性を議員に問いかけたり、他の自治体のより良い補助施策を比較対象として議員にアピールしたりすることは効果的だろう。また、支援新制度を他人事ととらえている人々も巻き込んで、子どものことは私たちの国づくりの話だと共感を呼び協力していただくことが大切だと思う。(平松)
― 貧困対策として、幼少期のサポートに注目を(山野)
◇ 日本の子ども(18歳未満)の(相対的)貧困率は、15.7%(厚生労働省/2009年)。これは、子どもの約6.4人に1人の割合で、約323万人に相当する。これは、OECD主要20カ国中4番目に高い貧困率だ。日本の貧困率は80年代から上昇基調にあり、ひとり親の貧困率は50%以上で推移している。2006年から2009年にかけて、少子化で子ども総数は約50万人減少していたにもかかわらず、貧困な子どもの数は23万人も増加している。この(相対的)貧困率は、「所得の再分配」をした上で数字である。可処分所得{=税引き前・家族の給料–(税金+社会保険料)+社会保障給付金}を世帯人数で調整した値について、その中央値{金額順に並べた時の真ん中の値}の半分である貧困ライン未満の世帯に属する子どもの割合を示している。日本は、豊かな国であるから貧困ラインも高く貧困率も高くなるのではという感覚を持つかもしれないが、実際の貧困ラインは、親子2人で177万円、3人で217万円、4人で250万円(2009年)だ。
日本の子どもの貧困率の特徴のひとつは、「所得再分配」をすることで、貧困な子どもの割合が増えてしまうという「逆転現象」がつい最近まで見られたことだ(2005年時点)。これは、日本は貧困家庭にきちんとした所得の再分配ができていないことを示している。社会保障給付金にふくまれる児童手当などが少ない一方、社会保険料にふくまれる国民健康保険料等が低所得者にとっては負担の重い金額であることが原因とみられている。
日本は、国が子どもにかけるお金が少ない。社会支出にしめる家族分野への支出の対GDP比率はOECD内で最も少ないレベルであり、この家族支出は、貧困率に影響する現金給付と、保育や社会的養護への建物や人件費などの現物給付とからなるが、両方とも日本は低い。さらに、公的教育支出の対GDP比はOECD内で最下位となっている(2009年)。ここで、GDP対比である点について日本はGDPが大きい一方で子ども人口が少なく子どもにかける公的教育支出総額の比率は少なくなるものという文科省の反論があるが、教育費の家庭負担の割合は、OECD主要国内でかなり高いレベルにあり(2013年)、とくに就学前(3~5歳)のひとり当たりの子どもにかける公的支出額が低く、また大学等の高等教育段階の家庭負担割合が高い。
子どもたちのライフステージの早い段階でケアをしてあげないと子どもたちへの実効的な支援が難しくなる。ノーベル経済学賞受賞したジェームズ・ヘックマン(米)は、とくに就学前の子どもへの全人的教育は将来の社会的還元率が最も高いことを理論的に示している。子どもへの社会的投資額が同一な場合、就学前段階で投資すると、将来の社会貢献度や納税額が高くなる傾向にある一方、犯罪や薬物依存などがへることで社会政策にかける費用を抑制できるとしている。貧困対策として幼少期のサポートは重要だ。(山野)
◇ 子どもの育ちや教育について、貧困から抜け出せるような政策ビジョンが国にないのではないか。(参加者)
◇ 日本をよくするために、国は子どもにもっと投資をしていかなければいけない。そういった施策に共感する政治家を増やしていかなければいけない。欧州では、私大は少なく、学費の無償化が進んでおり、その政策の基本には、18 歳を過ぎたら子どもが親に依存しないで生きていけることを保障するという考えがある。日本は、子どもは親のみが育てるという考えがあり、教育費の家計負担率がOECDの中で高い。(山野)
◇ 自分よりもっと苦しんでいる人が、声をあげていいのだなと思ってもらえればと思い、貧困体験を発信している。(岩井)
◇ 子どもの最善の利益にかなった保育を続けるため、貧困の子どもを貧困の職員が精いっぱいの笑顔で保育をしている現状が改善されるよう、「子どもの貧困対策法」のゆくえを注視している。子どもの育ちに社会全体が関心を持つことが大切だ。(平松)
◇ 「子どもの貧困対策法」は、2つの点で画期的だと思っている。1つは、現政権は、2009年の政権交代までは「貧困率」自体を出さず、日本に貧困はないという対応だったのが、今回の対策法では、その目的で「子どもの将来がその生まれ育った環境によって左右されることのないよう」と掲げ、「左右される」ことがあると現政権も認めたことだ。もう1つは、「あしなが育英会」の若者など当事者が対策法の制定を訴えてきた声が通っている点だ。
しかし、問題点があり、それは、貧困率削減の数値「目標」が決まっていない点だ。数値目標が明記されていないままでは、貧困対策について政府に確約させられていないに等しい。7月にもまとめられる予定の「大綱」のパブリックコメントに、みなさんも意見を述べてほしい。(山野)
◇ 自分たちのことは自分たちで決めていくという基本的なことができる条件が、社会的弱者には整っていない。貧困の問題は、私たちの生き方の問題であり、社会全体で解決していく問題だ。この問題は、暴力の問題でもあると思う。どういう「目標」を共有するのか、多様な人たちが、それぞれの立場から、問題を考えていくことが大切だと思う。(大河内)
◆ 講演者おすすめ講演内容に関連する参考図書 ◆
『イギリスに学ぶ子どもの貧困解決』「なくそう!子どもの貧困」全国ネットワーク編
『保育は人、保育は文化』・『発達する保育園』平松知子著(ひとなる書房)
「貧困を通して社会を知る、学ぶ、動かす」岩井佑樹/『教育』2013年10月号
『アンデルセン福祉を語る』G・エスピン–アンデルセン著
***2014年6月15日企画のご案内資料はこちら(ご参考)***
◆ 次回のアドボカシーカフェ ◆
『多民族・多文化と共に生きる―外国人労働者受入れ制度を問う』
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【日時】8月4日(月)18:30~21:00
【会場】文京シビックセンター4階シルバーホール
【ゲスト】寺中誠さん × 大曲由起子さん
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